聖バーソロミュー病院1865年の症候群
有機水銀中毒の発生は日本でも1932年には予見可能であった
入口紀男
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| A5版148頁 平成28年3月1日発行 3,400円+税
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◇ ◇ ◇ 以下内容一部紹介 ◇ ◇ ◇
目次
はじめに
第一章
メチル水銀と水俣
1.メチル水銀の発見(ロンドン1858年)
2.不知火海(しらぬいかい)沿岸の一寒村(水俣の歴史)
第二章
日本人はメチル水銀中毒をいつ知ったか
3.メチル水銀中毒の発見(ロンドン1865年)
4.メチル水銀中毒に関する知識はいつ日本に伝わったか(東京1927年 熊本1931年)
第三章
日本人は有機水銀の副生をいつ知ったか
5.水銀を用いたアセトアルデヒド製法の発明(聖ペテルスブルグ1881年)
6.有機水銀が副生する事実は最初にいつどこで知られたか(ミュンヘン1905年)
7.有機水銀が副生する事実はいつ日本に伝わったか(東京1906年)
第四章
有機水銀はなぜ流されたか
8.日本窒素創業してカーバイドを製造(水俣村1908年)
9.毒性に勝る利点はあったか(米国イリノイ州1920年)
10.有機水銀が副生する事実は日本でいつ周知となったか(東京1922年)
11. アセトアルデヒドの製造(水俣町1932年)
第五章
大学は地域社会を「知」によって守るべき責任をどこまで有するか
12.なぜヨーロッパでは工場廃液で有機水銀中毒が発生しなかったか
13.「ハンター・ラッセル症候群」は死後の解剖学上の症状である
14.「水俣病」(みなまたびょう)という言葉は、差別用語である
15.有機水銀中毒が発生することは1932年には予見可能であった
おわりに
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第二章
日本人はメチル水銀中毒をいつ知ったか
3.メチル水銀中毒の発見(ロンドン1865年)
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エドワード・フランクランド Sir Edward Frankland 1825-1899 聖バーソロミュー病院医科大学教授
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1852年(日本では嘉永 5年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。
1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれており、イギリス屈指の名門病院である。
1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [3]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。当時の日本は文久3年であり、德川家茂、新撰組、奇兵隊、薩英戦争の時代であった。
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聖バーソロミュー病院 (19世紀)
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ウィリアム・オッドリング William Odling 1829-1921
聖バーソロミュー病院医科大学教授
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フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。
聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で、3名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに 3名とも重篤な中毒症状に陥った。
その一人はカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。
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(左) 『聖バーソロミュー病院報告書』 第1巻表紙 (1865年) [4] (右) 『聖バーソロミュー病院報告書』 第2巻表紙 (1866年) [5]
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ウルリッヒは、同年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。フランクランドとオッドリング、ジェファーソンはメチル水銀中毒の発見者となった。そのころ日本は元治2年であった。
ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [4]。
二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、9か月目(1865年1月半ば)からのわずか 2週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その 1か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。
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『聖バーソロミュー病院報告書』 第1巻 第141頁 (部分)(1865年) カール・ウルリッヒ30歳の臨床記録
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スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [4] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [5] に詳しく報告されている。
もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。
『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4] と第2巻(1866年)[5] が、当時わが国に輸入された形跡はない。現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第1巻 [4]、第2巻 [5] のそれぞれをPDF化して無償で公開している。
聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第26巻11月号第548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間でも大きな反響(a very powerful sensation throughout Germany)をひき起こした。
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トーマス・フィプソン
Thomas L. Phipson 1833-1904
英国化学会フェロー 『コスモス』ロンドン特派員
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イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していたが、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、その『化学ニュース』第12巻(1865年)、第13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [6-7]。
『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第12巻第276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が11月30日に投稿したものであった。そこには、トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、「エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。
それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第12巻第289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、当時実験室の直接の監督責任はオッドリングにあったことになる。
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アウグスト・ホフマン August Wilhelm von Hofmann 1818-1892
ベルリン大学教授
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ベルリン大学教授アウグスト・ホフマンは、『化学ニュース』第13巻第7‐8頁(1866年1月5日刊行)の中で、そのオッドリングのための弁護を試みている。ホフマンは、メチル水銀を「真に並外れた毒性」(altogether exceptionally poisonous nature)をもつと指摘し、また、オッドリングはイギリスで最も優れた化学者の一人であると紹介した。また、メチル水銀がそれほどの毒性をもつことは誰にも知られていなかったと述べた。ドイツのホフマンは、以前、1845年から1864年まで約 20年間イギリスの王立化学大学教授としてロンドンに赴任しており、死亡したドイツ人ウルリッヒがメチル水銀の製造実験をはじめる 2、3日前に本人(ウルリッヒ)に会ったが、ウルリッヒはその毒性について何ら知らなかったと述べた。なお、王立化学大学に赴任していた時代に自らの助手であったバックトン(前出)はメチル水銀を発見し、かつバックトンは前年(1865年)オッドリングの妹メアリー(Mary Ann Odling)と結婚している。
一方、フィプソンは『化学ニュース』第13巻第23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無知(ignorance)の責任はないが、無視(negligence)の責任はあった」と述べている。 『化学ニュース』の編集者は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。
当時の『化学ニュース』は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
「大陸の科学」パリ特派員(匿名)11月30日寄稿
『化学ニュース』 第12巻 276頁 1865年12月8日発行
この寄稿を要約して申し述べるに、『コスモス』に掲載されたイギリス特派員(フィプソン)の記事について私がそもそも気に入らないのは、実名を隠さなくてもよかったのではないかということである。聖バーソロミュー病院で 2名の実験者の中毒が起きた。そのことについて率直に申し述べる。フィプソン博士は、フランクランド博士こそは意図的に一人の中毒死と一人の中毒を引き起こした、その責任者であると断定している。フィプソン博士は、それによってフランクランド博士にいわれのない中傷を加えている。その記事は、ここ(パリ)で大きな騒ぎをひき起こしている。中にはフィプソン博士に対してフランクランド博士を化学者として侮(あなど)っているのではないかとして笑止に思う人がいる。また、感情をむき出しにしているとして人間性を疑う人もいる。いうまでもないが、フランクランド博士が何年か前に聖バーソロミュー病院医科大学を去っていることは、ここ(パリ)でこそ知る人は少ないが、ロンドンでは化学者であれば誰でも知っている。したがって、フランクランド博士に責任はない。
フランクランド博士自身から直ぐに責任を否定する手紙が届いたが、(フランス語に翻訳する段階で間違いが起こり、)そのような中毒死の事実がなかったかのように翻訳されてしばらく情報が錯綜した。そのうちオッドリング博士から、中毒死はオッドリング博士の実験室で起きたのであって、フランクランド博士に責任はないという率直な手紙が届いた。したがって、フィプソン博士はこの責任をとって『コスモス』のロンドン特派員の仕事を辞任するのが最もふさわしいであろう。
思うにフィプソン博士の目的の一つは、ロンドンの実験室で働くことを希望する外国人労働者を排除することだったのではないかと思われる。フィプソン博士はドイツからの求職者だけではなく、戦争が起きたときに兵役を逃れて労働者が求職してこないようにしたかったのだろう。ドイツでは国内に人材や化学者が余っている。彼らはどこかで生活しなければならない。私がロンドンにいたころ外国人労働者はロンドンでは何不自由なく暮らしていた。外国人労働者はどちらかというと低く見られがちであるが、彼らもみな努力をしており、英国人と同じ給与が支払われていた。
フィプソン博士は科学の分野で評判を下げたであろうが、何か他の評判は得たはずである。その評判は彼のロンドンにおける立場を決してよくはしないだろうと私は想像している。そのことをここに申し述べてもう今回のことを私は忘れたいと思う。
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「コスモスとメチル水銀による中毒」 T. フィプソン12月9日寄稿 『化学ニュース』 第12巻第 289-290頁 1865年12月15日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
私は最近『コスモス』の記事として、聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた 2名の実験者 C. U.博士と T. S.氏の中毒について記事を載せました。あなたの『化学ニュース』のフランスの特派員は、最新号の中で、そのことについて事実とは驚くほど異なることを書いています。その特派員が、フランス語がよくできないからであるとは思えません。私は『コスモス』にいつも「英語」で投稿しているのですが、それにはこの悲しい出来ごとは、同病院の教授であったフランクランド博士の研究方針のもとで起きたと書いただけであります。(フランス語に翻訳される段階で起きた)記事の誤植はすぐに訂正されております。
