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奈良の大仏の金鍍金: 平城京は安寧の都であったか ?

石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. (公財)神奈川県予防医学協会

Abstract

 大仏の建設による人口集中と、アマルガム法による大仏と蓮華座に対する金鍍金は、作業者の重大な健康障害を引き起こす一方で、平城京と周辺地域の生活環境の悪化を引き起こしていた。その結果、平城京は万葉集に詠われたような安寧の都ではなく、現在の急速に発展した大都市が抱える問題点がすでに顕わになっていた。

  The Great Buddha of Nara was covered with gold by a method called the gold amalgam process. Several cases of severe poisoning by metallic mercury vapor occurred. It was suspected that the mercury concentration was over 4.00 mgHg/m3. The repeated prayers were performed, and changes during the nearly 10 years since the Great Buddha work led to the discovery of several serious health problems in people. A total of about 2.6 million workers(500,000 skilled workers and 2.1 million general laborers)were employed at the Great Buddha work over an 11-year period. Most of them were taken from various places by the authorities. The population of Heijo-kyo metropolis was estimated at about 100,000. Heijo-kyo and its vicinities experienced a rapid increase in the number of inhabitants and various environmental problems in daily life.

Keywords: metallic mercury, gold amalgam, plating

I.はじめに

 完成直後の奈良東大寺の大仏(正式には毘盧遮那仏 びるしゃなぶつ、以下大仏)と蓮華座には、全面に金鍍金が施されていた。六世紀から七世紀頃の日本は、政治の中心となる者の後継を巡る有力豪族間の抗争が絶えず、暗殺や内乱が繰り返されていた。他方、当時の朝鮮半島の政情は中国の影響もあって不安定で、その混乱の日本への波及を天皇を初めする為政者達は危惧していた。朝鮮半島より伝来した仏教に深く帰依していた聖武天皇は 743年に、仏法による国の安寧と発展を国是とし、その象徴として国家的事業により大仏を建設する旨の詔勅「大仏造立の詔」を発し、745年に大仏建立が始められた。大規模な土木工事の後、747年に鋳造を開始、本体と蓮華座の鋳造に 3年、頭部の鋳造と組み立てに 2年、仕上げと鍍金に 6年,計 11年を費やし 745年に大仏と蓮華座は完成した。
 鋳造に先立って始められた大仏と蓮華座を設置するための土木工事の詳細は不明である。鋳造は下部から上部に向けて進められた。すなわち、蓮華座から始まり、大仏本体を幾つかにわけ、外形と中子を設置した。周囲に土手を築き、土手の上部から溶解した青銅を流し込んで行く方法で順次進められ、鋳造完成時は大仏と蓮華座(以下大仏)は土で覆われていた [1]。大仏殿の建造は、大仏と蓮華座の鋳造が完了してから始められたと考えられている。鋳造作業は粗銅の溶解と錫の添加による青銅の製造、溶解した青銅の運搬と鋳型への流し込みという高温で危険な作業であり、災害が起きていた可能性が高いが、災害発生の記録はない。さらに、鋳造完了後に全体を覆っていた土は取り除かれたが、その際にかなりの粉塵の発生があったはずであるが、詳細は伝えられていない。
 鋳造作業は百済からの渡来者の子孫(国中公麻呂 くになかのきみまろ)の指導の下に、技術者 42万3千人、雑役夫 218万人(何れも延べ人員)が携わったとされている [1]。即ち、延べ約 260万人の人々が大仏殿周辺と平城京に集結したことになり、周囲の人口は一気に増加した。ほとんどの人は、徭役(ようえき)労働として全国から徴発されてきたと考えられるが、詳細は不明である。人口が増加すれば、建設地域の機能維持のための(食料などの)物資の必要量は増大しただけでなく、大仏建立に必要な資材の全国各地からの輸送が加わり、物流量が拡大した。その結果、多数の運脚が集中することになり、周辺地域の人口増加は一層加速されたと推定される。
 ところで、藤原京の時代に全盛であったとされている飛鳥池工房遺跡の発掘調査の結果、当時(七世紀から八世紀)の日本には小型物品の鋳造技術とアマルガム法による鍍金技術はほぼ確立していたが、大仏の様な大型の物体の鋳造や鍍金の経験はなかった可能性が指摘されている [2, 3]。したがって、大仏と蓮華座の鋳造には渡来人の子孫の指導があったとはいえ、指導に応える鋳造技術には問題があり、855年には頭部の落下という大事故があり、その補修に 7年費やしている。すなわちち、鋳造品の品質は完璧とはいえなかった可能性があり、同程度の事故が他にもあった可能性があるが、記録はない。加えて、二度の戦火により大仏殿は焼失、大仏や蓮華座も破損している。その都度、破損部位の補修と大仏殿の再建が行なわれたが、金鍍金の補修は行われなかった。大仏殿の再建や大仏と蓮華座の破損部位の補修は、必ずしも完成当初の姿の再現ではなく、現在の姿は建設当初の姿とは異なっていることが広く認められている。したがって、金鍍金について論じる場合、完成直後の姿の復元が先ず必須である。
 金鍍金は金を金属水銀に溶かして金アマルガムをつくり、それを大仏や蓮華座の表面に手作業で塗布し、大仏や蓮華座の内部より木炭を用いて加熱して金属水銀を蒸発させる方法で行われた [1]。すなわち、大仏や蓮華座への金鍍金作業は金属水銀蒸気や一酸化炭素による中毒が避けられない作業であったが、鍍金作業の詳細(塗布方法、作業時間、アマルガムの損失量、災害の有無)について、資料は見当たらない。
 今回、大仏と蓮華座への金鍍金が危険な作業であったことを改めて指摘し、認識を新たにするとともに、大仏建立が結果として平城京及びその周辺の生活環境の悪化を招き、遷都の要因の一つとなった可能性を検討する。鍍金作業に関係した奇怪な病気(本態は金属水銀蒸気や一酸化炭素による中毒)の発生が直接的に記録されていれば、後日、日本の歴史に類例のない大事件として論ぜられていたと思われる。金鍍金作業終了後、約 10年間にわたり、全国に向けて多くの指示(医師の再教育、読経や礼拝、疫神の祀り、祈祷等の励行)が次々に出されている。このことは、金鍍金作業によりこれに関連して、全く経験のない重大な病気が発生し、その対策に苦慮していた様子がうかがえる。ただし、鍍金作業との関連は記述されていない。

