聖バーソロミュー病院1865の症候群


有機水銀中毒の発生は日本でも1932には予見可能であった


入口紀男

メール




拡大クリック
本

A5版148頁 平成28年3月1日発行 3,400円+税



アマゾン社の登録商標


◇ ◇ ◇ 以下内容抄録紹介 ◇ ◇ ◇






目次

はじめに


第一章

メチル水銀と水俣


 1.メチル水銀の発見(ロンドン1858年)

 2.不知火海(しらぬいかい)沿岸の一寒村(水俣の歴史)

第二章

日本人はメチル水銀中毒をいつ知ったか


 3.メチル水銀中毒の発見(ロンドン1865年)

 4.メチル水銀中毒に関する知識はいつ日本に伝わったか(東京1927年 熊本1931年)

第三章

日本人は有機水銀の副生をいつ知ったか


 5.水銀を用いたアセトアルデヒド製法の発明(聖ペテルスブルグ1881年)

 6.有機水銀が副生する事実は最初にいつどこで知られたか(ミュンヘン1905年)

 7.有機水銀が副生する事実はいつ日本に伝わったか(東京1906年)

第四章

有機水銀はなぜ流されたか


 8.日本窒素創業してカーバイドを製造(水俣村1908年)

 9.毒性に勝る利点はあったか(米国イリノイ州1920年)

10.有機水銀が副生する事実は日本でいつ周知となったか(東京1922年)

11. アセトアルデヒドの製造(水俣町1932年)

第五章

大学は地域社会を「知」によって守るべき責任をどこまで有するか


12.なぜヨーロッパでは工場廃液で有機水銀中毒が発生しなかったか

13.「ハンター・ラッセル症候群」は死後の解剖学上の症状である

14.「水俣病」(みなまたびょう)という言葉は、差別用語である

15.有機水銀中毒が発生することは1932年には予見可能であった


おわりに




はじめに

目次へ戻る

 筆者は1947年に熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣町(みなまたまち 現水俣市)に生まれました。筆者の家は、水俣川の少し北にある、いく世代も続いて数戸しかない、むらの農家でした。明治元年に水俣手永(みなまたてなが 現水俣市)で生まれた德冨蘆花(とくとみろか)の作品の中に、筆者の家が牧ノ内の「茅葺(かやぶき)の家」として記されています [1]。すぐ近くに德富家の墓所があり、蘆花もそこを訪れていたようです。
 メチル水銀中毒は、1865年(日本では幕末の元治 2年)にロンドンの「聖バーソロミュー病院」で世界最初に起きていました。その発見の具体的経緯は、筆者が2008年に著した書籍『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)[2] によって国内では初めて広く知られるようになりました。
 聖バーソロミュー病院で起きたそのメチル水銀中毒のことは、国内でも、実は全く知られていなかったわけではなく、熊本大学では知られていました。しかし、あるときを境としてそれに触れられることはなくなった。そして、それに具体的に触れない空気が支配してきた。筆者はそのように考えています。
 では、そのような重要な事実がなぜ触れられなくなったのでしょうか。
 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことは、日本にも早くから伝わっていました。「アセトアルデヒド」という化学製品を製造すると廃液(はいえき)に必然的に有機水銀が含まれる事実も明治時代から日本に伝わっていました。すなわち、それらの事実は、日本窒素がアセトアルデヒドを製造して有機水銀廃液を水俣灣に流しはじめた1932年(昭和 7年)より前から伝わっていました。すると、専門家であれば「ほんの少しの注意」を払って調べてみるだけで「予見可能」であったことになってしまいます。
 そのように、当然払うべき「ほんの少しの注意」を払うだけで予見可能であったというのでは、「不都合」(ふつごう)であるという、それも重要な立場の人びとが数多く存在していました。それはどのような人びとだったのでしょうか。
 まず、原因企業にとって、予見可能であったというのは不都合でした。それは当然でしょう。
 つぎに、自らの責任を小さく見せたい行政機関にとっても、それは不都合でした。それも当然でした。それだけではありません。
 水俣湾周辺で見つかったメチル水銀中毒について苦労を重ねてようやく有機水銀説に想到(そうとう)したことを自らの「てがら」にしたい研究者にとっても、予見可能であったというのは不都合でした。また、新しく患者を発見したことを自らの「てがら」にしたい研究者にとっても、それは不都合でした。
 当時の研究者は、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことを知っていながらそれに触れないようにし、あたかも新しい発見(てがら)であるかのように「水俣病」(みなまたびょう)と銘打ちました。
 その後、今日に至るまで、メチル水銀中毒について、様ざまな研究や新しい著作が発表されてきましたが、それらの研究や著作は例外なく「水俣病」という言葉を用いるものでした。
「水俣病」という言葉は、その言葉のとおりに、地域としての「水俣」(みなまた)や公法人としての「水俣市」を、あたかもメチル水銀中毒やその原因であるかのように「同一視」する言葉です。その言葉は、水俣市で生まれた子どもたちや、水俣市に昔から暮らす人びとにとって、「差別」の意味を含んだ言葉として、ひそかに心に突き刺(さ)さりました。そもそも、メチル水銀中毒の原因はメチル水銀であって水俣ではありません。「水俣病」という言葉は、そのようにメチル水銀中毒やその原因と同一視した上で、「水俣」や「水俣市」を他と峻別(しゅんべつ)する用語です。「水俣病」という言葉は、そのような偏見と峻別の意図を含んだ差別用語です。
 ドイツで1916年に「ワッカー・ケミー」という会社が世界で最初にアセトアルデヒドを量産しはじめました。スイスの H. ツァンガー教授はその1916年にワッカー・ケミー社に行き、排泥(はいでい スラッジ)に触れた従業員に「有機水銀」による「中枢神経障害」(ちゅうすうしんけいしょうがい)が起きていると判断しました。そこで、廃液を近くのザルツァッハ川に流さないようにして、地中に埋めさせました。その結果、ヨーロッパでは以後メチル水銀中毒は発生しませんでした。ツァンガー教授は、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことを知っていました。また、アセトアルデヒドを製造するとき廃液の中に有機水銀が含まれることも知っていました。ヨーロッパでも、アセトアルデヒドの製造に伴って、「有機水銀」による「中枢神経障害」が発生することは「予見可能」でした。水俣町(当時)でアセトアルデヒドが製造され始めるのはそれより16年後の1932年です。
 水俣湾周辺で見つかったメチル水銀中毒の運動失調(うんどうしっちょう)、視野狭窄(しやきょうさく)、構音障害(こうおんしょうがい)などの症状は、1959年に熊本大学の研究者によって「三主徴」(さんしゅちょう)として「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」とよばれるようになりました。研究者のいう「ハンター・ラッセル症候群」は、米国の A. ペンチュウという病理学者が1958年に著した『中毒』(Intoxikationen)という権威ある本の中にそのような用語があるというものでした。それは、以後水俣市と不知火海(しらぬいかい)沿岸などで暮らしている地域住民に対して、メチル水銀中毒の有無を判定するための根拠として利用されて来ました。しかし、そもそも、A. ペンチュウ博士の『中毒』の中に生前の症状について「ハンター・ラッセル症候群」とよぶような記述はありません。
 筆者は、この本で生前の症状を「ハンター・ラッセル症候群」とよぶことが科学史上の誤りであることを指摘し、かつ証明いたします。生前の臨床学上の症状を、筆者は、科学史の原点に立って「ロンドンの聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」とよびます。
 なお、熊本大学における筆者の専門分野はメディア情報処理論(総合情報基盤センター教授)でした。大学院自然科学研究科教授(情報電気電子工学・生命体画像工学)と大学院社会文化科学研究科教授(ネットワーク上の私権の保護)を兼任しました。また、評議員・附属図書館長を歴任しました。附属図書館は、メチル水銀中毒発生の責任とある意味で深くかかわるのではないかと筆者は考えております。




第一章

メチル水銀と水俣

省略







第二章

日本人はメチル水銀中毒をいつ知ったか





3.メチル水銀中毒の発見(ロンドン1865年)

目次へ戻る



01

エドワード・フランクランド
Sir Edward Frankland 1825-1899
聖バーソロミュー病院医科大学教授


   
  
 1852年(日本では嘉永 5年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
 1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。
 1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれており、イギリス屈指の名門病院である。
 1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [3]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。当時の日本は文久3年であり、德川家茂、新撰組、奇兵隊、薩英戦争の時代であった。






44

聖バーソロミュー病院 (19世紀)


  
  



03

     

ウィリアム・オッドリング
William Odling 1829-1921
聖バーソロミュー病院医科大学教授


  
 フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。
 聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で、3名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに 3名とも重篤な中毒症状に陥った。
 その一人はカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。



04  05

(左) 『聖バーソロミュー病院報告書 第1巻表紙 (1865年) [4]
(右) 『聖バーソロミュー病院報告書 第2巻表紙 (1866年) [5]


   
  
 ウルリッヒは、同年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
 有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。フランクランドとオッドリング、ジェファーソンはメチル水銀中毒の発見者となった。そのころ日本は元治2年であった。
 ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [4]。
 二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、9か月目(1865年1月半ば)からのわずか 2週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その 1か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。



06

   

聖バーソロミュー病院報告書 第1巻 第141頁 (部分)(1865年)
カール・ウルリッヒ30歳の臨床記録


  
 スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [4] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [5] に詳しく報告されている。
 もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。
『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4] と第2巻(1866年)[5] が、当時わが国に輸入された形跡はない。現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第1巻 [4]、第2巻 [5] のそれぞれをPDF化して無償で公開している。
 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第26巻11月号第548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間でも大きな反響(a very powerful sensation throughout Germany)をひき起こした。



07

トーマス・フィプソン
Thomas L. Phipson 1833-1904
英国化学会フェロー
『コスモス』ロンドン特派員


   
  
 イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していたが、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、その『化学ニュース』第12巻(1865年)、第13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [6-7]。
『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第12巻第276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が11月30日に投稿したものであった。そこには、トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、「エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。
 それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第12巻第289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、当時実験室の直接の監督責任はオッドリングにあったことになる。



39

   

アウグスト・ホフマン
August Wilhelm von Hofmann 1818-1892
ベルリン大学教授


 ベルリン大学教授アウグスト・ホフマンは、『化学ニュース』第13巻第7‐8頁(1866年1月5日刊行)の中で、そのオッドリングのための弁護を試みている。ホフマンは、メチル水銀を「真に並外れた毒性」(altogether exceptionally poisonous nature)をもつと指摘し、また、オッドリングはイギリスで最も優れた化学者の一人であると紹介した。また、メチル水銀がそれほどの毒性をもつことは誰にも知られていなかったと述べた。ドイツのホフマンは、以前、1845年から1864年まで約 20年間イギリスの王立化学大学教授としてロンドンに赴任しており、死亡したドイツ人ウルリッヒがメチル水銀の製造実験をはじめる 2、3日前に本人(ウルリッヒ)に会ったが、ウルリッヒはその毒性について何ら知らなかったと述べた。なお、王立化学大学に赴任していた時代に自らの助手であったバックトン(前出)はメチル水銀を発見し、かつバックトンは前年(1865年)オッドリングの妹メアリー(Mary Ann Odling)と結婚している。
 一方、フィプソンは『化学ニュース』第13巻第23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無視(ignorance)の責任はないが、無知 (negligence)の責任はあった」と述べている。
『化学ニュース』の編集者は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。
 当時の『化学ニュース』は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。