敬具
T. L. フィプソン博士
化学会フェロー・『コスモス』の編集者(ロンドン)
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「若い化学者への言葉」 化学者 (匿名) & A. W. ホフマン 『化学ニュース』 第13巻 第7-8頁 1866年1月5日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
私はベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に掲載されたホフマン博士の以下の手紙を『化学ニュース』でも掲載していただくように懇願いたします。それはフィプソン博士が『コスモス』に投稿した、聖バーソロミュー病院のメチル水銀中毒に関するものです。フィプソン博士の記事は『コスモス』からドイツ国内で数紙(several journals)に転載されました。ドイツ国内では科学者の間においてだけではなく、一般民衆の間でも大きな騒ぎ(a powerful sensation)をひき起こしています。(ベルリン大学の) A. W. ホフマン教授はそれをおさめようと努力しています。『化学ニュース』の読者の多くは興味があると思われますので、ここに以下ホフマン博士の手紙(ドイツ語)を同封いたします。
敬具
化学者 (匿名)
* * *
拝啓
ドイツ国内のいくつかの新聞に「若い化学者への警告」と題してフィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に掲載した記事の内容が転載されております。
その警告は、2名の若い化学者に起きた悲しい運命の物語りに関するものです。その一人はマーブルグ大学を出たドイツ人の C. ウルリッヒ博士と、もう一人はイギリス人 T. スロウパ氏です。彼らはメチル水銀による中毒の犠牲者であり、それによって前者(ウルリッヒ)は死亡し、後者(スロウパ)は回復の望みもなく、今も病床に伏したままです。
彼ら若い 2名の悲しい運命は、イギリスとヨーロッパ大陸の科学者の間で深い同情をよび起こしております。私(ホフマン)は、その出来ごとが起きた当時ロンドンに住んでおりましたので、その出来ごとについては非常に残念に思う次第でありますが、特にウルリッヒ博士のことを私はここ数年にわたって存じておりまして、若い化学者として努力家でありかつ才能もあると評価しておりました。
ウルリッヒ博士については、彼がたずさわっていた実験は、その全般的な状況から、彼の職務でありました。その嘆かわしい出来ごとは、短い言葉で事実を申し述べるならば、その経過も結果も、この世界の化学史上全く前例がないということであります。
まず事実関係について申し上げます。フィプソン博士は、2名の若者がフランクランド博士の実験者であり、中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのだと断言しています。フィプソン博士は、フランクランド博士がその業績と人格において第一級の化学者であるにもかかわらず、フランクランド博士が卑劣にもその私利私欲のために 2名の実験者を危険にさらしたのだと何のためらいもなく告発しているのです。しかしながら、その重大な告発がなされた側のフランクランド博士は、実はその中毒とは関係していなかったというのが事実です。では、報告者(フィプソン博士)の自覚と信用はどうなっているのでしょうか? 2名の若者は、フランクランド博士の実験室ではなく、オッドリング博士の実験室で働いていました。中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのではなく、オッドリング博士の実験室で起きたのです。
フィプソン博士は、2名の若者の身に起きた不幸な出来ごとがフランクランド博士によって、また、彼らが働いていたフランクランド博士の実験室で起きたのであり、フランクランド博士は当然知っておくべき危険を知らなかったか、あるいは、知っていても当然払うべき注意を怠ったことによって起きたのだと述べています。これらの告発がフランクランド博士に向けられています。しかしながら、前記しましたように、2名の若者の仕事はオッドリング博士の実験室で行われていたのであります。
オッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったという非難につきまして、私(ホフマン)は、化学者の皆さまを相手に申しあげるだけではなく、多くの読者の皆さまに対して、オッドリング博士は英国で最も卓越した化学者の一人であると申し上げます。オッドリング博士は科学の広い分野について深い学識と総合的な研究によって現代化学の発展に実質的に貢献してきました。オッドリング博士が仮に水銀化合物の毒性についてよく知らず、注意深くとり扱うことに慣れていなかったと考えることはあまりにばかげていて一考に値しません。しかしながら、メチル水銀の仕事をしながらオッドリング博士にとって本当に知ることができなかったことは、また、今こうして執筆している私(ホフマン)にとりましても、あるいはおそらく一般の化学者にとりましても、本当に知ることができなかったことは、その水銀化合物そのもののもつ、真に並はずれた強い毒性であります。メチル水銀の発見者であるバックトン氏も、またオッドリング博士より前にメチル水銀をとり扱ったことのある化学者も、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはなく、危険を避けるために何らかの注意をしなければならないなどと言葉にしたこともありませんでした。
今回の悲劇的な出来ごとによってメチル水銀の恐るべき毒性が改めてわかったわけですが、その後の今となっては予めその高い毒性はその組成と物理的な性質から推測できていたなどと主張することはできるでしょう。そのような主張ができることを私は否定しませんが、今回の大惨事が起きないうちは、誰しもメチル水銀がそれほどの毒性をもつなど決して知る由もなかったという主張も、それと同じくらいに重要であります。
私(ホフマン)は、ウルリッヒ博士と、彼が病に倒れる 2、3日前に会いました。主にかの若者がとり組んできたメチル水銀の実験について話し合いました。ウルリッヒ博士は仕事の結果について大いに希望をもっていて、何らかの化学上の発見ができるかもしれないという期待をもって仕事をしているようでした。彼はメチル水銀の危険な性質については少しも知らなかったことが明らかです。また、(ウルリッヒ博士の言葉を聞いて)メチル水銀の危険な性質について私(ホフマン)の心を横切るものはいささかもありませんでした。彼がもし少しでも「何か」を知っていたなら、実験室を離れるときは彼の若い同僚(スロウパ)に真剣に警告を与えたでしょう。あるいはいつも話を交わしていたオッドリング博士にその「何か」を言っていたでしょう。彼はそのどちらもしなかったのです。彼は本当に何も知らなかったのです。ですから、もしオッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったとして非難がなされるのであれば、その非難は非難をする側にも同じように向けられるべきでしょう。
さりとて、今回の中毒死について正しい見解を申し述べるには、かの若者(ウルリッヒ)が個人として、科学の世界からも友だちからも、それほどの幻滅する経過であっという間に引き裂かれてしまった。そのことについて思いを致すことが重要であります。ウルリッヒ博士は、化学の分野で決して初心者ではありませんでした。彼は 30歳ほどでしたが、過去 10年間理学的・工学的な研究に専念していました。彼は化学の分野で経験が深く、どんな仕事でも十分にこなせました。彼は様ざまな研究を行い、最初の論文を1859年に発表しました。その後 10か月か 12か月間、私(ホフマン)の研究室でも仕事をしました。私(ホフマン)も、彼の知識と、能力と、注意深さには全幅の信用を置くものでありましたので、仮に今回のような嘆かわしい、およそすべての想定をはるかに超えた結果となるような仕事であっても、それを彼に任せるのに躊躇(ちゅうちょ)しなかったでしょう。
以上申し述べましたことにより、フィプソン博士の記事は部分的に偽(いつわ)りであり、かつ部分的に歪曲(わいきょく)されたものといえるでしょう。
また、そのことにより、フィプソン博士の若い化学者への警告については、私(ホフマン)は一考に値しないと考える次第です。私はイギリスへ行き、その首都に 20年間住みました。イギリスの化学実験室で働く同じ国(ドイツ)の若者の立場がどのようなものであるかを十分に理解する機会はあったつもりです。私(ホフマン)としては、フィプソン博士の警告は真に不当なものであり、根拠のないものであり、いささかも関心を向ける必要のないものと言わざるを得ません。私(ホフマン)は、フィプソン博士が悪意ではなく、当然知っておくべきことを知らないで、あるいは気まぐれでペンを滑らせただけであると信じておりますので、これ以上の手厳しい表現を控えます。しかし、フィプソン博士が自らを英国化学会フェローと称し、ロンドンに住んでおりながら、どうしてあのように、まるで同僚に対して嘘をつくのと同じくらいの重大な申し立てをする前に、なぜその出来ごとについて正確な情報を得ることができなかったのか、また、同僚である一般の化学者たちに対して不当で根拠のない申し立てをしてしまったのか、不可解でなりません。もっとも、フィプソン博士を、意図的に虚偽を申し立てたとして、また意図的に事実を歪曲し、意図的に同僚の化学者を虚偽告発したとして、仮に名誉毀損の疑いで告発したとしても、フィプソン博士は自らを有罪であるとは認めないでしょう。
あと一点付け加えて、私(ホフマン)のこの供述を終わります。私(ホフマン)はイギリスに長く住んでおりました。多くの若いドイツ人でロンドンやあるいは他の地方で実験室の仕事をしている人たちの大半と知り合いになりました。その若いドイツ人たちで何か不満を漏らす人はいませんでした。それとは逆に、誰もが最高に親切に受けいれられ、また、思いやりのある扱いを受けておりました。決められた協定は良心的に履行されておりました。ドイツの若者のイギリスにおける雇用主は誠実で友好的な人格者がほとんどであります。イギリスを生活の基盤とすることによってドイツの若者に与えられる様ざまな経験と、洞察力を培う機会は、それらを将来の人生に役立てることができます。彼らの多くはその後イギリスに残り、あるいは植民地へ行き、あるいは欧州大陸に戻り、科学界や産業界において重要な地位を占めております。
ドイツの若い化学者は、したがって、もしもロンドンの実験室に行く機会が与えられたならば、恐れることなくテームズ河畔(訳者注 聖バーソロミュー病院があるところ)に行きなさい。ドイツで学んだ化学がイギリスにおける生活と結びつくことによって、新しい知識と新しい動機付けの無尽蔵の宝庫が見つかるでしょう。イギリスの化学者と知り合いになることによって、彼らがきわめて立派で信頼できる人びとであり、偉大にして素晴らしいイギリス国民の美徳を顕現する人びとであることを知るでしょう。イギリス国民の中に屹立(きつりつ)するもの、それは真実を愛することであります。
敬具
A. W. ホフマン
ベルリン大学 1865年12月14日
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「ホフマン博士の手紙への回答」 T. フィプソン1月6日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第23頁 1866年1月12日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
『化学ニュース』の最新号にホフマン博士によって書かれた長い手紙と、「化学者」と名乗る人物がそれを紹介する記事が掲載されております。「化学者」は匿名のようですが、それが誰であるかの見当が私にはついております。
ホフマン博士の手紙に書かれております私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対してこの強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます。
第一に、私はウィリアム・オッドリング教授を「無知」(negligence)で告発しているのでありまして、「無視」(ignorance)で告発しているわけではありません(『コスモス』11月29日)。
第二に、『コスモス』第26巻で私が書いた記事のどこを見ましても、「同僚である一般の化学者」たちに対して「不当で根拠のない告発」をしている箇所などありません。
第三に、もしホフマン博士が『コスモス』の私の記事を直接読んでおられないのであれば、読んでからオッドリング博士を弁護しようとされるのがよいでしょう。
第四に、私の『コスモス』における役割はただの歴史家です。私が述べる事実が、すべての読者にはたとえ気に入らないものであっても、それは歴史上の事実であります。信頼すべき情報源から得られた公正で真実の内容のものです。それらが私の記事になっております。
敬具
T. L. フィプソン
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「メチル水銀中毒」 助手 (匿名) 『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
もしもあなたが編集者として聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた出来ごとを完全に報告されると、すべての論争は収まり、多くの意見や疑問も収まるのではないでしょうか。何らかの形で私がその報告書を作成したら受けいれてもらえるのでしょうか?それにはどうすればよいのでしょうか? 2名の患者に最初どのような形で中毒の症状が現れたのでしょうか?何らかの予防策は取られたのでしょうか?あるいは、症状が現れたとき仕事は中断されたのでしょうか?それらの点についていくつもの情報が錯綜しています。いくつもの事実が断片的に報道されています。歴史としての全体像が明らかになればすっきりと収まるのではないでしょうか?