II.方法

 関連文献を収集し、極力原典を検討した。ただし、社寺や博物館等に収蔵されていて閲覧困難な資料については、他の研究者の著作や編纂物を参照した。

III.結果と考察

1. 金鍍金に必要な資材
1) 大仏や蓮華座にアマルガム法による金鍍金が施されていたことの確認
 金鍍金が施されていたことを記す歴史資料は複数存在しているが、金鍍金作業の詳細は伝えられていない。更に、現在の大仏や蓮華座には金鍍金の痕跡はほとんどなく、先ず、金鍍金の有無とその手法を確認する必要がある。
 年末恒例の大仏の御身拭いで得られた塵に含まれていた大仏本体由来と判断された金の小片と、大仏と同時代の作成であることが明らかな仏像(奈良三月堂・不空羅索観音像)から得た金箔の小片の双方に対し、中性子放射化分析が行われた。その結果、金小片中の金と金箔小片は夾雑物の内容から同時代の金であり、大仏本体由来の金小片には金層中に金属水銀の包埋が明らかに認められた [4]。すなわち、完成当初の大仏に対する金アマルガム法による金鍍金が確認された。蓮華座の金鍍金は、大仏本体と同様、アマルガム法により行われたと理解されている。
2) 金の調達
 大仏建立と金鍍金実施が決定された時点では、必要量の金の国内調達が危ぶまれていた。しかし、『日本書紀』によれば、鋳造開始直後の 749年に陸奥国小田郡(現 宮城県涌谷町一帯)で有力な砂金鉱山が発見され、鍍金に必要な金の調達が大きく前進することになった [1]。その後、現在の宮城県北部から岩手県にかけての一帯で、複数の砂金鉱山が発見され、相当量の金が供給されるようになった。『大日本古文書』によれば陸奥国から東大寺に送られた砂金は、金塊や金製品とは区別して記録され、東大寺に送られた沙金(= 砂金)量は 53.132 Kgと記されている [5]。後の平泉の繁栄から示されるように、この一帯の産金量はかなりの量であったことが伺え、かなりの量の砂金が陸奥国からもたらされたことが示唆される。なお、上記の東大寺に送られたと記録されている沙金量は、後述の大仏と蓮華座への金鍍金に使用されたと推定されている金の量に近い。しかし、東大寺の記録にあるこの沙金は金鍍金以外(例えば仏具の装飾)にも使用された可能性が考えられ、鍍金用の金の供給は国内の他の金山に於ける金鉱石の採掘にも依存しなければならなかったと考えられる。
 六世紀末から七世紀にかけて操業していた飛鳥池工房遺跡の発掘調査により、灰吹法(はいふきほう)により銀精錬が行なわれていたことが判明している [6]。したがって、金鉱石から灰吹法で金を取り出す技法はあったと判断できる。さらに、飛鳥池工房発掘調査によれば、金や銀のアマルガムの使用が認められている。したがって、金属水銀がアマルガム法による鍍金の他に、金鉱石の精錬に用いられていた可能性も考えられるが、確証はない。
3) 水銀の調達
 現在の日本には水銀及その化合物の採掘を行っている水銀鉱山はない。しかし、中央構造線上に位置する現在の三重県(伊勢)から奈良県(大和)にかけての一帯には多くの水銀鉱床があり、硫化水銀の採掘が広く行われていた。採掘場所では硫化水銀を加熱して得られる金属水銀蒸気を冷却し、液体の金属水銀の形で、鍍金現場に運ばれたと考えられている [7]。硫化水銀を加熱する段階で発生する水銀蒸気による中毒の発生があったことが十分に考えられるが、記録はない。
4) 銅の調達
 当時の日本は世界有数の銅産出国であった。国直轄の銅精錬官衙(かんが 役所)が置かれていた長登鉱山(現山口県美祢市)で銅は採掘されていた。一方、弥生時代には、朝鮮半島経由で鋳造技術と共に、青銅若しくはその原料が日本に大量に輸入され、銅鐸鋳造が行われた。無論、物だけでなく技術者も来ていたと思われる。この頃には、大陸では既に「銅の鋳物」は銅のみの使用ではなく、「銅に他の金属(鉛や白鉛(=錫))を混合して鋳造する技術」が既に確立していたとされている。したがって、大仏建設が始まった頃には、仏像の鋳造には純銅でなく青銅を使うのは当たり前になっていたと考えてよい。長登鉱山で採掘された銅鉱石は、鉱山跡地にスラグ(鉱滓)が多量に出土していることから、現地で溶解精錬され、青銅として大仏と蓮華座鋳造現場に運搬されたと考えられている [7]。
5) 青銅への加工
 多くの報告では、長登鉱山で採掘された銅は精錬されていない状態、つまり粗銅の形で若草山周辺に送られ、溶解されて錫を添加され、青銅として鋳造現場に送られたと説明されている [1]。しかし、長登鉱山で採掘した銅鉱石は精錬される過程で、他の金属(鉛、白鉛(=錫)等)が混入するか、あるいは、添加されるかしていわゆる「青銅」として大仏建設現場に運搬されていた可能性がある。長登鉱山をはじめ、国内の銅鉱山の鉱脈の大半はいわゆる「黒鉱(くろこう)または別子型銅鉱脈 [8]」であり、銅以外の金属(亜鉛、鉄、アンチモン、鉛、金、銀等)や珪素を多く含む日本特有の鉱脈である。さらに、七世紀~八世紀の技術水準ではこのような鉱石の精錬により純粋の銅を得ることは困難であった可能性がある。したがって、長登鉱山で精錬されて「銅」として出荷されたものは、同鉱脈の性質上銅以外の金属の無視できない程度の混入があり、銅としての品位は決して高くはなく、「広義の青銅」であった可能性がある。したがって、大仏と蓮華座の鋳造現場では、送られて来たものを溶解して鋳造に用いるだけで、新たに錫を添加してはいなかった可能性が残る。このことは、長登鉱山遺跡では銅精錬に伴うスラッジ(鉱滓)が発見されていることからも伺える。したがって、長登鉱山で銅鉱石の溶解・精錬が行われていた可能性は否定できない。