「大陸の科学」パリ特派員(匿名)11月30日寄稿
『化学ニュース』 第12巻 276頁 1865年12月8日発行

 この寄稿を要約して申し述べるに、『コスモス』に掲載されたイギリス特派員(フィプソン)の記事について私がそもそも気に入らないのは、実名を隠さなくてもよかったのではないかということである。聖バーソロミュー病院で 2名の実験者の中毒が起きた。そのことについて率直に申し述べる。フィプソン博士は、フランクランド博士こそは意図的に一人の中毒死と一人の中毒を引き起こした、その責任者であると断定している。フィプソン博士は、それによってフランクランド博士にいわれのない中傷を加えている。その記事は、ここ(パリ)で大きな騒ぎをひき起こしている。中にはフィプソン博士に対してフランクランド博士を化学者として侮(あなど)っているのではないかとして笑止に思う人がいる。また、感情をむき出しにしているとして人間性を疑う人もいる。いうまでもないが、フランクランド博士が何年か前に聖バーソロミュー病院医科大学を去っていることは、ここ(パリ)でこそ知る人は少ないが、ロンドンでは化学者であれば誰でも知っている。したがって、フランクランド博士に責任はない。
 フランクランド博士自身から直ぐに責任を否定する手紙が届いたが、(フランス語に翻訳する段階で間違いが起こり、)そのような中毒死の事実がなかったかのように翻訳されてしばらく情報が錯綜した。そのうちオッドリング博士から、中毒死はオッドリング博士の実験室で起きたのであって、フランクランド博士に責任はないという率直な手紙が届いた。したがって、フィプソン博士はこの責任をとって『コスモス』のロンドン特派員の仕事を辞任するのが最もふさわしいであろう。
 思うにフィプソン博士の目的の一つは、ロンドンの実験室で働くことを希望する外国人労働者を排除することだったのではないかと思われる。フィプソン博士はドイツからの求職者だけではなく、戦争が起きたときに兵役を逃れて労働者が求職してこないようにしたかったのだろう。ドイツでは国内に人材や化学者が余っている。彼らはどこかで生活しなければならない。私がロンドンにいたころ外国人労働者はロンドンでは何不自由なく暮らしていた。外国人労働者はどちらかというと低く見られがちであるが、彼らもみな努力をしており、英国人と同じ給与が支払われていた。
 フィプソン博士は科学の分野で評判を下げたであろうが、何か他の評判は得たはずである。その評判は彼のロンドンにおける立場を決してよくはしないだろうと私は想像している。そのことをここに申し述べてもう今回のことを私は忘れたいと思う。

「コスモスとメチル水銀による中毒」 T. フィプソン12月9日寄稿
『化学ニュース』 第12巻第 289-290頁 1865年12月15日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 私は最近『コスモス』の記事として、聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた 2名の実験者 C. U.博士と T. S.氏の中毒について記事を載せました。あなたの『化学ニュース』のフランスの特派員は、最新号の中で、そのことについて事実とは驚くほど異なることを書いています。その特派員が、フランス語がよくできないからであるとは思えません。私は『コスモス』にいつも「英語」で投稿しているのですが、それにはこの悲しい出来ごとは、同病院の教授であったフランクランド博士の研究方針のもとで起きたと書いただけであります。(フランス語に翻訳される段階で起きた)記事の誤植はすぐに訂正されております。

敬具

T. L. フィプソン博士
化学会フェロー・『コスモス』の編集者(ロンドン)

「若い化学者への言葉」 化学者 (匿名) & A. W. ホフマン
『化学ニュース』 第13巻 第7-8頁 1866年1月5日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 私はベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に掲載されたホフマン博士の以下の手紙を『化学ニュース』でも掲載していただくように懇願いたします。それはフィプソン博士が『コスモス』に投稿した、聖バーソロミュー病院のメチル水銀中毒に関するものです。フィプソン博士の記事は『コスモス』からドイツ国内で数紙(several journals)に転載されました。ドイツ国内では科学者の間においてだけではなく、一般民衆の間でも大きな騒ぎ(a powerful sensation)をひき起こしています。(ベルリン大学の) A. W. ホフマン教授はそれをおさめようと努力しています。『化学ニュース』の読者の多くは興味があると思われますので、ここに以下ホフマン博士の手紙(ドイツ語)を同封いたします。

敬具

化学者 (匿名)

* * *

拝啓
 ドイツ国内のいくつかの新聞に「若い化学者への警告」と題してフィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に掲載した記事の内容が転載されております。
 その警告は、2名の若い化学者に起きた悲しい運命の物語りに関するものです。その一人はマーブルグ大学を出たドイツ人の C. ウルリッヒ博士と、もう一人はイギリス人 T. スロウパ氏です。彼らはメチル水銀による中毒の犠牲者であり、それによって前者(ウルリッヒ)は死亡し、後者(スロウパ)は回復の望みもなく、今も病床に伏したままです。
 彼ら若い 2名の悲しい運命は、イギリスとヨーロッパ大陸の科学者の間で深い同情をよび起こしております。私(ホフマン)は、その出来ごとが起きた当時ロンドンに住んでおりましたので、その出来ごとについては非常に残念に思う次第でありますが、特にウルリッヒ博士のことを私はここ数年にわたって存じておりまして、若い化学者として努力家でありかつ才能もあると評価しておりました。
 ウルリッヒ博士については、彼がたずさわっていた実験は、その全般的な状況から、彼の職務でありました。その嘆かわしい出来ごとは、短い言葉で事実を申し述べるならば、その経過も結果も、この世界の化学史上全く前例がないということであります。
 まず事実関係について申し上げます。フィプソン博士は、2名の若者がフランクランド博士の実験者であり、中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのだと断言しています。フィプソン博士は、フランクランド博士がその業績と人格において第一級の化学者であるにもかかわらず、フランクランド博士が卑劣にもその私利私欲のために 2名の実験者を危険にさらしたのだと何のためらいもなく告発しているのです。しかしながら、その重大な告発がなされた側のフランクランド博士は、実はその中毒とは関係していなかったというのが事実です。では、報告者(フィプソン博士)の自覚と信用はどうなっているのでしょうか? 2名の若者は、フランクランド博士の実験室ではなく、オッドリング博士の実験室で働いていました。中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのではなく、オッドリング博士の実験室で起きたのです。
 フィプソン博士は、2名の若者の身に起きた不幸な出来ごとがフランクランド博士によって、また、彼らが働いていたフランクランド博士の実験室で起きたのであり、フランクランド博士は当然知っておくべき危険を知らなかったか、あるいは、知っていても当然払うべき注意を怠ったことによって起きたのだと述べています。これらの告発がフランクランド博士に向けられています。しかしながら、前記しましたように、2名の若者の仕事はオッドリング博士の実験室で行われていたのであります。
 オッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったという非難につきまして、私(ホフマン)は、化学者の皆さまを相手に申しあげるだけではなく、多くの読者の皆さまに対して、オッドリング博士は英国で最も卓越した化学者の一人であると申し上げます。オッドリング博士は科学の広い分野について深い学識と総合的な研究によって現代化学の発展に実質的に貢献してきました。オッドリング博士が仮に水銀化合物の毒性についてよく知らず、注意深くとり扱うことに慣れていなかったと考えることはあまりにばかげていて一考に値しません。しかしながら、メチル水銀の仕事をしながらオッドリング博士にとって本当に知ることができなかったことは、また、今こうして執筆している私(ホフマン)にとりましても、あるいはおそらく一般の化学者にとりましても、本当に知ることができなかったことは、その水銀化合物そのもののもつ、真に並はずれた強い毒性であります。メチル水銀の発見者であるバックトン氏も、またオッドリング博士より前にメチル水銀をとり扱ったことのある化学者も、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはなく、危険を避けるために何らかの注意をしなければならないなどと言葉にしたこともありませんでした。
 今回の悲劇的な出来ごとによってメチル水銀の恐るべき毒性が改めてわかったわけですが、その後の今となっては予めその高い毒性はその組成と物理的な性質から推測できていたなどと主張することはできるでしょう。そのような主張ができることを私は否定しませんが、今回の大惨事が起きないうちは、誰しもメチル水銀がそれほどの毒性をもつなど決して知る由もなかったという主張も、それと同じくらいに重要であります。
 私(ホフマン)は、ウルリッヒ博士と、彼が病に倒れる 2、3日前に会いました。主にかの若者がとり組んできたメチル水銀の実験について話し合いました。ウルリッヒ博士は仕事の結果について大いに希望をもっていて、何らかの化学上の発見ができるかもしれないという期待をもって仕事をしているようでした。彼はメチル水銀の危険な性質については少しも知らなかったことが明らかです。また、(ウルリッヒ博士の言葉を聞いて)メチル水銀の危険な性質について私(ホフマン)の心を横切るものはいささかもありませんでした。彼がもし少しでも「何か」を知っていたなら、実験室を離れるときは彼の若い同僚(スロウパ)に真剣に警告を与えたでしょう。あるいはいつも話を交わしていたオッドリング博士にその「何か」を言っていたでしょう。彼はそのどちらもしなかったのです。彼は本当に何も知らなかったのです。ですから、もしオッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったとして非難がなされるのであれば、その非難は非難をする側にも同じように向けられるべきでしょう。
 さりとて、今回の中毒死について正しい見解を申し述べるには、かの若者(ウルリッヒ)が個人として、科学の世界からも友だちからも、それほどの幻滅する経過であっという間に引き裂かれてしまった。そのことについて思いを致すことが重要であります。ウルリッヒ博士は、化学の分野で決して初心者ではありませんでした。彼は 30歳ほどでしたが、過去 10年間理学的・工学的な研究に専念していました。彼は化学の分野で経験が深く、どんな仕事でも十分にこなせました。彼は様ざまな研究を行い、最初の論文を1859年に発表しました。その後 10か月か 12か月間、私(ホフマン)の研究室でも仕事をしました。私(ホフマン)も、彼の知識と、能力と、注意深さには全幅の信用を置くものでありましたので、仮に今回のような嘆かわしい、およそすべての想定をはるかに超えた結果となるような仕事であっても、それを彼に任せるのに躊躇(ちゅうちょ)しなかったでしょう。
 以上申し述べましたことにより、フィプソン博士の記事は部分的に偽(いつわ)りであり、かつ部分的に歪曲(わいきょく)されたものといえるでしょう。
 また、そのことにより、フィプソン博士の若い化学者への警告については、私(ホフマン)は一考に値しないと考える次第です。私はイギリスへ行き、その首都に 20年間住みました。イギリスの化学実験室で働く同じ国(ドイツ)の若者の立場がどのようなものであるかを十分に理解する機会はあったつもりです。私(ホフマン)としては、フィプソン博士の警告は真に不当なものであり、根拠のないものであり、いささかも関心を向ける必要のないものと言わざるを得ません。私(ホフマン)は、フィプソン博士が悪意ではなく、当然知っておくべきことを知らないで、あるいは気まぐれでペンを滑らせただけであると信じておりますので、これ以上の手厳しい表現を控えます。しかし、フィプソン博士が自らを英国化学会フェローと称し、ロンドンに住んでおりながら、どうしてあのように、まるで同僚に対して嘘をつくのと同じくらいの重大な申し立てをする前に、なぜその出来ごとについて正確な情報を得ることができなかったのか、また、同僚である一般の化学者たちに対して不当で根拠のない申し立てをしてしまったのか、不可解でなりません。もっとも、フィプソン博士を、意図的に虚偽を申し立てたとして、また意図的に事実を歪曲し、意図的に同僚の化学者を虚偽告発したとして、仮に名誉毀損の疑いで告発したとしても、フィプソン博士は自らを有罪であるとは認めないでしょう。
 あと一点付け加えて、私(ホフマン)のこの供述を終わります。私(ホフマン)はイギリスに長く住んでおりました。多くの若いドイツ人でロンドンやあるいは他の地方で実験室の仕事をしている人たちの大半と知り合いになりました。その若いドイツ人たちで何か不満を漏らす人はいませんでした。それとは逆に、誰もが最高に親切に受けいれられ、また、思いやりのある扱いを受けておりました。決められた協定は良心的に履行されておりました。ドイツの若者のイギリスにおける雇用主は誠実で友好的な人格者がほとんどであります。イギリスを生活の基盤とすることによってドイツの若者に与えられる様ざまな経験と、洞察力を培う機会は、それらを将来の人生に役立てることができます。彼らの多くはその後イギリスに残り、あるいは植民地へ行き、あるいは欧州大陸に戻り、科学界や産業界において重要な地位を占めております。
 ドイツの若い化学者は、したがって、もしもロンドンの実験室に行く機会が与えられたならば、恐れることなくテームズ河畔(訳者注 聖バーソロミュー病院があるところ)に行きなさい。ドイツで学んだ化学がイギリスにおける生活と結びつくことによって、新しい知識と新しい動機付けの無尽蔵の宝庫が見つかるでしょう。イギリスの化学者と知り合いになることによって、彼らがきわめて立派で信頼できる人びとであり、偉大にして素晴らしいイギリス国民の美徳を顕現する人びとであることを知るでしょう。イギリス国民の中に屹立(きつりつ)するもの、それは真実を愛することであります。