敬具
助手 (匿名)
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「フィプソン博士への回答」 A. W. ホフマン 『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
フィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に投稿した記事がドイツでベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に転載され、それについて私(ホフマン)が同紙上で論評する内容の手紙が『化学ニュース』1月5日号で英訳されて掲載されました。今朝私は『化学ニュース』1月12日号を受け取りましたが、その中にフィプソン博士の手紙が掲載されており、フィプソン博士はその中で「ホフマン博士の手紙に書かれております、私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対して強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます」と書いています。
私は『コスモス』の読者ではありません。私がベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に投稿した手紙は、11月15日発行の『コスモス』に掲載されたフィプソン博士の手紙がドイツの新聞に翻訳されて転載されたものに対する論評でした。しかしながら、私は行きがかり上『コスモス』のフランス語の原文を自分で直接読むべきであったと考えるに至りました。そこで、直ちに『コスモス』の原文を取り寄せ、ベルリン・ニュースのドイツ語訳と比較して、正確な翻訳であることを確認しましたので、私(ホフマン)は自らすでに述べたことをただ一文たりとも撤回するつもりがないことを申し上げます。
すでにあなたは私の論評を『化学ニュース』の読者のために快く英訳して掲載されました。そこで、フィプソン博士の原文で私が参照したフランス語の箇所は以下のとおりですので、これを掲載していただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げます。『化学ニュース』の読者は、それによって自ら判断することができるでしょう。フィプソン博士は、『コスモス』の原文で以下のように記述しておられます。
過去のある時期、ドイツのリービッヒ、フランスのデュマ、ドイツのヴェーラー、ドイツのブンゼンなどの研究室からかなりの数の若い化学者がロンドンへやって来た。彼らの科学についての教育は多少の差はあれ完成しており、化学の仕事についての知識だけが彼らの身上である。彼ら若い化学者の大多数は化学を教える大学や病院の実験室の仕事で悲惨な目に遭っている。およそ 1,000~ 1,500フランの給料だけで身体と精神をつなぎとめ、教授の命令であえてしたくない仕事をしたり、どうすればよいかわからない仕事をしたりして、中毒になったり傷ついたりすることがなければそれは儲けものである。
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次はフィプソン博士がその結論を述べる上で供述している意見です。
自らが雇った実験者を殺すことは許されてよいのでしょうか?それはイギリスで学ぶためにやって来た若者たちです。将来彼らの時代になったらきっと専門家になりたいと思い、奴隷としての生涯を送りたいとは思わない若者たちです!
化学者のゲイ・リュサックやテナール、ハンフリー・デービーは、私利私欲のために自ら雇った実験者を殺したでしょうか?
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フィプソン博士が自ら述べる「歴史家としての役割」を果たしているのだという心構えは、フィプソン博士の記事の中でフランクランド博士の名前を紹介するやり方に次のように現れております。
フランクランド博士の名前を『コスモス』の読者は有機化合物を自ら「発見した」と称していくつかの記事を発表した人物としておそらくご存じでしょう。
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フィプソン博士が「発見した」とあえて括弧つきで強調しているのは、そっくりそのままフィプソン博士に当てはまるでしょう。
私は、以上より、改めて『化学ニュース』の読者にその判断を委ねるものです。
敬具
A. W. ホフマン
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「メチル水銀の毒性について」 T. フィプソン1月22日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第47頁 1866年1月26日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
ホフマン博士は『化学ニュース』の少し前の号でメチル水銀について「真に並はずれた強い毒性」と述べています。また、「メチル水銀をとり扱ったことのある化学者は、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはない」とも述べています。
さて、ホフマン博士が私に一つの仮定を許してくれるならば、故ウルリッヒ博士のような化学者がメチル水銀の製造に 3か月間専念したとします。そして 87パーセントもの水銀を有するそのような化合物で(特に気化した蒸気の状態で)毒性をもたない物質をただ一つでもあげることができたとします。それならば、ホフマン博士がメチル水銀について研究することを憂慮して「真に並はずれた強い毒性」と述べた表現を私(フィプソン)も受けいれることができるでしょう。
そのような物質をただ一つでもあげることはできないのですから(メチル水銀も例外ではないのですから)、心ある化学者は私(フィプソン)がホフマン博士とは見解が異なったとしても、私を許してくれるでしょう。
敬具
T. L. フィプソン博士・化学会フェロー
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「フィプソン博士についての再考」 W. オッドリング 1月30日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行
『化学ニュース』編集者 殿
拝啓 私が第一に残念に思いますのは、(イギリスなど)海外で暮らすドイツ人の心にひき起こされた誤った印象を修正するにあたって、まずホフマン博士ご自身がこのイギリスでフィプソン博士のような策略をもつ敵対者によって中傷を受けたことがないことです。私が第二に残念に思いますのは、フランクランド博士のご尊名が(フィプソン博士の『コスモス』の記事によって)傲慢にも傷つけられ、今回(『化学ニュース』でも)一言の謝罪もなくさらに傷つけられていることです。
私が疑問に思いますのは、なぜそのような(誠意も通じない)フィプソン博士による中傷に誰もが回答をしなければならないのでしょうか?実に疑問でありますのは、なぜ『コスモス』のよくぞ知られたロンドン特派員・編集者(フィプソン)は、自身が無残な信用失墜をしただけで、それ以上の責任を問われないのでしょうか?
(あれだけ虚偽を並べたのであれば)フィプソン博士は、教授ではないが「ロンドンの分析化学の教授」と名乗ればよかったでしょうに。フィプソン博士は、王立協会(Royal Society)の会員に選ばれなくて、心機一転、王立協会を相手に訴訟の準備にでも専念すればよかったでしょうに。フィプソン博士はいつも化学会フェロー(F. C. S.)と名乗っているが、一方で化学会から相手にされないのは「愚かな間違いだ」と宣言すればよいでしょうに。フィプソン博士がフランクランド博士と私(オッドリング)に対して、今回の中毒について当然知っておくべき危険を知らなかったと言うならば、そのきわめて不名誉な申し立てをフィプソン博士が編集する騎士道時代の雑誌(『コスモス』)にそのまま掲載して刊行すればよかったでしょうに。あるいは、その雑誌に我われが回答を投稿してもフィプソン博士とその手下によって掲載を拒絶するか、それとも下品に歪曲して刊行すればよかったでしょうに。フィプソン博士は、個人的な怒りを鎮めんがために、悲惨な、単にその事実だけで衝撃的な物語りを、悪意を以て誇張し、歪曲し、あるいは偽り伝えればよかったでしょうに。
さらに、フランクランド博士は時おり世界を魅了する素晴らしい発見をされますが、フィプソン博士がフランクランド博士の人格と業績を貧しいものとして茶化すのであれば、フィプソン博士はそれを超える素晴らしい発見をすればよいでしょう。たとえば、過マンガン酸塩と重クロム酸カリウムは同類だとか、安息香酸とサリシンの溶液からポプリンを製造できるとか、ガーネットは点火後に比重が増すとか、その他素晴らしい雌馬の巣などです。フィプソン博士は、真価を認めようとしない社会の気を引こうとして、化学者なら誰でも知っているリン酸塩を新しいものとしてばかげた分析をすればよいでしょうに。フィプソン博士は太陽のもとにあるものはすべて危険であるから誰それのトマトピューレは厳格に検査されたというような証明書を書いて自身の専門性を誇大広告すればよいでしょうに。
フィプソン博士がその行動に一点のやましさもなく、思いやりもあるというのであれば、完璧なフィプソン博士は彼に向けられた批判に対して痛ましく苦言を呈すればよいでしょう。なぜ多くの化学者はこれほど完全無欠なフィプソン博士の科学の分野におけるまた社会における性格を批判するのでしょうか?
