(自由塾 2021年5月20日刊行)

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Abstract in English flag


水俣病」 は差別用語

“Minamata Disease” is a Discriminatory Term.


抄録紹介


入口紀男



はじめに

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「水俣病」という言葉は、地域の名称である「水俣」をメチル水銀中毒の原因である「メチル水銀」(CH3 - Hg+)と同一視する。そのような言葉です。それは、メチル水銀中毒があたかも水俣の風土病であるかのように、水俣をメチル水銀中毒と同一視する。そのような言葉です。
 また、「水俣病」という言葉は、「水俣」と「病」とを分かちがたく強固に結びつけています。そのような言葉です。
 そのような「水俣病」という言葉ですから、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、水俣の人びとの人権、特に「人格権(じんかくけん)」を侵害します。水俣には、その優しい土地柄(とちがら)を反映して何ごとも「がまん」をする人が多くいます。人権に対する侵害は、それに対して平気な人もいますが、人によっては耐えがたいものです。「日本国憲法」と「世界人権宣言」に照らして、人には「誰ひとり」として「いかなる差別」も「されない」権利があります。その権利は、侵(おか)すことのできない「永久」かつ「絶対」の権利です。理由が何であれ、保護されなければなりません。これは人間のもつ「人としての良識」に訴えるものです。多数決や勝ち負けなどではありません。
 1958年の夏過ぎ、マスコミが例外なく「水俣病」という差別用語を使い始めました。1970年代以前の日本は、たとえば目が不自由な人や耳が不自由な人を「めくら」や「つんぼ」といった差別用語が跋扈(ばっこ)する時代でした。学校の教科書にも「水俣病」という術語が使われるようになりました。そのようにして、水俣の人びとに対する、言葉による大規模な人権侵害が行われて来ました。
 水俣ではメチル水銀中毒が魚介類を通して起きましたが、魚介類を通して起きたのが最初だからという理由で病名に地域の名前を冠することはできません。「公害をなくすため」という大義名分は尊重されなければなりませんが、その尊重も水俣の人びとの人権を侵害する行為にすり替えられてはならないでしょう。
 一方で、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、現実には幾重にも重層化しています。たとえば、自らは水俣で生まれていない人が研究者として、医師として、あるいは、評論家として、教育者として、記者として、文芸作家などとして、公害防止の大義名分のもとに、あるいは、メチル水銀中毒を世界に知らしめるという大義名分のもとに、メチル水銀中毒を声高(こわだか)に「水俣病」と表現する。そのような行為が行われてきました。それは、自らが生まれた故郷のほうの尊厳は維持したまま行われる差別行為です。それも、「水俣」という、自らにとっては「よそ」の地域に対する差別行為です。
「水俣」は地域の名称であってメチル水銀中毒の原因物質ではありません。また、「水俣市」は水俣の公法人としての名称であって、これもメチル水銀中毒の原因物質ではありません。メチル水銀中毒の原因物質はメチル水銀です。たとえ科学の名を借りたとしても、また、医学の名を借りたとしても、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現することはできません。
 W.H.O.(世界保健機関)も 2015年に改めて指針を出し、仮に病名に地名を用いると、そこに住む人びとに深刻な影響を及ぼしかねないという理由で「地名を病名に用いるべきではない」としています。
 メチル水銀中毒は、1864年から 1866年にかけて世界で初めてロンドンで起きました。1865年に初めて死者が出ました。当時の日本は幕末でした。以来、西欧では「メチル水銀中毒」とよばれてきました。ロンドンのことは日本では長く隠ぺいされましたが、そのように原因も症状も古くから知られていた病気です。現在、病名として「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」が使われています。W.H.O.も「メチル水銀中毒」を用いています。
 たとえば、水俣の子どもたちがよそへスポーツの試合に行くと、相手チームの子どもたちから「水俣病が来た」といわれることがあります。そういったことは現在も時どき起きています。新聞等で報道されることもありますが、それも氷山の一角です。多くの場合に周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病を正しく学べ」というふうに、今度は「水俣病」という完成された差別用語を使って発言した子どものほうを戒(いまし)める。そういった行為や報道が行われています。この「水俣病」という差別用語を公然と使う行為や報道こそが水俣の人びとの人権を侵害します。それだけに「水俣病」という言葉は差別用語として完成度が高いといえます。
 過去に「水俣病」という語を使うことができたのは、わが国では法律と政令においてだけです。法律と政令が「水俣病」を使う理由は、差別用語が跋扈(ばっこ)していた時代に、政令等によって「水俣病」という用語が使われ始めたからです。そして、現在においても法律と政令によってそのまま踏襲(とうしゅう)されているからです。法律と政令は、たとえその用語の使い方が時代に追いつかなくなっていても、それはそれとして遵守(じゅんしゅ)されなければなりません。しかし、我われが、法律と政令によって直接に委託(いたく)されていないにもかかわらず、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為はやはり差別行為です。
 もっとも、「水俣病」が「差別用語」であるか否かは、それを使う者と相手との関係、場面、文脈によって決まるものであって固定的なものでも絶対的なものでもないという意見もあります。しかしながら、純粋に「言葉」としてその語を見た場合に、いくら仲の良い相手に使われて親近感を兼ね備えた表現であったとしても、また、苦しんでいる相手に寄り添って用いられた表現であったとしても、さらに、相手がその言葉を差別用語として受けとらなかったとしても、言葉のカテゴリーとしては差別用語であることに変わりはありません。「水俣病」という言葉は固定的かつ絶対的な差別用語です。
 かつて水俣市では「水俣病」の病名を変更するように行政に働きかけるなどして運動が行われたことがあります。それに対して、政府や熊本県が「あぁ、そうですか」などと応じることはありません。政府も熊本県もメチル水銀中毒を自らの無作為(むさくい)によって拡大させた加害者のほうです。行政としては、自らの責任を小さく見せるために「あれは水俣の水俣病」として封殺(ふうさつ)したいからです。
 しかしながら、W.H.O.が指摘する通り、ある意味ですでに病名は変更されています。現在の日本では、法律と政令によって「水俣病」という語を使うように直接に委託されていない限り、正しい病名である「メチル水銀中毒」を用いることが求められます。
 政府機関も、熊本県や水俣市などの地方自治体も、法律と政令によって直接に委託されていない限り、「水俣病」を用いてなりません。マスメディア(新聞・テレビ・ラジオなど)、研究機関、私的団体、研究者、医師、評論家、文芸作家、その他の個人なども「水俣病」を差別用語であるとして正しく認識し、かつ理解することが求められます。理由が何であれ、「水俣病」を用いるべきではありません。一般には「メチル水銀中毒」を用いることが推奨(すいしょう)されます。

 この本で筆者は、熊本大学の先人たちが見落とした幾つかの「過ち」について、それらを明らかにしております。いずれ歴史が明らかにするところでしょうが、筆者がここでこれを行う理由は、自らの良心に照らして、熊本大学としての最小限の責任を果たしておくためです。

 この本では、先ず第一章で、これまであまり検証されることがなかった、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為がなぜ差別行為であるかについて述べます。また、「水俣病」という語をなぜ使ってはならないか、法的根拠の有無についても検証します。
 次に、第二章で、1865年頃にロンドンでメチル水銀中毒が起きていたことを、当時の熊本大学の研究者らが隠ぺいしたことについて述べます。たとえば、原田正純助教授(当時)も ロンドンのことを早くから知っていましたが、「水俣病の前に水俣病はない」と主張しました。
 さらに、第三章で、欧米で死後の脳委縮・細胞欠損などの「解剖所見」として知られていた「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」が、日本では、運動失調(うんどうしっちょう)・視野狭窄(しやきょうさく)・構音障害(こうおんしょうがい)などの生前の諸症状として取り違えられたことについて述べます。その結果、現在まで、膨大な数の真正の患者が「ハンター・ラッセル症候群」を呈していないという科学的・医学的に誤った理由で、当然受けるべき補償を受けられないという深刻な人権問題・社会問題をひき起こしています。
 最後に、第四章で、米国政府はメチル水銀を「核」に次ぐ国民の脅威(きょうい)と位置付けていますが、日本政府は対策を講じていないことについて述べます。北太平洋のメチル水銀濃度は年々高くなっていて、水俣湾の初期の状態に近づいています。しかし、国民にはその危険性が知らされていません。行政がメチル水銀中毒に向き合わないで「あれは水俣の水俣病」として封殺する行為は、「メチル水銀中毒」を「水俣病」と表現する行為と同根であることについて述べます。