2. 金属水銀と金の使用量、及び曝露濃度等に関する考察
1) 金と金属水銀の混合比
 伝統工芸品作成では、現在でもアマルガム法による金鍍金が行われる場合がある [9]。その際の金アマルガムは、重量比で「金 1に金属水銀 5」を混合したものが最適とされている。大仏と蓮華座への金鍍金が開始された当時の記録でも混合比は同じであり [1]、最近行われた銅板に対するアマルガム法による金鍍金実験でも、「金 1に水銀 5」の混合比が最高の仕上がりであった [1]。したがって、大仏と蓮華座への金鍍金では、「金 1に水銀 5」の混合比が用いられたと考えて支障はない。
2) 金と金属水銀の使用量
 大仏と蓮華座への金鍍金で使用された金や金属水銀の使用量に関する文献は複数ある。何れも現在の単位に換算して示されているが、史料による違いが大きい。その理由として、大仏や蓮華座が造られた時代の日本では、二通りの権衡(けんこう)制度(重量や体積の測定単位)が用いられていたことが原因とされている [9]。奈良時代の日本の重量単位は、中国の単位(斤 きん、両、分、銖 しゅ)という一連の単位を流用していた。斤は中国では古代から使用されてきた単位で、漢代では 16両が 1斤とされ、現在の単位では 1両は 13.92g、1斤は 222.72gと推定されている [10]。しかし、唐代(618年~907年)には、漢代の 1斤の三倍を常用の 1斤としていた。当時の日本では漢代の基準を「小」、唐代の基準を「大」とよび、使い分けていた。ただし、「大」も「小」も、1斤は 16両、1両は 4分、1分は 6銖であることに変わりはなかった [10]。当時、重量を記録する場合には、「大」と「小」の何れを用いたかを併記することになっていたが、省略される場合も少なくなかった。さらに、「養老令」や「延喜式」には「大」と「小」の使い分けが定められ、多くの場合は「小」の使用が定められてはいたが、遵守されていたか否かは不明である。
 金鍍金における金と水銀の使用量の推定に際して必要な事項は、鍍金の厚さと鍍金すべき面積(大仏と蓮華座の表面積)である。歴史的に重要で古い複数の金鍍金製品の鍍金厚の測定が、非破壊検査により行われた。エックス線マイクロアナライザー付走査型電子顕微鏡とエックス線 CTによる画像解析法により、北斎から隋の時代(五世紀~六世紀初頭)のアマルガム法による鍍金厚は 1~3μ、唐(7世紀以降)の製品では 1~4μ、六世紀から七世紀の朝鮮半島の製品では、10~30μとの結果が得られている [11]。日本国内の古墳から出土した推定六世紀頃の鉄製馬具に施されていた金鍍金の解析では、鍍金層の厚みは最大約 6μであった [12]。一方、同時代の製品と推定されている国内の古墳からの出土品(巾着型容器、小刀)には、最大約 10μの金鍍金が施されていた [13]。したがって、アマルガム法による金鍍金手法の伝来から大仏と蓮華座の金鍍金を行うまでの間に、鍍金技術に飛躍的変化があったとは考え難いので、大仏と蓮華座の金鍍金における鍍金層の厚さは 5~10μと推定されている [9]。以上の結果を総合し、六世紀から七世紀の朝鮮半島の製品の金鍍金の厚みが 10~30μという調査結果もあるが [11]、大仏と蓮華座の金鍍金の厚みは 5~10μであったと推定されている。
 金使用量には複数の試算値が報告されているが、何れも鍍金厚を 5~10μとして、大仏と蓮華座の表面積を用いて求めた値を「金使用量」としている。しかし、このようにして求められた金の使用量は、正確に表現すれば「鍍金完了の時点で大仏と蓮華座の表面に存在していた金の量と塗布作業中に床面などにこぼれた金の量の和」となる。鍍金作業の過程でのアマルガムの損失や、アマルガム調製時の金の損失も算入しなければ、「鍍金に於ける金の使用量」とはならない。しかし、これらの損失は推定不可能であり、今後の考察では考慮しないことにした。したがって、鍍金厚みと大仏と蓮華座の表面積から求めた値は、金の使用量の最低限度と理解しなければならないことを理解した上で、「金使用量」と記すことにした。金属水銀使用量として記されている値についても、金と同様に考えている。
3) 鍍金対象面積、大仏と蓮華座の金鍍金に於ける金と水銀総使用量の推定
 建設直後の大仏と蓮華座の容姿は、度重なる修復により現在の容姿とは異なっていることは広く知られている。したがって、建設直後の大仏と蓮華座の表面積値は推定するしかない。鎌倉の大仏の本体表面積はレーザー計測により 272m2という値が示されている [14]。小西はこの値を用い、奈良大仏本体の座高と鎌倉大仏の座高の比から、奈良大仏本体の表面積は 508m2と算出している [9]。一方、大石等はレーザーによるデジタル解析を行い、大仏各部の寸法を推定し、大仏本体の表面積は 597m2、蓮華座の表面積は 556m2という値を示している [15]。現時点では、この値が最も妥当と考えられている。大石等は、これらの結果と代表的歴史資料に記されている鍍金に使用したとされている金の量から、この大仏本体の表面積値を基に鍍金厚の試算を行い、次のように示している [15]。
資料名金使用量鍍金厚
  大仏殿碑文      227.0 Kg (大両)   19.60 μm 
    75.67 Kg (小両)    6.563 μm 
  延暦僧録文      175.6 Kg (大両)   15.23 μm 
    58.54 Kg (小両)     5.077 μm 

 一方、小西は奈良大仏の高さと鎌倉大仏の高さの比から求めた大仏本体の表面積推定値 508m2を用い、使用金量についての主な報告値は小両に基づいていると仮定し、それぞれの金使用量について鍍金厚を推定している [9]。それによって、
   使用金量(Kg)     平均鍍金厚(μm)  
      223      22.8
      74        7.6
      58.5        6.0

という結果を得ている。完成直後の大仏と蓮華座の姿の復元においても、大仏本体への金の使用量に関するの記述(大仏殿碑文と延暦僧録文)は「小両」によると見るのが妥当と判断されている [15]。同じ報告 [15] で、建設直後の時点で大仏本体と蓮華座の重量は、大仏 10に対し蓮華座は 9であったと推定されている。
 以上の結果を総合し、創建直後の大仏と蓮華座の表面積は 1,153m2(= 597 + 556)[14]、鍍金厚は 5µm、金総使用量は 112.9Kg(= 58.5 + 54.4)、金属水銀総使用量は 565Kg(= 112.9 × 5)と推定し、考察を進めていくことにした。ここで述べている大仏と蓮華座の金鍍金における使用金量は、正しくは「金鍍金終了の時点で大仏や蓮華座の表面に塗布された金の全量」であり、水銀量は「鍍金終了までの間にアマルガムの形で塗布された水銀の全量」となることを、再度強調しておきたい。しかし、以下の考察においては「金の使用量」と「金属水銀の使用量」という表現を用いることにした。