敬具
ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年1月30日
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「メチル水銀とヨウ化カリ」 A. シュバルツ 1月20日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行
『化学ニュース』編集者 殿
私(シュバルツ)は最近『化学ニュース』で取り上げられているメチル水銀中毒についての記事を、関心をもって読んでおります。私は『コスモス』の記事も読みました。私は、フィプソン博士は出来ごとを明るみに出してくれたという点で社会的に貢献をしたのだと思います。私はためらうことなくそのように公言いたします。悲しい出来ごとが起きてからすでに 1年ほど経っていますが、もしもフィプソン博士が最近の『コスモス』で記事にしてくれなければ、誰もその出来ごとについて気がつくことはできなかったでしょう。おかげでイギリスでもまた海外でも、いずれの専門家も実験者もメチル水銀について十分に注意を払うことができるようになりました。それこそは公共の利益以外の何ものでもありません。
ホフマン博士は、『化学ニュース』で英訳された論評の中で、フィプソン博士を公正に評価していないことが明らかです。ホフマン博士の論評とフィプソン博士が実際に『コスモス』に書いた内容を比較して読んだ人なら誰でもそのことに気がつくだろうと私は思います。
水銀中毒の一般的な解毒剤としてメルセン博士はヨウ化カリを薦めましたが、それを用いた治療も今回の症例では効き目がないようでした。(ヨウ化カリを投与しても)体内でメチル水銀のヨウ化物が形成されるだけで、メチル水銀は体外に排除されず残ってしまうのかもしれません。解毒剤の効き目というものはそのように不完全です。他の水銀化合物の中毒に対してヨウ化カリを用いても効き目がないこともあり得るでしょう。なお、私は1849年にパリで水銀中毒の治療に「ベレッツのシロップ」を用いたことがありますのでご参考まで。
敬具
医師 A. シュバルツ
ハマースミス 1866年1月20日
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「ウルリッヒ博士の病状」 E. ライハルト 1月29日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第59-60頁 1866年2月2日発行
『化学ニュース』編集者 殿
ウルリッヒ博士の親友である私(ライハルト)の記事は、『化学ニュース』の読者に関心をもってお読みいただけるでしょう。
ウルリッヒ博士の悲しい死は、事故によるものであったと考えるべきでしょう。ウルリッヒ博士は1865年1月中旬に大量のメチル水銀を製造していましたが、メチル水銀原液の配管が壊れる事故が起きました。ウルリッヒ博士が言ったことですが、彼は何の注意を払うこともなく、メチル水銀の蒸気を大量に吸ったとのことでした。私は翌日彼に会いましたが、彼は元気がなく、不安そうで、錯乱した表情でした。私は彼にすぐに医者に診てもらうように言いました。しかし、2月1日に症状が悪化しました。2月2日に足どりが不安定になりました。質問にはゆっくりと、やっと答えることしかできませんでした。気は確かでした。彼は大変衰弱しているようでした。
オッドリング博士が心配され、尽力されて、私はウルリッヒ博士をすぐに病棟に収容することができました。
私が病室を離れるとき、彼はどっと涙を流して私にお礼を言いました。そのとき彼は、私と同様に、もう絶望的な状態であると感じとっていました。
ウルリッヒ博士は強くてしっかりとした体格でしたが、健康ではありませんでした。1863年と1864年に 3、4回発作を起こしています。彼には慢性的な脳障害があったのではないかと私は思います。
敬具
E. ライハルト
オックスフォード 1866年1月29日
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「以後この件に関しての記事は掲載を打ち切る」(『化学ニュース』 編集者)
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「フィプソン博士への回答」 W. オッドリング 2月13日寄稿 『化学ニュース』 第13巻 第84頁 1866年2月16日発行
『化学ニュース』編集者 殿
フィプソン博士は、よく表現しても策略が多い人であり、それは一生治らないのではないかと思います。私は、『コスモス』の編集者であるフィプソン博士がフランクランド博士に対して攻撃を加えたことについて、意見を『コスモス』に投稿しました。すると私の意見が『コスモス』の11月29日号に掲載されました。しかし、私の原稿はそのまま掲載されないで勝手に手を加えてありました。その後フィプソン博士は続けて私を攻撃したので、それに対する回答を『コスモス』に投稿しましたが、彼は掲載を拒絶しました。
私はフィプソン博士に次のことわざを贈ります。「一事が万事」
敬具
ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年2月13日
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「以後この件に関しての記事は本当に掲載を打ち切る」(『化学ニュース』 編集者)
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「ヘップ論文」 第1頁 [8]
『聖バーソロミュー病院報告書』を 5頁にわたって転載 脚注にその第1巻、第2巻を引用しているのが見える
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以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4]、 第2巻(1866年)[5]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] によって、ヨーロッパでは周知となった。そのころの日本は慶應 2年であった。
メチル水銀中毒に関する知識は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約20年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。
4.メチル水銀中毒に関する知識はいつ日本に伝わったか(東京1927年 熊本1931年)
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『化学ニュース』 第11-12巻 中表紙(1865年) 東京工業大学附属図書館所蔵
「昭和2年3月24日購入」の刻印が見える
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東京工業大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[6] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。
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| (左) 『実験的病理学薬理学叢書』 第23巻 中表紙 (1887年)[8]
(右) 同中表紙裏面「熊本醫科大學圖書館 (昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印が見える
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熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。
昭和6年は1931年。ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[8] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [4]、第2巻 [5] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』 第23巻 第91-128頁)の第113-117頁
有機水銀中毒の二つの著名な症例についてここで確認しておくことは意義深いことである。すなわち、エドワーズ博士の『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻及び第2巻に記載された、イギリスの化学実験者 2名の臨床記録を以下抜粋してドイツ語に翻訳して紹介する。
第1例 C. U. 30歳。
栄養状態も体格もよい。1865年2月3日に病院に収容された。ドイツ人であるが、イギリスに5年間住んでいた。聖バーソロミュー病院の実験室で仕事をしていた。
子どものころてんかんを病んでいたが、6年前までは梅毒を除いて健康であった。6年前にてんかんの発作が 1回起こり、3年前に短い間隔で 2回の発作が起きた。それ以来発作は起きていなかった。過去 3か月間メチル水銀の製造実験を行い、その間、視力の衰えを訴えていた。検視鏡で診た限り異常はなかった。1か月前に再び発作が起きた。2時間意識不明が続いて自宅へ搬送された。2日後に仕事に復帰できたが、そのころから言葉が不明瞭となり、全身の健康状態が以前より低下した。2日前に両手にしびれを感じた。耳がよく聞こえなくなり、全身の衰弱を覚えた。歯茎が痛んだ。これらの症状が入院するまでに悪化していた。
病棟に収容されて(1865年2月3日)昏睡に陥る傾向があった。瞳孔はやや拡大。皮膚は熱く乾燥ぎみ。脈拍 86。血圧低め。舌は湿っており、食欲は減退していた。喉の渇きはなかった。便秘ぎみ。尿はややたんぱくがあり、沈殿が見られた。
収容前夜の寝つきは悪かったが、立ち歩くことはなかった。全身の衰弱を訴え、自分で立つことができなかった。本人は両足にひどい寒気を訴えたが、他人が両足を触っても冷たくなかった。両手両足は、ゆっくりとかつ不器用にしか動かせなくなっていた。ただ、両手両足の感覚がなくなっていたわけではない。声は不明瞭であった。耳はよく聞こえなかった。頭痛はなかった。歯茎はやや腫れて、押すと痛んだ。
翌日耳はさらに聞こえなくなった。両手の力もなくなった。2月5日には話しかけても理解できなくなった。尿中にたんぱく質と皮質成分が多く見られた。
2月6日指は不自然な形で押し縮められ、また、伸ばされていた。夜は眠れなかった。白痴のようであり、眠っているようでもあった。耳はさらに聞こえず、2月7日には質問にすべて「はい」としか答えられない。2月8日話しかけられても明らかに応答しない。呼吸は荒く、息に明確な水銀臭があるように思われた。脈は弱く、舌には苔がある。歯肉は海綿状に腫れている。8日夜から 9日にかけて暴れるので両手をベッドに縛らざるを得なかった。7日以来便通がなく、ベッドで悪臭強い尿を失禁した。
支離滅裂につぶやき、食べものは拒絶する。飲みものを無理に与えようとすると抵抗して怒り狂った。
2月10日 夜間再び狂騒に襲われたが、今朝になるとしばらく静かで昏睡状態にあった。時おり急に起き上がって支離滅裂に叫び声をあげる。体はよく動かしているように見えた。また、左右に麻痺はないようにも見えた。表情は空虚である。瞳孔は開いている。吐息臭と体臭がひどい。狂騒が激しく、他の患者の邪魔にならないように、離れた部屋に移した。