敬具

A. W. ホフマン
ベルリン大学 1865年12月14日

「ホフマン博士の手紙への回答」 T. フィプソン1月6日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第23頁 1866年1月12日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
『化学ニュース』の最新号にホフマン博士によって書かれた長い手紙と、「化学者」と名乗る人物がそれを紹介する記事が掲載されております。「化学者」は匿名のようですが、それが誰であるかの見当が私にはついております。
 ホフマン博士の手紙に書かれております私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対してこの強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます。
 第一に、私はウィリアム・オッドリング教授を「無知」(negligence)で告発しているのでありまして、「無視」(ignorance)で告発しているわけではありません(『コスモス』11月29日)。
 第二に、『コスモス』第26巻で私が書いた記事のどこを見ましても、「同僚である一般の化学者」たちに対して「不当で根拠のない告発」をしている箇所などありません。
 第三に、もしホフマン博士が『コスモス』の私の記事を直接読んでおられないのであれば、読んでからオッドリング博士を弁護しようとされるのがよいでしょう。
 第四に、私の『コスモス』における役割はただの歴史家です。私が述べる事実が、すべての読者にはたとえ気に入らないものであっても、それは歴史上の事実であります。信頼すべき情報源から得られた公正で真実の内容のものです。それらが私の記事になっております。

敬具

T. L. フィプソン

「メチル水銀中毒」 助手 (匿名)
『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 もしもあなたが編集者として聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた出来ごとを完全に報告されると、すべての論争は収まり、多くの意見や疑問も収まるのではないでしょうか。何らかの形で私がその報告書を作成したら受けいれてもらえるのでしょうか?それにはどうすればよいのでしょうか? 2名の患者に最初どのような形で中毒の症状が現れたのでしょうか?何らかの予防策は取られたのでしょうか?あるいは、症状が現れたとき仕事は中断されたのでしょうか?それらの点についていくつもの情報が錯綜しています。いくつもの事実が断片的に報道されています。歴史としての全体像が明らかになればすっきりと収まるのではないでしょうか?

敬具

助手 (匿名)

「フィプソン博士への回答」 A. W. ホフマン
『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 フィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に投稿した記事がドイツでベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に転載され、それについて私(ホフマン)が同紙上で論評する内容の手紙が『化学ニュース』1月5日号で英訳されて掲載されました。今朝私は『化学ニュース』1月12日号を受け取りましたが、その中にフィプソン博士の手紙が掲載されており、フィプソン博士はその中で「ホフマン博士の手紙に書かれております、私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対して強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます」と書いています。
 私は『コスモス』の読者ではありません。私がベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に投稿した手紙は、11月15日発行の『コスモス』に掲載されたフィプソン博士の手紙がドイツの新聞に翻訳されて転載されたものに対する論評でした。しかしながら、私は行きがかり上『コスモス』のフランス語の原文を自分で直接読むべきであったと考えるに至りました。そこで、直ちに『コスモス』の原文を取り寄せ、ベルリン・ニュースのドイツ語訳と比較して、正確な翻訳であることを確認しましたので、私(ホフマン)は自らすでに述べたことをただ一文たりとも撤回するつもりがないことを申し上げます。
 すでにあなたは私の論評を『化学ニュース』の読者のために快く英訳して掲載されました。そこで、フィプソン博士の原文で私が参照したフランス語の箇所は以下のとおりですので、これを掲載していただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げます。『化学ニュース』の読者は、それによって自ら判断することができるでしょう。フィプソン博士は、『コスモス』の原文で以下のように記述しておられます。

 過去のある時期、ドイツのリービッヒ、フランスのデュマ、ドイツのヴェーラー、ドイツのブンゼンなどの研究室からかなりの数の若い化学者がロンドンへやって来た。彼らの科学についての教育は多少の差はあれ完成しており、化学の仕事についての知識だけが彼らの身上である。彼ら若い化学者の大多数は化学を教える大学や病院の実験室の仕事で悲惨な目に遭っている。およそ 1,000~ 1,500フランの給料だけで身体と精神をつなぎとめ、教授の命令であえてしたくない仕事をしたり、どうすればよいかわからない仕事をしたりして、中毒になったり傷ついたりすることがなければそれは儲けものである。

 次はフィプソン博士がその結論を述べる上で供述している意見です。

 自らが雇った実験者を殺すことは許されてよいのでしょうか?それはイギリスで学ぶためにやって来た若者たちです。将来彼らの時代になったらきっと専門家になりたいと思い、奴隷としての生涯を送りたいとは思わない若者たちです!
 化学者のゲイ・リュサックやテナール、ハンフリー・デービーは、私利私欲のために自ら雇った実験者を殺したでしょうか?

 フィプソン博士が自ら述べる「歴史家としての役割」を果たしているのだという心構えは、フィプソン博士の記事の中でフランクランド博士の名前を紹介するやり方に次のように現れております。

 フランクランド博士の名前を『コスモス』の読者は有機化合物を自ら「発見した」と称していくつかの記事を発表した人物としておそらくご存じでしょう。

 フィプソン博士が「発見した」とあえて括弧つきで強調しているのは、そっくりそのままフィプソン博士に当てはまるでしょう。
 私は、以上より、改めて『化学ニュース』の読者にその判断を委ねるものです。

敬具

A. W. ホフマン

「メチル水銀の毒性について」 T. フィプソン1月22日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第47頁 1866年1月26日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 ホフマン博士は『化学ニュース』の少し前の号でメチル水銀について「真に並はずれた強い毒性」と述べています。また、「メチル水銀をとり扱ったことのある化学者は、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはない」とも述べています。
 さて、ホフマン博士が私に一つの仮定を許してくれるならば、故ウルリッヒ博士のような化学者がメチル水銀の製造に 3か月間専念したとします。そして 87パーセントもの水銀を有するそのような化合物で(特に気化した蒸気の状態で)毒性をもたない物質をただ一つでもあげることができたとします。それならば、ホフマン博士がメチル水銀について研究することを憂慮して「真に並はずれた強い毒性」と述べた表現を私(フィプソン)も受けいれることができるでしょう。
 そのような物質をただ一つでもあげることはできないのですから(メチル水銀も例外ではないのですから)、心ある化学者は私(フィプソン)がホフマン博士とは見解が異なったとしても、私を許してくれるでしょう。

敬具

T. L. フィプソン博士・化学会フェロー

「フィプソン博士についての再考」 W. オッドリング 1月30日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
  私が第一に残念に思いますのは、(イギリスなど)海外で暮らすドイツ人の心にひき起こされた誤った印象を修正するにあたって、まずホフマン博士ご自身がこのイギリスでフィプソン博士のような策略をもつ敵対者によって中傷を受けたことがないことです。私が第二に残念に思いますのは、フランクランド博士のご尊名が(フィプソン博士の『コスモス』の記事によって)傲慢にも傷つけられ、今回(『化学ニュース』でも)一言の謝罪もなくさらに傷つけられていることです。
 私が疑問に思いますのは、なぜそのような(誠意も通じない)フィプソン博士による中傷に誰もが回答をしなければならないのでしょうか?実に疑問でありますのは、なぜ『コスモス』のよくぞ知られたロンドン特派員・編集者(フィプソン)は、自身が無残な信用失墜をしただけで、それ以上の責任を問われないのでしょうか?
(あれだけ虚偽を並べたのであれば)フィプソン博士は、教授ではないが「ロンドンの分析化学の教授」と名乗ればよかったでしょうに。フィプソン博士は、王立協会(Royal Society)の会員に選ばれなくて、心機一転、王立協会を相手に訴訟の準備にでも専念すればよかったでしょうに。フィプソン博士はいつも化学会フェロー(F. C. S.)と名乗っているが、一方で化学会から相手にされないのは「愚かな間違いだ」と宣言すればよいでしょうに。フィプソン博士がフランクランド博士と私(オッドリング)に対して、今回の中毒について当然知っておくべき危険を知らなかったと言うならば、そのきわめて不名誉な申し立てをフィプソン博士が編集する騎士道時代の雑誌(『コスモス』)にそのまま掲載して刊行すればよかったでしょうに。あるいは、その雑誌に我われが回答を投稿してもフィプソン博士とその手下によって掲載を拒絶するか、それとも下品に歪曲して刊行すればよかったでしょうに。フィプソン博士は、個人的な怒りを鎮めんがために、悲惨な、単にその事実だけで衝撃的な物語りを、悪意を以て誇張し、歪曲し、あるいは偽り伝えればよかったでしょうに。
 さらに、フランクランド博士は時おり世界を魅了する素晴らしい発見をされますが、フィプソン博士がフランクランド博士の人格と業績を貧しいものとして茶化すのであれば、フィプソン博士はそれを超える素晴らしい発見をすればよいでしょう。たとえば、過マンガン酸塩と重クロム酸カリウムは同類だとか、安息香酸とサリシンの溶液からポプリンを製造できるとか、ガーネットは点火後に比重が増すとか、その他素晴らしい雌馬の巣などです。フィプソン博士は、真価を認めようとしない社会の気を引こうとして、化学者なら誰でも知っているリン酸塩を新しいものとしてばかげた分析をすればよいでしょうに。フィプソン博士は太陽のもとにあるものはすべて危険であるから誰それのトマトピューレは厳格に検査されたというような証明書を書いて自身の専門性を誇大広告すればよいでしょうに。
 フィプソン博士がその行動に一点のやましさもなく、思いやりもあるというのであれば、完璧なフィプソン博士は彼に向けられた批判に対して痛ましく苦言を呈すればよいでしょう。なぜ多くの化学者はこれほど完全無欠なフィプソン博士の科学の分野におけるまた社会における性格を批判するのでしょうか?