目次


はじめに


第一章

「水俣病」と表現する行為はなぜ差別行為か


    1. 「水俣病」という語はどのようにして造られたか

    2. 「水俣病」は差別用語としての完成度が高い

    3. 法律と政令だけはメチル水銀中毒を「水俣病」と表現できた

    4. 「水俣病」と表現する行為は法的に何が問題か

    5. 「メチル水銀中毒」を用いることが推奨される


第二章

ロンドンのメチル水銀中毒は日本でなぜ隠ぺいされたか


    6. 新日本窒素肥料株式会社に贈られた免罪

    7. 日本人はロンドンのメチル水銀中毒をいつ知ったか

    8. 日本人は有機水銀が廃液に含まれることをいつ知ったか

    9. 西欧では工場でメチル水銀中毒が起きたとき、どう解決されたか


第三章

「ハンター・ラッセル症候群」とは解剖所見のことである


   10. ハンターとラッセルによる「解剖所見」に関する論文

   11. 組織所見として定義された「ハンター・ラッセル症候群」

   12. 「ハンター・ラッセル症候群」は生前の所見として取り違えられた

   13. 「ハンター・ラッセル症候群」は真正の患者を切り捨てるための道具と化した


第四章

北太平洋全域のメチル水銀濃度が高い


   14. 「水俣病」は行政に無策を貫かせるための術語である

   15. 北太平洋で獲れる魚介類のメチル水銀濃度

   16. メチル水銀と食生活


おわりに


引用文献


年表









第一章


「水俣病」 と表現する行為はなぜ差別行為か

 

1. 「水俣病」 という語はどのようにして造られたか

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 1864年から 1866年にかけてロンドンで世界最初にメチル水銀中毒が発生しました。1865年に最初の患者が亡くなりました [1]。1866年に二番目の患者が亡くなりました [2]。カルテには「メチル水銀中毒」(poisoning by mercuric methide)と書かれました。当時日本は幕末でした。1887年に、それらの患者の記録(カルテ)はドイツで「ヘップ論文」とよばれる論文の中で詳しく紹介されました [3]。1931年に熊本大学附属図書館もその「ヘップ論文」を収蔵しました [4]。
 水銀を用いて「アセトアルデヒド」という工業製品を製造すると有機水銀が副生します。その事実は米国の J. ニューランドという化学者によって古く『米国化学会誌』に論文として発表されました(1906年 [5]、1921年 [6])。それらの論文は日本でも 1922年発行の『工業化學雜誌』などに邦訳されて掲載されました [7]。その雑誌は 1927年に熊本大学附属図書館にも収蔵されました [4]。
 そのように、アセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することも、その中毒が「メチル水銀中毒」とよばれることも、その具体的な症状も、日本窒素肥料株式会社が水俣でアセトアルデヒドを製造し始める 1932年よりも前から日本で知られていました。では、日本の研究者らは水俣でメチル水銀中毒が起きたとき、それにどのように取り組んだのでしょうか。
 研究者は、先人が書き残した文献をすべて敬意を払いながら注意深く読まなければなりません。研究者は、そのために当然払うべきちょっとした注意を怠ってはなりません。それでこそ研究者ですから。
 熊本大学の研究者らは、自らの大学の附属図書館に所蔵されている文献に目を通すこともなく、ただ水俣から送られてきた学用患者の病気の原因について独自に解明しようとして医学部の各教室間で一番乗りを競い合っていました。
 1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀化合物中毒が起きました。それを 1940年にハンター、ボンフォード、ラッセルの三名が論文として発表しました。熊本大学の研究者らは1957年にその論文を取り寄せて読みました。ハンターらが報告した症状は、水俣の重症患者のものによく似ていました [8]。その論文には、第 1ページに、このメチル水銀中毒は 1865年にロンドンで初めて起きたとしてその症状の内容が具体的に書かれていました。熊本大学の研究者らはそれを読んだとき、メチル水銀中毒が日本の幕末にイギリスで起きていたことを知ってさぞ驚いたでしょう。しかし、研究者らは 1865年のそのロンドンのことについては一切触れないことにしました。その理由は、水俣で起きたメチル水銀中毒を日本窒素が廃液を流し始めた 1932年よりも新しく 1937年にイギリスの種子処理工場であたかも初めて発見されたかのように発表することによって、日本窒素に「免罪(めんざい)」を贈らざるを得なかったからです。なぜそのような必要があったかについては、第二章(ロンドンのメチル水銀中毒は日本でなぜ隠ぺいされたか)で詳しく述べます。
 研究者らは、有機水銀によると思われる中毒をあたかも新しい風土病を発見したかのように「水俣病」と銘打ちました。研究者らは、さらに「水俣病」という病名を最初に用いたのは自分である。彼らではない。と主張して、命名の「てがら」を争いました。
 武内忠男教授は「新聞雑誌などでは水俣奇病という言葉が使われていたが、奇病というのではあまりに非科学的であることから一応地名で呼んでおいたらどうであろうかという提案を武内が出した」と述べています(武内忠男「水俣病の病理学的追及の歩み」 有馬澄雄編 『水俣病 - 20年の研究と今日の課題』 青林舎 1979年)。1957年に、武内教授は「水俣病(水俣地方に発生した原因不明の中枢神経疾患)の病理学的研究」と題する論文を『熊本医会誌』に発表しました。
 徳臣晴比古(とくおみはるひこ)教授は「(自らが助教授であったときに、教授の)勝木先生はある日の会合で「水俣地方の特有の原因不明の病気だから水俣病と言ったらどうだろう」と発言されて「うん、それがいいだろう」ということになった」と述べています (徳臣晴比古 『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。
 本当は、病気の原因が分からないときは、「分からない」という意味で「奇病」とよぶほうがなお科学的です。しかし、そのようにして、1957年に熊本大学で「水俣病」という差別用語が学術論文の発表等で公然と用いられるようになりました。
 日本窒素肥料株式会社が水俣でアセトアルデヒドを製造して有機水銀を水俣湾に流し始めたのは1932年(昭和七年)でした。しかし、アセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することは、前記しましたように、遅くとも 1922年(大正十一年)までに国内で周知となっていました。また、メチル水銀中毒の症状について詳しく報じる医学論文も、1931年(昭和六年)までに熊本大学附属図書館が収蔵していました。研究者らは先行文献として見落としたものがないかなど、研究者として当然払うべきちょっとした注意を怠ってはなりませんでした。それにもかかわらず、当時の研究者らがメチル水銀中毒の原因物質を特定しないでおいて、「水俣病」という差別用語を造語し、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現した行為は、科学的にも医学的にも、また、倫理的にも不見識な行為であり、残念なことであったと思われます。
 1958年の夏過ぎになると、それまで「水俣病」と表現することを差し控えていたマスコミも例外なく「水俣病」という差別用語を使い始めました。その後、学校の教科書にも「水俣病」という言葉が使われるようになりました。そのようにして、水俣の人びとに対する、言葉による大規模な人権侵害が行われました。
 熊本大学の研究者らは、前記しましたように、1957年にハンターらの論文 [8] の第 1ページを読んで、メチル水銀中毒が 1865年にロンドンで発見されたことを知っていました。しかし、研究者らはロンドンのことについては隠ぺいしました [9, 10]。研究者がそのような政治的・恣意的な隠ぺいをする行為もあってならないことです。それも、あまりにも残念なことでした。
 たとえば、研究者のひとりであった原田正純助教授(当時)も「水俣病の前に水俣病はない」 と主張しました(原田正純 『水俣病』 岩波新書 1972年)。原田助教授も ロンドンのことついて早くから知っていたことが分かっています。その主張(水俣病の前に水俣病はない)は、患者に対して「だからしかたがないね」として癒(いや)しを与える主張であったと同時に、原因企業である新日本窒素肥料株式会社にとってはもちろん、自らの責任を小さく見せたい政府や熊本県にとって都合のよい主張でした。したがって、その主張は広く受け入れられましたが、その主張はメチル水銀中毒の発見地が水俣ではなくロンドンであることを隠ぺいして行われた主張でした。
 メチル水銀中毒が 1865年にロンドンで発見されていた事実は、そのようにして、水俣の患者も、その家族も、語り部も、一般の人びとも、新聞も、テレビも、何も知らされないまま半世紀以上が経過して行きました。


