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Abstract The Great Buddha in Nara was constructed in AD 757 and was entirely covered in gold leaf. Over the following centuries, both the statue and its main hall were repeatedly damaged by natural disasters and wars. Although the main hall and the damaged sections of the Buddha were repaired, the restoration of the statue itself was never fully completed. The reconstructed figure — the present-day Great Buddha —does not exactly represent its original form. Digital restoration technologies have since presented multiple models of how the original image may have looked.Approximately 50,000 skilled artisans and about 2.1 million general laborers worked on the project for over eleven years. The original population of the Heijo‑kyo metropolitan area and its surrounding regions is estimated to have been around 10,000. A rapid population increase occurred in the Heijo‑kyo area. Various environmental problems arose, including difficulties in the daily supply of water and food, and in waste disposal. The number of displaced people migrating from the surrounding regions into the city center grew. Social order deteriorated. Even government officials formally complained about the stench caused by human excrement. The "Manyoshu" —Japan's oldest official anthology of poetry — described the capital's scenery as radiant and splendid, like a field of flowers. In reality, however, it was far from such an ideal. Based on the amount of metallic mercury used in the creation of the Great Buddha, the concentration of mercury vapor in the air is estimated to have reached approximately 0.2 mgHg per cubic meter. No protective measures were taken to prevent the inhalation of mercury vapor during the process. Keywords: Great Buddha in Nara, metallic mercury, gold plating ― 本稿は以下準備中である ― 現在の姿からは想像できないが、創建当初の奈良の大仏(毘盧遮那仏)は、全身と蓮華座が金で覆われていた。