2月11日 昨日よりやや静かである。しばしば起き上がろうとする。支離滅裂な叫び声を頻繁にあげる。呼吸が不自然であり、2、3秒完全に止まったかと思うと再開していびきの様になり、「チェーン・ストークス呼吸」かと思われる。起き上がろうとするとき、空虚に自分を見つめる。左側を動かせない。左の手首はやや硬直している。左の膝は完全に硬直していて動かせない。外から相当な力を加えるとやや曲がる。
2月12日 表情は青白く沈んでいる。目はうるんでいるが、半ば開いている。口も半開きである。明らかに衰弱しており、動きも少ないが時おりうめき声をあげる。左足に感覚はないようであり、動かせない。硬直して伸びており、足は膝までやや内側に曲がっている。左手の感覚もないようである。
2月13日 いびきのような呼吸。左脚にやや反射運動。その状態のまま推移して、2月14日朝11:30に死亡した。
死亡後 18時間経って解剖が行われた。左右の瞳孔の開きが異なっていた。頭皮は固く、硬膜は表面が充血していた。軟膜と灰白質はひどく充血していた。軟膜は特に左側に無数の白斑があった。腎臓と肝臓が充血していた。
第2例 T. S. 23歳。
1865年3月25日に収容された。ダルストンに住んでおり、過去 12か月間聖バーソロミュー病院で実験の仕事をしていた。最後の 4か月間は気分が勝れなかった。この 1月に約 14日間メチル水銀の製造に従事した。そのとき以外に水銀化合物には触れたことはなかった。最初の患者(C. U. 30歳)が発症したころ(2月初め)、自らも衰弱を覚えた。歯茎が痛く、歯が抜けた。目がよく見えなくなった。目は赤く、痛みがあった。めまいがあり、吐き気があった。吐物は緑がかっており、水分が多かった。14日経って目はやや回復した。今月(3月)初めになって再び目がよく見えなくなった。文字がよく読めなくなった。体力がすっかりなくなり、歩くこともできなくなって仕事を辞めた。味がわからなくなり、食べものはみな同じ味がした。舌は麻痺していた。歯茎には痛みがあった。頻繁に唾を吐いて口を拭いた。(入院の)2、3日前に舌のしびれはなくなった。1週間前には耳がほとんど聞こえなくなっていた。また、両手は麻痺していた。3、4日前からは両足も麻痺している。5日前に浣腸を処方して後に気を失い、約20分間意識不明であったが、よいいびきはかいていた。体力は日に日に衰弱している。
患者は見事に育った体格である。表情がやや落ち込んでいるが、本人は身体に何が起きているかを意識しているようである。頬にはやや赤みがあるが、時おり青白くなる。目の周りが暗い。虹彩は拡張しているが、左右とも光に反応する。結膜がやや赤い。強膜はやや黄色い。まぶた落ちや斜視はない。呼吸は正常(20)。皮膚は温感があって乾いているが、手足は冷たい。脈(60)は正常で、かなりの流量がある。唇は乾いている。歯茎はやや腫れていて白い。舌は正常であり、湿っていて、舌尖背部は白い苔でおおわれている。吐息は臭く、それは最初の患者(C. U. 30歳)の症例を思い起こすものである。食欲は、少しはある。のどの渇きが強かったが今はそうでもない。20日から便通がない。尿量は正常で、やや淡白。比重 1.011でたんぱくはない。頭痛や身体の痛み、目まいはない。口の中がいやな味がするといい、真ちゅうを舐めているようだという。体表面に赤発はない。腹部は膨らんでいない。唾液腺は拡張していない。括約筋は正常に機能する。目がやや見えにくいが、それは両眼で起きている。聴力は完全に消失している。耳の近くで、大声で叫んでも聞こえない。発声の機能、味覚、嗅覚も深刻に失われている。手足に触れるとわかるようであるが、触感覚もかなり失われている。足は冷たいが、本人は熱く感じているようである。四肢は動くが、ゆっくりとしか動かせない。ものをよくつかめない。手を結ぶのに時間がかかる。両手の状態に差異はない。つま先は硬直していない。入院するとき、歩くのに両足を引きずったという。
3月26日 耳が全く聞こえない。紙に書かれた質問には正確に答えるが、質問はよく見えていないようであり、発音も不明瞭である。
3月29日 手を自ら望む位置にもって行けない。ものをつかむことはできるがきわめて不完全である。
4月3日 知能が低下しているようである。よだれを垂らす。3月31日以来便通がない。排尿を行うことはできた。睡眠も食事もできている。
4月7日 ここ 2、3日ベッドの上で座るのに支えがないとできない。今日は支えがあっても座ることができない。ものを飲み込むことが困難である。
4月10日 耳が聞こえず、しゃべることができない。視力と味覚はあるようである。両手両足の感覚と動きは衰えている。手を自ら望む位置にもって行けない。
4月12日 尿を失禁した。
4月24日 症状は悪化しており痩せている。皮膚にやや黄疸がみられる。腕を目的もなく動かし、白痴のようである。ものをつかむ力がない。つま先はさらに硬直している。足はよく動かせない。四肢の感覚は喪失しているようで動きがなくなっている。食欲はあるがものを飲み込むことがさらに困難になっている。皮膚は時としてまた場所によって冷たい。脈は68で流量もある。舌を出すことができない。便通はある。尿を失禁し続ける。尿は比重 1.017でアルカリ性。たんぱくはない。三リン酸塩結晶が見られる。
4月27日 この2日間狂騒状態にある。時おり暴れて叫び声をあげる。白痴のように大声で泣く。あるいは笑う。時おりベッドから出ようとする。そのあと静かにしている。両脚はベッドに結びつけてある。足に触れると、もがいて大暴れする。依然として耳は聞こえない。意識はある。頻繁にしゃべろうとする。最初の患者(C. U. 30歳)の動きと非常によく似ている。
5月12日 衰弱して痩せている。ものを飲み込めず、食べものを拒絶する。表情が白痴のようである。時おり周囲の人びとを認識するようである。暴れる。特に足に触れると大暴れする。しゃべろうとして支離滅裂な発音をする。この 2、3日両眼の結膜に粘膜化膿性の炎症がある。吐息は悪臭がある。歯茎はやや膨らんで腫れている。便と尿を失禁する。仙骨の外側の皮膚は赤いが傷はない。
6月4日 誰をも認識しない。暴れ方は少ないが、頻繁に四肢を激しく投げつける動きをする。支離滅裂に泣いたり、笑ったり、吠えたりする。結膜の炎症はやや収まった。
7月4日 以前と変わりはない。やや食欲があり、体重はやや回復している。白痴のようであることには変わりない。誰をも認識しない。耳が聞こえず、言葉もしゃべることができない。つぶやき、叫び、笑い、頻繁に暴れる。四肢を発作的に動かす。昼夜昏睡と狂騒をくり返す。便秘がある。便と尿を失禁する。
患者は1866年4月7日に死亡した。その 2、3日前までおよそこれまで記録した状態であった。直接の死因は肺炎であった。それまで時おり一時的には改善が見られたが、いつも悪化した。全体として回復することはなかった。
死後40時間経って解剖が行われた。
非常にやせ衰えていた。貧血症であった。虹彩の拡大が左右で異なっていた。
くも膜の層で脳のしわがきわめて深い。脳脊髄液の量は正常。灰白質にやや赤みがある。脳全体のくも膜がややくすんでいる。脳と脊髄の重量は 41オンスであった。
肺炎の症状を除いて、胃が大きく拡張していた。小腸は充血していた。腎臓は、髄質の血管が錯綜しており腎皮質の体積が増大していた。充血斑が見られた。腎盂と腎杯に充血が見られた。
以上二つの症例のうち、特に第二の患者(S. T. 23歳)は症状が純粋にメチル水銀のものであると思われる。第一の患者(C. U. 30歳)にはてんかんと梅毒があったからである。ただし、メチル水銀に短い期間でも触れると、長い潜伏期間を経て劇症化する点では、二つの症例は共通していた。初めは、気分の落ち込みと無気力、全身の衰弱、目まい、食の衰え、視覚の異常が長く続く。続いて突然、中枢神経が激しく影響を受ける。発作の形で認知障害が起きる。感覚が激しく侵され、特に聴覚に異常が起きる。また、独特の震えが襲う。
(以下略)
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ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状は水俣市でその後見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。
現在この「ヘップ論文」[8] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。
以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] 及びドイツのヘップ論文を載せる『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)[8] によって、日本国内では遅くとも1927年までには公知となり、たとえば後者 [8] は、熊本大学附属図書館には1931年3月30日に収蔵された(当時は熊本醫科大學圖書館が購入)。
熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流しはじめたのは、それより後の1932年(昭和7年)5月7日(土曜)である。
水俣灣沿岸でメチル水銀中毒の患者が出はじめたのは戦前の1935年(昭和10年)ごろであった。
では、日本人は、アセトアルデヒドを製造するとき有機水銀が副生して廃液の中に含まれていることをいつ知ったのであろうか。
第三章
日本人は有機水銀が副生する事実をいつ知ったか
省略
第四章
有機水銀はなぜ流されたか
省略
第五章
大学は地域社会を「知」によって守るべき責任をどこまで有するか
12.省略
13.「ハンター・ラッセル症候群」は死後の解剖学上の症状である
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「ハンターとボンフォード、ラッセルの論文」 (部分)
『医学四半期報』 第9巻 第193頁
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1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀中毒の重篤な 4例が発生した。D. ハンター、R. ボンフォード、D. ラッセルの 3名はその 4症例について、1940年に『医学四半期報』の中で「メチル水銀化合物による中毒」と題して論文 [18] を発表した。
ハンター等 3名は、その第 1頁に『聖バーソロミュー病院報告書』 [4-5] の内容を改めて具体的に紹介した。また、ヘップ論文 [8] を紹介した。その上で重症の 4例に共通して運動失調、構音障害(dysarthria)、視野狭窄の症状があると報告した。(構音障害 dysarthria ディサースリアは英語。ドイツ語では Dysarthrie ディサートリイ)
ただし、ハンター等 3名は「三主徴」(さんしゅちょう trias)という言葉を用いなかった。その理由は、メチル水銀中毒で重篤な場合には運動失調、構音障害(dysarthria)、視野狭窄が発現するが、仮にそれらに対して「三主徴」(trias)という術語を与えてしまうと、メチル水銀中毒によってあたかもそれら三つの症状が必然的に発現するかのように誤解を与える。あるいは、あたかもそれら三つの症状が他の症状よりきわ立っているかのように誤解を与える論文となってしまうからである。