2. 「水俣病」 は差別用語としての完成度が高い

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 水俣は、かつて肥後藩制下で「水俣手永(みなまたてなが)」とよばれ、幾世代も続いて人びとが暮らして来た風光明媚な地域です。緑深い山々に囲まれ、西のほうには穏やかな不知火海(しらぬいかい)が広がり、人びとは優しく純朴です。水俣は、『近世日本國民史』(全百巻)など優れた著作を残したジャーナリスト・歴史家の徳富蘇峰(1863-1957)や、美しい自然描写とヒューマニズムに徹して『不如歸(ほほとぎす)』など数多くの名作を残した文豪の徳冨蘆花(1868-1927)を輩出しました。水俣には容姿端麗な人が多く、肥後細川家に水俣から二人の女性が当主に嫁いでいます。
 その水俣で昭和七年(1932年)から日本窒素肥料株式会社によって水俣湾と不知火海に工場廃液が流され、人びとにメチル水銀中毒が起きました。
 熊本大学の研究者らによって造語された「水俣病」という言葉は、「水俣」と「病」 とを分かちがたく強固に結びつけました。その結びつきは、大人たちの「知識」としては結びついて「いない」と見なされていますが、やはり結びついています。特に純真な子どもたちには強く結びついて「いる」と見えています。その子どもたちが大人たちから「水俣病を正しく学べ」などといわれるのですから、それだけに「水俣病」という言葉は差別用語としての完成度が高いといえます。
 これまで、メチル水銀中毒について様ざまな報道が行われ、新しい研究や新しい著作が発表されてきました。それらの報道や著作も例外なく「水俣病」という言葉を用いるものでした。
 その結果、たとえば水俣の子どもたちがよそへ試合に行くと「水俣病が来た」と言われるようになりました。また、水俣に住んでいるというだけで娘の縁談がこわれた(熊本日日新聞 1973年3月1日)。ある人は、サイクリングで全国あちこち乗り廻したことがあるが、自転車に水俣の鑑札がついているだけでずいぶんと嫌(いや)な目にあった。また、ある人は市外の友人から「水俣病ではないのか」といわれて嫌な感じを受けた。また、ある人は水俣に住んでいるというだけで親類とも疎遠(そえん)になった。親類の者が訪ねて来たが「水俣では物を食べないように」といわれて来たからと一緒に食事もしてくれなかった。水俣の子どもたちが都会の学校に進学しても、周囲には自らが水俣出身であることを隠した。新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)の従業員とその家族が都会に転出しても、多くの人が水俣出身であることを隠して暮らした。それらは、メチル水銀中毒の原因物質がメチル水銀であることが分かり、かつ国内でも周知されてから後のことです。
 メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、現実には幾重にも重層化しています。たとえば、自らは水俣で生まれていない人がメチル水銀中毒を声高に「水俣病」と表現する。そのような行為が行われました。あるいは、水俣生まれでない人が水俣に住んでいて、メチル水銀中毒を声高に「水俣病」と表現する。そういった行為が行われています。それも、自らが生まれた故郷のほうの尊厳は維持したまま行われる差別行為です。
 W.H.O.(世界保健機関)も一般的な病名としては「水銀及びその化合物による中毒」としています。これは、国際疾病(しっぺい)コード第 10版「ICD10」によって「Toxic effects of mercury and its compounds」(コード番号 T561)と分類されているものです。原因物質をさらに特定して「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」が世界の一般的な学術用語として広く用いられています。W.H.O.も「メチル水銀中毒」を用いています。
 さらに、W.H.O.は 2015年に改めて指針を公表し、「病名に用いるべきでない語としては地名があげられる」("Terms that should be avoided in disease names include geographic locations.")としています。その理由として「これは、人びとの人生や生活に深刻な影響を及ぼしかねない」("This can have serious consequences for peoples' lives and livelihoods.")としています。「水俣病」は、理由が何であれ、用いるべきではありません。
「差別」 とは、個人あるいは集団がもつ属性の差異を峻別(しゅんべつ)することによって、人間としての尊厳を傷つけたり否定したりする行為のことです。また、「人権」とは人が人間であることに基づいてもつ普遍(ふへん)的な権利のことです。それは人が生まれながらにしてもつ権利です。それは国家権力によっても侵されない基本的な権利のことです。そのことは 1948年に国際連合によって採択された「世界人権宣言」によって端的に表明されています。人権は、イギリス革命(権利章典 1689年)、アメリカ革命(独立宣言 1776年)、フランス革命(人権宣言 1789年)などを通して確立された人類普遍の権利です。それは、「近代憲法の不可欠の原理」と考えられています。人は「人格権」として「いかなる差別も受けない権利」をもっています。この権利は「誰ひとり」として侵害されてはなりません。長い人類の歴史を通して、この権利は時代とともに今後ますます尊重されていく流れにあります。



3. 法律と政令だけはメチル水銀中毒を「水俣病」と表現できた

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 1969年12月17日に厚生省の「公害の影響による疾病の指定に関する検討委員会」は、「水俣病」という呼称は、国内・海外でも広く用いられていること、環境汚染と食物連鎖の要素が含まれていることから、政令におり込む病名としては「水俣病」を採用するのが適当であると答申しました。その時すでに熊本大学の研究者らが 1957年から「水俣病」という差別用語を使い始め、マスコミなども 1958年から広く使い始めてから 10年以上が経過していました。
 当時は、必ずしも現在のように個人の権利を尊重しようという意識が高かったわけではありません。そのころは、国内では、たとえば目が不自由な人や心の病をもつ人を「めくら」や「きちがい」とよぶ、差別用語が跋扈(ばっこ)する時代でした。
 1974年11月21日にテレビ放映された『座頭市物語』(勝新太郎主演)では、劇中で悪人たちが座頭市をからかいます。
「うるせぇ! このどめくらぁ!」
「どめくらと言いなすったな」
それを観て、視聴者は喝采(かっさい)しました。
 そのような時代に法律と政令に用いられていた差別用語は多くあります。たとえば、昭和二十三年(1948年)7月30日に制定された法律第二百一号 「医師法」 には「禁治産者」、「準禁治産者」、「つんぼ」、「おし」、「めくら」という差別用語が用いられました。それらの語は、昭和五十六年(1981年)まで用いられました。

【医師法第三条】 未成年者、禁治産者、準禁治産者、つんぼ、おし又は盲(めくら)の者には、免許を与えない。

 昭和五十六年(1981年)になって 5月25日に「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」が制定されました。

【第一条】 医師法 (昭和二十三年法律第二百一号) の一部を次のように改正する。
第三条中 「つんぼ、おし又は盲の者」を「目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者」に改める。

 その後「医師法」でも、また、「民法」でも、しばらくは「禁治産者」、「準禁治産者」という語が使われましたが、それらはあたかも人間失格の印象を抱かせかねない差別用語であるため、現在は使われていません。
「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(平成二十一年法律第八十一号)にも「水俣病」という語が使われました。
 法律と政令は、たとえその語の使い方が時代に追いつかなくなっていても、それはそれとして、厳密に遵守されなければなりません。しかし、我われが、法律と政令によって直接に委託されていないのに、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為はやはり差別行為です。
 たとえば、前記したように、水俣の子どもたちがよそへスポーツの試合に行くと、相手チームの子どもたちから「水俣病が来た」といわれることがあります。差別は人間が人間を峻別しようとする原始的な感情に基づくことが多いものです。相手チームの子どもたちも、特にスポーツという競争の場においては、つい「水俣病が来た」と言ってしまいやすいのでしょう。水俣は「水俣病」の原因物質ではありません。まして誰も「水俣病が来た」などと言われたくありません。
 問題は、そのような出来事に対して、多くの場合に周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病を正しく学べ」などと発言して、今度は「水俣病」という完成された差別用語を用いて、子どものほうを戒(いまし)めるといった行為や報道が行われることにあります。その「水俣病」という語を公然と用いる行為や報道こそが差別行為として水俣の人びとの人権を侵害します。法律と政令によって「水俣病」という語を使うように直接に委託されていない限り、周囲の公的な機関や人びと、報道機関が用いるべき術語は「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」です。
 次は、新聞記事からの転載です。