その概略は複数の資料に記録されている。天災や戦乱により大仏殿及び蓮華座が大きく損傷し、本体や蓮華座の破損部分は補修されたが、完全な復旧ではなかった。さらに鍍金部分の補修は行われなかった。従って、完成した当初の容姿は現在のそれとは大きく異なっていた。その後、完成当初の容姿を復元する試みが行われた。倉爪等と大石等が提示した姿(数値)が、多くの仏像の補修などを手がけた人達から、最も創建当時の姿に近いと評価されている。 日本では八世紀の初期、つまり大仏の建設が開始されたころの日本は、大陸由来の天然痘などの感染症の流行が繰り返され、国内では有力者とその家族の感染による死亡が相次ぎ、国内は騒然としていた。当時の有力者間の抗争との関係から、病気の流行は有力者の呪術の結果との噂がささやかれていた。感染症の流行や、多くの有力者の死や鍍金作業者の健康障害が地域の神々の怒りによると信じられ、全国規模で祈祷や読経が繰り返された。平城京の建設地域には基本的に神社はなかったと見られている。そのころ道教の影響も有り、道教の祭祀も行われていたと考えられている。 日本では、鉄器の時代に銅器の時代が直ぐに続き、程なく銅器の欠点を補う青銅記器の時代となった。つまり、日本には銅の伝来と青銅の伝来がほぼ同時期であり、日本では銅器の時代が短かった。したがって、日本で造られた鋳造仏像のほとんどは青銅製である。日本は古くから銅の主要産出国といわれているが、日本の銅鉱脈の多くはいわゆる「別子型」であり、金、銀、アンチモン、等の混入比が高い。 大型の仏像に金鍍金を施すことに対する聖武天皇の執心は深かった。金アマルガム法で鍍金された見事な小形の仏像が仏典と共に到来し、多くの人々が仏像の見事さに感銘を受けていたようである。日本は仏法を基本にした国であることを内外に広く知らせる目的で、その象徴として燦然と輝く金鍍金された大型仏像を建立することに力が注がれたと思われる。 しかし、奈良の大仏の金鍍金の最大の問題点は、金アマルガム法以外には適切な手法がなかったことである。しかも、大仏の様に巨大な物体に金アマルガム法で鍍金を施した経験は全くなかった。 金アマルガム法は、金属水銀に金を溶解させて金アマルガムをつくり、それを金属表面に塗りつけ、加温によりアマルガム中の金属水銀を気化させて、物体の表面に金を残すという方法であった。したがって、その作業は、金属水銀蒸気の曝露をうける可能性が高い作業であった。特に、蓮華座に対する鍍金のように、複雑な外形のものになると、一人当たりの作業空間が狭く、金属水銀蒸気の曝露を極めて受け易かったと思われる。 大型物体を金アマルガム法で鍍金する場合に鍍金する部分を分割し、鍍金を行った後に組み立てる方法が考えられる。しかし、当時それは困難であり、奈良の大仏の本体と蓮華座は、まず全体を鋳造し、しかる後に鍍金をすることにされた。 奈良の大仏の金鍍金で実際に使用された金や金属水銀の量については多くの文献があるが、大仏の金鍍金で使用された金は 440キログラム、水銀は 2.5トンであり、重量比で見ると金「1」に対して水銀「5.56」となる。延喜式等に記載されている理想的な金アマルガム法とくらべると、水銀が過大であるか、金が過少であるかのいずれかである。この試算の元になった数値は「大仏殿碑文」であり、そこに記録されている水銀使用量は、五年間の鍍金作業で使用した量を合算したものと見られる。 毎年 500キログラムの金属水銀が作業所に持ち込まれたと考え、仮に温度 60℃、無風、水平に置かれた 65グラムの金属水銀からは、金属水銀は 10時間で48.1ミリグラム気化するとされている。したがって、一年間に作業所に持ち込まれた 500キログラムの金属水銀から発生した金属水銀蒸気の量は、6時間では、 (500000/65)× 0.0481 × 0.6 = 222(ミリグラム)となる。 金アマルガムの滅金を開始した直後の作業現場は、惨憺たる状態であったと思われる。鍍金作業者は、所定の箇所の鍍金を終えると引き続き次の箇所へ移動し、作業全体が終了するまで作業を続けなければならない。すなわち111mgHgの濃度の金属水銀蒸気から離れるわけにはいかなかったといえる。