はじめに 世界最初のメチル水銀中毒は 1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きた。同病院の化学実験室で三名の技術者が重篤なメチル水銀中毒に陥った [1, 2]。うち二名が死亡した。当時日本は幕末であった。 このメチル水銀中毒の発見の情報は直ちにフランスやドイツに伝わり、十九世紀のヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えた。では、わが国には伝わらなかったのであろうか? 【1】 メチル水銀の発見(ロンドン 1858年)
メチル水銀は有機水銀の一種である。「メチル水銀」という言葉は、単一の物質の名称ではない。それは、水銀(Hg)に「メチル基」(-CH3)という原子団が結びついた化合物の総称である。毒性がきわめて強いことで知られる。物質としては安定していて分解されにくい。自然界で生物の体内にとり込まれやすい。
ジョージ・バックトン(George B. Buckton)は、ロンドンの王立化学大学(Royal College of Chemistry)でアウグスト・ホフマン教授(1818-1892)の助手をつとめていた。1858年(日本では安政五年の幕末)、バックトンは史上初めて「ジメチル水銀」(CH3-Hg-CH3)を合成する。ジメチル水銀はメチル水銀の一種である。したがって、これがメチル水銀の発見であった。 ジメチル水銀はメチル基(-CH3)を二つもつ無色透明な液体である。一方、単に「メチル水銀」とは、「モノメチル水銀」といって水俣湾周辺でメチル水銀中毒をひき起こした「塩化メチル水銀」CH3-Hg-Cl や「水酸化メチル水銀」CH3-Hg-OH など、メチル基(-CH3)を一つだけもつものを指すことも多い。 【2】 メチル水銀の「製法」の確立(ロンドン 1863年)
1852年(日本では嘉永五年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。 1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれている。イギリス屈指の名門病院である。
1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [3]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。
当時の日本は文久三年であり、「德川家茂」「新撰組」「薩英戦争」の時代であった。
フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで七行からなる元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。 なお、1865年にオッドリングの妹メアリー(Mary Ann Odling)は、メチル水銀発見のバックトン(前出)と結婚した。 【3】 メチル水銀中毒の発見(ロンドン 1865年) メチル水銀は、たとえ微量であっても、脳の細胞組織をその量に応じて破壊する。その結果、重篤(じゅうとく)な場合は、感覚のにぶり(障害)、筆記障害その他の運動障害、視覚障害、聴覚障害、発音の障害、四肢の一部や舌・口周のしびれなどが起きる。ヒトの脳には「脳血管障壁」(のうけっかんしょうへき。BBB)というバリアがある。体外から侵入した有害な物質は、そのバリアによって脳の中に侵入しないようにそこで阻止される。そのようにして脳は守られている。しかし、メチル水銀は「システイン」というアミノ酸と結合すると、やはりアミノ酸の一種である「メチオニン」に似た化学構造となる。そしてメチオニンとして脳の内部にとり込まれる。メチル水銀はいったん脳にとり込まれると、そこでたんぱく質の合成を阻害する。メチル水銀には生物学的半減期(約 70日)はあるが、メチル水銀による脳細胞の破壊は不可逆(ふかぎゃく)である。その半減期の間に破壊された中枢神経細胞が生涯修復されることはない。 メチル水銀は、大脳の「体性感覚野」(たいせいかんかくや)、「視覚野」(しかくや)といった重要な組織を破壊する。また、小脳の「顆粒細胞層」(かりゅうさいぼうそう)という組織などを破壊する。メチル水銀によって脳細胞がわずかに破壊されたとき、一見する限り何ら症状がないからといって脳が損傷を受けていないというわけではない。脳は他の臓器とは異なり、「補償機能」(ほしょうきのう)といって、破壊されずに残った細胞が代行をはじめるからである。脳はそのような機能をもっている。その結果、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが多い。しかし、その補償機能にも限界がある。 聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で三名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに重篤な中毒症状に陥った。 そのひとりはカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。
ウルリッヒは、同(1865)年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。そのころ日本は幕末の元治二年であった。 ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [4]。 二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、九か月目(1865年1月半ば)からのわずか二週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その一か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。
スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。
スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [4] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [5] に詳しく報告されている。 もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。 現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第 1巻 [4]、第 2巻 [5] の全ページをそれぞれを PDF化して無償で公開している。 これらの書籍(報告書)が当時わが国に輸入された形跡はない。では、この「メチル水銀中毒発見」の情報は当時わが国には伝わらなかったのであろうか? 【4】 ヨーロッパ社会に与えた衝撃と責任論
聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第 26巻 11月号第 548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、学術専門誌ではなく、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。
フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。 『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間に激しい衝撃(a very powerful sensation throughout Germany)を与えた。
イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していた。クルックスは王立科学大学でアウグスト・ホフマンから化学を学んだ。タリウムを発見した。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて、陰極線をあてて回転させた。この実験により、陰極線は帯電した微粒子(電子)からなることを明らかにした。
聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、クルックスの『化学ニュース』第 12巻(1865年)、第 13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [6-7]。 『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第 12巻第 276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が 11月30日に投稿したものであった。そこには「トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。 それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第 12巻第 289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、責任はオッドリングにあったことになる。
ベルリン大学教授アウグスト・ホフマンは、『化学ニュース』第 13巻第 7‐8頁(1866年1月5日刊行)の中で、そのオッドリングのための弁護を試みている。ホフマンは、メチル水銀を「真に並外れた毒性」(altogether exceptionally poisonous nature)をもつと指摘し、また、オッドリングはイギリスで最も優れた化学者の一人であると紹介した。また、メチル水銀がそれほどの毒性をもつことは誰にも知られていなかったと述べた。
ホフマンは、以前、1845年から 1864年まで約 20年間イギリスの王立化学大学教授としてロンドンに赴任しており、死亡したドイツ人ウルリッヒがメチル水銀の製造実験をはじめる二、三日前に本人(ウルリッヒ)に会ったが、ウルリッヒはその毒性について何ら知らなかったと述べた。なお、メチル水銀を発見したバックトン(前出)はホフマンの助手であった。 一方、フィプソンは『化学ニュース』第 13巻第 23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無知(ignorance)の責任はないが、無視 (negligence)の責任はあった」と述べている。 『化学ニュース』の編集者(クルックス)は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。 当時の『化学ニュース』は、1865年から 1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも(後述するように) 1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4]、 第2巻(1866年)[5]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] によって、ヨーロッパでは周知となった。
そのころの日本は慶應二年であった。 【5】 メチル水銀中毒の発見はいつ日本に伝わったか(東京 1927年 熊本 1931年)
メチル水銀中毒に関する情報は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約二十年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。
1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。
東京工業大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[6] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。
熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。昭和6年は1931年である。この『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)は、北海道大学附属図書館、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、慶應義塾大学附属図書館、東京慈惠会医科大学附属図書館、千葉大学附属図書館、新潟大学附属図書館、大阪大学附属図書館、神戸大学附属図書館、岡山大学附属図書館、熊本大学附属図書館、長崎大学附属図書館にも所蔵された。 「ヘップ論文」(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[8] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [4]、第2巻 [5] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が 1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が 1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状はその後熊本県水俣市で見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。 現在この「ヘップ論文」[8] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。 【6】 メチル水銀はいつから水俣湾に流されたか(水俣 1932年)
熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流し始めたのは、 1932年(昭和七年)5月7日(土)であった。
日本窒素はアセトアルデヒドを製造するにあたり海外のあらゆる情報・文献をいち早く入手していたと考えられる。しかし、製品とは直接関係のない廃液のことは眼中になかったのではないかと想像される。 引用文献
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