水俣の中学生に差別的発言 「水俣病、触るな」(熊本日日新聞 2010年7月15日)

 水俣市の中学生が 6月上旬、県内の他市の中学校とのサッカーの試合中、相手側の生徒から「水俣病、触るな」と差別的な発言を受けていたことが、14日分かった。
 両市の教育委員会などによると、試合の接触プレー中に、1人の生徒が発言したという。試合直後、水俣市側の監督からの指摘を受けて、チーム関係者全員がその場で謝罪。その後、校長や教育長らが水俣市を訪れ関係者に謝罪したほか、中学校の保護者集会で水俣病に関する講話を聞いたり、教職員らを集めた市教委主催の研修などを開いた。
 同校の校長は「今回の出来事は、生徒に対し水俣病の表面的な知識しか伝えきれていなかった我われ教師の責任」と話し、8月には同校の教諭らが水俣市を訪れ、水俣病の現地学習に取り組む予定。
 一方、水俣市の葦浦博行教育長は「差別発言は残念。今後、小中学生が水俣病を正しく理解できるよう県全体で取り組んでほしい」と話した。
 また、県教委人権同和教育課の永田哲郎・教育審議員は「県教育事務所の担当者を集め、水俣病教育に関する再点検を要請した。これまでの取り組みで不十分だった点を改善したい」と話している。




 そもそも、「水俣病」が差別用語でなければ、最初からこの出来事は成立しません。子どもたちは、メチル水銀中毒は原因物質がメチル水銀であって感染するものではないことを学んでいても、感性豊かな日本の子どもたちには、「水俣病」はやはり「うつる」ものとして感じられます。やまい(病) は日本人にとって「けがれ」であるからです。「けがれ」は土俵に塩をまかなければ「うつる」ものです。触ってはなりません。これは日本人の秘めたる常識です。「水俣」と「病」とが言葉の上で分かちがたく結びついているのですから、感性豊かなその生徒は「けがれ」をうつるものとして「水俣病、触るな」と発言しただけなのでしょう。
 この記事は、子どものほうが差別的発言をしたという主旨の内容を一方的に報道しています。しかし、周囲の公的な機関や大人たちは「水俣病」という差別用語を公然と用いてコメントを出しています。それらの公的な機関や大人たちは、「メチル水銀中毒」という言葉を用いないで、ことさら「水俣病」という差別用語を使うように法律、あるいは政令によって直接に委託されていたのでしょうか。
 次も、新聞記事からの転載です。



男子児童「水俣病がうつる」(朝日新聞 2017年1月26日)

 宇城市で 22日にあった小学生のスポーツの試合会場で、水俣市のチームと対戦した県内の男子児童が「水俣病がうつる」と発言していたことが、水俣市教育委員会への取材で分かった。その場で発言を聞いた水俣の児童の保護者が引率の教員に報告し、対戦相手の教員が男児に発言を確認。その場で謝ったという。
 同市教委によると、男児は対戦して試合に負けた後に発言し、偶然、近くにいた水俣側の保護者が聞いていた。水俣のチームは複数の小学校の児童が集まっており、発言した男児が通う小学校長は 23日、水俣市内の複数の小学校に「指導する職員と子どもたちの研修や学習を徹底する」などと、電話で伝えたという。
 県内の小学校では 5年生が毎年、水俣病資料館を訪れて患者が受けた差別などを学習しており、男児も訪問していたという。
 水俣市教委教育総務課の担当者は「(水俣側の)子どもたちに向かって言ったのではないと受け止めている。水俣病で苦しむ人の思いを考え、今後の学びを深めて欲しいと現地で伝えた」と話した。



 この記事も、子どものほうが差別的発言をしたという主旨の内容を一方的に報道しています。また、この記事で報道された内容も、「水俣病」が差別用語でなければ最初から成立しません。「水俣病」は、その小学生が発したように、あたかも水俣の風土病であるかのように「水俣」と「病」とを結びつけています。学校で、あるいは課外教育で、メチル水銀中毒は原因物質がメチル水銀であって感染するものではないということを学んでいても、「水俣病」はやはり「うつる」ものとして心に感じられるでしょう。
 人間は誰しも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されています。それがこの児童にとってはスポーツの試合の場でした。しかし、児童は同時に自由な存在です。小学校でも高学年になればメチル水銀中毒が感染する病気ではないことを知っています。その児童も、学び方が足りなかったのではなく、感性豊かな児童であったのだろうと筆者は思います。それに対して、ここでも、周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病」という差別用語を公然と使ってコメントを出しています。それらの公的な機関や大人たちは、「メチル水銀中毒」という言葉を用いないで、ことさら「水俣病」という差別用語を使うように法律、あるいは政令によって直接に委託されていたのでしょうか。
 水俣市明神町に有機水銀公害の資料館として市立「水俣病資料館」があります。筆者もある日行ってみましたが、そこには市外から小学生の団体がたまたま見学に来ていました。展示場では、メチル水銀中毒について、そもそも 1865年頃にロンドンで世界最初に起きていてその頃から「メチル水銀中毒」とよばれてきたという歴史上の欠くことのできない重要な事実を教えていませんでした。また、設置されたビデオ画面には「メチル水銀は体内に入っても生物学的半減期といって約 70日で排泄されて半減していく(から心配ない)」といった科学的に誤った教材が繰り返し方式で流されていました。そのビデオは、生物学的半減期という学術用語を使ってはいるが、それによってメチル水銀の影響を「小さく」見せかけていました。本当は、メチル水銀はどんなに微量でも体内に入るとその量に応じて脳細胞を破壊します。メチル水銀は確かに生物学的半減期の約 70日で体外へ半量が排泄されますが、その 70日間に脳細胞で起きた破壊は「不可逆的」(イリバーシブル)です。破壊された脳細胞がその後の生涯で修復されることはありません。子どもたちにはこのように歴史的・科学的に正しい事実を教えなければなりません。


4. 「水俣病」と表現する行為は法的に何が問題か

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 憲法は、基本的人権や権利の濫用(らんよう)、公共の福祉、差別などについて、次のように定めています。

【憲法第十一条】 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

【憲法第十二条】 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

【憲法第十三条】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

【憲法第十四条第1項】 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

【憲法第二十一条第1項】 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
【憲法第九十八条第2項】 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 憲法第十一条で定められた基本的人権は、国民に保障された侵すことのできない永久の権利として憲法第九十七条でも改めて国の「最高法規」として位置づけられています。

 この「日本国憲法」は 1946年11月3日に公布されて 1947年5月3日に施行されました。1952年4月28日には「日本国との平和条約」(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本は主権をもつ国家として国際社会への仲間入りを果たしました。国際連合はそれ以前の 1948年12月10日に「世界人権宣言」を採択していましたが、日本は「サンフランシスコ講和条約」の締結の条件として、その前文で「世界人権宣言」の実現に向けて努力することを誓約し、批准しました。

【世界人権宣言第二条第1項】 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

【世界人権宣言第七条】 すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。

 国民は憲法によって権利や自由が保障されています。しかし、刑罰法規に抵触すると、最終的に裁判所の判断の結果によって、処罰されます。また、民事上でも、違法性が認められれば損害賠償を求められます。

【刑法第二百三十条第1項】 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。 【刑法第二百三十一条】 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。

 たとえば飲食店で仮に相手に「この水俣病!」と発言したら、たとえ相手が患者であっても患者でなくても、その行為が第三者の出入りが可能な飲食店で行われた以上公然性が否めないので、前記の名誉についての刑法にまでは抵触しなくても、次の軽犯罪法には抵触するかもしれません。