鍍金作業者以外の作業者でも近隣の作業場にいた者はこの濃度の金属水銀蒸気に触れ続けることになる。鈴木によると、この濃度の金属水銀蒸気に接触すると、直ちに呼吸器粘膜の出血や呼吸困難に陥り、場合によっては死に至る。中毒者の症状の印象はかなり印象が強かったと思われる。これは、当時の関係者にとっては全く経験したことがなく、当惑するだけであったと見られる。当時は天然痘の流行が繰り返されていたこともあり、全ての不可解な出来事は、地域の神々の怒りにふれた結果と理解され、祈祷や読経、礼拝、お祓いなどで対応するのが精一杯であったと見られる。 鎌倉大仏の建造年は不詳であるが、奈良大仏の金鍍金の危機的状況から鎌倉大仏は金箔貼りつけに変更された可能性がある。 当時の日本は、豪族が抗争を繰り返し、農民からの収奪に明け暮れていたという見方がある。一般大衆の生活は厳しく、万葉集で大伴家持が描いているように「生きるとは、これほどつらいものか」と詠われる程の苦しいものであった。筑前の国守を務めていた山上憶良の『貧窮問答歌』の内容は、国守として在勤中の体験に基づいていると考えられる。金鍍金された仏像の足下では、重税にあえぐ一般人がいた。 ところで、奈良時代の税制の大要は次の通りであった。都(平城京)の住民となるためには、まず、口分田の交付をうければならなかった。通常、区分は平城京の外にあった。口分田でのおもな仕事は、水田耕作による稲作であり、農業用水の管理が大変であったと思われる。さらに、口分田耕作者には、口分田での農作業の以外に、多くの義務が課せられていた。すなわち、粗(口分田で収穫した稲の3%を納める)、庸(都で十日の労働か、機織りをして作成した布を2丈6尺納付)、調(各地の特産物の納付)、雑徭(年間六十日の土木工事)、21~60才の三分の一の人数が兵役)等が加わった。特に、兵役のうち、防人は3年間の勤務であった。本体や蓮華座及び光背の鋳造における労働の負担が加えられ、かなりの労働力が大仏建設に必要であったようで、十年費やした大仏本体蓮華座、及び光背の鋳造等に、雑役夫およそ 219万人(延べ人数)の他に、技術者 42.1千人が従事していたと記録されている。雑役夫(性別は不詳であるが、多分、口分田耕作の労働力とされている人達)の雑用的な仕事と考えられ、前記の雑徭の枠内で集められたと考えている。口分田における労働は稲作が主であるが、交付される口分田は遠隔地である場合が少なくなく、耕作以外の労働力の必要性が高く、あれこれ理由をつけては口分田の働き手を使用していた可能性があり、口分田耕作自体に支障をきたす恐れがあった。つまり、大仏に必要な労働力の供給のため、肝心の口分田における稲作農業に支障が生じる可能性が大きかったと考えられる。つまり、口分田の労働力を何とか理由を付けては流用していたといえる。つまり、口分田の収穫はどうなったかであるが、収穫された稲は市場で売却され、収入は貴族と役人により消費されていた。 すなわち、一般人は聖武天皇の勅語の趣旨とは正反対の状態であり、庶民にとって大仏建設は負担でしかなかったといえる。大仏で動員された労働力は、雑徭の一環として課された可能性が高いと考えられる。すなわち、一般人は租税の負担に加え、調徭による労働力の提供(年に六十日)の義務が課せられていた。すなわち、一般人には税制で課せられている義務以上の大仏に関わる仕事をしなければならなかった。その結果、民心は仏法により乱れた世の中を正すという天皇の理想とはかけ離れていたと考えられる。いずれにせよ、農民は収奪されるだけであった。 聖武天皇は朝鮮半島から伝来した仏教に深く帰依し、続く国内の混乱を収め、病気の流行に対応する目的で仏法による国の安寧と発展を国是とし、日本国を安定させ確固たる状態にし、大国の介入を避けねばと確信し、その信念の下に、象徴としての大仏の建設を国家的事業として行うことを決め、「大仏建立の詔」の詔勅を 745年に発し、大仏建設が開始された。仏法の象徴として大仏建設の場所として、新たな都となるべく建設される平城京の近く、東大寺の境内が選ばれたようである。ただし、場所選定の詳細は伝えられていない。朝鮮半島より渡来したのは、青銅の使用であり、以後、仏像の鋳造は殆ど青銅で行われた。一般人の生活の実態は、「貧窮問答歌」で詠われるように、厳しいものであり、支配者から振り返られることはなかったといえる。