敬具

ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年1月30日

「メチル水銀とヨウ化カリ」 A. シュバルツ 1月20日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 私(シュバルツ)は最近『化学ニュース』で取り上げられているメチル水銀中毒についての記事を、関心をもって読んでおります。私は『コスモス』の記事も読みました。私は、フィプソン博士は出来ごとを明るみに出してくれたという点で社会的に貢献をしたのだと思います。私はためらうことなくそのように公言いたします。悲しい出来ごとが起きてからすでに 1年ほど経っていますが、もしもフィプソン博士が最近の『コスモス』で記事にしてくれなければ、誰もその出来ごとについて気がつくことはできなかったでしょう。おかげでイギリスでもまた海外でも、いずれの専門家も実験者もメチル水銀について十分に注意を払うことができるようになりました。それこそは公共の利益以外の何ものでもありません。
 ホフマン博士は、『化学ニュース』で英訳された論評の中で、フィプソン博士を公正に評価していないことが明らかです。ホフマン博士の論評とフィプソン博士が実際に『コスモス』に書いた内容を比較して読んだ人なら誰でもそのことに気がつくだろうと私は思います。
 水銀中毒の一般的な解毒剤としてメルセン博士はヨウ化カリを薦めましたが、それを用いた治療も今回の症例では効き目がないようでした。(ヨウ化カリを投与しても)体内でメチル水銀のヨウ化物が形成されるだけで、メチル水銀は体外に排除されず残ってしまうのかもしれません。解毒剤の効き目というものはそのように不完全です。他の水銀化合物の中毒に対してヨウ化カリを用いても効き目がないこともあり得るでしょう。なお、私は1849年にパリで水銀中毒の治療に「ベレッツのシロップ」を用いたことがありますのでご参考まで。

敬具

医師 A. シュバルツ
ハマースミス 1866年1月20日

「ウルリッヒ博士の病状」 E. ライハルト 1月29日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59-60頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 ウルリッヒ博士の親友である私(ライハルト)の記事は、『化学ニュース』の読者に関心をもってお読みいただけるでしょう。
 ウルリッヒ博士の悲しい死は、事故によるものであったと考えるべきでしょう。ウルリッヒ博士は1865年1月中旬に大量のメチル水銀を製造していましたが、メチル水銀原液の配管が壊れる事故が起きました。ウルリッヒ博士が言ったことですが、彼は何の注意を払うこともなく、メチル水銀の蒸気を大量に吸ったとのことでした。私は翌日彼に会いましたが、彼は元気がなく、不安そうで、錯乱した表情でした。私は彼にすぐに医者に診てもらうように言いました。しかし、2月1日に症状が悪化しました。2月2日に足どりが不安定になりました。質問にはゆっくりと、やっと答えることしかできませんでした。気は確かでした。彼は大変衰弱しているようでした。
 オッドリング博士が心配され、尽力されて、私はウルリッヒ博士をすぐに病棟に収容することができました。
 私が病室を離れるとき、彼はどっと涙を流して私にお礼を言いました。そのとき彼は、私と同様に、もう絶望的な状態であると感じとっていました。
 ウルリッヒ博士は強くてしっかりとした体格でしたが、健康ではありませんでした。1863年と1864年に 3、4回発作を起こしています。彼には慢性的な脳障害があったのではないかと私は思います。

敬具

E. ライハルト
オックスフォード 1866年1月29日

「以後この件に関しての記事は掲載を打ち切る」(『化学ニュース』 編集者)


「フィプソン博士への回答」 W. オッドリング 2月13日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第84頁 1866年2月16日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 フィプソン博士は、よく表現しても策略が多い人であり、それは一生治らないのではないかと思います。私は、『コスモス』の編集者であるフィプソン博士がフランクランド博士に対して攻撃を加えたことについて、意見を『コスモス』に投稿しました。すると私の意見が『コスモス』の11月29日号に掲載されました。しかし、私の原稿はそのまま掲載されないで勝手に手を加えてありました。その後フィプソン博士は続けて私を攻撃したので、それに対する回答を『コスモス』に投稿しましたが、彼は掲載を拒絶しました。
 私はフィプソン博士に次のことわざを贈ります。「一事が万事」

敬具

ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年2月13日

「以後この件に関しての記事は本当に掲載を打ち切る」(『化学ニュース』 編集者)







08

   

ヘップ論文 第1頁 [8]
『聖バーソロミュー病院報告書』を 5頁にわたって転載
脚注にその第1巻、第2巻を引用しているのが見える


  
 以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4]、 第2巻(1866年)[5]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] によって、ヨーロッパでは周知となった。そのころの日本は慶應 2年であった。
 メチル水銀中毒に関する知識は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約20年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。




4.メチル水銀中毒に関する知識はいつ日本に伝わったか(東京1927年 熊本1931年)

目次へ戻る



09

化学ニュース 第11-12巻 中表紙(1865年)
東京工業大学附属図書館所蔵
「昭和2年3月24日購入」の刻印が見える


   
  
 東京工業大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[6] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
 現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。



10  11
      

(左) 『実験的病理学薬理学叢書第23巻 中表紙 (1887年)[8]
(右) 同中表紙裏面「熊本醫科大學圖書館 (昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印が見える


 熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。
 昭和6年は1931年。ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[8] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [4]、第2巻 [5] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。



ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』 第23巻 第91-128頁)の第113-117頁

 有機水銀中毒の二つの著名な症例についてここで確認しておくことは意義深いことである。すなわち、エドワーズ博士の『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻及び第2巻に記載された、イギリスの化学実験者 2名の臨床記録を以下抜粋してドイツ語に翻訳して紹介する。

 第1例 C. U. 30歳。
 栄養状態も体格もよい。1865年2月3日に病院に収容された。ドイツ人であるが、イギリスに5年間住んでいた。聖バーソロミュー病院の実験室で仕事をしていた。
 子どものころてんかんを病んでいたが、6年前までは梅毒を除いて健康であった。6年前にてんかんの発作が 1回起こり、3年前に短い間隔で 2回の発作が起きた。それ以来発作は起きていなかった。過去 3か月間メチル水銀の製造実験を行い、その間、視力の衰えを訴えていた。検視鏡で診た限り異常はなかった。1か月前に再び発作が起きた。2時間意識不明が続いて自宅へ搬送された。2日後に仕事に復帰できたが、そのころから言葉が不明瞭となり、全身の健康状態が以前より低下した。2日前に両手にしびれを感じた。耳がよく聞こえなくなり、全身の衰弱を覚えた。歯茎が痛んだ。これらの症状が入院するまでに悪化していた。
 病棟に収容されて(1865年2月3日)昏睡に陥る傾向があった。瞳孔はやや拡大。皮膚は熱く乾燥ぎみ。脈拍 86。血圧低め。舌は湿っており、食欲は減退していた。喉の渇きはなかった。便秘ぎみ。尿はややたんぱくがあり、沈殿が見られた。
 収容前夜の寝つきは悪かったが、立ち歩くことはなかった。全身の衰弱を訴え、自分で立つことができなかった。本人は両足にひどい寒気を訴えたが、他人が両足を触っても冷たくなかった。両手両足は、ゆっくりとかつ不器用にしか動かせなくなっていた。ただ、両手両足の感覚がなくなっていたわけではない。声は不明瞭であった。耳はよく聞こえなかった。頭痛はなかった。歯茎はやや腫れて、押すと痛んだ。
 翌日耳はさらに聞こえなくなった。両手の力もなくなった。2月5日には話しかけても理解できなくなった。尿中にたんぱく質と皮質成分が多く見られた。
 2月6日指は不自然な形で押し縮められ、また、伸ばされていた。夜は眠れなかった。白痴のようであり、眠っているようでもあった。耳はさらに聞こえず、2月7日には質問にすべて「はい」としか答えられない。2月8日話しかけられても明らかに応答しない。呼吸は荒く、息に明確な水銀臭があるように思われた。脈は弱く、舌には苔がある。歯肉は海綿状に腫れている。8日夜から 9日にかけて暴れるので両手をベッドに縛らざるを得なかった。7日以来便通がなく、ベッドで悪臭強い尿を失禁した。
 支離滅裂につぶやき、食べものは拒絶する。飲みものを無理に与えようとすると抵抗して怒り狂った。
 2月10日 夜間再び狂騒に襲われたが、今朝になるとしばらく静かで昏睡状態にあった。時おり急に起き上がって支離滅裂に叫び声をあげる。体はよく動かしているように見えた。また、左右に麻痺はないようにも見えた。表情は空虚である。瞳孔は開いている。吐息臭と体臭がひどい。狂騒が激しく、他の患者の邪魔にならないように、離れた部屋に移した。
 2月11日 昨日よりやや静かである。しばしば起き上がろうとする。支離滅裂な叫び声を頻繁にあげる。呼吸が不自然であり、2、3秒完全に止まったかと思うと再開していびきの様になり、「チェーン・ストークス呼吸」かと思われる。起き上がろうとするとき、空虚に自分を見つめる。左側を動かせない。左の手首はやや硬直している。左の膝は完全に硬直していて動かせない。外から相当な力を加えるとやや曲がる。
 2月12日 表情は青白く沈んでいる。目はうるんでいるが、半ば開いている。口も半開きである。明らかに衰弱しており、動きも少ないが時おりうめき声をあげる。左足に感覚はないようであり、動かせない。硬直して伸びており、足は膝までやや内側に曲がっている。左手の感覚もないようである。
 2月13日 いびきのような呼吸。左脚にやや反射運動。その状態のまま推移して、2月14日朝11:30に死亡した。
 死亡後 18時間経って解剖が行われた。左右の瞳孔の開きが異なっていた。頭皮は固く、硬膜は表面が充血していた。軟膜と灰白質はひどく充血していた。軟膜は特に左側に無数の白斑があった。腎臓と肝臓が充血していた。