【軽犯罪法第一条第五号】 公共の会堂、劇場、飲食店、ダンスホールその他公共の娯楽場において、入場者に対して、又は汽車、電車、乗合自動車、船舶、飛行機その他公共の乗物の中で乗客に対して著しく粗野又は乱暴な言動で迷惑をかけた者(はこれを拘留又は科料に処する)。

 なお、言動の程度によっては次の脅迫の罪や強要の罪についての刑法に抵触するかもしれません。

【刑法第二百二十二条】 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。

【刑法第二百二十三条】 生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、三年以下の懲役に処する。
2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者も、前項と同様とする。
3 前二項の罪の未遂は、罰する。

 目が不自由な人や心の病をもつ人を「めくら」や「きちがい」とよぶ差別用語が跋扈(ばっこ)した時代に、「めくら」や「きちがい」とよぶ行為は、当時としては慣習的に行われていました。「がまん」をする人がいるからという理由も、あるいは、平気な人がいるからという理由も、さらに、慣習的に行われてきたという理由も、人権を侵害するための理由にはなり得ません。これは人の理性に訴えるものです。勝てば官軍といった勝ち負けではありません。人には「誰ひとり」として差別されてはならない「絶対」の権利があるからです。その権利は 1947年に施行された「憲法第十四条第1項」や 1952年に批准された「世界人権宣言」によって、その時からすでに永久不可侵の権利として保障されています。特に、水俣でメチル水銀中毒が見つかったのはその後のことです。メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為にはどのような「正当性」も「自明性」もありません。
 差別行為として水俣の人びとの人権を侵害すると、民事上の賠償責任が生じるかもしれません。

【民法第七百九条】 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

【民法第七百十条】 他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。

「めくら」という言葉には、言外に、自らの眼を襲い、自らの人生を襲い、あるいは、差別され、あるいは、駆け巡っていった「思想」と「事実」が含まれているでしょう。「めくら」は、かつて表現を豊かにするうえで重要な言葉でした。前記の『座頭市物語』も、「うるせぇ! この目の不自由なひとぉ!」では時代劇にならなかったでしょうから。それでも、今日において「めくら」という言葉は差別用語です。それを使わないようにしなければなりません。それは、自らの良心に照らして、意識して使わないように心掛けるしかありません。
「水俣病」にも、言外に、チッソ株式会社の加害行為、あるいは、政府と県の無作為に対する患者の「怨(うら)み」が含まれているでしょう。また、患者が生を受けて以来、自らの身体を奪い、家族の身体を襲い、自らと家族の人生を襲い、あるいは、差別され、そのようにして駆け巡っていった「思想」と「事実」が含まれているでしょう。「水俣病」は、ある意味で、「めくら」と同様に重要な言葉でした。しかし、重要な言葉であるからといって「水俣病」という語を用いる行為は、それによって権利を侵害される人が存在する限り、差別行為です。この現代社会において人権を侵害される人が法の下において「誰ひとり」として存在してはならないからです。
 今日において、単に重要な言葉であるからという理由で、あるいは、単に表現を豊かにするためであるからという理由で「水俣病」を使うか、それとも、「メチル水銀中毒」を使うかを選択肢として使い分ける余地はありません。「水俣病」は使ってはならない差別用語です。
 また、「水俣病」という語を用いると患者が前面に立ち、普遍的な「メチル水銀中毒」は背面に隠れる。「メチル水銀中毒」という語を用いると普遍的なメチル水銀中毒が前面に立ち、患者は背面に隠れる。そのような意見があります。しかしながら、今日において、第三者が表現を豊かにするためであるからという理由で「水俣病」を使うか、それとも、「メチル水銀中毒」を使うかを選択肢として使い分ける余地はありません。「水俣病」は使ってはならない差別用語です。これは、自らの良心に照らして、そのように意識して使わないように心掛けるしかありません。私たちは、そのような本当に差別のない社会を構築しなければならない新しい時代にさしかかっています。
 一般的には「メチル水銀中毒」という病名を用いることが推奨されます。「メチル水銀中毒」という言葉によって人権を侵害される人はいません。


5. 「メチル水銀中毒」を用いることが推奨される

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47

入口紀男
メチル水銀を水俣湾に流す
(日本評論社 2008年)


 
 筆者は 2008年に『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)という書籍を刊行しました。筆者は、「水俣病」という語は歴史に残る重要な語である。それは病名ではなく呼称であると述べました。また、それは差別用語として機能しており、風評被害など不公平な負の影響もあると述べました [11]。当時はそのように「水俣病」という言葉が差別用語であると指摘する書籍等は多くありませんでした。それから十年余りを経過した今日、世界中で「水俣病」という言葉が差別用語であるとして認識され始めています。
 筆者は、前記『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年) [11] を 2012年に英訳して、『Minamata Bay, 1932』(水俣湾 昭和7年)という本 [12] として上梓しました。世界の 100か国以上の図書館や大学で読まれていることが分かっています。2021年にジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』が公開されます。ジョニー・デップは制作も担当しています。筆者(入口紀男)は、ジョニー・デップに映画が制作される前の2018年に、「水俣病」という用語は差別用語であるから慎重に用いるようにと知らせてその本を贈りました。その映画では、「水俣病」という用語は当時の物語を正確に描写する上で必要最小限しか使われていません。

「メチル水銀中毒症」とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものです。これが科学的に検証された現在の定義です。また、これが 2004年4月27日に大阪高等裁判所によって採用された定義です。さらに、上告審(最高裁判所)も、2004年10月15日に大阪高裁のこの判決を支持しました。したがって、感覚障害などの中枢性障害があって、メチル水銀被ばく歴より他に別段の原因が特定できなければ、それはメチル水銀中毒症です。



47

   

N. Iriguchi,
"Minamata Bay, 1932"
(Nippon Hyoron Sha, 2012)


 
 かつて水俣市では「水俣病」という病名を変更するように行政に働きかけるなどの運動が行われたことがあります。しかし、行政のほうがそのような運動に応じることはありません。そもそも、この国で、メチル水銀中毒の被害者が、公共の利益と福祉、公共の安全の立場から救済されようとしたことはありません。政府は被害者を救済しようとせず、被害を水俣に限定し、ただ切り捨てようとして来ました。政府も熊本県もメチル水銀中毒を自らの無作為によって拡大させた加害者のほうです。行政としては、自らの責任を小さく見せるために「あれは水俣の水俣病」として封殺したいのですから、何万筆の署名を集めようと、結果は同じでしょう。
 しかしながら、 W.H.O.が指摘する通り、すでに病名は変更されています。現在の日本では、法律と政令によって「水俣病」を使うように直接に委託されていない限り、正しい病名である「メチル水銀中毒」を用いなければなりません。
 行政機関も、熊本県や水俣市などの地方自治体も、法律と政令によって直接に委託されていない限り、「水俣病」を用いてはなりません。マスメディア(新聞・テレビ・ラジオなど)、研究機関、私的団体、研究者、医師、教育者、評論家、文芸作家、その他の個人なども「水俣病」を差別用語であるとして正しく認識し、かつ理解して、これを用いるべきではありません。「メチル水銀中毒」を用いることが推奨されます。


第二章


ロンドンのメチル水銀中毒は日本でなぜ隠ぺいされたか

省略

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第三章


「ハンター・ラッセル症候群」とは解剖所見のことである

省略

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第四章


北太平洋全域のメチル水銀濃度が高い


14. 「水俣病」は行政に無策を貫かせるための術語である

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 米国政府はメチル水銀を国民の「核」に次ぐ脅威と位置付けていて魚介類(ぎょかいるい)のメチル水銀に対して厳しい「摂食量規制値」を設けています。米国では、誰も「1週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀を 0.7マイクログラムまで」しか食べてはなりません。米国はそのように定めています。コンビニエンスストアや郵便局などにも魚食に注意を払うように政府のチラシが置かれています。
 しかし、それでも、米国の妊娠可能な女性の血中総水銀濃度が高いトップ 10パーセントの女性から生まれる子供の約 10パーセント(毎年約 4万人)は「学習障害」(LD)を発症します。学習障害は胎児期に脳細胞が受けた障害によって起きるものです。家庭環境や学習環境によっては起きるものでないことが知られています。これには発生医学的な検証は必要でしょうが、現在の米国の総人口の約 1パーセント(約 300万人)がそのような胎児性メチル水銀中毒であると推定されます。わが国にそのような調査結果はありません。
 わが国は、「あれは水俣の水俣病」として無策を貫いています。わが国としては「ハンター・ラッセル症候群」として「普通に歩けないほどの運動失調」「言葉が聞き取りにくいほどの構音障害」「目がよく見えないほどの視野狭窄」の「三主徴」がそろっていなければメチル水銀中毒の患者として公的に認定したり補償したりしないわけですから、政府は、国民が北太平洋の魚介類を大量に食べたからといって誰ひとりとしてそれほどのメチル水銀中毒にならないと想定しているのでしょう。しかし、多くの国民が感覚障害や先天的な学習障害(LD)、あるいは、後天的な高次脳機能障害などの症状で真正のメチル水銀中毒を発症している蓋然性(がいぜんせい)は高いと考えられます。



