モナリザ盗難事件と世界最初の合唱組曲の成立


堀口大學 作詞      月光 と ピエロ      清水脩 作曲


入口紀男   



要約

 1. 「ピエロ」の実在のモデルは、ギヨーム・アポリネールであると推定される。 
 2. 「コロンビイヌ」(ピエレット)とは、その許婚者マリー・ローランサン(1883-1956)のことである。 
 3. 「月の光の照る辻」とは、ラヴィニャン通りの「洗濯船」の近くと推定される。
 4. 「さびしく立ちにけり」とは、ある「事件」によって社会的に孤立したことを意味する。
 5. 「コロンビイヌの影もなし」とは、婚約さえも破局を迎えたことを意味する。
 6. 「身過ぎ世過ぎの是非もなく」とは、生活をする上での良し悪しも失われてしまったことを意味する。
 7. 「ててなしご」とは、アポリネールが(ローランサンも)私生児であることを意味する。
 8. 「月」とは、日本の月(男女を超越した慈悲の権化)である。西欧の月(満ちかける狂気)ではない。


はじめに


その二人

   ギヨーム・アポリネール
   (1880-1918)


 堀口大學(1892-1981)の処女詩集『月光とピエロ』(1919年)に歌われた「ピエロ」の詩は、フランスのギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 1880-1918)がマリー・ローランサン(Marie Laurencin 1883-1956)に失恋したまま逝去したことを思いやる鎮魂の歌であると考えられる。失恋の原因は当時の「モナリザ盗難事件」にあった。

 ギヨーム・アポリネールは、近代芸術の分野で「シュルレアリスム」(超現実主義)の先駆者として知られる詩人・小説家・美術批評家である。
 堀口大學(1892-1981)の『月光とピエロ』が、そのアポリネールの死の翌年刊行された。堀口大學 27歳の作品であった。

  ローランサン       


マリー・ローランサン
(1883-1956)


 

 それらの詩は、堀口大學がアポリネールの不幸な生い立ちと偉大な業績、その許婚者マリー・ローランサンとの理不尽な破局、そして恋したままの死に接し、そこからインスピレーションを得て創作されたものと考えられる。

            


    『 月夜

  月の光の照る辻に
  ピエロさびしく立ちにけり

  ピエロの姿白ければ
  月の光に濡れにけり

  あたりしみじみ見まはせど
  コロンビイヌの影もなし

  あまりに事のかなしさに
  ピエロは涙ながしけり

 堀口大學 『月光とピエロ』
(1919年)

 

 

 堀口大學が「ピエロ」を歌う五つの詩は、堀口大學のアポリネールへの深い尊敬と、アポリネールとローランサンへの深い哀れみを同化させた惻隠(そくいん)の詩であると考えられる。すなわち、逝去したアポリネールに贈る、厳粛な「鎮魂の歌」であると考えられるのである。 

 清水脩(1911-1986)は、1949年に男声合唱組曲『月光とピエロ』を発表した。世界最初の合唱組曲であった。「ピエロ」の孤独な失恋を想起させる「1.月夜」から、死への昇華を彷彿とさせる「5.月光とピエロとピエレットの唐草模様」までの美しい作品となっている。日本音階を基調に作曲され、「純日本風」の美しさをもつこの曲であるが、その背景にパリの街に織りなす、以下の壮絶な悲恋の物語があった。




                  

当時の主な出来事             

 1907年






 ギヨーム・アポリネール(27)、パリでマリー・ローランサン(24)と出逢って恋に落ちる。アポリネールもローランサンも私生児であった。当時は差別の時代であった。
 アポリネールに「もうじきお前さんの将来の嫁さんがここに現れるぞ」と言ってローランサンを引き合わせたのは、キュービズムの創始者で当時駆け出しの二人の画家パブロ・ピカソ 26歳(1881-1973)とジョルジュ・ブラック 25歳(1882-1963)であった。
 アポリネールとローランサンはその後婚約した(堀口大學1980年)。多くの画家、詩人がモンマルトルの安アパート「洗濯船」に集まり、二人を祝福した。

 1909年














 フランス画壇の巨匠アンリ・ルソー(1844-1910)も『アポリネールとローランサン』を描いて二人を祝福する(晩年の作)。

その二人

ローランサンとアポリネール
アンリ・ルソー作(1909年)