ハンター等 3名の上記論文 [18] の最初の頁を紹介する。
ハンターとボンフォード、ラッセル『医学四半期報』 第9巻 (1940年) [18] 最初の頁(抄訳)
水銀の有機化合物は最初1863年に化学の研究に用いられ、1887年に治療に用いられ、1914年に種子処理剤の製造に用いられた。水銀の低分子量の炭水化合物はきわめて有毒であることがわかってきた。有機水銀の中で人体に有毒として記録に残るのはメチル水銀だけである。
フランクランドとドゥパは聖バーソロミュー病院において金属あるいは金属化合物の原子価を決定するのにジメチル水銀を用いた(E. Frankland & B. F. Duppa, 1863)[3]。そのとき実験に関与していた 2名の技術者が中毒となり死亡した(George N. Edwards, 1865, 1866)[5]。その一人は 30歳のドイツ人であったが、ジメチル水銀を 3か月間とり扱っていた。患者は両手のしびれ、難聴、視覚障害、歯茎の痛みを訴えた。動きがゆっくりと鈍くなり、足どりは不安定になった。支えがないと立てなくなった。神経が麻痺(まひ)していたわけではなく、眼底も正常であった。1週間足らずで劇症化し、激しくふるえ、質問にも答えられなくなった。尿を失禁し、昏睡をくり返した。劇症化して2週間で死亡した。
もう一人の患者 23歳は、実験室に 12か月間勤務していたが、ジメチル水銀をとり扱ったのは 3か月前の 2週間だけであった。そして 1か月ほどたって歯茎の痛み、よだれ、両足・両手と舌のしびれ、難聴、視覚障害を訴えはじめた。質問にはゆっくりとしか答えられず、しゃべろうとしても不明瞭であった。運動障害が生じたが、上肢は衰弱していなかった。3週間たつとものを飲み込めなくなった。しゃべることもできなくなり、糞尿を失禁するようになった。しばしばふるえて暴れた。錯乱状態のまま、発症後 12か月後に、直接には肺炎で死亡した。第 3番目の患者は最初の 2名の症状とよく似ていたが、やや軽く、やがて回復した。これらの中毒は化学者の間で世代から世代へと語りつがれた。
1887年にヘップはジエチル水銀を梅毒の治療のために皮下注射に用いた(Paul Hepp, 1887)[8]。ジエチル水銀の1パーセント溶液を 0.1~1.0 CC の範囲で用いた。一人の患者には 2回までしか投与しなかった。なぜなら、一方で動物実験を行った結果きわめて有毒であることが示唆されたからである。
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ハンター等 3名は、種子処理工場で起きたメチル水銀中毒の症状は、聖バーソロミュー病院で1865年に見出されたメチル水銀中毒の症状と幾つかの点で同じであると述べている("The illness of these men was in some ways comparable to that of the two technicians who died at St. Bartholomew's Hospital.")[18]。
上記ハンター等 3名の論文の冒頭にある「1863年に化学の研究に用いられ」とはフランクランド等による原子価決定のための研究 [3] のことである。「1887年に治療に用いられ」とはヘップによる梅毒の治験(猛毒のため失敗) [8] のことである。「1914年に種子処理剤の製造に用いられ」とは、ドイツで開発され、その後バイエル社より発売された穀物種子のカビ防止剤「ウスプルン」(商品名)のことである。
ハンター等 3名の論文で報告された 4名の患者のうちの一人が、発症後 15年経って1952年12月14日に肺炎で死亡した。その 22時間後に剖検が行われた。大小脳の局所萎縮(きょくしょいしゅく)、顆粒細胞層(かりゅうさいぼうそう)の喪失(そうしつ)などが見られた。ハンターとラッセルはその解剖学上の所見について「有機水銀化合物によるヒトの大小脳の局所委縮」と題して論文(1954年)を発表した [19]。
前記ハンター等の二つの論文 [18-19] は定期刊行物であり、当時東京大学附属図書館など国内の20以上の図書館で逐次購入され、収蔵された。
1956年5月1日に水俣市で「奇病」が確認されると、8月14日に「水俣市奇病対策委員会」は熊本大学医学部に原因究明を依頼した。8月24日に熊本大学医学部において、内科、小児科、病理、微生物、公衆衛生の各教室からなる「医学部水俣奇病研究班」が組織され、衛生学教室も加わった。
当時、熊本大学の研究班は教室ごとに研究を行い、それぞれが原因物質解明の一番乗りを競うものであったことが知られている。
1957年に熊本大学の内科学の徳臣晴比古(とくおみはるひこ)助教授は、東京に出張したとき、日本橋の本屋で米国の エッティンゲン(Wolfgang Felix von Oettingen)が著した『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [20] を購入した。その本の中に視野狭窄、運動失調などをもたらす中毒として、ハンター等3名の論文 [18] が引用されていることを知り、有機水銀に疑いをもった。徳臣助教授は東京大学からハンター等3名による論文 [18] を取り寄せた。また、それに関連して後にハンターとラッセルの論文 [19] を取り寄せた。しかし、徳臣助教授は、有機水銀に確信をもつには至らなかった。
1958年10月21日に新日本窒素の西田栄一水俣工場長は熊本大学に鰐淵健之(わにぶちけんし)学長を訪ね、熊本大学が「奇病」の原因を究明していることに対して、文部省当局が「政治問題化」することを懸念している(ので究明をやめろ)と申し入れた。
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ハンターとラッセルの論文 (1954年) [19] 組織所見例 小脳切片の顕微鏡写真 (120倍)
有機水銀による小脳皮質の委縮。顆粒細胞の消失などを指摘
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ドイツ・ベルリンのシュプリンガー・フェアラーク社(Springer-Verlag)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて『病理学的解剖学及び組織学各論ハンドブック』 (Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie)を刊行した。ハンドブックといっても 10巻以上ある。また、それぞれの巻が幾冊かの号に分かれている。当時ドイツ語で書かれたそのハンドブックは病理学的解剖学及び組織学の分野の世界的な大著であった。
ブルガリア国ソフィア市の A. ペンチュウ博士(Herr Professor Dr. Angel Pentschew)は、前記ハンドブックの第13巻として1958年に出版された『中枢神経障害』(Erkrankungen des zentralen Nervensystems)の「2B号」という分冊の『中毒』(Intoxikationen) の章を執筆した[21]。
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A. ペンチュウ 『中毒』 (Intoxikationen) 第1頁 (1958年)
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筆者(入口紀男)は熊本大学附属図書館に所蔵されているその 2B号を読んだが、製本されたその一分冊(2B号)だけでも、両手でかかえてずっしりと重い。その中で A. ペンチュウの『中毒』の章は約 600頁の分量がある。果たしてこの本は、附属図書館に収蔵されてからいったいどれだけの人に読まれたのであろうか。
ペンチュウは、『中毒』の章を執筆したときは、ブルガリアから米国ワシントン市に移住していた。ペンチュウは、「水銀中毒」(Quecksilbervergiftung)の段の中に、前記ハンター、ボンフォード、ラッセル 3名の1940年の論文 [18] と、ハンターとラッセル 2名の1954年の論文 [19] を引用して紹介した。
ペンチュウは、その中で、ドロシー・ラッセル教授と個人的に相談した上で(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel [21])、死後の解剖によって発見された、メチル水銀による大小脳の局所萎縮、顆粒細胞層の破壊などの病理学上の「組織所見」について「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名すると記述した [21]。
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ドロシー S. ラッセル教授 Dorothy S. Russell 1895-1983
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1958年に熊本大学の病理学の武内忠男(たけうちただお)教授は、ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[21] の刊行を広告で知り、それをドイツから取り寄せた。武内教授は、その中に、ハンター等 3名の1940年の論文 [18] が紹介され、イギリスの種子処理工場で起きた4例の重篤な患者に運動失調と視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)の症状が共通してあったと記述されていることに着目した。また、ハンターとラッセルの1954年の論文 [19] から転載された病理所見(剖検の記録)が、水俣市から送られて劇症で死亡した患者の脳の病理所見(局所大小脳萎縮、顆粒細胞層破壊など)と共通していることに着目した。また、「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)という何らかの症候群名が書かれていることに着目した。
メチル水銀中毒では、重症であれ、比較的軽症であれ、生前に感覚障害が発現することが多いが、当時、感覚障害は小脳性失調、視野狭窄などと比較してそれほど重要視されていなかった。重症すぎて感覚障害の確認も不能だったのかもしれない。病理学者である武内教授の手に渡されたものは、重症で死亡した患者の生前のカルテと遺体であった。
当時は大学の医学部においても、診療は、まず患者が医師を訪問し、つぎに医師がその患者を診療するという時代であった。「訪問なくして診療なし」であった。水俣市の現地には感覚の鈍り(感覚障害)などを訴える多数の患者がいたが、逆に大学のほうから現地に出向いてフィールドワークを行うなど、科学的な検証が行われることは必ずしも一般的ではなかった。武内教授が描いた病像は、実態とは異なっていた。
1959年7月22日に熊本大学の研究者は医学部講堂で「水俣病研究報告会」を開き、「水俣病の原因物質はある種の水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と発表した。その発表の内容は1959年8月20日に「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」[22] として刊行された。その中で武内教授は次のように述べている。