06

世界の水銀排出量(2015年)[20]

   
  
 北太平洋全域のメチル水銀濃度が過去 100年間で約 10倍高くなっています。産業革命以来世界中で石炭が大量に焚かれるようになったからです。石炭 1トンには太古の水銀約 250ミリグラムが含まれています。中国は毎年高い経済成長を誇り、世界の経済大国になっていますが、その経済成長を支えているのが石炭です。中国では世界の半量(年間約 30億トン)が焚かれています。石炭に含まれる水銀は約 357 ℃で沸騰して水銀蒸気となります。この水銀蒸気は偏西風に乗り、上空で冷えて金属水銀となり、雨滴とともに日本の国土や海上に降ってきます。それを微生物がメチル水銀に変えます。現在の北太平洋のメチル水銀濃度は、メチル水銀中毒が顕在化し始めた水俣湾の初期の状態に近く、日本近海で獲れる魚介類には国の基準(1キログラムあたり水銀量 0.4ミリグラム)を超えるものが相当の割合で出始めています [23]。
 石炭が焚かれるとき、出てきた水銀蒸気を水に通せば水銀蒸気は冷えて水の底に溜(た)まります。そこで、水銀が蒸気となって上空へ行かないように、煙もろともいったん水を通せばよいのですが、そのことは現在の日本の石炭火力発電所でも行われていません。中国の人民にこれを強いることは困難でしょう。

15. 北太平洋で獲れる魚介類のメチル水銀濃度

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 かつて魚介類を多く食べる国民ほど長生きし、また、胎児も成長する傾向にあると考えられていました。魚介類には、PUFA(多価不飽和脂肪酸)といって、 DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸)などの重要な栄養素が含まれているからでした。妊婦が魚介類を食べると胎芽や胎児の脳は良く発達すると期待されていました。しかし、現在市場に出回っている魚介類には PUFAなどが含まれているという利点はあるものの、メチル水銀があまりにも多量に含まれるようになっています [21]。
 古代から中世、近世にかけて、自然環境に 1年間に放出される水銀の総量は約 1,700トンでした。火山や海底火山の噴火などによって、毎年新たに放出される量が約 700トンでした。残りの約 1,000トンは「再放出」といって、地表に降ったものが蒸発したり、海洋から蒸発したりして 1年間に大気中に放出される量でした。この自然由来の水銀量の合計約 1,700トンは、太古の昔も今も変わりません。
 一方、自然環境に対して人為的に放出される水銀の量は現在世界で 1年間に約 6,000トンです。この量は年々増加しています。その中で金属精錬などにともなって人為的に河川や海中に流される水銀量は 1年間に約 1,000トンです。また、石炭を焚くなどして人為的に大気中に放出される水銀量は 1年間に約 2,000トンです。さらに、約 3,000トンが毎年再放出されています。したがって、現在、自然環境に 1年間に放出される水銀の総量は約 7,700トンです。
 水俣で 1956年にメチル水銀中毒が確認されてから半世紀以上が経ちますが、その確認当時(20世紀半ば)に比べると、北太平洋で獲れる魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は 6~8倍高くなっています。市場に出回っている魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は非常に高濃度です [23]。 



34

   

北太平洋の魚介類のメチル水銀濃度
過去100年間に深刻に高くなっている [22]


   
 ハーバード大学のスコット・エドワーズらは、絶滅危惧種クロアシアホウドリの標本が各地の博物館に 100年以上昔から保存されていることに着目しました。クロアシアホウドリは魚介類を食べて生活します。エドワーズらは、北太平洋一帯で 1880年から 2002年までに捕獲されたクロアシアホウドリの胸の羽毛に含まれるメチル水銀量を測定しました [22]。ハーバード大学の博物館の 7つのサンプルとワシントン大学の 17のサンプルでは、1グラムあたり 5ミリグラム以下から 40ミリグラム以上へと定性的に高くなったことが示唆されました。 40ミリグラム以上のものはすべて 1940年以降に捕獲されたものでした。現在においてはさらに高くなっているものと推定されます。ただし、測定値のばらつきは大きく、サンプル数は限られていて、更なる検証も必要ですが、過去 100年の間に北太平洋のメチル水銀濃度がおよそ一桁高くなっていることが強く示唆されています。



37

北極圏の生体の過去のメチル水銀量の推移
13世紀から現在(100%)まで

   
 北極圏では、動物の遺体が極低温で何世紀もの間保存されていることがあります。それらの遺体のメチル水銀含有量を測定した結果、13世紀から 18世紀までは生体組織のメチル水銀濃度は比較的安定していましたが、図に示されるように 19世紀から現在まで約 12倍上昇しています。
 東シナ海周辺には海鳥の卵殻が 13世紀から現在まで寺院などに保存されています。それらの卵殻中の水銀含有量を測定した結果、水銀濃度は 19世紀から 20世紀にかけて急激に上昇しており、特に 1970年以降の上昇が著しくなっています。南シナ海の水銀濃度も産業革命以前の濃度より約 10倍高いと考えられます。



16. メチル水銀と食生活

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 普通の成人がメチル水銀を摂(と)った時の致死量は約2.9ミリグラムと推定されています。それは重さも感じられないほどの微量です。そのメチル水銀を月日をかけながら少しずつ食べると、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、補償機能(リハビリ機能)によって脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが知られています。
 明治・大正時代に日本近海で獲れる魚介類のメチル水銀濃度は 1キログラムあたり約 0.02ミリグラムの程度であったと推定されます。1940年ごろ、水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度はそれより約 10倍高くなったと推定されます。その魚介類を毎日 1キログラム食べると約 2週間でメチル水銀を一度にとった場合の致死量の 2.9ミリグラムに達します。水俣でメチル水銀中毒の患者が多発した 1950年代から 1960年代にかけて水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度は 1キログラムあたり 0.4~0.6ミリグラム以上であったと推定されます。すると多くの人びとは脳の補償機能が追いつかなくなってメチル水銀中毒を発症したものと推定されます。
 平均的な日本人は、1992~2001年の平均において 1年間に約 50キログラムの魚介類を食べ、1年間に 3.1ミリグラムの総水銀を食べていました [21]。魚介類の総水銀のほとんどはメチル水銀です。
 2003年の時点(測定は環境省で公表は厚労省)で、わが国の近海で獲れた魚介類は、総水銀量が 1キログラムあたり平均 0.15ミリグラム、メチル水銀量が値 0.14ミリグラムでした [23]。個体数の約 7パーセント(643匹中46匹)が 1キログラムあたり総水銀量 0.4ミリグラム(我が国の魚介類の規制値)を超え、13パーセント(643匹中82匹)が 1キログラムあたりメチル水銀量 0.3ミリグラム(我が国の魚介類の規制値)を超えていました [23]。この測定結果では、1年間に 50キログラムの魚介類を食べると、日本人は 1年間に 7ミリグラムのメチル水銀を食べていることになります。
 近年、北太平洋で獲れて国内で流通する魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は極めて高く、前記 2003年の測定データ(魚介類のメチル水銀値平均 0.14ミリグラム)が最後ですが [23]、それから 15年以上経った現在は、1キログラムあたり平均 0.2ミリグラムに近いと推定されます。これはメチル水銀中毒が起き始めた初期(1940年頃)の水俣湾のレベルです。



メチル水銀の摂食量規制値の比較

国・機関摂食量規制値魚介類規制値
日本

 なし。
「妊婦への魚介類の摂取と水銀に関する注意事項」(厚生労働省平成17年11月2日 平成22年6月1日改定)
 厚生労働省ウェブページ「魚介類に含まれる水銀について」

 一般魚 1Kgあたり総水銀 0.4ミリグラム 。
 メチル水銀 0.3ミリグラム。
 マグロ類(マグロ、カジキ、カツオ)、クジラ類(クジラ、イルカ)、深海性魚介類等及び河川産魚介類は適用外。

W.H.O.