山上憶良が「貧窮問答歌」を書いた時の気持ちは、為政者は一般人のこのような暮らしを知らなければならないという気持ちはあったと思われる。極論すれば、当時の為政者は農民からの収奪に専念していたという見方もある。山上憶良が詠んでいる他の詩をみれば、子を偲ぶ詩を多く詠んでいる場合があり、筑前の守として勤務していた際に見聞きしたことを放置できないと考えていた気持ちがあったのではないかとも考えられる。金鍍金の大きな仏像があれば、人々が日々大仏を仰ぎ見、礼拝するごとに仏教への信仰を確かにするために,大仏本体と蓮華座に金メッキを施すことが金鍍金の理由であり、聖武天皇により強く主張されていた。金に装われた大仏の足下で、口分田を耕作していた一般人の気持ちはいかがなものであったのだろうか。 大仏建立の開始 西暦747年に大仏本体や蓮華座の鋳造の詔勅が発せられ、大仏建設が開始されたが、予定地には既に先住者が居住し、菅原郷の戸として聚落があった事が続日本記に掲載されていた。つまり、平城京は無人の広野に建設されたのではなかった。この時期に及んでも、アマルガム法による金鍍金の有害性については、考慮された形跡はない。 奈良の大仏の場合は、本体と蓮華座の鋳造に三年、頭部の鋳造と組み立てに二年、鋳造の仕上げと鍍金に五年、計十一年を費やして、大仏本体と蓮華座の鋳造は完成したと記されている。しかし、費やした年数については史料により多少の違いがあるのはやむを得ない。大仏本体の鋳造は、下部から始められた。即ち、蓮華座から始まり、大仏本体をいくつかに分け、外型と中子を設置し、周囲に土手を築き、土手の上部から溶解した青銅を流し込んでいく手法で行われたと考えられている。 国内で鋳造された仏像は、殆どが青銅製である。当時主な銅鉱山は国直営であり、鋳造に使用した青銅は銅を扱う部署が置かれていた長登鉱山から送られてきた粗銅を、若草山に設置した溶解炉で溶解し、青銅としての度合いの調整を行い、鋳型のある場所で溶解された後、鋳造作業場所に運ばれていた。送られてきた青銅の状態によっては、更に錫などを添加していたようである。おそらく、溶解した青銅の状態をみれば、鋳造に適不適が判断可能であり、溶解担当者の判断で他の金属を投入していたと考えられる。溶解時の様子はほとんど伝えられていない。 東大寺に残されている記録では、作業開始と当時に大仏殿の建設が開始されたとされているが、詳細な記録は残っていない。多くの作業が同時に行われていたので、作業の管理が大変であったと思われる。たとえば、光背を作ったが、大仏殿の天井につかえたので、修正したとの記録が残っている。かなり混乱していたと思われる。 ところで、奈良の大仏本体や蓮華座の鋳造が開始されるおよそ百年程前に飛鳥大仏の鋳造が行われているが、建設関係の記録の多くが失われているため、鋳造当初の姿を推定する目的でエックス線による検査が行われている。その結果、飛鳥大仏の損傷部位の補修は当時の銅によって行われたが、ほぼ純粋に近い銅の鋳造品を使用して修復が行われていたことが判明している。その結果、現存の飛鳥大仏は、建設当時とほぼ同じ姿であると結論づけられている。 帰化人の飛鳥大仏の鋳造作業における知見が東大寺大仏本体や蓮華座の鋳造に参考にされた可能性は当然あるが、形跡は残されていない。しかし、当初は金鍍金が計画されていたが、奈良大仏で金属水銀蒸気による中毒者が続発したため、飛鳥大仏や鎌倉大仏へは金アマルガムを利用する金鍍金法を中止して金箔貼りつけ法に変更している。おそらく、アマルガム法による大仏本体や蓮華座の金鍍金に従事し始めた鍍金作業者の呼吸器症は死にいたることが希ではない状態であり、金属水銀から何かよくないもの「気(け)」が出ているとの想いが関係者一同にあったか否かは不明である。ただし、大仏本体と蓮華座へのアマルガム法による金鍍金は続けられていた。 金アマルガム法による金鍍金の進め方 奈良大仏の建立は当時の国家的事業であり、金や金属水銀の使用量は、延喜式にしたがって、詳細に記録されていたと思われる。その様な記録が何処にあったかということになると、東大寺の正倉院には、たとえ断片的であっても、そのような記録が集積されていた可能性がある。 奈良の大仏と蓮華座の金鍍金で使用された金と金属水銀の量については、使用量の記録に基づき、詳細な検討が行われた。