その1  肥後石橋のルーツは古代メソポタミアにまでさかのぼる

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 熊本県には、石橋が数多くかけられています。熊本県は、幕末から明治初期にかけて造られた石橋の数としては国内でも最も多いことが知られています。また、その石橋には、「阿蘇の恵み」としての「溶結凝灰岩」(ようけつぎょうかいがん)が多く使われています。溶結凝灰岩は石橋をつくるのに強度も加工性も適しているのです。
 本講座では、「肥後の石橋」についてその古きルーツを訪ね、また、肥後の石橋の分布構造、建造の特徴歴史、そして現代に伝わる石橋の美しさについて紹介いたします。



 ― ここに天(あま)つ神もろもろのみこともちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、二柱の神に、「この漂へる國をおさめつくり固めなせ」と詔(の)りて、天沼矛(あめのぬぼこ)をたまひて、言依(ことよ)さしたまひき。故、二柱の神、天(あめ)の浮橋に立たして、その沼矛をさしおろしてかきたまへば、塩こをろこをろにかきなしてひき上げたまふとき、その矛の先よりしたたり落つる塩、重なり積もりて島となりき ―      『古事記』より


 「天(あめ)の浮橋」は、いざなぎのみことといざなみのみことの二神が国造りのために立たれたところであり、我われ日本人にとって「橋」は、たかが橋ではない所以といえるでしょう。

 肥後石橋のルーツは、古代メソポタミアシュメルの王国にまでさかのぼることができるといわれています。そこでは人類史上最初の高度な都市文明が築かれていました。今から4,000年以上も昔のことでした。


シュメル


図 1.古代メソポタミア・シュメルのアーチ

(シカゴ大学古代研究所)


 メソポタミアでは、粘土がたくさんとれました。
 葦(あし)の硬い茎を削って先端を柔らかい粘土板に押しつけてみましょう。その跡の一つひとつは三角形の「くさび」(楔)の形になりますね。葦もメソポタミア地方でたくさんとれました。そのようにしてシュメル人によって「楔形文字」(せっけいもじ)が発明されました。当時の楔形文字は、数にして600文字くらいありました。現代日本で使われる漢字の数よりもずっと少ないですね。楔形文字はとても学びやすく、そのようにしてシュメルの都市国家では完成した楔形文字が使われていました。楔形文字は、パレスチナや遠くエジプトにまで伝わり、オリエント世界の共通文字として広く使われました。シュメル人は、古代メソポタミアの地に東の海上から忽然と姿を現し、そして栄えたといわれています。シュメル人は、もともとは航海民族であったという説もあるようです。シュメルの王国は、そのようにして高度の文明を築いたのですが、ウル第3王朝(紀元前2,113~紀元前2,006)の興隆期を最後に滅亡しました。そして歴史の舞台から忽然と消えて行きました。
 シュメルの都市国家では「干ぼしレンガ(煉瓦)」がたくさん使われていました。チグリス河・ユーフラテス河の氾濫によって、粘土がたくさんとれたからでした。干ぼしレンガを材料として、写真に示すように現代にも通じる高度の技術を用いて、美しいアーチをとり入れた建造物が造られていました。干ぼしレンガは、灼熱の太陽のもとでは数日でできるらしく、さらに強度が必要な場合は焼成レンガにしたものもつくられ、建造物の基礎などに使われていました。



世界

図 2.アーチの技術は西欧世界から日本へ伝わった(霊台橋の写真:上原晴夫『石橋の詩』平成9年刊)


 アーチの技術は、やがて西方世界へ伝わり、エトルリア(現在のフィレンツェあたり)の人々によってローマへ伝えられたようです。当時のエトルリア人は高い技術力をもつことで知られていました。
 古代ローマ帝国では、干ぼしレンガの代わりに本物の石が用いられました。石材が豊富であったのです。古代メソポタミアで発祥したアーチの技術は、そのようにして、古代ローマ帝国で「石造りアーチ橋」の技術として一気に開花していきます。世界中のすべての道はローマに通じていました。そこには石橋の技術もあったのです。
 一方、古代ローマ帝国は絹の道(シルクロード)によって遠い東方世界ともつながっていました。石橋の技術は、シルクロードを経て中国へ伝わり、5世紀ごろになると中国の全土に広がり始めます。
 我が国へは海路中国から伝えられ、長崎の中島川の眼鏡橋は古く17世紀の初めに架橋されています。日本では、おそらく長崎が石橋のルーツと考えてよいでしょう。(もっとも、1543年に種子島に鉄砲を伝えた 西欧人は、母国にあるアーチ石橋のことを知っていたでしょう。また、1590年にグーテンベルグ印刷機などを持ち帰った天正遣欧少年使節は、ローマへの道すがら現地でアーチ石橋を見たことでしょう。)やがて、石橋の技術は長崎から熊本へ伝えられていきます。長崎からは、もちろん佐賀や福岡にも伝わりましたが、長崎から熊本へのルートは、特に当時の職人の名前を冠して「仁平ルート」と「林七ルート」という二つのルートがあったと伝えられています。林七ルートは、熊本からさらに福岡県八女地方、鹿児島、大分と宮崎、さらに東京へと伝わっていきました。
 一方、鹿児島の南に位置した琉球王国は、中国の福州を拠点にして独自にアジア諸国と交易を行っていました。福州にも優れた石橋が数多く造られていました。そのようにして琉球へは、すでに15世紀ごろには石橋の技術が伝えられていました。現在の沖縄にも、美しい石橋が数多く残されています。




    確認テスト

    問1.石造りアーチ橋は古代メソポタミアで発展しましたね。

         


    問2.肥後の石橋の技術はどちらかというと南の琉球から鹿児島を経て伝わったといえるでしょうね。    

         

    問3.肥後の石橋で基本的にもっとも多く使われる石材はつぎのうちどれでしょうか?

    溶結凝灰岩      安山岩      流紋岩 
 


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