四人

P.ピカソ、M.ローランサン、G.アポリネール、F.オリヴィエ 
(左から)      マリー・ローランサン作 (1909年)

 1911年






その二人

ローランサンとアポリネール(1912年)

 アポリネールとローランサン、ちょっとした不運な出来事(モナリザ盗難事件)を契機にだんだんと破局を迎えて行く。

 1913年

 アポリネール、詩集『アルコール』を発表する。その中にローランサンとの失恋の美しい詩「ミラボー橋」などを収録した。ローランサンの画風がこのころから変り始める。

 1915年


 堀口大學(23)、父親(外務省高官)の勤務地スペインのマドリッドでドイツの男爵夫人となっていたローランサン(32)と出会う。ローランサンにアポリネールの詩を紹介されて「ミラボー橋」などを日本人として初めて邦訳する。堀口大學はそのときアポリネールの失恋の相手が「誰」であったか、その詩の背後に広がる驚きの真実を日本人として初めて知った。  

 1918年

 アポリネール(38)戦地で頭に銃弾を受けて負傷していたが、生涯ローランサンに恋したまま「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザで病死する。

 1919年

 堀口大學(27)処女詩集『月光とピエロ』を上梓する。

 1920年

 ローランサン(37)離婚してパリへ戻る。

 1948年

 清水脩(37)の男声合唱曲「秋のピエロ」が、第一回全日本合唱コンクールの公募の課題曲として採択される。

 1956年

 ローランサン(72)死去する。アポリネールと同じパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。




1.ギヨーム・アポリネール(1880-1918)

 ギヨーム・アポリネールの母はポーランド貴族の出身であった。父は幼少時失踪したイタリア貴族と推定されている。
 1911年8月22日『モナリザ』がルーブル美術館から盗まれる。国境は封鎖され、駅には検問所が設けられた。マスコミも大々的に報道した。犯人について多くの憶測が飛び交い、多額の賞金が懸けられた。
 アポリネールは、同年9月7日に、その前日に失踪した仲間が過去にルーブル美術館から小品を盗んで売りさばいていたことから共犯ではないかと疑われ、逮捕されてラ・サンテ刑務所に投獄された。アポリネールは「真犯人」として(私生児としての)生い立ちまで詳しく報道される。「差別」の時代であった。


  『 獄中歌 』(最初の部分)
 ギヨーム・アポリネール (1911年)

  監房へ入る前に
  わたしは裸(はだか)にされた
  すると悲しい聲が吠(ほ)え出した
  ギヨーム 貴様は何のざまだ と

 堀口大學訳詩集『月下の一群
   新潮文庫(1955年)より

            
 

 

 そのとき一方でアポリネールの婚約者である我が娘の「生い立ち」を深く憂慮していたのは、マリー・ローランサンの母ポーリーヌ・ローランサンであった。ポーリーヌは未婚の母(49歳)であった。

    ポーリーヌ
    
 

ポーリーヌ・ローランサン
(1861-1913)

 アポリネールは 1週間後に釈放された。アポリネールは、『モナリザ』の盗難とも小品盗難とも無関係であったが、マリー・ローランサンとの破局につながった。ポーリーヌは娘マリーのアポリネールとの結婚を認めないまま 1913年に逝去した(52歳)。マリー・ローランサンは母の死をこの世が終わるほど悲しんだ。
 アポリネールは、象徴詩的な小説『腐ってゆく魔術師』(1909年)ですでに名声を確立していたが、この「事件」によって一般大衆の間でも一躍有名となった。

アポリネール   

ギヨーム・アポリネール
(1914年34歳)
     

 

 そのときアポリネールは周囲に対して努めて笑顔で明るくふるまった。「彼も大いにそれを悦(よろこ)ぶかのごとくだった」(堀口大學 1980年)。アポリネールは、そのように身過ぎ世過ぎの是非(生活をしていくうえでの良し悪し)も失ってしまい、おどけざるを得なかったのであろう。「ピエロ」の「身すぎ世すぎの泣き笑い」とは、アポリネールの悲しい「泣き笑い」であったと考えられる。アポリネールは、そのとき人生の「秋」をしみじみと感じた。

            

     『
  ギヨーム・アポリネール (1911年)

   鳩よ キリストを生んだ
   愛よ 聖霊よ
   僕もお前と同じやうに
   ひとりのマリーを愛している
   彼女と夫婦にしておくれ

  堀口大學訳詩集『月下の一群
    新潮文庫(1955年)より

 