 18歳以上は 1週間に体重 1Kg あたり 3.2マイクログラム。
 胎芽以上 17歳以下の子どもは1週間に体重 1Kgあたり 1.6マイクログラム。

 一般魚 1Kgあたりメチル水銀 0.5ミリグラム。
 捕食魚 1Kgあたりメチル水銀 1ミリグラム。

米国

 1週間に体重 1Kgあたり 0.7マイクログラム。

 魚介類 1Kgあたりメチル水銀 1ミリグラム 。




 表のようにわが国には、メチル水銀の「摂食量規制値」が存在しません。わが国にあるのは「魚介類規制値」だけです [24]。マグロ、クジラなどは何の規制もなく流通させています。
 仮に 1キログラムあたり総水銀量 0.4ミリグラムの魚介類を一度に食べると、メチル水銀の致死量は 2.9ミリグラムですから、約 7.25キログラムが致死量です。特に、海の食物連鎖の頂点に立つクロマグロ(ホンマグロ)のメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 0.7 ミリグラム、最大 6ミリグラムですから、その最小の致死量は 483グラム、平均の致死量は 4.14 キログラムです。マッコウクジラのメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 2 ミリグラム、最大 4ミリグラムですから、その最小の致死量は 725グラム、平均の致死量は 1.45 キログラムです。バンドウイルカのメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 20ミリグラム、最大 35ミリグラムですから、その最小の致死量は 83グラム、平均の致死量は 145グラムです。
 メチル水銀を少しずつ食べて生き延びても、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、メチル水銀の生涯摂取量が 200ミリグラムに達するまでは補償機能によって脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持すると推定されています。
 W.H.O.によれば、日本を除く世界各国で摂食量規制値が「1週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀量で 2マイクログラム以下」として確立されつつあります。
 厚生労働省は、摂食を規制することは「風評」につながることを恐れるとしたうえで、「妊婦」に対してのみ、また、妊婦に対してさえも「マグロ」などに関してのみ、それも米国のような「量的規制」ではなく、「注意事項」のみを公表しています [24]。そのうえで、妊婦以外の人はどんな魚介類を幾ら多く食べてもよいとしています。
 それでも、北太平洋のメチル水銀濃度は水俣湾の初期の状態に近づきつつあります。W.H.O.が世界の国々に対して摂食量の規制を行うよう推奨しているのに対して、わが国は国民に対して摂食量の規制を行わず、メチル水銀中毒を「あれは水俣の水俣病」として向き合おうとしていません。これは、世界の標準に照らしても普通とはいえません。
 行政も、科学を無視した、そのような差別思想を捨てて、やはりメチル水銀中毒に正面から向き合わなければなりません。わが国がこのままメチル水銀中毒を「あれは水俣の水俣病」として逃げるのでなく、国民すべてに対するメチル水銀の脅威として正しく対策を講じなければ、国民はいずれ自然界から重い責任(先天的な学習障害や後天的な高次脳機能障害などのメチル水銀中毒)を突き付けられるでしょう。





おわりに

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 水俣は平安時代から知られる古い城下町です。現在の水俣市陣内の古城(こじょう)に水俣城址が残っています。水俣城は肥後國にあって薩摩國との国境に位置する重要な城でした。水俣城は加藤淸正の出城となりましたが、1612年(慶長十七年)德川幕府の命令によって廃城となりました。
 水俣では 1877年(明治十年)の西南の役で住民をまき込んで激戦も行われました。
 水俣は、そのような北と南のせめぎあいの中にあって、自給自足の町として、いく世紀にもわたって孤立しました。長い歴史を通して外に開かれた唯一の交易路は西に広がる不知火海でした。

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熊本縣葦北郡水俣村 1911年(明治四十四年 原圖・陸軍省陸地測量部)


 昭和九年(1934年)まで水俣には二つの川が市街地の南東近くで交差して流れていました。地図の中に「水俣川」と見えるのが古賀(こが)川です。東のほうから河口で古賀川と合流して海に流れ出ているのが洗切(あらいきり)川でした。地図の古賀川西岸の河口近くではすでに日本窒素肥料株式會社(創業者・野口遵(したごう 1873-1944)がカーバイド工場を操業しています。地図の市街地より少し北に「牧ノ内」の地名が見えますが、筆者(入口紀男)の実家がここにあります。牧ノ内には徳冨蘇峰などの墓所もあります。地図に見える「八代灣(やつしろわん)」は、徳冨蘆花の『死の蔭に』(1917年)の中では「葦北の海」と書かれていますが、地域では夜景の美しい蜃気楼を称(たた)え、あるいは畏(おそ)れて「不知火(しらぬい)海」とよばれます。地図に見える「濱(はま)」は三十四町(約十万坪)にも及ぶ広大な塩田でした。製塩はそれまで約二百五十年続いており、水俣港から年間数十万俵を出荷する水俣の主力産業でした。この塩田が 1915年(大正四年)から日本窒素肥料株式會社の新工場の敷地となりました。
 徳冨蘆花は『死の蔭に』の中で 「水俣は過去のものになったが、己(わ)が少年時代靑年時代の一部を永久に預けてある此海(このうみ)此山(このやま)此鄕(このきやう)を余は決して忘るゝことは出來ぬ」と述べています [25]。水俣は、そのような昔の水俣を取り戻さなければなりません。



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入口善久 『蘆花と水俣
(自由塾 2018年)


 
 熊本県では昭和五十年(1975年)から約 500 億円、13年間 かけて、水俣湾の底(東京ドーム 13個分の広さ)を浚渫(しゅんせつ)しました。埋め立て地(旧水俣湾)は広大な公園になっています。そこに接する海では、平成九年(1997年)に獲れた魚介類の総水銀濃度が国の基準値(1キログラムあたり 0.4ミリグラム)を 3年続けて下回ったので、熊本県では安全宣言を出して現在は漁獲も行われています。
 平成二十二年(2010年)度に、水俣市は、国内で自然保護や環境保護の分野において最も優れた行政活動を行なっている自治体として「環境首都」の称号が与えられました。厳しい条件をすべて満たして環境首都の称号が与えられた都市は日本では水俣市だけです。
 日本窒素肥料株式会社(現チッソ株式会社)は、将来にわたって過去の責任を背負っています。しかし、その水俣工場であるJNC株式会社も世代はすっかり替わっていて、地域の高等学校などを卒業した若い人たちがこれから希望をもって働く重要な企業となっています。
 水俣湾にも多種多様な魚介類が戻っていて美しい海となっています。透明度が高い南九州の海であり、イワシ、太刀魚、アジ、色とりどりのクマノミ、カサゴ、タイ、サヨリ、タツノオトシゴ、カニが棲息するようになり、岩肌にはフジツボなども戻っています。温暖で風光明媚な水俣は、これからも世界に向けてさまざまな情報を発信し、発展していくでしょう。
 本書で論じましたように、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は差別行為です。本書の第一章で詳しく論じましたように、その差別行為にはどのような「正当性」も「自明性」もありません。人は「基本的人権」として法の下において「誰ひとり」として差別されない永久かつ絶対の権利をもっているからです。本書を手に取ってお読みくだった皆さまにおかれましては、どうぞよろしくお願い申し上げます。私たちは、そのような本当に差別のない社会を構築する新しい時代にさしかかっています。
 これだけの苦境を経験し、努力を続けてきた地域は、世界でもまれです。それだけに、水俣は、さらなる努力によって新しい形で発展していくものと思われ、そこには明るい未来が感じられます。