病理学的研究からみた水俣病の原因に関する考察 [22] (部分)
医学部第二病理学教室 武内忠男(昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨)
水俣病の主要症状の内、私どもはかねてから三主徴ないし五主徴を挙げてみることを提案したが、三主徴を失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ、構音障害)、五主徴をその三主徴に加うるに宮川教授の言う荒廃(広義)と末梢神経症状とを挙げてみている。これらの症状を凡(すべ)て具備する中毒性疾患は文献上ほとんど認められない程で、僅かに有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrieがあるのみである。
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武内忠男教授は、前記のとおり「有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)がある」と述べた。これが、わが国で「ハンター・ラッセル症候群」という呼称が一般に用いられるようになった原点である。しかしながら、A. ペンチュウ博士の『中毒』(Intoxikationen)[21] の中にそのような記述はない。
ところで、武内忠男教授は、A. ペンチュウについて「米国NIHの神経病理学者である」と紹介した記録が残っている。しかし、A. ペンチュウが NIHに在籍していた事実はない。NIH (National Institutes of Health)は、米国ワシントン市の近くにある国立の研究所である。医学の分野では米国で最も古く、また世界最先端の研究所の一つである。A. ペンチュウは、『中毒』(Intoxikationen)[21] を執筆したころ、ワシントン市内の軍事病理学研究所(Armed Forces Institute of Phathology)に所属していた。
下記に、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)の章 [21] を邦訳して掲載する。
エンジェル・ペンチュウ 『中毒』 第2013頁(1958年)[21] (抄訳)
アルキル水銀化合物ではテトラエチル鉛に似た特殊な毒性が確認されており、揮発性のジメチル水銀とジエチル水銀(Frankland and Duppa 1863 [3]、Balogh 1875)で、劇症の神経障害が最初に起きている(George N. Edwards, 1866)[5]、(P. Hepp, 1887) [8]。
有機水銀化合物による最初の中毒は、2名の実験技術者がジメチル水銀を製造していたときに中枢神経の症状として起こり、最初の患者は発症して 2週間後に死亡し、2番目の患者は 1年後に死亡した(Edwards [4-5])。その症候群(Syndrom)は、2例とも共通して、四肢のしびれ、視覚傷害と聴覚傷害、四肢の運動失調からなっていた。2番目の患者は、ものを飲み込めず、言語障害があり、失禁し、しばしば狂騒して暴れた。錯乱の中で 1年後に肺炎で死亡した。メチル水銀中毒の他の症例については、ハンターとボンフォード、ラッセルの1940年の論文 [18]、ヘルナー(Herner)の1945年の論文、英国の工場監視官の1945年の報告書、アールマーク(Ahlmark)の1948年の論文、アールマークとアールベルグ(Ahlberg)の1949年の論文、ラングレン(Landgren)とスウェンソン(Swensson)の1949年の論文などを見よ。
エンジェル・ペンチュウ 『中毒』 第2014-2015頁(1958年)[21] (抄訳) 神経系の形態学的所見(脳)
ジメチル水銀中毒のまま 15年後に死亡した患者の解剖学上の所見が最近ハンターとラッセルによって、報告されている(1954)[19]。その患者は、1940年にハンターとボンフォード、ラッセルによって報告された 4症例のうちの 1例であり、4名とも同様な症状をもっていた。すなわち、「運動失調」、「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)、「視野狭窄」である。記憶傷害と知的傷害はない。
脳の前頭葉に対称的な軽い委縮があり、後頭葉中間部は鳥距野で深刻な萎縮がある。髄膜と上衣間の組織の厚さは部分的に 0.4センチに減じている。後角はかなり拡張している。小脳の主溝の後ろ両側葉に溝の深さほどの対称的な大きな委縮があり、小脳虫部は山腹と山頂の作動性部位で同様な委縮がある。
顕微鏡観察では、視覚皮質が両半球で大きく委縮していた。ここではニューロンの喪失が著しく、その程度も部位によって異なっている。失われていないニューロンも小さく縮小している。老衰斑や神経原線維の変化は見られない。小脳皮質の顆粒層は細胞損失が著しく、一方、プルキンエ細胞は比較的正常に保持されている。プルキンエ細胞層のグリア細胞の増殖には狭い分子層の神経膠症を伴っている。最も顕著であるのは皺の深さである。プルキンエ細胞のニッスル小体は正常には見えるが奇妙である。分子層では異様に高密度であり、主なデンドライトは向きが変わっており、あるいは皮質の深い方へ向いている。デンドライトは乱雑に配置されており、無数の星状体が見える。
小脳組織とつながる脊髄後索に異常は見られないので、運動失調は小脳皮質の顆粒層破壊に伴う委縮によるものである(G. Ure, Dtsch Z. Nervenheilk. 168:195-206, 1952)。視野狭窄は視覚野の委縮によるものである。
ハンターとボンフォード、ラッセルによって1940年に報告された 4名の患者のうちの第 2番目について(死後の)解剖学上の所見が発見されたので、私(A・ペンチュウ)は、ドロシー・ラッセル教授とも個人的に相談したが(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel)、これらの特殊な症状について「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名することを提案する。
興味深いことに、この症候群は、ヘップが1887年に行った犬と猫を用いた動物実験の(解剖学上の)所見と一致する(Hepp, 1887 [8])。
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上記のとおり、A. ペンチュウ博士が命名した「ハンター・ラッセル症候群」は、死後の病理学的な「解剖学上の所見」である。
A. ペンチュウとしては、症候群名に「ハンター」と「ラッセル」の名前を冠するにはハンター博士とラッセル教授の承認が必要であった。一方、ラッセル教授としては、仮に生前の症状に自分の名前を冠することは、ややもすると科学史における先人の努力と犠牲(聖バーソロミュー病院におけるメチル水銀中毒の発見の歴史)をないがしろにすることになる。それが、ペンチュウ博士がラッセル教授に相談した理由である。
現代においては、生前であっても磁気共鳴断層影像法(MRI)などによって脳の委縮などの解剖学上の所見をある程度得ることができる。それでも、生前の臨床学上の症状を「ハンター・ラッセル症候群」とよぶことは、命名者であるペンチュウ博士とラッセル教授の意に反する。
A. ペンチュウは、ロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒について、その主な症状として四肢のしびれと、視覚障害、聴覚障害、四肢の運動失調の四つをあげた。A. ペンチュウが『中毒』[21] の中でメチル水銀中毒の「生前」の症状について「症候群」(Syndrom)という術語を用いたのは、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒についての、その 1か所のみであった。そのように、メチル水銀中毒の生前の症状は、科学史の原点に立って、「聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」などとよばれるべきであろう。
ハンター等 3名は、1940年の論文 [18] では、 4症例に共通して運動失調、視野狭窄、構音障害(dysarthria)があると述べていたが、そのうち「Dysarthrie」(構音障害)については、ハンターとラッセルの14年後(1954年)の論文 [19] では、死亡した患者には入院の 7週間前に歯をすべて失ったことによる軽い構音障害があったと記しただけであった("Slight dysarthria was attributed to loss of all his teeth seven weeks previously.")。また、ハンターとラッセルは、言語障害(speech deterioration)、発語障害(gross dyspharsia)という臨床学上の所見についての記述を残してはいるが、それらの臨床学上の所見と剖検による組織学上の発見とを結びつける記述を残していない。したがって、病理学者ペンチュウの『中毒』[21] の中に「ハンター・ラッセル症候群」としてDysarthrie(ディサートリイ 構音障害)に関係する記述はない。
それより、ハンターとラッセルは1954年の論文 [19] で、患者に入院前と剖検前に「感覚障害」(二点法)があったことをくり返し述べている。
武内忠男教授は、1959年7月22日に熊本大学の医学部講堂で開かれた前記「水俣病研究報告会」において、A. ペンチュウの『中毒』の内容について、あたかもペンチュウが「三主徴」という言葉を用いたかのように述べた。しかし、A. ペンチュウ博士は、その著『中毒』[21] の中で「三主徴」(ドイツ語で、Trias)という言葉を 1か所も用いていない。
それにしても、武内教授は、なぜペンチュウが用いていない「三主徴」という術語を、あたかもペンチュウが用いたかのように述べたのであろうか。原論文の著者であるハンターとボンフォード、ラッセルも、その1940年の論文 [18] の中で「三主徴」(英語で、trias)という言葉を 1か所も用いていない。また、ハンターとラッセルも、その1954年の論文 [19] の中で「三主徴」(trias)という言葉を 1か所も用いていない。
また、武内教授は、ペンチュウ博士があたかも小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」とよんでいるかのように述べた。しかし、ペンチュウ博士が「ハンター・ラッセル症候群」とよんだのは、生前の臨床学上の所見のことではない。
武内教授はなぜ死後の解剖所見である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の臨床所見であるかのように取り違えてしまったのであろうか。
熊本大学は、有機水銀説について、1959年10月6日に熊本県に対して鰐淵健之学長が報告書を提出した。その報告書は、熊本県衛生部より『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』と題して1960年3月に公表された [23]。以下その一部(第35頁)を掲載する。
「いわゆる水俣病の原因究明について」 第35頁 [23]