 

 なお、『モナリザ』は、二年後にイタリアのフィレンツェで発見された。犯人はルーブル美術館の絵画の保護ガラスをはめる工事をしていた職人であった。
 1914年4月にマリー・ローランサンはドイツに男爵夫人として嫁ぐと、7月には第一次世界大戦が勃発。アポリネールにとって「敵国夫人」となる。


アポリネール
   

ギヨーム・アポリネール
(1916年36歳)
     


 

 一方、アポリネールは、ローランサンとの破局の後、場当たり的な幾つかの激しい恋愛と、どうでもよいような結婚をしたが(堀口大學)、対ドイツ戦線に志願兵として出征。1916年に頭部に弾丸を受けて負傷する。戦場でも忘れられなかったのはマリー・ローランサンのことであり、そのことは「胸が痛くなる」(堀口大學 1980年)
 アポリネールはインフルエンザが悪化して 1918年に 38歳で死去した。最期まで、アポリネールと恋人ローランサンが並び、友達と一緒に描かれた絵(ローランサン 1909年作)を自室に掲げていたと伝えられる。パリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。




            

    『 ミラボー橋
  ギヨーム・アポリネール (1913年)

  ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
  われ等の恋が流れる
  わたしは思ひ出す
  悩みのあとには楽みが来ると

   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る

  手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
   かうしてゐると
  われ等の腕の橋の下を
  疲れた無窮の時が流れる

   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る

  流れる水のやうに恋も死んでゆく
   恋もまた死んでゆく
  生命ばかりが長く
  希望ばかりが大きい

   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る

  日が去り月がゆき
   過ぎた時も
  昔の恋もふたたびは帰らない
  ミラボーー橋の下をセーヌ河が流れる

   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る

  堀口大學訳詩集『月下の一群
   新潮文庫(1955年)より

 

 

2.堀口大學(1892-1981)


堀口大學
   

堀口大學
(1924年32歳)

 

 堀口大學は、明治から大正、昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者である。89歳まで長生きしたが、若いころは結核を患っていた。フランス詩集 『月下の一群』 (1925年)などの訳詩書は三百点を超え、日本の文学に多大な影響を与えた。日本芸術院会員であった。文化勲章を受章した(1979年)。
 堀口大學は「ててなしご」(私生児)ではない。私生児は今では人権が完全に認められているが、「ててなしご」は当時の差別用語であった。堀口大學は高級官僚の息子であった。堀口大學の父九萬一(くまいち)は、越後長岡藩の出身で、東大法学部に主席で入学した。在学中に長男が生まれたので「大學」と名付けた。武士の矜持をもって育てられた。
 1914年堀口大學(23)は、父親の赴任地マドリッドでマリー・ローランサン(32)にギヨーム・アポリネールの詩を紹介されてそれに熱中し、「ミラボー橋」などを日本人として初めて邦訳した。ローランサンは第一次世界大戦でスペインに亡命中のドイツの男爵夫人となっていた(日本から見ても敵国夫人)。そのとき堀口大學は、アポリネールが「ミラボー橋」に歌っていた失恋の相手が「誰」であったか、その真実を秘かに知った。堀口大學は、カイゼル(皇帝)が始めた第一次大戦さえも都合がよく、ローランサンとの巡りあわせを幸せに感じたが、それは、ヨーロッパの文学史・芸術史に残る優れた作品をローランサンから直に手渡され、それらの作品の背後に臨在する驚きの真実に日本人として初めて触れることができたからである。



   『 秋のピエロ 』 

 泣き笑ひしてわがピエロ
 秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり

 Oの形の口をして
 秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり

 月の様なる白粉(おしろい)の
 顔が涙を流すなり

 身すぎ世すぎの是非もなく
 おどけたれどもわがピエロ

 秋はしみじみ身に浸みて
 真実なみだを流すなり

堀口大學 『月光とピエロ』
(1919年)

         
 

 