3. 鍍金作業と作業者に対する曝露濃度に関する考察
1) 鍍金作業の進め方に関する考察
 大仏と蓮華座の鍍金では、対象面積 1,153m2の鍍金完了に 5年間必要としたことは広く認められている。鍍金作業の進捗度が毎年同じであったと仮定すると、年間作業面積は 230.6m2(= 1153/5)となる。重要な行事である開眼供養には国内の多数の僧侶や海外(主に中国)の複数の高僧の招待や、歌舞音曲の上演の日時等が、大仏建設開始と前後してすでに決定されていた [1]。したがって、大仏建設作業の進捗度に係わらず、予定通り開眼供養は実施しなければならなかった。したがって、作業全体は急がされていたので休日は無しであったと仮定した。鍍金作業の一日あたり作業面積は 0.63m2(= 230.6/365)で、金鍍金作業は「狭い範囲の塗布と修正」の連続であったと考えられ、鍍金作業に従事する作業者数は少人数であったと考えられる。
 ところで、佐藤忠司は水銀汚染の史的検討の論文 [16] のなかで三重県郷土史にある記述 [17] を引用し、辰砂採掘地域の特定の田(= 水田)では、唖者が必ず生まれ、その人達の長年の水銀曝露によると思われる構音障害が原因の意味不明の言葉を、周囲は「神のお告げ」と扱い、特別の人達と扱っていたと述べている。すなわち、辰砂には不思議な力があり、辰砂やそれから精製される金属水銀を専ら取り扱うことができるのは一部の人達で、周囲からは特定の人達と思われていた可能性が否定できない。中央構造線上にあり、多くの鉱山で辰砂の採掘が行なわれていた大和一帯でも、同様の状態、すなわち水銀を取り扱えるのは一定の限られた人達であった可能性がある [16]。
 ところで、朝鮮半島の政治的混乱を避け、多くの人達が日本にやって来たことは広く知られている。百済の崩壊後、鍍金技術者や知識人が百済の崩壊の混乱をさけ、日本に避難して来た。このような人達は渡来人と呼ばれている。定着した渡来人とその子孫は、特殊技術(石の加工、銅の溶解と鋳造など)を看板にした技能集団を形成し、特殊技術を活用する一方、日本に伝えていた [18]。渡来人と彼らの子孫は代々、技能集団を形成し、特殊技術を用い、数々の工事に参加する一方、日本の当該分野の技能指導を行っていた。したがって、これらの渡来人の子孫と指導を受けた日本人が金アマルガムを用いて金鍍金を業とする「特定の技能集団」(= ギルド)を形成するようになった可能性が考えられる。特に大仏への金鍍金は、日本の技術は小型の物品(装身具等)に限られていたので、大仏への金鍍金では渡来人とその子孫の指導が不可欠であった。
 大仏と蓮華座への金鍍金では、一日あたりの作業面積が 0.63m2であり、精密画を描くような作業であったことを考慮すると、鍍金作業従事者は「2名 1組」の 10組(専ら塗布作業を行う者とその補助者の各 1名)、つまり 20人位が限度と考えられる。すなわち、鍍金作業は狭い範囲に緻密な絵を描くような作業で、金アマルガムの塗布と塗布面の修正の連続であったと想定した。なお、鍍金に先立って鋳造された大仏や蓮華座のアマルガム塗布面の処理(鋳造の欠陥の修正と表面の平滑化)が必要であるが、鍍金作業と同並行で行われたのか、或いは鍍金に先立って行われたのかは不明である。大仏関連の工事はかなり急がされていた可能性を考えると、表面処理を完了した部分から、順次鍍金が行われていたと考えている。一日の作業が終わると、翌日は隣接する別の場所の鍍金を行うのが日課であったと考えられる。同一人が連続して 5年間鍍金作業に従事したのではなく、水銀蒸気曝露による中毒で就労不可能とされた者は、次々と入れ替えられていたと考えられる。ただし、確証はない。
 ところで、大仏殿内の気積を求め、鍍金作業が一か所で行われたと仮定し、使用した金属水銀が大仏殿内で一気に気化したとして、曝露濃度を試算した報告がある [19]。しかし、大仏と蓮華座への金鍍金には 5年間を費やしている事実を無視し、鍍金に使用した金属水銀が一気に気化したというあり得ない事態を前提にした考えであり、その結論には検討の余地がある。
 すなわち、金鍍金作業は 20人の作業者が、5年間休みなく、毎日 0.63m2という狭い範囲の塗布と修正を繰り返す作業の連続であったと推定できる。一日あたりの作業時間であるが、鍍金作業者はアマルガム法による金鍍金を業とする技能集団(ギルドのようなもの)の一員であり、平城京では貴族でない官人(平城京の平公務員)と身分は同じであったと仮定した。平城京における貴族でない官人の勤務時間は、朝 6時30分から正午頃までの 6時間と定められていたから [20]、鍍金作業も一日 6時間と仮定した。
2) 曝露濃度の試算
 鍍金作業は 752年に開始し、757年に完了している。毎日 6時間かけ 0.63m2の鍍金を行い、翌日は続けて別の場所(おそらく隣接している場所)の鍍金を行うという作業であったと考えられる。したがって、鍍金作業者は塗布中のアマルガムからの水銀蒸気による曝露だけでなく、隣接する鍍金済みの部分からの水銀蒸気による曝露も受けていたことを考慮しなければならない。鍍金作業が進行するにつれて隣接する鍍金済みの範囲は拡大するから、鍍金作業者が塗布済みのアマルガムから受ける水銀蒸気の曝露濃度の試算は不可能である。
 しかし、鍍金完了の時点で大仏と蓮華座の表面に残存する水銀量と、5年間にアマルガムとして塗布された水銀量との差は、曝露作業中に気化した水銀量と見なすことができる。5年間の鍍金作業中に作業者 20名が吸入した大気と共に、この水銀蒸気が作業者に吸入の対象となったと判断できる。したがって、鍍金作業中に気化した水銀量を基にして、5年間の作業中に鍍金作業者が受けていた水銀蒸気曝露濃度の考察を進めることにした。ただし、大仏と蓮華座への鍍金作業の進め方の詳細についての信頼すべき資料は見当たらなかったので、鍍金作業の詳細については、推定を重ねて行かねばならない。
 先ず、毎日 0.63㎡の範囲を対象とした鍍金作業はどのように行われたかを考えてみる。10組 20人の作業者に対し、水銀 0.309Kg(= 564.5/5/365)と金 0.062Kg(= 309/5)を含む 0.371Kgの金アマルガムが毎日支給され、一日の鍍金作業が開始された。0.63m2へのアマルガム塗布が終わると、次の日は隣接する場所に移り、鍍金を施した範囲を順次拡大しながら進めるという鍍金作業であったと推定している。作業者の服装や、作業現場の様子は一切不明である。鍍金作業の様子(服装等)の想像図が示されてはいるが [19]、出典が不明で、単なる想像に過ぎないと判断した。毎日の作業範囲は 0.63m2と狭いから、20名の作業者は密集に近い状態で、すでに述べたように、精密画を描くような姿勢で仕事が進められていたと考えられる。したがって、取扱い中のアマルガムから発生する水銀蒸気は容易には拡散せず、かなりの部分が作業者の呼吸帯内に向けて発生していたと考えられる。
 鍍金作業の作業強度については、鍍金部位により作業姿勢が厳しい場合もあることを考慮し、作業強度(成人男子)を 3.13Cal/分/人(呼気量は 0.0143m3/分/人)とした [21]。したがって、作業者 20人 6時間の作業中の空気吸入量は 103.0m3(= 0.0143 × 20 × 60 × 6)となる。作業者の体格の違い等を考え、6時間(一日の作業時間)内に吸入した大気量を二倍の 206m3と仮定した。すなわち、一日の鍍金作業(6時間)の間に作業者 20名に吸入された空気の量は 206m3と仮定した。
 次に、一日の作業の間に塗布したアマルガムから気化した金属水銀量を推定する。乾燥目的の加熱の程度は不明であるが、狭い塗布面に手作業でアマルガムを塗布する作業であるから、作業者が耐えられる温度でなければならない。金属容器に炭火をいれて、炙るようにして乾燥させる方法が示されているが [19]、この方法では精密画のような細かい作業を狭い範囲で行うことは不可能である。したがって、乾燥目的の加熱温度は作業者が堪え得る温度、つまり 60℃とし(使い捨てカイロの JIS基準)、大仏内部や蓮華座内部からの加熱とした。一方、無風の 60℃で平面状態に置かれた 68gの金属水銀から 10時間で 48.1㎎の水銀が気化するから、1g の金属水銀から 24時間では 0.00178g の水銀が気化する(= 2.4 × 0.048/65.0) [22]。アマルガムからの金属水銀の気化も同じであったと仮定した。鍍金作業現場では、換気は人員の出入りや物品の搬入等に依存し、積極的な換気は行っていなかったと判断し、アマルガムからの水銀の気化には、この条件(60℃、無風)を適用した。
 次に、5年間の金鍍金作業の間に塗布された水銀総量(S)と、鍍金終了時に塗布面に残っている水銀量(R)を求め、両者の差を算出し、その値を 5年間の鍍金作業中に作業者が吸入した大気中に向けて気化した水銀蒸気量とした。一年毎の水銀使用量(A)を、アマルガム中の金属水銀気化率を金属水銀の 60℃における気化率と同じ 0.00178とすると、塗布されたアマルガム中の残存水銀量は次式で求められる。
 R = A ((1-0.00178) + (1-0.00178)2 + (1-0.00178)3 + (1-0.00178)4 + (1-0.00178)5)。  計算の結果、R = 561,990 (g)で、S - R = 3,010(g)(= 565000 - 561990)となる。この 3,010gが、鍍金面から 5年間に作業者 20名が吸入した大気中に向けて気化した水銀量となる。
 したがって、20名の作業者により一年間に吸入された大気中には 602g(= 3,010/5)、一日の作業中に吸入した大気中には 1,649.3㎎(= 602,000/365)の水銀蒸気が存在した。20人作業者が 1日の作業の間に吸入した大気中にはこの量(1,649.3㎎)の水銀蒸気が存在し、その 50%が作業者の体内に吸入されたと仮定すると、1日の作業の間に作業者 20名が吸入した大気中の水銀蒸気濃度は 4.00mgHg/m3(=(1,649.3/2)/206.0)となる。現在の知見では、この曝露濃度では化学性肺炎は直ちには起きないが、1か月以内に明らかな症状(下痢、血尿、振顫等)が現れる [23]。すなわち、大仏と蓮華座への金鍍金作業の現場では、下痢、血尿,振顫そのような症状の中毒が多発しても不思議ではない曝露濃度であったと推定できる。したがって、同じ作業者が 5年間鍍金作業に従事した可能性は低く、水銀蒸気による中毒症状により就労不可能と判断された場合には、新しい作業者と入れ替えられていたと考えられる。大仏の鋳造が完成してからの金鍍金である。さらに、大仏本体の座高の復元値は 15.85mが妥当とされている [14, 15]。したがって、蓮華座の高さを考えると、鍍金作業は大仏本体の部位によってはかなりの高所作業となるはずであり、墜死等の災害は避けられなかったはずで、災害による作業者の入れ替えもあったと思われるが、これら災害の記録はない。
 この試算では、鍍金作業(塗布とアマルガム調製)における金アマルガムの損失や、作業者の移動に伴う塗布済みのアマルガムからの水銀蒸気の影響は考慮していない。さらに、作業強度や呼吸帯内に気化した水銀の実際の吸入率は不明でり、塗布方法の実際は一切判明していない。したがって、実際の曝露はこの試算値を上回っている可能性があり、この曝露濃度 4.00mgHg/m3は最低限度として取り扱うのが望ましいと考える。