その結果によると、前記したように、使用された金は 440キログラム、水銀は 2.5トンであった。この計算の対象になった数値は、大仏殿碑文であるが、鍍金の五年間の値を合算したようにも見える。そこで、大仏建設の経過を考慮し、金の使用量も水銀の使用量も十年間の使用量を合算したと理解できる。すなわち、水銀使用量を一年間に 250キログラムとと解釈できる。当時は金属水銀の毒性はないと信じられていた。 気温 60℃、無風、平面おきの条件で大ざっぱに考えると、65グラムの金属水銀から 10時間に 111ミリグラムの水銀蒸気が発生する。鍍金作業者は、鍍金作業場所を離れない限り、この金属水銀蒸気の曝露から逃れられない。この様な濃度の金属水銀蒸気を浴び続けると、直ちに呼吸器からの出血、腎臓障害等の症状を呈し、死亡することも希でないとされる。特に出血を伴う病変が関係者に与える影響は大きく、関係者は、全ては地域を司る神々の怒りに触れたと判断し,祈祷、礼拝、読経等で対処した。しかし、いずれも効果がなかった。それでも、金アマルガムを使用した金鍍金作業は,中止されることはなかった。聖武天皇の裁可を得た金鍍金であって中止されなかった。手作業を含む金アマルガム法による金鍍金は、天皇の裁可を受けた手法ではあるので、中止の処置は執られず、健康障害が多発していても、金アマルガムの使用と関連づけて考えられることはなかったと考えられる。しかし、当時の金鍍金関係者は、誰もが奈良の大仏の本体と蓮華座の金鍍金において,呼吸器の障害を伴い、場合によっては死にいたる可能性のある鍍金作業者の健康障害を目の当たりにした結果、当時の有識者が協議のうえ、鎌倉大仏や飛鳥大仏で計画されていた金鍍金は行われず、金属水銀を使用しない金箔貼りつけに変更されたと推定できる。金属水銀によると思われる中毒症状をもとにして、鎌倉大仏に於ける金鍍金を中止させたことは,日本における水銀利用の歴史の中では、数少ない望ましい事例であったといえる。 すでに述べた通り、小西の報告を参考にして金鍍金開始時にはこの間、金属水銀を素手で扱うことの危険性について、何等かの申し送りがあったと考えられるが、記録はない。作業者が十人で作業内容が精密画を描くように金アマルガムを「へら」を用いて手作業で塗りつけ、手作業で布を用いて磨くという一連の鍍金作業や、作業者の密集度を考えると、金鍍金作業場所は快適な職場であったとは考えにくい。金アマルガムの塗布を複数回繰り返した後、布で塗布面を磨き、光沢を出させる。この作業を繰り返し、鍍金官僚の合図で隣接する鍍金部位に移動する。金属水銀の気化を促進する目的で、加温が行われていた。加温は現在のカイロの基準である 60℃以下であったと想定される。一度の鍍金で担当する範囲の広さを考えると、鍍金作業者数は十人程度までであったであろう。金アマルガムの塗布と布による磨きあげはすべて手作業であり、加温されていた職場である。金属水銀蒸気の吸収を促進させる条件が揃っている職場であった。 一日の作業を終えると、十人の作業者は一団となって、次の鍍金場所に移動する。その際、使用しなかったアマルガムや新たな鍍金のために支給されたアマルガムなどを持ちながらの移動である。したがって、移動する鍍金作業者の通路と交差する者は、鍍金作業の有無を問わず、金属水銀蒸気の曝露を受けることになるが、一酸化炭素による影響も考えておかねばならない。 この時代の平城京の人口構成について、王と貴族とその家族は 1,200人、官僚とその家族 6000人、官人 30,000人、庶民は 30,000人程度であったと見られる。他に仕丁と衛士が20,000人程度と考えられている。仕丁と衛士は職務を提示して全国から集められている。したがって、大仏建設に流用できる人数は、庶民 30,000のから集めるしかない。人口が増加すれば、地域の食糧供給や生活用水の供給に齟齬が生じ、物流も増加して弊害が目立つようになった。当時、運脚の帰り道の食料は各自が調達する事になっていたが、凶作により、帰り道の食料の調達が出来ず、流民となって滞留する人や行き倒れになる人数が無視できなくなった。そのため、公的扶助がとられている。大仏建立のために集められた作業者の宿舎は、表面的には、建設を担当する部署が準備したとされているが、詳細は不明である。