 第2例 T. S. 23歳。
 1865年3月25日に収容された。ダルストンに住んでおり、過去 12か月間聖バーソロミュー病院で実験の仕事をしていた。最後の 4か月間は気分が勝れなかった。この 1月に約 14日間メチル水銀の製造に従事した。そのとき以外に水銀化合物には触れたことはなかった。最初の患者(C. U. 30歳)が発症したころ(2月初め)、自らも衰弱を覚えた。歯茎が痛く、歯が抜けた。目がよく見えなくなった。目は赤く、痛みがあった。めまいがあり、吐き気があった。吐物は緑がかっており、水分が多かった。14日経って目はやや回復した。今月(3月)初めになって再び目がよく見えなくなった。文字がよく読めなくなった。体力がすっかりなくなり、歩くこともできなくなって仕事を辞めた。味がわからなくなり、食べものはみな同じ味がした。舌は麻痺していた。歯茎には痛みがあった。頻繁に唾を吐いて口を拭いた。(入院の)2、3日前に舌のしびれはなくなった。1週間前には耳がほとんど聞こえなくなっていた。また、両手は麻痺していた。3、4日前からは両足も麻痺している。5日前に浣腸を処方して後に気を失い、約20分間意識不明であったが、よいいびきはかいていた。体力は日に日に衰弱している。
 患者は見事に育った体格である。表情がやや落ち込んでいるが、本人は身体に何が起きているかを意識しているようである。頬にはやや赤みがあるが、時おり青白くなる。目の周りが暗い。虹彩は拡張しているが、左右とも光に反応する。結膜がやや赤い。強膜はやや黄色い。まぶた落ちや斜視はない。呼吸は正常(20)。皮膚は温感があって乾いているが、手足は冷たい。脈(60)は正常で、かなりの流量がある。唇は乾いている。歯茎はやや腫れていて白い。舌は正常であり、湿っていて、舌尖背部は白い苔でおおわれている。吐息は臭く、それは最初の患者(C. U. 30歳)の症例を思い起こすものである。食欲は、少しはある。のどの渇きが強かったが今はそうでもない。20日から便通がない。尿量は正常で、やや淡白。比重 1.011でたんぱくはない。頭痛や身体の痛み、目まいはない。口の中がいやな味がするといい、真ちゅうを舐めているようだという。体表面に赤発はない。腹部は膨らんでいない。唾液腺は拡張していない。括約筋は正常に機能する。目がやや見えにくいが、それは両眼で起きている。聴力は完全に消失している。耳の近くで、大声で叫んでも聞こえない。発声の機能、味覚、嗅覚も深刻に失われている。手足に触れるとわかるようであるが、触感覚もかなり失われている。足は冷たいが、本人は熱く感じているようである。四肢は動くが、ゆっくりとしか動かせない。ものをよくつかめない。手を結ぶのに時間がかかる。両手の状態に差異はない。つま先は硬直していない。入院するとき、歩くのに両足を引きずったという。
 3月26日 耳が全く聞こえない。紙に書かれた質問には正確に答えるが、質問はよく見えていないようであり、発音も不明瞭である。
 3月29日 手を自ら望む位置にもって行けない。ものをつかむことはできるがきわめて不完全である。
 4月3日 知能が低下しているようである。よだれを垂らす。3月31日以来便通がない。排尿を行うことはできた。睡眠も食事もできている。
 4月7日 ここ 2、3日ベッドの上で座るのに支えがないとできない。今日は支えがあっても座ることができない。ものを飲み込むことが困難である。
 4月10日 耳が聞こえず、しゃべることができない。視力と味覚はあるようである。両手両足の感覚と動きは衰えている。手を自ら望む位置にもって行けない。
 4月12日 尿を失禁した。
 4月24日 症状は悪化しており痩せている。皮膚にやや黄疸がみられる。腕を目的もなく動かし、白痴のようである。ものをつかむ力がない。つま先はさらに硬直している。足はよく動かせない。四肢の感覚は喪失しているようで動きがなくなっている。食欲はあるがものを飲み込むことがさらに困難になっている。皮膚は時としてまた場所によって冷たい。脈は68で流量もある。舌を出すことができない。便通はある。尿を失禁し続ける。尿は比重 1.017でアルカリ性。たんぱくはない。三リン酸塩結晶が見られる。
 4月27日 この2日間狂騒状態にある。時おり暴れて叫び声をあげる。白痴のように大声で泣く。あるいは笑う。時おりベッドから出ようとする。そのあと静かにしている。両脚はベッドに結びつけてある。足に触れると、もがいて大暴れする。依然として耳は聞こえない。意識はある。頻繁にしゃべろうとする。最初の患者(C. U. 30歳)の動きと非常によく似ている。
 5月12日 衰弱して痩せている。ものを飲み込めず、食べものを拒絶する。表情が白痴のようである。時おり周囲の人びとを認識するようである。暴れる。特に足に触れると大暴れする。しゃべろうとして支離滅裂な発音をする。この 2、3日両眼の結膜に粘膜化膿性の炎症がある。吐息は悪臭がある。歯茎はやや膨らんで腫れている。便と尿を失禁する。仙骨の外側の皮膚は赤いが傷はない。
 6月4日 誰をも認識しない。暴れ方は少ないが、頻繁に四肢を激しく投げつける動きをする。支離滅裂に泣いたり、笑ったり、吠えたりする。結膜の炎症はやや収まった。
 7月4日 以前と変わりはない。やや食欲があり、体重はやや回復している。白痴のようであることには変わりない。誰をも認識しない。耳が聞こえず、言葉もしゃべることができない。つぶやき、叫び、笑い、頻繁に暴れる。四肢を発作的に動かす。昼夜昏睡と狂騒をくり返す。便秘がある。便と尿を失禁する。
 患者は1866年4月7日に死亡した。その 2、3日前までおよそこれまで記録した状態であった。直接の死因は肺炎であった。それまで時おり一時的には改善が見られたが、いつも悪化した。全体として回復することはなかった。
 死後40時間経って解剖が行われた。
 非常にやせ衰えていた。貧血症であった。虹彩の拡大が左右で異なっていた。
 くも膜の層で脳のしわがきわめて深い。脳脊髄液の量は正常。灰白質にやや赤みがある。脳全体のくも膜がややくすんでいる。脳と脊髄の重量は 41オンスであった。
 肺炎の症状を除いて、胃が大きく拡張していた。小腸は充血していた。腎臓は、髄質の血管が錯綜しており腎皮質の体積が増大していた。充血斑が見られた。腎盂と腎杯に充血が見られた。

 以上二つの症例のうち、特に第二の患者(S. T. 23歳)は症状が純粋にメチル水銀のものであると思われる。第一の患者(C. U. 30歳)にはてんかんと梅毒があったからである。ただし、メチル水銀に短い期間でも触れると、長い潜伏期間を経て劇症化する点では、二つの症例は共通していた。初めは、気分の落ち込みと無気力、全身の衰弱、目まい、食の衰え、視覚の異常が長く続く。続いて突然、中枢神経が激しく影響を受ける。発作の形で認知障害が起きる。感覚が激しく侵され、特に聴覚に異常が起きる。また、独特の震えが襲う。
(以下略)


 ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状は水俣市でその後見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。
 現在この「ヘップ論文」[8] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。
 以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] 及びドイツのヘップ論文を載せる『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)[8] によって、日本国内では遅くとも1927年までには公知となり、たとえば後者 [8] は、熊本大学附属図書館には1931年3月30日に収蔵された(当時は熊本醫科大學圖書館が購入)。
 熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流しはじめたのは、それより後の1932年(昭和7年)5月7日(土曜)である。
 水俣灣沿岸でメチル水銀中毒の患者が出はじめたのは戦前の1935年(昭和10年)ごろであった。
 では、日本人は、アセトアルデヒドを製造するとき有機水銀が副生して廃液の中に含まれていることをいつ知ったのであろうか。



第三章

日本人は有機水銀が副生する事実をいつ知ったか

省略





第四章

有機水銀はなぜ流されたか


8.日本窒素創業してカーバイドを製造(水俣村1908年)

目次へ戻る

17

宮城紡績電燈株式會社 1900年(明治33年)
現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所 (仙台市青葉区)

     

32

紡電發電所と山三カーバイト製造所 1902年(明治35年)

     



01

   

トーマス・ウィルソン
Thomas Willson 1860-1915
カルシウム・カーバイド製法を発明


  
 宮城県仙台市内には広瀬川が流れている。広瀬川流域の桜の名所の一つに「三居沢」(さんきょざわ)がある。三居沢は市街地に近く、仙台市民の憩いの場となっている。
 一關(いちのせき)藩士であった菅克復(かんこくふく 1837-1913)は、1879年に三居澤に紡績工場を設立した。紡績は明治日本の重要な産業であった。三居澤紡績工場は動力として 40馬力の水車を使った。1888年に三居澤紡績工場はその水車に出力 5キロワットの直流発電機を接続した。かくして、三居澤は日本の水力発電発祥の地となった。
 そのころカナダでは1892年にトーマス・ウィルソン(Thomas Willson)がカーバイド(Ca2C2)を安価に製造する方法を見出した。それは石灰岩(CaCO3)と石炭(C)を混ぜて、電気炉の中で 2,000℃程度の高温で加熱するだけで大量に製造できるというものであった。
 カルシウム・カーバイドに水をそそぐとアセチレンガスが発生する。アセチレンガスは燃えて明るい光を出すので、ガス灯や夜店の照明、漁船の照明などに、確実に需要があった。
 1899年に三居澤では紡績工場が「宮城紡績電燈株式會社」となった。これが現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所の前身である。



07

野口遵 1873-1944
日本窒素肥料株式會社を創業


   
  
 日本窒素肥料株式會社の創業者野口遵(のぐちしたごう)は加賀藩士の家に生まれた。1896年に東京帝國大學工學部電氣工學科を卒業した。ドイツ・ジーメンス社の日本支社(東京)に勤務した。1900年にジーメンス日本支社は出力 300キロワットの交流発電機を宮城紡績電燈に納入した。その発電機はジーメンス社とシュッケルト社が共同製作したものであった。そのときジーメンス社から宮城紡績電燈に派遣されたのが野口遵である。
 ジーメンス社は、ウェルナー・フォン・ジーメンス( Werner von Siemens 1816-1892)が自励式交流発電機を発明して起業した電機会社である。シュッケルト社は、シグムント・シュッケルト(1846-1895)とアレクサンダー・ワッカー(Alexander Ritter von Wacker)が共同で創業した電機会社である。
 野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーが独立して「コンソルティウム社」という化学会社を創業し、ウィルソン法でカーバイドを製造する計画であることを知った。野口遵はジーメンス社を辞めると、1902年に宮城紡績電燈の主任技師であった藤山常一と二人で、発電所の庭先でカーバイドの製造をはじめた。その商品名は「山三カーバイト」であった。これによって、三居澤は日本の工業化学発祥の地ともなった。カーバイドの製造は首尾よくできたが、大量に製造するには三居澤の発電量では不足していた。カーバイドは依然として高価な輸入品であった。