食品衛生調査会水俣食中毒部会 委員代表 鰐淵健之 1959年10月6日
水銀を重要視するにいたった根拠
(1) 臨床的観察 (徳臣)
症状別頻度をみると視野狭窄、難聴、言語障害、歩行障害、運動失調、表在並びに深部知覚障害、軽度の精神障害を70~100%に認めるがこれ等の症状は従来報告された有機水銀中毒と極めてよく一致する。水俣病の三主徴を失調、視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)とするとこれ等の症状を具備する中毒性疾患は有機水銀中毒の Hunter Russelis Syndrom 即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie あるのみである。
(2) 病理学的所見 (武内)
急性例と慢性例では詳細な所見を異にするが本質的変化は共通で主要なものは神経細胞の強い退行変性ことにその脱落が顕著でいわゆる小脳顆粒型委縮を示す。視中枢とみられている鳥距野の退行変性が著明で、その部の神経細胞は広範囲にかつ強度の脱落をきたしている。その他大脳皮質、皮質下核群、間脳、脳幹部の核群に不定の神経細胞、障害を散見する。
又不定の限局性軟化、硬化、退行変性に伴う修復機転としてのグリアの反応性増加ないし増殖、円形細胞浸潤等がある。急性期には脳腫脹微小出血、強度の浮腫が共通の所見である。慢性例では強度の脳萎縮とこれに伴う外脳水腫がある。脊髄、末梢神経には不定部位に稀に脱髄性所見を認める。一般臓器には顕著な変化はないが消化管の糜爛とカタール肝腎の軽度の変性変化骨髄の低形成等がみられる。以上の所見の中最も特徴的な小脳顆粒型委縮、視中枢荒糜は人の解剖例では有機水銀中毒例に認められている。
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徳臣晴比古助教授も、上記のとおり、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)をあげ、それを「Hunter Russelis Syndrom」(ハンター・ラッセル症候群)と報告した(Russelis の表記は Russelsches の誤り)。
徳臣助教授は、武内教授の根源的な誤りに対して何の科学的検証をすることもなく、死後の「解剖所見」である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の「臨床所見」としてそのまま取り違えた。
熊本大学は、「ハンター・ラッセル症候群」によって「奇病」の原因物質を「有機水銀」であると公表することができた。有機水銀に想到できたことが「てがら」にもなった。水俣市で見つかった有機水銀中毒が、あたかも日本窒素が有機水銀を流しはじめた1932年よりも新しく1937年にイギリスの種子処理工場で発見された中毒であるかのように発表することによって結果的に新日本窒素と協働することとなり、西田栄一のいう「政治問題化」も避けられた。しかし、メチル水銀中毒が聖バーソロミュー病院で1865年にメチル水銀中毒として見出されていた事実は、その瞬間から以後触れられなくなってしまった。その重要な事実に対して、今日に至るまで具体的に触れない空気が支配してきた。
武内教授がペンチュウの『中毒』[21] を入手したのは1958年であった。それに対して、徳臣晴比古助教授はそれより早く1957年に日本橋で米国のエッティンゲン著の『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』[20] を購入し、有機水銀に疑いをもったことを自らの「てがら」であると考え、「天祐(てんゆう。天の助け)であった」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。
一方、武内教授は、「アメリカから『ポイゾニング』という本が出てるんですけどね。ちゃちな。それを見てもわからないんですよ。徳臣さんはあれを見てわかったと言っているけれど、あれはウソですよ。わかるはずがないですよ。あれを見て」と述べた記録(テープからの書き起こし)が残っている(1993年)。
問題は、そのようなことではなかった。武内教授は、先に述べたとおり、昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨 [22] の中で、「これらの症状を凡て具備する中毒性疾患は文献上ほとんど認められない」と述べているが、ハンター、ボンフォード、ラッセルの原論文 [18] には、前記抄訳のとおりに、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことが第1頁に記載されていた。また、その引用文献として『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] が紹介されていた。
また、ペンチュウによって『中毒』[21] の中でも紹介された「ヘップ論文」[8] は、前記したように、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒について詳細に知らせる文献であり、当時より30年近くも前の 1931年(昭和 6年)3月30日から熊本大学附属図書館の書架に並んでいた(熊本醫科大學圖書館が購入)。
また、アセトアルデヒドを製造するときに、「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接觸作用により反應は進行する」と報じる『工業化學雜誌』(1922年)は、当時より30年前の 1927年(昭和 2年)11月16日から熊本大学附属図書館の書架に並んでいた(当時の熊本藥學專門學校圖書課が購入)。
徳臣晴比古助教授が1959年に「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「ハンター・ラッセル症候群」と報告したとき [23]、徳臣助教授は、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか34名の患者しか診ていなかった。それらの患者は、小脳性失調、視野狭窄などを発現した重症の患者であった。重症でなければ視野狭窄は起きない。すなわち、水俣市の現地で感覚の鈍り(感覚障害)を訴える大部分の患者について科学的検証としての確認(フィールドワーク)といえるものは行われていなかった。したがって、徳臣助教授が描いた病像も実態とは異なっていた。しかし、問題はそれだけではなかった。
徳臣助教授は、武内忠男教授の「ハンター・ラッセル症候群」という根源的な誤りに対して、さらに、運動失調と視野狭窄、構音障害がそろっていなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないという自らの誤りをそれに上塗りした。
1970年2月1日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行された。その特措法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」が設定され、徳臣晴比古教授が会長に選任された。
1971年8月7日に、そのころ新設された環境庁より審査会に対して「事務次官通知」が送達された。それは、求心性視野狭窄と運動失調(言語障害、歩行障害を含む)、難聴、知覚障害のうち、いずれかの障害がある場合において、有機水銀の影響を否定しえない場合は、これを水俣病の範囲に含むというものであった。
その「事務次官通知」は、熊本大学の「有機水銀説」に依拠し、かつ熊本大学の「ハンター・ラッセル症候群」を参照して策定されていた。しかしながら、その「事務次官通知」は、「いずれかの障害がある場合において」としており、「ハンター・ラッセル症候群」を必ずしも研究者の「てがら」としてとらえたものではなかった。
当時審査会長となっていた徳臣晴比古教授は、「ハンター・ラッセル症候群」を「金科玉条」とし、複数の症状が組み合わされていなければ「ハンター・ラッセル症候群」すなわちメチル水銀中毒の生前の症状ではないとして、前記「事務次官通知」を拒否した。
徳臣教授は、「この環境事務次官通知は、誰が何を根拠に何を目的に発令したかわからないが、水俣病患者を一度も診察したこともなく、神経病理学、内科学の研鑽の実績があるとも思われない者が、よくこのような診断基準が出せるものだと驚き、かつ憤慨した。審査会委員のうち、実際に診療に携わっていた者十一人中七人は、同年九月三日の審査会で沢田一精県知事に辞表を提出した」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。
それにしても、徳臣教授は、A. ペンチュウ博士の『中毒』(Intokikationen)[21] を改めて読み返してみることをしなかったのであろうか。そして、ペンチュウが「三主徴」(Trias)という言葉を 1か所も用いていないことに気がつくことはなかったのであろうか。あまつさえ、徳臣教授は、ペンチュウが小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」とよんで「いない」ことに気がつくことはなかったのであろうか。
そして、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか34名の、しかも小脳性失調、視野狭窄などを発現した重症の患者だけを診て、それらが発現していなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないなどと断定するよりも前に、そもそも、1959年10月6日に熊本県に対して鰐淵健之学長を通して、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを自ら「ハンター・ラッセル症候群」と報告したことが科学史上の誤りであることに気がつくことはなかったのであろうか。
「ハンター・ラッセル症候群」は、その後、メチル水銀中毒を、最初からなかったことにしたい行政機関との協働の中で、いくつかの症状がそろっていなければメチル水銀中毒ではないという、真正の患者を切り棄てるための道具と化した。筆者は、果たしてこれまでどれだけの数の患者が切り棄てられたかを知らない。
もっとも、徳臣晴比古教授は、その後、「いわゆる」という枕ことばをつけて、「いわゆるハンター・ラッセル症候群」という術語を用いるようになった。しかしながら、ペンチュウ博士の「死後の解剖学上の症状」である「ハンター・ラッセル症候群」に「いわゆる」という枕ことばをつけてみたところで、それによって定義の範囲がやや曖昧になることはあっても、それが運動失調、視野狭窄、構音障害といった「生前の臨床学上の症候群」に逆転するわけではない。また、運動失調、視野狭窄、構音障害の三つがそろっていなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないという誤りが正当化されるわけでもない。誤りをどのように上塗りしたところで、科学史上、誤りは後になっても誤りである。
14.省略
15.省略
おわりに
省略
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引用文献
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