4. 大仏建立に伴っておきた平城京の変化
 平城京は新しい都として壮大な計画の下に首都として建設された都市で、710年に藤原京から遷都されて来た。当時の政治、宗教、及び経済の中心であり、貴族を初め多くの官人、商工業者や役民が「都市」としての平城京を支えていた。ここでは平城京及周辺地域の様子が、大仏建設によりどのように変化したかを考える。
 11年間に渡り延べ約 260万人が大仏建立に携わったのであるから、当該地域の人口が急増したのは確かである。大仏建立がなくても、平城京の人口は定期的に増減していた。毎年、定められた時期に地方から「調庸」を京(みやこ)まで運んで来る運脚や役民がいた。物資の運搬は人力に依存する部分が大きかったから、その人数はかなりの数であったと思われる。すなわち、平城京の人口には、もともと定期的な増減があったともいえる。
1) 大仏や大仏殿建設に従事する作業者
 大仏と蓮華座の作成には、知識人(技術者)42万3千余人、役夫(雑役夫)218万人、合計260万余人が全国から集められ、役夫は略全員が強制的であったといわれている [1]。大仏殿の造営にもかなりの人員が従事していたと考えられるが、実態は不明である。大仏と蓮華座の鋳造に従事する人達は、金属水銀や一酸化炭素の毒性に関する知識は皆無であったと考えられる。これらの知識人や役夫に対し作業内容の指示はあったかもしれないが、詳細は不明である。さらに、大仏建設工事の規模と内容を考えると、多くの作業に伴う災害が起きていたはずであるが、災害の記録は一切残されていない。一部の役夫は脱走し、帰途の食料の調達ができなかった運脚達と共に平城京の市場周辺に屯(たむろ)することになった [31]。なお、延べ約 260万人が集められた知識人と役夫がどこに滞在していたかは明らかでない。しかし、役所に携わる人達の内、中央が諸国から強制的に連れて来られた人達は、所属「官司」が宿泊する施設を用意していた [31]。しかし、延べ 260万人(年間 23.6万人)のための宿舎があったはずであるが、記録は見当たらない。
2) 大仏建設により引き起こされた人口増加の様子
 大仏建設開始当時の平城京とその周辺の人口がどの程度であったかを先ず推定する必要がある。明治維新以前の日本には、現在の永久保存的な戸籍原本のような記録はない。現在の戸籍に相当する記録文書はあったが、作成後一定期間毎に廃棄されていた。
 大仏建設開始頃の東北地方北部(宮城県以北)は、多賀城府が置かれてはいたものの、実際には蝦夷(えみし)が支配する地域であり、801年に蝦夷の支配者(阿弖流為 あてるい)が降伏するまでは、朝廷の実質支配は及んでいなかった [24]。したがって、九世紀以前の日本の人口の推定には、現在の東北北部(蝦夷)と北海道は含まれていない。1920年に行われた最初の日本の人口推定では、平城京の人口に対し約 20万人との推定値が示され、この値が長い間使用されてきた。しかし、その基本とされた資料が九世紀のものであることが判明し、現在ではこの値は過大と評価されている。1966年の推定では、八世紀初頭の大和国の人口は 17.17万人と示されている [25]。平城京が無人の広野に建設されたとは考えられないので、既に先住者がいた可能性があるが、国がどの程度把握していたかは不明である。『続日本紀』に記載された藤原京の戸数と正倉院に残されている『右京計帳』(当時の課税台帳)から藤原京の人口を算出、藤原京と平城京の面積比から平城京の人口は 7.5万~10万人と推定された [26]。しかし、その後の藤原京の発掘調査の結果、藤原京の面積はこの推定に用いられた値より広い事が判明、この推定の妥当性に疑問が生じている。
 これらの推定値以外に、平城京の人口については多くの試算(6万~20万弱)が提出されている [24,26-30]。これらの推定値の相違は、推定の根拠となった「戸」当たりの人数のとり方、平城京と藤原京の双方の発掘調査の結果から定められた宅地の内、実際に居住されている宅地の割合等のとり方等によると考えられている。
 これらの人口推定に対し、鬼頭 [27]は、「平城京の人口に関する従来の推定値の多くは、資料に記載されている戸数や世帯数に重点をおいているが、本当に知るべきなのは平城京に実際に居住していた人数であり、戸籍上編付された者をさすのではない」、つまり「どのような人達が、どれくらい、何を生業として、どのように住んでいたか」を推定しなければ人口推定の意味がないとの前提のもとで平城京の人口の推定を試み、宅地の発掘結果から 9.5万から 17.4万人、人口の階層構成の復元結果から 11.45万もしくは 19.74万人という試算値を示している。一方、八世紀初頭の日本の総人口(東北北部と蝦夷地を除く)は 600万~500万、大和国の人口は7 25年には 17.1万という値が示されている [25]。平城京や各地で出土した木簡研究の結果から、八世紀初頭の日本の総人口は 400~500万人、平城京の人口は 10万前後が妥当と推定されている [30]。
 大仏建設以外の平城京における人口変動の要因としては、調庸の運搬に係わる運脚数が挙げられる。全国からの運搬であり、人数はかなりの数で、毎年一定の時期に起きる変動であり、定住的人口増にはならない。
 現在では、以上の報告 [24,26-30] を基に、八世紀初頭の平城京の定住人口は約 10万と見るのが妥当と考えられている。  725年から 745年(大仏建設開始)の間に大和国や平城京の人口に大きな変動はなかったと仮定すると、平城京を除いた大和国の人口は 7.1万人程度になる。このような地域に、概算であるが延べ人数で 11年間に延べ 260万人(年平均 23万人)が大仏建設に従事するため新たに加わった [1]。いずれにせよ、人口 10万程度の地域に年平均 23万人の人口集中があり、このような状態が 11年間続いたのが、大仏建設中の平城京であった。
3) 東大寺およびその周辺と平城京の地理的関係
 東大寺の東には若草山で代表される春日山塊、西には奈良朝の中心である平城京、平城京の西には生駒山塊、大仏殿の北から平城京の北にかけては平城山丘陵があり、平城京とその周辺の土地は南方向に緩やかに下る地形といえる。したがって、東大寺とその周辺や平城京には、周囲の山地から颪(おろし)が吹きやすい地形で、大仏と蓮華座の鋳造や金鍍金による大気や水質の汚染が平城京に波及しやすい位置に平城京がある。
 銅鉱山から送られてきた粗銅は、若草山周辺で再溶解され、錫が添加されて鋳造用の青銅に加工されていた。その際の廃水や排煙が周囲の河川(白蛇川:東大寺の南、佐保川:東大寺の北)を汚染していた可能性がある。平城京周辺は生活用水として利用できる水資源が豊富とはいえず、平城京内では井戸による地下水の利用は、貴族の邸宅や官衙(かんが)が最優先されていた [32]。したがって、一般住民は汚染された河川水を利用していたのではないかと考えられる。粗銅の精錬で汚染された大気や水が平城京に波及し、金鍍金で発生した水銀蒸気は若草山からの気流により、平城京内に波及、生活環境が汚染されていた可能性は否定できない。河川水や大気の汚染は、いずれは地下水の汚染に繋がるといえる。一般住民だけでなく、専ら地下水を利用していたと思われる貴族も、結局は水質の汚染からは逃れられなかったと考えられる。つまり、平城京とその周辺は、生活用水の供給はもともと十分ではなかった。