一大プロジェクトである奈良の大仏建設であるから、それに相応しい人員や食料の管理をしなければならなかったが、それは十分ではなかったと思われる。生活用水と食料の確保、廃棄物の処理が問題になっていた筈である。 唐の長安を参考にして、壮大な計画の下に建設された平城京であるが、754年には早くも長岡京に遷都することになった。平城京は新しい都として壮大な計画のもとで、建設された。当時の政治、経済、宗教の中心であり、貴族をはじめとし、多くの官人や商業者、多くの職人達が平城京を支えていた。しかし、大仏建設には 11年間に述べ 250万人の人が平城京の運営に携わっていた、つまり、大仏建設の知識人(技術者)42万人、役夫(雑役夫)218万人、合計260万の人口増があったことになる。もともと平城京では地下水の利用が貴族や公務員に限られていただけでなく、土地の利用にも制限があり、他の者は生活用水として地下水は利用できず、地表水を利用しなければならなかった。地表水も人の廃棄物による汚染の可能性が高かった。万葉集に「咲く花の匂うがごとき」と詠われた平城京の光景は実際とはかけ離れていた。西暦 733年、758年、768年、773年と飢饉がつづき、平城京とその周辺地帯は慢性的食料不足の状態にあった。更に、凶作や飢饉が続いた周辺地域から、離農した住民や、流民となった人達の平城京内への流入が続いていた。食料の購入ができない人達にたいしては、公的扶助がとられた。平城京内でおよそ 10,000人、周辺地域で約 1,000人に及んだと記されている。藤原京や平城京の廁の遺跡から、多くの人体寄生虫の虫卵が発見されている。奈良文化財研究機構年報(1992)の報告によれば、人体寄生虫であるから、寄生虫感染がかなり蔓延していたといえる。寄生虫の種類は、現在と変わりはない。藤原京や平城京の遺跡には、各宅地から道路脇の推論に屎尿を直接放流する方法と、宅地内に貯留槽をもうける方式の二つが認められている。藤原京の時代に水路や貯留槽からの臭気対策を求める勅が出されている。すなわち、屎尿の臭気は藤原京の時代からの問題であった。更に、運脚や流民、さらには、一般労働者達が厠を使用していたのかという問題がある。 今回、大仏本体や蓮華座への金アマルガム法による手作業での鍍金作業が、金属水銀中毒危険性が極めて大きいことを指摘し、平城京からの遷都の要因の一つとなった可能性を指摘しておくことが必要である。日本の歴史において、極めて規模の大きい金属水銀中毒が発生していたことを、改めて指摘しておきたい。この事件発生後、凡そ十年以上にわたって国内向けに多くの指示(医師の再教育、読経や礼拝、疫神の祭り、祈祷の励行などの神頼み的)が繰り返して出されている。鍍金作業の開始により発生した健康障害への対策が次々と出され、右往左往している為政者の姿が浮き彫りにいる姿が明らかになってくる。 ところで、三重県地方の古い言い伝えに、水銀曝露を長期間受けていた可能性の高い水源の稲を常食としていた人々の間に、言語障害の子供が生まれ、意味の分からない言葉を神のお告げとして有難がる事例が伊勢地方にあったといわれている。金や水銀を自由に扱える人達の間にも、その様な事があった可能性がある。 金鍍金に必要な資材等 年末恒例の大仏の御身拭いの際に得られた金の小片と、大仏本体と同時代の製作であることが文書により確認されている仏像(奈良三月堂の不空囉策漢音像)から得られた金小片(仏像に使用されている金箔の小片)の双方について、双方の夾雑物が一致する事が確認され、両者は同時代の金であることが確認された。 金の調達 アマルガム法による鍍金面の厚みは、現在では、は 5~10μ程度が妥当と推定されている。大仏と蓮華座の建設が開始された頃の国内における金の産出量を考えると、金鍍金に必要な量の金の国内調達が危ぶまれ、当初は金の輸入が考えられていた。しかし、本体や蓮華座の鋳造作業開始直後の 749年に、陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町一帯)で有力な砂金鉱山が発見され、金鍍金に必要な金の調達が大きく前進することになった。この砂金鉱山発見の衝撃は大きく、年号が改められたほどである。東大寺に送られた金は沙金であり、金塊や金鉱石とは区別して記録されている。砂金であるから金鍍金に速やかに使用できる。