17

曾木第二發電所遺構 
(鹿児島県伊佐市 2012年撮影)

  



17

曾木第二發電所の発電機 4基 
(1909年竣工)


  





01

  

アレクサンダー・ワッカー
Alexander Ritter von Wacker 1846-1922
コンソルティウム社とワッカー・ケミー社を創業


  
 1905年に野口遵はベルリンにジーメンス社の重電機部門を訪ねた。その目的は水力発電機を購入することであった。すなわち、鹿兒島縣の川内川(せんだいがわ)で電力を起こし、近くの大口(おおくち)、牛尾、新牛尾の金鉱山に照明用の電力を送ることと、また単独でカーバイドを製造することであった。日本の西の半分は、ドイツ・ジーメンス社と米国・ウェスティングハウス社との協定で、米国標準の 60ヘルツの電力が供給されることになっていた。ジーメンス社の発電機は、出力周波数がヨーロッパ標準の 50ヘルツである。しかし、野口遵はジーメンス社の発電機を購入した。野口遵はジーメンス社でカーバイドが窒素肥料の原料にもなることを聞きおよぶ。
 1906年10月1日に野口遵は 20萬圓(当時)を投じて川内川上流で伊佐郡大口村(当時)の「曾木(そぎ)の瀧」の少し下流にジーメンス社の設計になる曾木第一水力發電所を完成した。曾木第一發電所は発電機を 2基有していたが、1基だけで出力が 800キロワットあり、国内で最大であった。
 大口、牛尾、新牛尾の三鉱山では合計でも 200キロワットの電力しか消費しなかった。近隣地域の電燈としての消費分も合計で 600キロワットにおよばなかった。野口遵は電力を近くの熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)に送り、そこでカーバイドを製造することを計画する。
 1908年4月 野口遵は、ジーメンス社がカーバイドを原料として化学肥料である石灰窒素(CaCN2)を合成することに成功したと聞き、すぐにドイツへ渡航した。アドルフ・フランク(1834-1916)とニコデム・カロー(1871-1935)がジーメンス社とドイツ銀行の資金でその技術を開発していた。石灰窒素を合成する技術(フランク・カロー法)は、カーバイドを窒素ガス中に置いて電気炉の中で 1,000℃程度の高温で加熱すると石灰窒素ができるというものであった。石灰窒素はさらに高温の水蒸気と反応させるとアンモニアを発生する。アンモニアはさらに最先端の化学肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の原料となる。野口遵はフランクとカローに 40萬圓を支払って日本での実施権を購入した。
 1908年(明治41年)8月20日(木曜)に野口遵は 100萬圓を投じて水俣村の古賀川河口に「日本窒素肥料株式會社」を設立した。日本窒素は1908年8月31日から曾木發電所からの電力で電気炉を加熱し、石灰岩と石炭を原料としてカーバイドを製造した(ウィルソン法)。
「私が(日本最初のカーバイド製造所がある)仙台からこちらに来たのが明治40年(1907年)だったろうと思います。(カーバイド工場は)まだできていませんでした。(その翌年できたカーバイド工場の)場所は、今の(新日本窒素肥料株式会社)炭素工場です。こちらのカーバイドは立方(たちかた 性能)が悪くてよく売れなかった。私は、立方をよくするためだいぶ苦労しました。木炭でカーバイドを造っていた」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
 従業員約 70名。月産約 15トンであった。原料の石灰石は水俣村周辺の不知火海沿岸で良質のものがとれた。また、石炭は水俣村の対岸の天草で「無煙炭」という良質の瀝青炭(れきせいたん)がとれたが、最初は代わりに 1日 300俵の木炭を用いた。ヨーロッパではすでにドイツのワッカーが1903年にコンソルティウム社を設立してカーバイドを製造していたが、日本窒素は、それに 5年遅れたものの、日本最大のカーバイド製造会社となった。
 日本窒素は、1908年11月にはフランク・カロー法による石灰窒素(窒素肥料の一種)の製造をはじめた。
「(石灰窒素の製造は)私もよく知らなかったのですが、れんがを積んでいるものですから、社長(野口遵)に何をしているのですかと聞いたら、窒素肥料をはじめる。原料はカーバイドだということでした」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
「(石灰窒素の製造は)ミルでカーバイドを粉砕して、直径三尺くらい、高さ一間くらいの釜の中に入れる。釜の形は茶壷のようでした。二重釜になっていまして、そのまわりにカーボンを入れて電気を通じる。木炭ガスを吸収させて、約 24時間くらいして茶壷を上に引きあげるとできていました」(徳富季彦・元肥料係組長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
 古賀川河口にできた工場は、曾木發電所のようにれんが造りであった。一方、曾木の瀧の近くでは1909年に第二發電所が竣工し、水俣工場に 6,000キロワットの電力を供給した。曾木發電所は、ジーメンス社の交流発電機を用いていたので、その出力周波数は、現在の東日本と同じくヨーロッパ標準の 50ヘルツであった。以後、水俣工場、社宅、水光社(すいこうしゃ 1920年創業の水俣工場従業員の消費組合)、宮崎縣の延岡(のべおか)工場(現在の旭化成株式会社延岡工場)、附属病院(当時)などの施設は、西日本の米国標準 60ヘルツの世界にあって、21世紀の現在に至るまで 50ヘルツの孤島をなした。
 野口遵は1915年に古い塩田跡地に新工場を建設しはじめた。新工場は硫安を年産 5万トン製造するものであった。このとき従業員数は 1,000名を超えていた。1914年に勃発していた第一次世界大戦で外国産の化学肥料の輸入が途絶えて硫安の価格は以前の 3倍に急騰した。日本窒素は好況の中で周辺の農漁村から安価な労働力を吸収し、1920年に従業員数は 3,000名近くとなった。周囲の農村は貧しかった。わずかな農地で細々と暮らしていた。日本窒素に臨時の工員として雇われた者でも「かいしゃ行き」として周囲の住民に羨望の眼で見られた。むらのむすこの採用が決まると家では赤飯を炊いた。


9.毒性に勝る利点はあったか(米国イリノイ州1920年)

目次へ戻る

 1887年にドイツのヘップは梅毒の治療を目的として患者の前腕に 1パーセントのジエチル水銀を 1CC 皮下注射した。患者は気分が悪くなって注射を受けつけなくなった。その一方、動物実験できわめて強い毒性が認められた。ヘップは、前記したとおり、『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。
 有機水銀の危険性は、『聖バーソロミュー病院報告書』 [4-5] と『化学ニュース』 [6-7]、ヘップ論文 [8] によって、欧米でよく知られるようになっていたが、第一次世界大戦(1914-1918年)と前後して、有機水銀には農業や医療の分野で毒性に勝る有用性があるのではないかと期待された時期がある。
 1914年にドイツで有機水銀の毒性を利用して穀物の防腐剤が開発され、バイエル社は「ウスプルン」(商品名)として発売した。
 1919年に米国ジョンス・ホプキンス大学病院のヒュー・ヤング(Hugh Young 1870-1945)は有機水銀の微生物に対する毒性を利用して皮膚の消毒剤として「マーキュロクローム」を開発した。1998年に米国食品医薬品庁(FDA)が水銀中毒の可能性を指摘したので現在マーキュロクロームは米国では使われていない。
 一方、当時欧米の自由な研究者の多くは有機水銀の危険性が絶望的であることに気がつき始めていた。



33

ウォーレス・カロザース(左)とカール・マーベル(右)
スコー(Squaw)湖でカワカマスを釣り上げた(1935年)
写真 http://www.chemheritage.org/


   
  
 カール・マーベル(Carl S. Marvel 1894-1988)とウォーレス・カロザース(Wallace H. Carothers 1896-1937)は、それぞれ高分子化学と「ナイロン」の発明で世界的に著名な研究者である。マーベルのイリノイ大学における最初の研究は有機合成化学であった。マーベルは、そのうち有機水銀中毒によって頭痛や目まい、吐き気など、耐えがたい自覚症状に悩まされた。マーベルの自覚症状はやがて研究を続けることができないほどになり、高分子化学に転向してしまった。マーベルは、「もし誰かが実験棟のホールの2階下で有機水銀入りの瓶のふたを開けたら、それだけで俺は頭が痛くなる」と言い残している。



01

   

アーノルド・ベックマン
Arnold O. Beckman 1900-2004


  
 マーベルの高分子研究室にカロザースがいた。マーベルは、その後 E. I. デュポン社で技術顧問としてカロザースと仕事をしている。また、ノートルダム大学に移り、ジュリアス・ニューランド教授とも仕事をしている。カロザースは優れた才能をもつ化学者であったが、結婚後 41歳のとき娘の誕生を見ないまま自殺した。
 アーノルド・ベックマン(Arnold O. Beckman)は「pHメーター」の発明で知られる。ベックマンはイリノイ大学で、最初はカール・マーベルの指導下で有機水銀(ジプロピル水銀、イソプロピル水銀)の研究をしていた。1920年秋になるとマーベルと同様に頭痛や目まい、吐き気など、有機水銀中毒の自覚症状に悩まされた。クリスマス休暇でやっと帰省できたが、研究室に戻ると、再び耐えがたい自覚症状に襲われた。そこで、それまでの有機化学から物理化学へ転向してしまった。



10.有機水銀が副生する事実は日本でいつ周知となったか(東京1922年)

目次へ戻る

 越智主一郎と小野澤與一は、『工業化學雜誌』(1920年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドの製造に就て」と題して論文を発表し [14]、次のように述べた。


越智主一郎、小野澤與一 『工業化學雜誌』 第23巻 (1920年)(第938頁 第1-5行)[14]

 斯(か)くして硫酸第二水銀の硫酸溶液にアセチレンを通ずれば直に白色結晶沈澱を生じて液は白濁し更にアセチレンの吸收を進むる時は該白色沈澱は漸次灰色に變化す茲(ここ)に形成せらるゝ白色沈澱はアセトアルデヒドと硫酸水銀との化合物にしてドニゲ氏に據(よ)れば

SO4(HgO)2HgO2H4O

の組成を有すと稱せらる而して水銀鹽のアルデヒド誘導體は次で加水分解を受けてアセトアルデヒドを生成し水銀鹽を遊離するものなり故に其反應は結局アセチレンと水との化合にして左の方程式を以て表示することを得べし

HC:CH + HOH = CH3CHO



 ここで越智主一郎等はクチェロフの水銀法を用いてアセトアルデヒドを製造する過程で何らかの有機水銀が副生する事実を示唆している。
 一方、米国の前記ジュリアス・ニューランド教授は、『米国化学会誌』(1921年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表し [15]、「そこで本研究では、種々の水銀塩を酸に溶かし、それぞれ異なった温度と濃度で用いてみた。その場合に、アセチレンがどのように反応するか、その反応の程度と持続時間について検討した。この目的のためには、硫酸水銀を希硫酸に溶かしたものが触媒としての経済性と触媒としての性能、反応の持続性の面からみて最適であることが見出された。しかしながら、これらの溶液の中で、水銀が硫化物の形で長く存在することはなく、ある有機水銀に変性され、その有機水銀が触媒として作用するということを見出したものである」と述べた。(It was found, however, that in these solutions, the mercury did not longer remain in the form of the sulfate but was converted to an organic compound, and this compound acted as the catalyst.)