4) 人口増と飢饉の影響:本当に「咲く花の匂うがごとく」であったか?
 地方から荷物を運搬してきた人(運脚)や、平城京内の役民として地方から徴発されてきた人々は、いずれも役務終了後の帰路における食料を自ら調達しなければならなかった [31]。しかし、733年、762年、765年、770年、773年及び 774年と周囲では飢饉が続き、平城京とその周辺は慢性的食料不足になり、帰途の食料を調達できなかった運脚や役民は平城京内に残留せざるを得なかった。さらに、打ち続く飢饉は周辺から平城京内への流民の流入を加速した。運脚の残留や頻発する役民の脱走に加え、当時既に約 15,000人と存在を無視できなくなっていた孤老や孤児からなる弱者への対応が問題になり、救済策(賑給:公的扶助)が執り行われていた [31]。この15,000人という数は、当時の平城京の人口(大仏建設関係者を除く)の推定値 10万に比べると無視できない値である。更に 764年の勅には、飢餓に陥った周辺地域から平城京に流入してくる流民が増加した結果、平城京内市場付近に多数の乞食が屯(たむろ)し、治安が悪化しただけでなく、多数の人を集め末世感とともに吉凶を説く異端の宗教者が出現したとも記されている [31]。
 すなわち、人口が 10万前後であった地域で、11年間に延べ人数で 260万人が流入し、年平均では約 33万人の人口になり、生活環境は大幅に悪化することになった。生活用水や食料の供給に齟齬が生じ、廃棄物や排泄物の処理、とりわけ排泄物の処理には深刻な問題が生じていたことは疑いない。平城京の発掘調査の結果により、当時の屋敷(宅地にある住居)の厠は、(1) 外部から居住地内に水路を導き、排泄物を水流により居住地外(道路沿いの水路)に出す方式と、(2) 居住地内に貯留する方式の何れかであったことが判明している [29]。いずれにせよ、人口が増えれば、当然の結果として、排泄物の量が増え、水路や貯留池に排泄物が滞留し、穢臭を放つようになる。事実、『続日本紀』の 706年3月の項には、藤原京では居住地内外に満ちている穢臭の対策を求める指示が出されたとの記述がある [27]。平城京における厠の構造は藤原京と大差はないと考えてよいから、都の規模や人口は藤原京より大きかった平城京では、穢臭は藤原京以上に問題であったのは当然である。大仏建設のために集められた人達の宿舎については記述が見当たらなかった。しかし、厠は平城京で明らかになった構造より簡略化したものである可能性があるが、記録はない。平城京内に滞留していた人達(滞留運脚、脱走役民、流入した流民、孤児・孤老)が、全て厠を使用していたとは考えられない。12世紀末頃の作品と判断されている『餓鬼草紙』に道端で用を足す人が描かれているが、平城京に滞留していた人達の間でも同様な光景が見られていた可能性は否定できない [31]。
 藤原京や平城京の厠の遺構から、多数の人体寄生虫(蛔虫、鞭虫、横川吸虫、肝吸虫)の虫卵が発見されている [33, 34]。これらの寄生虫の感染経路はいずれも経口感染であり、排泄物の処理に問題があったことは明白である。ただし、これらの寄生虫やその有害性が、当時どの程度理解されていたは不明である。
 唐の長安を手本に壮大な計画の下で建設され、745年に都となった平城京であるが、早くも 784年には長岡京に遷都することになった。その理由としては、多くの原因が挙げられている。加えて、仏教による国の発展と安寧の象徴として大仏を建設したにもかかわらず、前述のように生活環境は悪化し、それまでに経験したことのない病気(金鍍金における水銀中毒や一酸化炭素中毒等)が次々と発生、周辺地域での飢饉の続発等があった。金鍍金終了後およそ 10年にわたり読経や祈祷等が繰り返されたが、当然のことではあるが、効果はなかった。その結果、平城京の地が何かに呪われ祟(たた)られているとの考えが強くなり、遷都を推進する要因の一つとなった可能性が指摘されている [7]。したがって、大仏建設に始まる負の要因の蓄積の結果、当時の平城京は万葉集に詠われた 「咲く花の匂うがごとく今さかりなり」という表現とは、ほど遠い状態であったと言わなければならない。
 長岡京への遷都の要因の一つとして生活環境の悪化を挙げる考えに対し、後年行われた東大寺周辺地域の土壌中有害金属濃度の測定結果から、大仏建設による環境汚染の東大寺周辺や平城京一帯への波及の可能性を否定し、環境汚染が遷都の一因であった可能性を否定する見解が出されている [35]。しかし、金属水銀は気化しやすく、アマルガム中の金属水銀は塗布された鍍金金層に封じ込まれた場合を除けば [11-13]、千年以上経過した土壌中の水銀濃度は低下していたのが当然である。さらにこの報告 [35]では、大仏建設にともなう急激な人口増加の影響についての考察がない。
5) 大仏や蓮華座にアマルガム法による金鍍金が施されていたことの確認
 鍍金作業終了後も、鍍金作業場所でこぼれたアマルガムや塗布したアマルガムの表面から水銀蒸気の発生が続き、発生した水銀蒸気は大仏殿内へ拡散して行った。しかし、大仏殿内の換気が積極的に行われたとは考えられず、後述するように大仏殿自体や大仏の光背が未完成であり、多様多数の作業者の頻繁な出入りがあったと考えられる。したがって、大仏殿内の換気は人の出入りに伴う大気の出入りに任せられていたと思われる。床にこぼれたアマルガムや、鍍金面から発生した水銀蒸気は、大仏殿内に安置された他の仏像や多数の太柱の影響もあり、大仏殿内に均一に拡散した可能性は極めて低く、不均一に分布したと見るべきで、鍍金終了後の大仏殿内の気中水銀濃度は場所により大きく異なっていたと考えるのが妥当である。ただし、推定不可能である。しかし、大仏殿内大気中に均一に拡散したと仮定した場合の濃度は一応の指標にはなり得ると考え、均一に拡散したと仮定した場合の大仏殿内大気中濃度を試算した。
 先ず、大仏や蓮華座への鍍金が終了した時点の大仏殿の容積、大仏殿内に設置された仏体や柱等の体積値が必要である。周知の通り、現在の大仏殿は創建時と異なっている。こ創建期の大仏殿の容積は福山が提示している復元値 81,670m3を用いた [36]。完成直後の大仏の体積としては表面積値と座高値(何れも復元値 [15])を用い、正円柱による近似で得られた 1,325m3を用いた。蓮華座、基石、太柱の体積は福山の論文 [36]の付図から作図で算出し、合計4,460m3とした。したがって、大仏殿内気積は、推定値であるが、75,885m3 (= 81,670 - 4,460 - 1,325)となる。
 一方、一年間の鍍金作業終了時点で鍍金面に残留している水銀量は、前述の通り 561,990gと推定されている。終了時点では鍍金面の乾燥目的の加熱は続けられていたと仮定すると、鍍金作業終了 n年後の 1年間の金属水銀気化量は、金属水銀の気化率を 0.00178 とすると 561,990 x 0.99822n(= 561,990 × (1 - 0.00178)n)で算出できる。この計算式で鍍金が完了した大仏と蓮華座から生じる水銀蒸気の量を求めると、次の結果が得られた。ただし、これらの結果は、塗布したアマルガム中の金属水銀の気化率が、金属水銀のみの場合と同じとの前提に基づいたものであり、塗布した金アマルガムから発生する水銀蒸気の量を正しく示しているかは不明である。