東大寺に送られた砂金の量は 53.132キログラムと記されているが、この価は、東大寺に送られた砂金のうち、大仏本体や蓮華座の鍍金に使われたとされている砂金の量に略等しい。東大寺の記録には、送られてきた砂金は仏像などの金鍍金以外にも用いられた趣旨の記録があり、涌谷の砂金鉱山以外の砂金鉱山の金鉱山由来の金も大仏の金鍍金に使用された可能性が記録されている。この記録では、砂金と金鉱石をわけて記録しているので、金鉱石の利用もあったと考えられる。ただし、大規模な金鉱石鉱山の発見については、記されていない。後の平泉の繁栄は主にこの一連の砂金鉱山によると考えられている。佐渡の金鉱山が稼働し始めたのは関ヶ原の合戦の後である。東方見聞録にある黄金の国ジパングとは、繁栄最中の平泉の時代と一致する。 現時点では有力な金鉱石を産出する金鉱山からの金鉱石の供給についての記録はない。ただし、飛鳥池工房発掘調査によると、金鉱石からアマルガム法による金精錬の試みの痕跡が発見されている。したがって、鉱石から採鉱された金も大仏の、金鍍金に用いられていた可能性は否定できない。この陸奥国小田郡一帯をはじめとする地域には同じような砂金鉱山が多数存在し、採取された砂金を売り歩く「金売吉次」と呼ばれる商人の伝説が生まれ、伝説的存在の金売吉次が数々の物語に登場することになった。それほど、奥州一帯から、砂金鉱山の砂金に依存していたといえる。しかし、金は国により元的に管理されていたと考えられ、アマルガムを使用する金鍍金は誰でも自由にできなかった。東大寺の記録では涌谷からの金は「沙金」と記録され、涌谷の金鉱山は砂金鉱山であることが明記されている。金属水銀がアマルガム法による金鍍金のほかに、金鉱石の製錬により金を得るのに用いられていた可能性があり、東大寺の金の受け払いの記録にも金鉱石の利用があったことが示唆されている。 創建直後の大仏と蓮華座の表面積は 1153.2平方メートル(本体 597平方メートル、蓮華座 556平方メートル)が妥当とされている。 銅の調達 弥生時代には朝鮮半島経由で銅を使用する鋳造技術と共に、青銅もしくはそれらの原料が、需要に応じて大量に輸入され、銅鐸等の鋳造が盛んに行われた。日本で産出される銅鉱石は、殆どが別子型という鉱脈に依存していて、青銅として銅が速やかに得られることが判明した。純銅製品より、加工が容易である青銅鋳物に移行するのが早かった。当時の日本は、世界有数の銅産出国であり、多くの銅鉱山があった。国直営の銅精錬管衛(=かんが、役所)が置かれていた長登鉱山(現在の山口県美祢市)で銅鉱石が採掘精錬されていた。長登鉱山をはじめとする国内の同鉱脈の大半はいわゆる[黒鉱]または「別子型同鉱脈」であり、銅以外の金属(亜鉛、アンチモン、金、銀、鉄)や珪素を多く含む日本固有の鉱脈であった。一方,弥生時代には朝鮮半島から銅を使用する鋳造技術とともに、青銅もしくはそれらの原料が需要に応じて大量に輸入され、銅鐸などの鋳造が盛んに行われていた。長登鉱山で採掘された銅は、粗銅のまま若草山周辺に送られるか、若草山あたりで溶解されて錫を添加され鋳造に適した青銅として鋳造現場で使用されたと考えられている。鉱山で採掘された銅鉱石は、精錬の過程で他の金属(鉛、錫等)が混入しているか、あるいは添加されるかして、いわゆる青銅として大仏建設の鋳造の現場に運ばれていた可能性がある。 この頃には、中国では、「銅の鋳物」は銅のみの使用では無く、「銅に他の金属(鉛、錫)を混合したもの、つまり青銅として鋳造する技術が確立していた。したがって、大仏建設が開始された頃には、到来した仏像の殆どは青銅を使用するのが当たり前であった。日本で鋳造された仏像は、殆どが青銅製である。更に、長登鉱山の遺跡の発掘では、大量の鉱滓(スラグ)が出土している。したがって、長登鉱山で採掘された銅鉱石を製錬する際に、採掘した銅鉱石の製錬を行い、他の金属の混入を調整し、大仏本体や蓮華座の材料に応しい粗銅として鋳造現場に送っていた可能性がある。もともと長登鉱山の銅を使用するのであるから、特に錫や鉛を添加しなくても、専ら青銅製の鋳物が生産されていた。 金属水銀の調達 国内で得られる水銀の大半は硫黄と金属水銀の化合物である硫化水銀であり、産出地は地質学で定義されている中央構造線上に沿って広く分布し、現在の奈良県から三重県にかけて広く分布し(地質学における中央構造線に添った地域)、以前は商業的に採掘が行われていた。