神功(じんぐう)皇后(349-399)(2022年 著者作画)


 西暦 367年に神功皇后(349-399)は松峽宮(まつをのみや)に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。前年(366年)に仲哀天皇(341-367)に帰順した伊都國王(女王國・倭國の行政監察官・一大率)・五十跡手(いとで)が「邪馬臺國の女王である」として証言(自白)した八女津媛(やめつひめ)を討つためである。
 神功皇后は、髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。
 皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を少し南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門(やまと)である。八女津媛は女王山(福岡県みやま市瀬高町大草 現在の標高 195メートル)にいた。





  第一章
『魏志倭人傳』と『記紀』の科学

  第二章
女王國・倭國の成立

  第三章
邪馬臺國の地理的位置

  第四章
女王國・倭國の衰退

  第五章
邪馬臺國の滅亡

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『日本書紀』によれば、西暦367年に神功皇后はこれを土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)として誅殺した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。「たぶらつ」とは「たぶらかしの」という意味であり、地域で呼ばれていた名称ではない。大和政権が敵である呪術者(シャーマン)・八女津媛に対して呼んだ蔑称であった。「田油津」はその当て字である。西暦 367年、これが邪馬臺國の滅亡であった。
 神功皇后は十四歳の時から畿内を離れ、この女王國討伐の事業を、夫(仲哀天皇)を同 367年に橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)で失いながら四年かけて達成した。
 卑彌呼の墓も臺與の墓も破壊されて大量の塩がまかれた。卑彌呼が魏の皇帝からもらった「親魏倭王」の金印や銅鏡百枚などは散逸した。あるいは、忌まわしいものとして鋳つぶされた。女王山は、地域ではその後大和政権に遠慮して女山(ぞやま)と呼ばれるようになって現在に至る。

   入口紀男(熊本大学名誉教授) 邪馬臺國』より