 完了後の年数  残留水銀量  気化水銀量   気化水銀量  気中水銀濃度 
   (g)  (g/年)  (㎎/日)  (㎎/m3
    1   560990  1000   2760   0.036
    2  559991    999   2737   0.036
   10  552066    993   2719    0.036

 この結果から明らかように、大仏や蓮華座の鍍金面から発生する水銀蒸気量は最大 2,760㎎/日で、曝露後の時間経過にもかかわらず、およそ 2,700 ㎎/日の値であり、20人の鍍金作業者が一年間に吸入した大気中にこの水銀蒸気が出ていると考えると、大仏殿内気積中水銀濃度は 0.036mgHg/m3(= 1000000/75885/365 = 塗布完了面からの水銀気化量(日)/大仏殿内気積/ 365日)となり、現在の許容濃度 0.025mgHg/m3を上回っている。この値は発生した金属水銀蒸気が大仏殿内に均一に拡散拡散したと仮定した場合の濃度である。しかし、すでに述べた通り、実際は鍍金面から発生した金属水銀蒸気が大仏殿内の大気中に均一に拡散することは先ず考えられないので、この値は金鍍金完了後の大仏殿内気積中の水銀濃度の最低値を示しているといえる。無論、大仏殿内の換気の程度や、鍍金面の温度によってもこの濃度は変動する。さらに、近似法や作図による大仏殿内気積の推定の正確性は検討していない。しかし、各種復元値による気積の推定が行われたとしても、上記の数値(0.036mgHg/m3/日)とは大差がないと考えている。鍍金作業終了後の大仏殿内の大気中水銀濃度は 0.036mgHg/m3/日若しくはこれ以上の可能性が考えられる。
 鍍金面からの水銀蒸気発生量を示す数式 「561,990 × 0.99822n」は、鍍金面からの水銀蒸気発生は鍍金面に残存する水銀量ゼロにむけて減少していく可能性を示すが、そのような状態にはならない。遺跡出土品や各種文化財(大仏と蓮華座をも含む)におけるアマルガム法による金鍍金面に対する非破壊分析の結果、塗布されたアマルガム中の金属水銀は鍍金金層中に金に包埋され、半永久的に気化することがない状態で存在する場合が少なくないことが明らかにされている [2,11-13]。つまり、アマルガムとして表面の鍍金に用いられた金属水銀が全て気化するのではない。無視できない量の金属水銀が金に包埋された状態で鍍金金層中に存在している。この鍍金金層中に金に包埋された状態で存在する金属水銀の割合は、アマルガムの調製法や鍍金面への塗布方法等により変動すると考えられるが、詳細は不明である。アマルガム法による鍍金面が乾燥した状態とは、鍍金面からの水銀蒸気発生が検出限界以下であっても、鍍金金層内に金属水銀が金に包埋された状態で存在している場合があると考えるべきである。
6) 鍍金作業者の健康障害への対策
 既に指摘した通り、現在の知見では、この程度の曝露(4.00mgHg/m3≦)では一か月以内に症状が現れると理解されている [23]。したがって、水銀蒸気曝露による健康障害が鍍金作業開始後の早い時期には現れていたと考えることができる。鍍金作業が進むにつれ、不可解な症状(本体は水銀蒸気中毒)により入れ替えられる作業者の数が増加し無視できなくなってきた。当然のことではあるが、最初は医師による治療や祈祷等が行われたと考えられるが、効果がなく、無策の状態が続いたと思われる。この無策の状態に対し『続日本紀』の 757年の項には、当時の医師、鍼灸師、読経祈祷の関係者(文章博士、天文歴法士、陰陽師)等の能力不足を指摘し、再教育の必要性が述べられている [37]。この 757年の再教育の必要性の指摘は、鍍金作業開始以前から続いていた飢饉や疾病(天然痘)の流行に関し、対策にあたった人達の無能力の指摘であることは否定できない。しかし、757年は鍍金作業完了の年である。したがって、『続日本紀』のこの記述は、鍍金作業が終了する頃には無視できない状態になっていた鍍金作業者における不可解な健康障害(実体は、金属水銀中毒)に何ら対応できない当時の医療関係者の無能力をも指摘していると見るのが妥当と考える。医療による対応が効果がないと判断され、祈祷や浄祓等を繰り返して対応するのが残された手段であった。主な対応は杉山によると以下の通りである [38]。

            
  770年




詔勅「精進謹慎にも係わらず、疫気が生類を損ない続けている」
⇒ 疫神に対する祀が不十分が原因、祀を確実に行うこと。
全国より国師(呪術祈祷が確かな達人)を招集、祈祷を行う。
大般若経の転読、伊勢神宮を初めとする主要神宮に幣帛を献上。

  771年

諸国で疫神に対し、祀を行うように指示。

  772年

各社寺で仁王経転読。

  773年

全国に対し、各地の疫神を祀らせる。

  774年



全国で仁王経の読経。諸国の浄祓。
親王を伊勢神宮に派遣。畿内諸国の疫神を祀る。
平城京内で大般若経読経。

  776年

大祓会。

  777年

大祓会と大般若経転読。

  779年

天皇から大赦令発布。

  780年
当時公然と行われていた古墳の盗掘と盗掘品の転用、遺体の放置等を禁ずる詔勅。


 以上の対応が、大仏建設開始以前から大和国や周辺で発生した飢饉の繰り繰り返し(733年、762年、765年、770年、773年、774年)への対応であった可能性は否定できない。しかし、これらの続く飢餓は鍍金作業者だけでなく、大仏工事関係作業者全ての栄養状態の悪化を招き、鍍金作業者では水銀蒸気中毒症状の重症化が不可避の状態であったと推定できる。執拗なまでに繰り返された対策で読経の対象となった経典を考えると、大仏と蓮華座の金鍍金作業従事者を中心に発生した全く未経験の健康障害(= 水銀蒸気中毒)が無視できないほどに累積していた可能性が考えられる。これらの対応の繰り返しは、天皇を中心とする人達が慌てふためいでいた様子が伺える。国の安寧と発展を願って大仏建設を行ったにも係わらず、未経験の障害(水銀中毒)が発生し、平城京とその周辺の生活環境は大きく損なわれてしまった。その結果、大仏建設により地域の神(疫神)の意向を損ねてしまったのではないか、何かの祟りではないかとの考えが強くなり、長岡京への遷都の流れが加速された可能性は否定できない。読経や祈祷等が有効なわけはなく、天皇からの大赦令や、当時半ば公然となったいた古墳の盗掘や副葬品の流用、遺体の放置等を禁止する詔勅等は、八つ当たり的で万策尽きた結果であるといえる [38]。つまり、平城京やその周辺の状態は、「咲く華の匂うがごとき」という状態にはほど遠く、とても安寧と言える状態ではなかったと考えられる。784年の長岡京への遷都は、大仏建設後の異常事態に、万策尽きた結果ともいえる。
 ところで、仏建設全体を指導していた大仏師国中公麻呂が、鍍金作業従事者に口覆いをつけさせたとの記述があるが [39, 40]、何れも出典は不明である。この見解に対し、勝木は鍍金作業者に対する口覆い装着指示の原典は確認できなかったと延べ、自らの論文 [39] を取り消している [41]。したがって現時点では、鍍金作業者に対し水銀蒸気曝露に対する保護措置は考慮されていなかった可能性が高いといえる。なお、「奈良の大仏への金鍍金」で検索すると、この金鍍金作業における「口覆い説」を無批判に取り入れた見解が未だに散見される。ただし、大仏や蓮華座の鋳造は砂または土で中子を作り、その外側に外型を作り、中子との間に青銅を流し込む方法で下部から上部にむけ段階的に行われていたと考えられる [1]。この鋳造法では外型を取り外す際に埃(砂塵)が大量に発生するから、その対策として口覆い使用の指示があった可能性が考えられる。ただし、このような場合の「口覆い着用指示」を記した資料は見当たらない。