22

J. ニューランド米国化学会誌 第43巻 第7号 第2071頁 (部分)[15]




06

   

米国化学会誌第43巻 第7号 中表紙(部分) (1921年)
「熊本藥學專門學校圖書課印」「昭和5年12月6日受入」の刻印


  



06

工業化學雜誌 第25巻 第980頁 (部分)(1922年)


   
  
 ニューランドの『米国化学会誌』(1921年)の内容は、国内で翌1922年に『工業化學雜誌』に抄訳が掲載された [16]。その中で「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此(こ)の者の接觸作用により反應は進行する」と報じられた。『工業化學雜誌』(1922年)は、熊本大学附属図書館には1927年に収蔵され(当時の熊本藥學專門學校圖書課が購入)、「熊本藥學專門學校圖書之印」「昭和2年11月16日受入」の刻印がある。



06

   

工業化學雜誌 第25巻 中表紙 (1922年)


  
 以上にあげた書籍、文献などは、すべて日本窒素がアセトアルデヒドの製造を開始した1932年5月7日(土曜)よりも前から国内に存在していた。有機水銀の副生は日本語で広く読まれ、日本人の間ですでに「周知」であった。では、日本窒素はなぜ、どのようにして水俣町(当時)でアセトアルデヒドを製造したのであろうか。



11.アセトアルデヒドの製造(水俣町1932年)

目次へ戻る

 第一次世界大戦終結から間もない1920年1月、野口遵はドイツへ渡航し、アドルフ・フランクを訪ねた。その目的はフランク・カローの石灰窒素製法の日本での実施権の期限を延長するためであったが、野口遵の渡航の真の目的はヨーロッパで新しい技術を物色することであった。野口遵はフランクからイタリアのルイギ・カザレー(Luigi Casale 1882-1927)が「アンモニア(NH3)の直接合成」に成功したと聞きおよぶ。「やはり戦争は技術を進歩させる」これが野口遵の感性であった。
 カザレーによるアンモニア直接合成法は、文字どおり水素(H2)と窒素(N2)に高い圧力を加えてアンモニア(NH3)に直接変えてしまうという画期的な技術であった。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)の原料である。それまで水俣工場では、アンモニアを製造するのに、まず石灰岩と石炭を電気炉で約 2,000℃で焼いてカーバイドを製造し、つぎにカーバイドを窒素中で約 1,000℃で焼いて石灰窒素を製造し、さらに石灰窒素を高温の水蒸気と反応させて製造していた。その全過程を消し飛ばして水素(H2)と窒素(N2)を直接反応させてアンモニアを製造するのが「カザレー法」である。水素(H2)は水を電気分解することによって大量に製造することができる。また、窒素(N2)は空気を電力で圧縮冷却して大量につくることができる。すべての資源は日本にある。
 野口遵はイタリアのテルニー郡ネラ・モントロの町(ローマの約 100キロメートル北)にカザレーを訪ねた。カザレーは野口遵を実験室に案内し、アンモニアの直接合成をやって見せた。巨大な圧縮機が回転した。当時の配管は貧弱であった。数百気圧の圧力がかかる。配管は何回か破裂した。しかし、カザレーは野口遵に少量のアンモニアを製造して見せた。「これはひょっとするとものになる」(野口遵)。野口遵はカザレーから技術を購入するためその場で 10萬圓(当時)を支払い、後日 90萬圓を支払って「カザレーのアンモニア直接合成法」の実施権を購入した。
 1923年9月、野口遵は宮崎縣の延岡町(当時)に日本窒素肥料株式會社延岡工場を建設し、カザレー法によるアンモニアの直接合成の実験をはじめた。それが現在の旭化成株式会社の前身である。
 1926年12月25日、野口遵は水俣工場でカザレー法による本格的なアンモニアの直接製造装置を完成させた。アンモニアの収量は日産 20トンであった。装置は藏前にあった東京高等工業學校(現在の東京工業大学)を卒業したばかりの橋本彦七が工夫して設計したものであった。それは「日窒方式」(にっちつほうしき)とよばれた。圧縮機が回転すると 800気圧もの高圧が加わる。当時の日本にそれだけの高圧に耐える部品などは存在しなかった。イタリアからカザレー博士が水俣工場に技術指導に来たが、カザレー博士もイタリアの研究室での経験しかなかった。水俣工場では頻繁に爆発事故が起きた。一瞬にして工場の屋根ガラスを吹き飛ばすこともあった。周囲の人びとも果たして町が吹き飛ぶのではないかと恐れた。
 日本窒素は、最初はカーバイド工場でしかなかったが、カザレー法の導入によって多種類の製品を出荷するようになった。アンモニアは硫安の原料になっただけではなく、硝酸、ニトログリセリン、レーヨンの原料にもなった。1928年に野口遵はドイツのベンベルグ社から銅アンモニアレーヨンの製造販売権を購入して「ベンベルグ」の商品名で製造しはじめた。日本窒素は五ヶ瀬川、阿蘇白川などにも発電所を建設し、1928年に総発電量は 50万キロワットとなっていた。九州にあって、すべて東日本標準の 50ヘルツであった。



26

   

ワッカー・ケミー社ブルクハウゼン工場 (1920年)


  
 一方、ドイツではアレクサンダー・ワッカーが1903年からコンソルティウム社でカーバイドを製造していた。ザルツァッハ川の流域にあるブルクハウゼンの森を工場用地として購入した。1912年から水銀を用いてアセトアルデヒドの試験的な製造をはじめていた。「コンソルティウム」は英語の「コンソーシアム」(企業合同体)のことである。ヨーロッパ各国の化学会社が共同出資して設立した会社であった。1914年ワッカーは、ブルクハウゼン工場をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。1916年12月にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの大量生産をはじめ、同時に本社をミュンヘンに移した。当時ワッカー・ケミー社は工員約 400名と事務員約 50名を擁していた。



27

ワッカー・ケミー社ブルクハウゼン工場 (1930年)


         
  
 当時は世界市場でアセトアルデヒドは需要がひっ迫していた。それを製造する会社は少なかった。1917年にカナダではシャウイニガン化学会社がセントローレンス河畔でアセトアルデヒドの製造をはじめた。ドイツではヘキスト社が1917年にフランクフルトでアセトアルデヒドの製造をはじめた。ヘキスト社は1919年にナップサック工場でもアセトアルデヒドの製造をはじめた。
 水俣工場では、カザレー式のアンモニアの直接合成が成功し、アンモニアの原料としてのカーバイドは大量に余っていた。野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーがアセトアルデヒドの大量製造に成功し、ワッカー・ケミー社が大発展していることを知っていた。日本では、当時アセトアルデヒドは高価な輸入品であった。
 野口遵は新財閥である「日窒コンツェルン」の総帥としてヨーロッパの技術によく精通していた。日窒コンツェルンは他の財閥とは異なり、独自の鉱山をもたない。資源をもたないので、ヨーロッパの最新の技術を導入して旧財閥と対抗するしかない。野口遵はカーバイドを原料とし、水銀を用いてアセトアルデヒドを製造することを決断する。水俣工場には大量のカーバイドがある。



42

   

朝鮮窒素肥料株式會社興南工場 


  
 1925年に野口遵は朝鮮半島に進出し、1926年に朝鮮水力電氣株式會社を設立した。1927年に朝鮮窒素肥料株式會社を設立した。化学肥料の製造は、戦時下においては重要な軍需産業である。軍部は、野口遵の事業を「朝鮮における軍事工業基地」と見なした。野口遵は、大日本帝國朝鮮總督府の庇護のもとで、鴨綠江水系に赴戰江發電所など大規模な発電所をいくつも建設する。赴戰江の水を落差1キロメートルで日本海側へ落とした。そのようにして 20万キロワットの電力を起こした。また、世界一を誇るソヴィエト連邦のドニエプル発電所(31万キロワット)を凌駕して出力 32万キロワットの長津江系發電所を完成した。また、咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成した。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われた。敷地の広さは約5百万坪(水俣工場の約 50倍)、従業員は約 4万5千名であった。興南工場では、年産 40万トンを超える硫安などの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造された。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設された。興南には、以前はさら地でしかなかったところに、人口 18万人のアジア最大の化学工業都市が出現した。
 一方、アセトアルデヒドの製造実験は、宮崎縣の日本窒素延岡工場(現在の旭化成延岡工場)で行われた。延岡工場では実験室で日産 20~30グラムのアセトアルデヒドを製造した。
 そのころの日本は、國家総動員體制を強化して、ひたすら戦争に向けて突き進んでいた。その背景には、第一次世界大戦の戦訓から、戦争における勝利は、国家が総力戦の体制をとることが必須であるという認識が深まりつつあった。1918年に軍需工業動員法が制定された。それによって戦時下における軍需工場の管理、収用と労働者の徴用、平時の工場調査と軍需工業の保護育成が規定された。その統轄のために内閣総理大臣のもとに軍需局がおかれた。1926年には陸軍省に整備局、翌年内閣に資源局がおかれた。アセトアルデヒドは重要な軍需物資であった。



45

水俣灣と水俣工場、百間排水溝  1932年(昭和7年)


  
 1928年5月、日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒド製造のパイロットプラントをつくった。パイロットプラントは、くり返し爆発し、何年も稼働するに至らなかった。そのような工場にも、1銭5厘の葉書一枚で地域から多くの工員が集まった。地域には他に目ぼしい産業はなく、何十倍もの就職志願者が応募した。工場で働くことは一兵卒として戦地に赴くことと同じか、あるいはそれよりよいと考えられた。工員は採用面接のとき製造課長の橋本彦七から爆発してよいか、死んでもよいかと聞かれて、死を覚悟していると答えた志願者が採用された。日本人の命の値段は高くなかった。お國のためならただ同然であった。
 1932年5月7日(土曜)に日本窒素はアセトアルデヒドの製造をはじめた。
 水俣工場の南側に現在も百間(ひゃっけん)排水溝がある。当時の百間排水溝は小さな小川で、「明神﨑」(みょうじんがはな)という小高い、小さな半島の南のふもとに工場から水俣灣へ深く掘って通じていた。有機水銀は、その排水溝を通って水俣灣へ直接流れはじめた。これによって、メチル水銀による自然に対する破壊、人間の身体と生命に対する破壊、人間の尊厳に対する破壊、そして地域社会に対する破壊がはじまっていった。



42

   