引用文献

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  1. George N. Edwards, "Two Cases of Poisoning by Mercuric Methide." St. Barth. Hosp. Reports, London, 1: 141-150(1865)
  2. George N. Edwards, "Note on the Termination of the Second case of Poisoning by Mercuric Methide." St. Barth. Hosp. Reports, London, 1: 144(1885), 2: 211-212(1866)
  3. Paul Hepp, "Ueber Quecksilberäthylverbindungen und über das Verhältniss der Quecksilberäthyl-zur Quecksilbervergiftung." Archiv fuer experimentalle Pathologie und Pharmakologie, 23: 91-128 (1887)
  4. 入口紀男『聖バーソロミュー病院 1865年の症候群』(自由塾 2016)
  5. J. A. Nieuwland & J. A. Magnire, "Reactions of Acetylene with Acidified Solutions of Mercury and Silver Salts." Journal of American Chemical Society 28 : 1025-1031(1906)
  6. Richard R. Vogt & Julius A. Nieuwland, "The Role of Mercury Salts in the Catalytic Transformation of Acetylene into Acetalydehyde and a New Commercial Process for the Manufacture of Paraldehyde." Journal of American Chemical Society 43: 2071-2081(1921)
  7. 内田 「アセチレンよりアセトアルデハイドを作る場合の水銀鹽の作用並にパラアルデハイドの製造方法」『工業化學雜誌』25: 980-981(1922)
  8. M Hunter, R. R. Bomford, & D. S. Russell, "Poisoning by Methylmercury Compounds." Quarterly J. Med. 9: 193–213(1940)
  9. 熊本大学「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」(1959)
  10. 熊本県衛生部『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』(1960)
  11. 入口紀男『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008)
  12. N. Irigchi, Minamata Bay, 1932, Nippon Hyoron Sha, Tokyo, 2012
  13. M. Kutscheroff, "Ueber eine neue Methode direkter Addition von Wasser (Hidratation) an die Kohlenwasserstoffe der Acetylenereihe." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft, 14: 1540-1542(1881)
  14. H. Zangger, "Erfahrungen üeber Quecksilververgiftungen." Archiv für Gewerbepathologie und Gewerbehygiene 1(4): 539–560(1930)
  15. Chemical News; Paris editor, 12: 276-277(1865), T. Phipson, 12: 289-290(1865)
  16. Chemical News; Chemicus (Anonymous), 13: 7(1866), A. W. Hofmann, 13: 7-8 (1866), T. Phipson, 13: 23 (1866), An Assistant (Anonymous) 13: 35(1866), A. W. Hofmann, 13: 35 (1866), T. Phipson, 13: 47 (1866), W. Odling, 13: 59(1866), A. Schwarz, 13: 59 (1866), E. Reichardt, 13: 59-60 (1866), W. Odling, 13: 84(1866)
  17. D. Hunter & D. Russell, "Focal Cerebral and Cerebellar Atrophy in a Human Subject due to Organic Mercury Compounds." J. Neurol. Neurosurg. Psychiat., 17: 235-241 (1954)
  18. W. F.Von Oettingen, POISONING - A Guide to Clinical Diagnosis and Treatment, W. B. Saunders, Philadelphia (1954)
  19. Angel Pentschew, "Intoxikationen." in O. Lubarsch, F. Henke and R. Rössle ed. "Handbuch der speziellen pathologeschen Anatomie und Histologie" 13(Part 2B): 1907-2502, Springer-Verlag, Berlin (1958)
  20. F. Steenhuisen & S.J. Wilson, "Development and application of an updated geospatial distribution model for gridding 2015 global mercury emissions." Atmospheric Environment 211: 138-150 (2019)
  21. 日本水産学会編『魚食と健康 - メチル水銀の生物影響』恒星社厚生閣, 2014
  22. A. Vo, M. Bank, J. Shine, and S. Edwards, "Temporal increase in organic mercury in an endangered pelagic seabird assessed by century-old museum specimens." Proceedings of the National Academy of Sciences 108(18): 7466-7471, 2011
  23. 魚類等のメチル及び総水銀濃度に関する調査研究(厚生労働省 2004)
  24. 農林水産省: 魚介類の暫定的規制値(昭和48年厚生省(当時)環境衛生局長通達)
  25. 入口善久『蘆花と水俣』(自由塾 2018)


メチル水銀中毒の年表

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西暦年(日本年号)日本のできごと世界のできごと
 1864年(元治元年) ロンドンの聖バーソロミュー病院医科大学でウルリッヒ 30歳がメチル水銀中毒に陥る。
 1865年(元治二年) ウルリッヒ死亡。

同大学でスロウパ 23歳メチル水銀中毒に陥る。

『聖バーソロミュー病院報告書』第一巻刊行。
 1866年(慶應元年) スロウパ死亡。

『聖バーソロミュー病院報告書』第二巻刊行。
 1887年(明治二十年) ドイツのヘップ『聖バーソロミュー病院報告書』のメチル水銀中毒に関する内容をドイツ語に翻訳して刊行。
 1887年(明治二十年) 米国ニューランドがアセトアルデヒド製造で有機水銀が副生されることを『米国化学会誌』に示唆。
 1916年(大正五年) ツァンガーがドイツのアセトアルデヒド工場で有機水銀中毒患者を発見し、廃液を地中に埋めさす。
 1921年(大正十年) 米国ニューランドがアセトアルデヒド製造で有機水銀が副生されることを『米国化学会誌』に発表。
 1922年(大正十一年)「工業化學雜誌」、ニューランドの1921年の論文を邦訳し「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接觸作用により反應は進行する」と報じる。

(このころまでにアセトアルデヒド工場が有機水銀の発生源となることが国内で周知となる)
 
 1927年(昭和二年)東京高等工業學校(現東京工業大学)附属図書館、ロンドンのメチル水銀中毒を論じる『化学ニュース』を収蔵。  
 1931年(昭和六年)熊本大学附属図書館、1887年のヘップの論文を収蔵。

(このころまでにロンドンの有機水銀中毒を国内の大学が知る)
 
 1932年(昭和七年)日本窒素、アセトアルデヒドを製造して有機水銀を水俣湾に流し始める。  
 1937年(昭和十二年)  イギリスの種子処理工場で 4名のメチル水銀中毒が発生。
 1940年(昭和十五年)水俣湾周辺で初期の患者が出始める。 ハンターとボンフォード、ラッセル 1937年のメチル水銀中毒の臨床所見を論文発表。1865年のロンドンのメチル水銀中毒を第一ページに具体的に記載。
 1947年(昭和二十二年)「日本国憲法」施行。  
 1952年(昭和二十七年)「世界人権宣言」を批准。 ハンターとラッセル 1937年のメチル水銀中毒患者の脳を解剖。局所委縮や細胞損壊などを発見。
 1954年(昭和二十九年)  ハンターとラッセル 1952年の解剖結果を論文発表。
 1956年(昭和三十一年)水俣保健所長・伊藤蓮雄「水俣市字月浦付近に発生せる小児奇病」を確認。  
 1957年(昭和三十二年)熊本大学「水俣病」という造語を学術論文に使い始める。  
 1958年(昭和三十三年)マスコミ「水俣病」という差別用語を使い始める。

(このころから、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現することによって水俣の人びとに対する、大規模な人権侵害が始まる)

西田栄一水俣工場長が熊本大学・鰐淵健之学長に、原因究明について政治問題化を示唆。
ペンチュウとラッセルが脳委縮・細胞欠損等の解剖所見を「ハンター・ラッセル症候群」と命名。
 1959年(昭和三十四年)解剖所見である「ハンター・ラッセル症候群」が生前の臨床所見として取り違えられ、以後国内で真正の患者を切り捨てるための道具と化す。

ロンドンのメチル水銀中毒のことが隠ぺいされる。
 
 2015年(平成二十七年)このころまでに北太平洋全域のメチル水銀濃度が水俣湾の初期の状態に近づく。
W.H.O.が「地名を病名に用いるべきでない」として指針を公表。




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水俣市街と天草諸島(矢筈岳より 2009年11月 撮影 入口善久)