 マリー・ローランサンは、日本の若く礼儀正しい詩人であり、細かいことにも心を配り、やや病弱な、フランス語を話す堀口大學を大変気に入り、堀口大學をアトリエからの帰りなどにしばしばお供に誘った。堀口大學は、ローランサンが仕事を終えるまでアトリエで椅子に座って待った。
 ローランサンはアトリエでドレスを着て仕事をした。そのドレスにはたいてい小さいポケットがたくさんついていて、それぞれしじみ貝一個くらいしか入らない。そのポケットに入れたものをよく失くした。堀口大學がローランサンにもう少し大きいポケットにすれば良いなどと意見しようものならその後三日程は誘ってもらえない。しかたなく、堀口大學は黙っていた(堀口大學 1980年)。

            


    『ピエロ』     

 ピエロの白さ 身のつらさ
 ピエロの顔は 真っ白け
 白くあかるく 見ゆれども
 ピエロの顔は さびしかり
 ピエロは 月の光なり
 白くあかるく 見ゆれども
 月の光は さびしかり  

堀口大學 『月光とピエロ』
(1919年)

 

 

 堀口大學の処女訳詩集は『昨日(きのう)の花』であった。それは 1918年に刊行された。これは 20名近くのフランスの詩人の作品を邦訳したもので、永井荷風(1879-1959)が序文を書いている。
 永井荷風は堀口大学の自作詩集『月光とピエロ』(1919年)にも序文を寄せている。その中で永井荷風は「君は何故におどけたるピエロの姿としめやかなる月の光とを借り来たりて其の吟懐を托し給へるや。新しき世の感情のあらゆる紛雑と破調とまた諧和とは皆ここに在るを知らしめんがためか」と書いている。その序文を根拠として『月光とピエロ』で唄われるピエロとは堀口大学自身のことであろうとして 2010年代前半まで一般に信じられた。
 永井荷風は、慶應義塾大学文学部教授としてフランス文学に造詣が深く、また、雑誌『三田文学』を創刊するなど、著名な文学者であった。しかし、永井荷風は教授職の傍ら新橋の芸者・八重次(1880-1966)との交情を続けており、堀口大學がマドリッドで「ミラボー橋」を邦訳していたころ(1915年)、永井荷風は八重次を入籍して兄弟親戚ともめていた。永井荷風としては、無名の詩人・堀口大學がスペインのマドリッドでまさか「ミラボー橋」を日本人として初めて邦訳し、アポリネールとローランサンの悲恋の真実に日本人として初めて触れていたことなどについては知る由もなかった。
 永井荷風は、その結果として、送られてきた『月光とピエロ』の原稿を読んで、「ピエロ」の不思議な五つの詩は、堀口大學のマリー・ローランサンに対するかなわぬ恋心をピエロに託したものとして、これを取り違えたようである。
 堀口大學も生涯を通して恋多き人ではあったかもしれないが、しかし、堀口大學が詩人としての魂をふるい起こして「ピエロ」の詩に綴(つづ)ったものは、ギヨーム・アポリネールがマリー・ローランサンとパリの月下に織りなした壮絶な悲恋の真実であった。
 以上のように、このページ『月光とピエロ - モナリザ盗難事件と世界最初の合唱組曲の成立 - 』は、2012年にウェブに公開して以来、一貫してピエロとは堀口大学ではなく、アポリネールとするものである。

 フランスの芸術雑誌『メルキュール・ド・フランス』(Le Mercure de France 1890年創刊)の編集者ポール・レオトーが、あるときギヨーム・アポリネールの住む小さなアパートを訪ねた。アポリネールが迎えてくれた。すると、奥の台所でマリー・ローランサンが女房気取りで何かコトコトやっている。そして、幸せそうにテーブルを広げてくれた。そのことがレオトーの未刊の日記に書かれていて、ここ(神奈川県葉山)に残っている。(堀口大學 1980年)

            

  『 恋は死んだ 』(最後の部分)
  ギヨーム・アポリネール (1917年)

 またしても春が過ぎ去る
 僕は思い出す甘やかだったことがらを
 去ってゆく季節よ さようなら
 同じほど甘やかに
 もう一度ふたりの上に来ておくれ

  堀口大學訳『アポリネール詩集
   新潮文庫(1954年)より

 

 