水俣湾から見た不知火海 
遠くに天草の島じまが浮かぶ 


  
 アセトアルデヒドの第一期の製造設備は日産 5トン、第二期の製造設備(1933年4月稼働)も日産 5トン、第三期の製造設備(1934年10月稼働)も日産 5トン、第四期の製造設備(1935年9月稼働)も日産 5トン、第五期の製造設備(1937年4月稼働開始)は日産 10トンであった。製造設備はいきなり本番稼働のもので、労働災害は頻発した。劣化した硫酸母液を入れ替える作業、廃棄作業は常態的に行われた。硫酸母液は排水溝にそのまま捨てられた。排水溝には、金属水銀がぎらぎらとたまった。有機水銀廃液もそのまま水俣灣へ流された。
 日本窒素はこのアセトアルデヒド事業を足がかりに、第二次世界大戦前に総資産で現在の評価額約 50兆円の大会社として発展していく。「日本窒素の如き大工場設備は、如何に政府の力をもってしても、戰爭が始まったからといって一朝一夕につくることはできない。假に建物や機械ができたとしても、これに生命を與ふべき技術經験等の人的資源はこれを如何ともすることができない。聖戰下における日本窒素はいまや一營利會社としてこれを見るべきでなく、一大總合國策會社といふべきであらう」(日本窒素『日本窒素肥料株式會社事業槪要』1940年5月5日)
 日本窒素はその間に、宮崎縣の延岡工場(現在の旭化成延岡工場)、朝鮮の鴨綠江河畔の朝鮮窒素肥料株式會社などを含めると、従業員の数は 8万名に達し、化学会社の規模として世界第二の地位を築く。1941年11月3日に日本窒素水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールの製造をはじめた。塩化ビニールの可塑剤の原料として大量のアセトアルデヒドが必要になった。その製造の過程でさらに大量のメチル水銀が水俣灣に流れ込んでいった。
 戦後の1950年1月31日に日本窒素は財閥解体によって資本金4億円の新日本窒素肥料株式会社となった。そのとき海外や延岡工場(現在の旭化成延岡工場)を含めた総資産の 8割を失った。しかし、同年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となって復興が進んだ。
 1952年に生産を開始したオクタノール(オクチルアルコール)は需給がひっ迫した。以後、新日本窒素は 10年間にわたって国内のオクタノール市場をほぼ完全に独占した。仮に新日本窒素によるオクタノールの供給が停止するとわが国の繊維産業などは立ちゆかなかった。戦後の荒廃からようやく立ち直って少しずつ成長をはじめた日本の産業にとってそれは大きな打撃となる。深刻な経済恐慌さえも起こりかねない。当時日本の経済はひ弱であった。オクタノールを製造するにはその原料であるアセトアルデヒドが必要であった。この事業は、新日本窒素水俣工場にとって、そして復興しはじめた日本経済を維持しようとする日本国政府にとって、なくてはならない事業であった。新日本窒素はそのようにして再び日本を代表する化学会社として甦っていった。
 日本国政府は、その一方で、化学工業の分野では、1955年から新しく石油化学工業第一期計画を立てて具体化をはかっていた。日本の化学産業を石油化学化しなければ、将来日本経済が発展することはない。その計画によって、新居浜、岩国、四日市、川崎の四つのナフサセンターが1959年までには稼働した。この日本国政府主導の石油化学工業は、将来はカーバイド・アセチレンを用いた新日本窒素の伝統的な化学工業よりも圧倒的に有利となることがわかっていた。しかし、日本国政府は、石油化学工業が本格的に稼働する1968年までの間にわが国の経済成長を維持するため、新日本窒素水俣工場に、たとえ周辺地域にメチル水銀中毒患者が多発することがわかっていても、カーバイド・アセチレンを用いた伝統的な方法によって基本的な工業原料であるアセトアルデヒド、酢酸、オクタノール、塩化ビニールを継続して製造させた(新日本窒素肥料株式会社は、1965年1月にチッソ株式会社と改称した)。



第五章

大学は地域社会を「知」によって守るべき責任をどこまで有するか

省略





おわりに

目次へ戻る

 メチル水銀中毒は、1865年(日本では幕末の元治2年)にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたのが最初です。その事実は早くから国内に伝わっていました。アセトアルデヒドの製造廃液に有機水銀が含まれることは、明治の日本にも伝わっていました。日本窒素がアセトアルデヒドの製造をはじめた1932年(昭和7年)には、その製造廃液に有機水銀が含まれることは国内でも周知でした。したがって、水俣町(当時)で有機水銀中毒が発生することは、日本でも専門家であれば当然払うべき「ほんの少し」の注意を払って調べてみるだけで、予見することが可能でした。
「ハンター・ラッセル症候群」は、死後の解剖学上の症状です。日本では生前の「臨床所見」と取り違えてメチル水銀中毒判定の根拠として利用されてきました。
 生前の臨床学上の症状を、筆者は「ロンドンの聖バーソロミュー病院で世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」とよびます。
「水俣病」は、学術用語でも医学用語でもありません。それは今日存在してはならない差別用語です。正しい病名は「メチル水銀中毒」です。
 現在、メチル水銀中毒とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものと考えられています。これが、メチル水銀中毒の現在の科学的な定義です。この科学的な定義をそのまま適用すると、水俣市のメチル水銀中毒の患者は、1932年5月7日にまでさかのぼって、水俣湾と不知火海沿岸などを中心に、熊本県と鹿児島県の山間部を含めた全域と、住民の転出先の全国に広く分布し、死者を含めると、数十万人を超えるでしょう。
 日本窒素が1932年(昭和7年)にアセトアルデヒドの製造をはじめたとき、その1932年に有機水銀中毒の発生を予見すべきでした。そして、その予見に基づいて、日本窒素に対して廃液を海や川に流さないように勧告して有機水銀中毒の発生を回避すべきでした。
 水俣の美しい自然。美しい山々。そして豊かな海。その中で貧しくともつつましく道徳的に生きてきた人びと。悠久の昔からいく世代も守られてきた暮らし。
 筆者は真に申し訳なく、それは残念の至りです。




目次へ戻る


謝辞

 本書を作成するにあたり、熊本大学水俣病学術資料調査研究推進室ほか多くの皆さまに資料のご提供をいただきました。紙面を借りて御礼を申し上げます。本書に書かれた思想と表現に関する一切の責任は筆者に帰属します。

平成27年11月1日



引用文献

  1. 德冨蘆花(德富健次郎), 『死の蔭に』 (大江書房 1917)
  2. 入口紀男, 『メチル水銀を水俣湾に流す』 (日本評論社 2008)
  3. E. Frankland & B. F. Duppa,“On a New Method of Producing the Mercury Compounds of the Alcohol-Radicals.” J. Chem. Soc. London, 16:415-425(1863)
  4. George N. Edwards, "Two Cases of Poisoning by Mercuric Methide." St. Barth. Hosp. Reports, London, 1: 141-150(1865)
  5. George N. Edwards, "Note on the Termination of the Second case of Poisoning by Mercuric Methide." (Reports, vol .i .p.144.)" St. Barth. Hosp. Reports, London, 2: 211-212(1866)
  6. Chemical News; Paris editor, 12: 276-277(1865), T. Phipson, 12: 289-290(1865)
  7. Chemical News; Chemicus (Anonymous), 13: 7(1866), A. W. Hofmann, 13: 7-8 (1866), T. Phipson, 13: 23 (1866), An Assistant (Anonymous) 13: 35 (1866), A. W. Hofmann, 13: 35 (1866), T. Phipson, 13: 47 (1866), W. Odling, 13: 59 (1866), A. Schwarz, 13: 59 (1866), E. Reichardt, 13: 59-60 (1866), W. Odling, 13: 84 (1866)
  8. Paul Hepp, "Ueber Quecksilberäthylverbindungen und über das Verhältniss der Quecksilberäthyl-zur Quecksilbervergiftung." Archiv fuer experimentalle Pathologie und Pharmakologie, 23: 91-128 (1887)
  9. M. Kutscheroff, "Ueber eine neue Methode direkter Addition von Wasser (Hidratation) an die Kohlenwasserstoffe der Acetylenereihe." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft, 14: 1540-1542(1881)
  10. K. A. Hofmann & J. Sand, "Über das Verhalten von Mercurisalzen gegen Olefine." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 33: 1340-1353(1900)
  11. K. A. Hofmann, "Explosive Quecksilbersalze." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 38: 1999-2005(1905)
  12. J. A. Nieuwland & J. A. Magnire, "Reactions of Acetylene with Acidified Solutions of Mercury and Silver Salts." Journal of American Chemical Society 28 : 1025-1031(1906)
  13. (岩崎寄抄訳)「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用」『東亰化學會誌』27(7): 1232-1233(1906)
  14. 越智主一郎, 小野澤與一,「アセチレンよりアセトアルデヒドの製造に就て」『工業化學雜誌』23: 935-954(1920)
  15. Richard R. Vogt & Julius A. Nieuwland, "The Role of Mercury Salts in the Catalytic Transformation of Acetylene into Acetalydehyde and a New Commercial Process for the Manufacture of Paraldehyde." Journal of American Chemical Society 43: 2071-2081(1921)
  16. 内田, 「アセチレンよりアセトアルデハイドを作る場合の水銀鹽の作用並にパラアルデハイドの製造方法」『工業化學雜誌』25: 980-981(1922)
  17. H. Zangger, "Erfahrungen üeber Quecksilververgiftungen." Archiv für Gewerbepathologie und Gewerbehygiene 1(4): 539–560(1930)
  18. D. Hunter, R. R. Bomford, & D. S. Russell, "Poisoning by Methylmercury Compounds." Quarterly J. Med. 9: 193–213(1940)
  19. D. Hunter & D. Russell, "Focal Cerebral and Cerebellar Atrophy in a Human Subject due to Organic Mercury Compounds." J. Neurol. Neurosurg. Psychiat., 17: 235-241 (1954)
  20. W. F.Von Oettingen, POISONING - A Guide to Clinical Diagnosis and Treatment, W. B. Saunders, Philadelphia (1954)
  21. Angel Pentschew, "Intoxikationen." in O. Lubarsch, F. Henke and R. Rössle ed. "Handbuch der speziellen pathologeschen Anatomie und Histologie" 13(Part 2B): 1907-2502, Springer-Verlag, Berlin (1958)
  22. 熊本大学「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」(1959)
  23. 熊本県衛生部『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』(1960)


目次へ戻る






irig
入口紀男 (いりぐちのりお)
熊本大学名誉教授・東京工業大学特任教授

 1947年水俣市(当時熊本縣葦北郡水俣町)生まれ。九州工業大学・同大学院修士課程修了。旭化成・シーメンス社に勤務。米国イリノイ大学・教育厚生福祉省NIH研究員(1975-1978年)。熊本大学教授(2002-2012年)。熊本大学評議員・附属図書館長(2009-2011年)。工学博士(東京大学大学院工学系研究科)。




アマゾン社の登録商標