5. 平城京は咲く花が匂うがごとき安寧の都であったか?
 奈良の大仏は 752年(天平勝宝四年)に開眼供養を迎えた。大仏は仏教により分裂抗争が絶えない国を統一しようとする聖武天皇意思を示したものであり、内乱や暗殺等の分裂抗争を繰り返している王族・貴族一同はこの大仏(盧舎那仏)の前で融合し、分裂抗争に終止符を打たねばならなかった [42]。その意味もあり、開眼会には王族・貴族の他に、多数の仏教関係者(海外、主に中国からの招待者を含む)、主だった歌舞演奏者達が参列していた。しかし、大仏殿内では、開眼供養の儀式の傍らで、大仏や蓮華座の補修・修正は未完了で、鍍金作業は 755年まで続けられていた [38]。さらに、金鍍金作業は開眼供養に先立って 752年3月に着手され、757年に完了している。栄原 [42] によれば、開眼供養の傍らで鍍金作業が行なわれていただけでなく、大仏の光背は未完成、大仏殿の建設は 749年に始められていたが細部や回廊等は未完成と、未完成に囲まれた状態で開眼供養は強行されていた。この強行の理由としては、開眼供養開始日が公式に仏教伝来 200年目に当たる記念日である点を挙げる見解がある。なお、光背に対する鍍金についての資料は見当たらない。特定の記念日に重要な事項の実施に拘泥する悪癖は、大仏開眼の時点で既に顕わになっていたともいえる。日本の現代史でも問題になるこの悪癖は、日本の政治の基本なのかもしれない。
 この大仏の蓮華座に対する金鍍金は日本における鍍金の歴史上、最大規模の金属水銀の利用であり、慶事の傍らで金属水銀蒸気中毒や一酸化炭素中毒の危険がある作業が行なわれていたという、現在では理解しがたい光景があった。
 すでに述べた通り、平城京と東大寺周辺の当時の人口はおよそ 10万人、大和国の他の地域の人口は 7.1万人と推定されている。そのような場所に大仏建設の 11年間に延べ 260万人(年平均 23.6万人)の人口増加があり、生活環境のあらゆる面が悪化した。金鍍金や大仏鋳造のための銅精錬等による作業者に発生した奇病としか見えない病気(実態は、水銀蒸気中毒、一酸化炭素中毒、銅精錬による大気や水の汚染による障害)は、平城京の地が何かに祟られているか地域の疫神の怒りに触れたという考えが支配的になり、長岡京への遷都が加速された可能性が考えられる。
 奈良盆地の北端に唐の長安を参考にした壮大な計画の下に築かれた平城京には、これまで繰り返して述べてきた多大の問題点が存在していた。したがって、繰り返しになるが、万葉集に詠われた「あおによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の薫(にほふ)がごとく今盛りなり」(大宰少弐小野老朝臣)で一括りできる状態ではなく、平城京は安寧の都といえる状態ではなく、現在の人口急増と市が抱える問題が、すでに存在していた。

6. 飛鳥大仏
 奈良県明日香村ある国宝「釈迦如来座像」(銅の鋳造品)は奈良大仏以前の 605年から 606年に造られた鋳造による大型仏像である。その建造の過程の詳細は不明であり、補修が繰り返されてきたが、補修内容については、結論が出ていないといわれている [43]。2013年 [44] と 2016年 [45] に行われた仏像(飛鳥大仏)の表面のエックス線回折分折では錫は検出されず、黄金に見える部分には銅の酸化物(CuOとCu2O)が検出され、金や水銀は検出されていない。すなわち、飛鳥大仏の鋳造には銅のみが用いられ、アマルガム法による金鍍金は施されていなかった。銅に他の金属(錫、鉛等)を混合させた青銅が鋳造に用いられるのが一般的であったと思われる時代に、飛鳥大仏が銅のみで鋳造されていたことは奇異の感じがする。飛鳥大仏が造られた頃の日本の銅鉱脈は黒鉱又は別子型同鉱脈であり、当時の精錬技術では不純物のない純粋に近い銅を得るのはかなり困難であったと思われる [8]。それでは何処から飛鳥大仏の鋳造に使用した銅を入手先が問題になるが、ここでは触れない。

7. 付記
 最後に、何故八世紀の出来事を二十一世紀の現在に論じるのかという疑問に対して、その理由は以下の通りである。現在の大仏の姿からは、全身金鍍金された姿を想像するのは難しいが、その完成までには多くの犠牲者が出たであろうことを想像するのは更に難しい。金属水銀の大量利用は現在だけでなく、将来においても行われる可能性は殆どないと考えられがちである。しかし、現在における金属水銀の大量利用として、発展途上国における金属水銀を使用する金採掘をあげねばならない。この場合、金属水銀の毒性に対する十分な配慮なしの大量利用にが行なわれている。その影響は金採掘従事者だけでなく、その家族、金仲買人、更には都会の「ゴールドショップ(仲買人が金を買い受ける店)」の従業員にまで、水銀による健康障害が認められている [46-48]。このようにして得られた金は、主に先進工業国で使用されている。集積回路の製造において金は必須の材料である。つまり、発展途上国の犠牲の上に先進工業国の発展があるという図式は変わっていない。金属水銀の大量使用は現在でも中毒学上の重要課題である。水銀のように利用の歴史の長い物質の中毒学に於いては、「温故知新」(Wissen um die Vergangenheit schaerft das Bewusstsein fuer die Gegenwart)の精神を持ち続ける必要があり、先進工業国の責任でもある。金属水銀による中毒は過去の出来事ではない。現在の出来事である。
 仮定に仮定を重ねて提示した金鍍金作業者の水銀蒸気曝露濃度等の数値は、数値を用いた遊びに過ぎないとの批判は承知している。しかし、明確な根拠に基づいた推定である。単に「水銀蒸気は危険である」というだけで、大仏や蓮華座への金鍍金は片づけられない。合理的理由のある推定値を基に、大仏や蓮華座に対するアマルガム法による金鍍金の危険性を論じて行くべきであろう。


研究費の供与
 本研究の施行にあたっては、如何なる形の研究費の供与も受けていない。
利益相反
 申告すべき利益相反は一切ない。
謝辞
 文献の収集や大仏の体積の近似や、鍍金面への金属水銀残留量の算出に於ける佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理部主査)からの有益な助言に対し、改めて深謝する。また、入口紀男熊本大学名誉教授からも多くの助言を頂いたことに深謝する。大仏に関する復元値の選択に関する後藤完二氏(株式会社アコード)の助言に対し、深謝する



参照文献

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