 モンマルトルの「洗濯船」の近く。月の光の照る辻にギヨーム・アポリネールはさびしく立っている。モナリザ事件は無事に解決した。しかし、その生い立ちなどを新聞であれこれ書き立てられた。許婚者(マリー・ローランサン)のことまでは書かれなかった。でも、二人とも人生の大きな「何か」を失ってしまった。ローランサンもこの辻に現れてくれない。あまりの悲しさにアポリネールは真実の涙を流す。
 アポリネールは(モナリザ盗難事件で)有名になったが、「世間というものは、スキャンダルには喝采するけれど、スキャンダルによって有名になった人間には、永久に心を許さない」(堀口大學 1980年)。
 堀口大學は、『月光とピエロ』を上梓した年(1919年)アポリネールについて次のように書いている。すなわち、
「お前は新美学の探検者であった。お前は新芸術の金色(こんじき)のアポロであった。お前は先駆の詩人であった。お前は芸術の新アメリカの発見者であった。お前の詩(うた)は種子(たね)のように蒔(ま)かれた。お前は魔法使いであった。お前のペンの先から鳩が出た。月が出た。そして戦線のある夕(ゆうべ)お前の頭蓋から糸のような細い血が一筋長く流れた。アポロの金の頭蓋に鉛の弾丸(たま)が命中したのであった。それが原因(もと)でお前は死んだのだ。1918年11月9日、それは新芸術の喪であった。それは私の心の喪であった。それから一年経った。今日は 1919年11月9日だ。そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す」

その

アルノルト・シェーンベルク
(1874-1951)

 堀口大學の『月光とピエロ』に先だってアルベール・ジロー(1860-1929)のフランス詩集『月に憑かれたピエロ』(1884年)がある。その詩集は、アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)によって室内楽歌曲『アルベール・ジローの「月に憑かれたピエロ」から21の詩』として作曲され、1912年にベルリンで初演された。



ピエロの歎き 』      

 かなしからずや身はピエロ
 月のやもめのててなしご
 月はみ空に身はここに
 身すぎ世すぎの泣き笑ひ

 堀口大學 『月光とピエロ』
(1919年)

         
 

 

 ヨーロッパでは月(満ち欠ける狂気)に道化師を結びつけることは17世紀ごろからの伝統であった。アルベール・ジローの『月に憑かれたピエロ』もその伝統の上に創作されている。
 一方、日本の月に「狂気」の属性はない。ヨーロッパの「月」は伝統的に男性であるが、日本の「月」は男女を超越した慈悲の権化である。太陰暦の世界で、動植物は月の満ち欠けを見て生活し、月はその光で森羅万象を照らして慈しむ。堀口大學の「月」は、この「日本」の月である。

    堀口大学
    
 

堀口大學(堀口すみれ子さん所蔵)

 堀口大學(27)の詩集『月光とピエロ』には、前述したように「ピエロ」のモデルがギヨーム・アポリネール(私生児)として特定されかねない若い衝動的と感じられる詩が並んでいる。特に第 1章「月光とピエロ」と、第 2章「EX-VOTO(ささげ物)」に収められた「ピエロの嘆き」には「月のやもめのててなしご」などの決定的な表現がある。
 西欧芸術の世界で偉大な業績を残した故人ギヨーム・アポリネール。詩人として感性深い堀口大學は、『月光とピエロ』を上梓して 3年後の1922年(堀口大學 30歳)パリでマリー・ローランサン(39歳)と再会した。そのときマリー・ローランサンに邪気なく「日本の鶯」(お米を食べて歌の好きな)と呼ばれた。
「秋のピエロ」が 1948年第一回全日本合唱コンクールの課題曲として初演され(堀口大學 56歳)、その後男声合唱組曲『月光とピエロ』が全国で演奏されるようになったとき、堀口大學は「ピエロ」の五つの詩をどのように振り返ったであろうか。


表紙  表紙

第一回全日本合唱コンクール大会
プログラム表紙

  

第一回全日本合唱コンクール
男声合唱課題曲楽譜表紙

  (資料紹介)吉原一郎 ・ (所蔵)鳥生敬郎 (各敬称略)





            


  『 月光とピエロと
 ピエレットの唐草模様
』 

 月の光に照らされて
 ピエロ ピエレット
 踊りけり
 ピエロ ピエレット

 月の光に照らされて
 ピエロ ピエレット
 歌いけり
 ピエロ ピエレット

 踊りけり
 ピエロ ピエレット
 歌いけり
 ピエロ ピエレット

 踊りけり
 歌いけり
 ピエロ ピエレット
 ピエロ ピエレット

 月の光に照らされて
 ピエロ ピエレット
 ピエロ ピエレット
 月の光に照らされて

堀口大學 『月光とピエロ』
(1919年)