これらの地帯以外でも「丹生」という地名がついている地域では、硫化水銀が採掘されていたともいわれている。硫化水銀は略水に不溶であり、鉱物は辰砂ともいわれ、紅色調から特異の健康影響を持つと信じられ、権力者の装身具などに利用されていた。薬物として利用された時代もあるが、現在では薬効が否定されている。鍍金に使用する金属水銀を得るには、辰砂を加熱し、加熱で得られる蒸気を冷却し、液体の金属水銀として利用していた。大仏関係の鍍金には、金属水銀は竹筒にいれて鍍金作業場に運ばれていたと言われている。この硫化水銀から金属水銀を製造する過程で金属水銀蒸気による中毒が発生していても不思議はないが、その記録は見当たらなかった。 蓮華座は、面積が大仏本体とほぼ同じであるから、以後の曝露濃度の推定においては、アマルガム塗布対象面積を本体への鍍金と同様に行われたと判断できる。 最近、リスクアセスメントの手法により東大寺大仏の金鍍金中毒の可能性を追求する研究が行われている。それらは金アマルガムの性状を液体としている点に大きな誤りがある。実際は、「ねりもの状」であり、鍍金作業者が手でもちながら、こすりつけていた。 付記 八世紀の出来事を、なぜ、二十一世紀の現在に取り上げるのかという疑問は生じるのは当然である。金属水銀の利用は、現在では過去の事と考えられがちである。しかし、現在、発展途上国における金属水銀を用いた金採掘による金属水銀中毒が問題になっている。その影響は、金採掘業者だけで無く、採掘した金の加工や流通に関わる者の間に広く及んでいることが明らかにされている金属水銀による中毒は、過去の事例ではなく、現在の事例として "Wissen um die Vergangenhait. Schaerft das Bevustssein fuer die Gegebwart (温故知新)" である。歴史の教訓を忘れるべきではない。金属水銀蒸気による中毒はいつでも起きうる。 金属水銀の毒性について無知であったことはしかたがない。しかし、経験したことのない健康障害の多発と、鍍金作業とを繋げて考えることができなかったのは、その様なこと(鍍金作業者の健康障害を関連づけて考えることができなかった理由として、不思議な事が起きた場合に、先ず、「なぜか?」と作業に関連づけて考えるべきである。発展途上国における金属水銀を用いる金採掘に、歯止めをかけるのは、先進工業国の責任であるといわなければならない。大気中の温室効果ガスの増加対策をないがしろにしてきた結果が、現在大気温度の上昇や海水温の上昇につながり、異常気候は決して絵空事ではない。もう、我々は異常気象の直中にいる。 平城京の繁栄を詠った万葉集の短歌は、本当にそのような暮らしがあったのかと言いたくなるが、貴族達は現実の光景は理解できなかったのかもしれない。真の世の中の光景は、山上憶良が著した『貧窮問答』にあるのかもしれない。貴族や役人達には、別の世界の事と写っていたのかもしれない。それにしても、一端は天皇の裁可をうけたアマルガム法による鎌倉大仏に金鍍金が中止され、水銀を使用しない金箔貼りつけ法に変更された事は、日本の歴史上の大事件であった。 さらに、金鍍金の多用の結果、金属水銀による汚染が広く及んでいるという推測が以前からあった。この事項に関し,東大寺一帯の土壌中の金属濃度を測定した結果がある。それによると、土壌中の水銀、鉛等の濃度は、対照群とくらべ特に高いという結果にはなっておらず、東大寺一帯への金属汚染は否定されている。但し、水銀については、経年による濃度の減少についての議論が足りない。 発展途上国においては安易な収入増加のために、金属水銀を使用する金の採掘が広く行われている。この様な国々における金属水銀を使用する金採掘従事者の健康状態の調査の結果、吸入した金属水銀蒸気の影響は、採掘当事者のみではなく、家族や流通関係者にまで及んでいる事が明らかにされている。採掘者の健康に配慮する事なく、金製品が先進工業国で利用されている。このような構図は存続を許すわけにはいかない。金はフェアな手段て手に入れたものが、誠の金である。 参考文献
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