 

 

3.清水脩(1911-1986)

 1948年、清水脩(37)の男声合唱曲「秋のピエロ」が、当時設立準備中であった全日本合唱連盟と朝日新聞社が主催する第一回全日本合唱コンクールの公募の課題曲として採択された。

 清水脩は、幼少より声明(しょうみょう 仏教音楽)に接して育った。清水脩が堀口大學の詩集『月光とピエロ』を最初にいつ手にしたかはわからない。『月光とピエロ』が刊行されたのは清水脩が 8歳のときである。堀口大學はその後も数多くのフランス訳詩集等を刊行しており、殊に清水脩が 15歳のときに刊行された堀口大學のフランス訳詩集『月下の一群』は日本の芸術感覚を一新するものとなった。清水脩は、遅くとも大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部)フランス語科を卒業するころまでには『月光とピエロ』を手にしていたに相違ない。

 清水脩は、『月光とピエロ』全11章のうち、第一章「月光とピエロ」の 6編の詩から前記「2.秋のピエロ」に加えて、「1.月夜」、「3.ピエロ」、「5.月光とピエロとピエレットの唐草模様」の4編の詩をこの順序に変えて選び、男声合唱組曲『月光とピエロ』として作曲し、1949年自らの指揮で東京男声合唱団によって初演した。また、第二章「EX-VOTO(ささげ物)」の7編の詩から「4.ピエロの嘆き」を加えて全5曲の組曲とした。

 清水脩の『月光とピエロ』は、前記シェーンベルクの室内楽歌曲『アルベール・ジローの「月に憑かれたピエロ」から 21の詩』と同様に、合唱曲の分野で初めて各曲の間で文学的・音楽的な関連性をもつ「連作歌曲」の様式がとられている。その結果、単に日本最初の男声合唱組曲としてだけでなく世界最初の合唱組曲となったものである。

 清水脩の『月光とピエロ』 は、日本の伝統的な音階を基調にして作曲されている。曲のもつイメージが「純粋に」といえるほど「日本的」な作品である。そのことが、前記したギヨーム・アポリネールと「モナリザ盗難事件」、そしてマリー・ローランサンとがパリの街に織りなした悲恋の物語が必ずしも意識されることもなく今日まで演奏されてきた理由の一つであろうと思われる。
 


舞踏

二人の少女


 優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏
      マリー・ローランサン作 (1913年)



二人の少女
マリー・ローランサン作 (1923年)


4.マリー・ローランサン(1883-1956)

コロンビイヌ   

コロンビイヌ
マリー・ローランサン自画像
(1928年)
     

 

 1920年に離婚してパリに戻ったマリー・ローランサンはそれまでのキュービズムの画風を離れていく。その後『ココ・シャネルの肖像』(1923年)、『二人の少女』(1923年)など、パステルカラーの精錬された、夢見るような華やかさをもつ、シュルレアリスムの、そしてローランサン独自の画風に変わり、未成熟で弱々しく、美しくもなまめかしさを感じさせる「少女」の像を描き続けた。ココ・シャネルは注文した前記肖像画が気に入らず、ローランサンに突き返した。
 ローランサンは、優れた詩人でもあった。堀口大學がその処女詩集『月光とピエロ』の中でアポリネールを「ピエロ」と呼び、自らを女道化師「コロンビイヌ」と呼んだことを容認していた。

            

           『 鎮静剤
       マリー・ローランサン (1916年)

  退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
  悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
  不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
  病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
  捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
  よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
  追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
  死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

       堀口大學訳詩集『月下の一群
         新潮文庫(1955年)より

 

 

 自画像『コロンビイヌ』に「鳩」が描かれている理由については、アポリネールの 1911年の詩『鳩』(前掲)と関連すると思われる。
 ローランサンは 1956年に 72歳で死去した。その遺言にしたがい、白いドレスに身を包み、赤いバラの花を手に持ち、胸の上に若いころギヨーム・アポリネールから送られた未発表の詩や手紙の束を置いて、アポリネールと同じパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。






 筆者はこのウェブページの内容を 2014年7月に放送大学 熊本学習センターの公開講座において「モナリザ盗難事件と世界最初の合唱組曲の成立」と題して講演しました。








    木製の人魚             柳河風俗詩