卑彌呼と大和王権
日本古代史を科学する 【趣旨】 大和王権は、卑彌呼の女王國・倭國が「そのまま」大和王権になったのか。それとも、九州にあった卑彌呼の女王國・倭國が畿内に「東遷」して大和王権になったのか。あるいは、大和王権は、九州にあった親魏倭王・卑彌呼の女王國・倭國を「併合」して今日に至ったのか。果たして、そのいずれが事実であったのか。その本当のことは、過去においても現在においても、よく知られていない。先ず、日本には「皇國史観」という歴史観がある。これは、我が国の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする。倫理的には、それによって天皇に忠義を尽くすことが美徳であるとされた。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで、日本が大日本帝國であった時代には、皇國史観は政府公認の歴史観・道徳観であった。また、『日本書紀』に書かれる内容は「歴史」であるとされた。 次に、「國家神道」は近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神(あまてらすおほみかみ)を皇室の祖先神として、これを祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。 さらに、日本には「和の思想」がある。すなわち、八百万(やほよろづ)の神々が住むこの世界で、自己主張を抑えて周囲に合わせよ。「和」を重んじて暮らせ。この思想は、日本で約一万六千年前から現代に伝わる「縄文人の哲学」である。その根底にあるものは、内輪(うちわ)で争ってはならないという思想である。この「縄文人の哲学」は、第二次世界大戦で戦争の継続に利用されたことがある。悲劇的には特攻作戦で利用された。それほどの強大な力をもつ思想である。この「和の思想」は、一貫して現在まで続く。 大和王権は何としても「和」の中から生まれたのだ。卑彌呼の女王國・倭國が何としてもそのまま大和王権になったのだ。そのような、強い信仰が現在も存在する。しかし、日本人は、過去の事実が何であれ、国際社会の一員として、自らと他の国々の歴史を尊重し、事実は事実として受けいれたうえで、未来を切り拓(ひら)いて行かなければならないであろう。 ここでは、卑彌呼の女王國・倭國が、そのまま大和王権になったのか、それとも、大和王権は、九州にあった親魏倭王・卑彌呼の女王國・倭國を併合して今日に至ったのか。そのいずれが事実であったのかを明らかにする。
第一章 【1】 弥生人はいつどこから流入したか 我われの身体は、大人でおよそ 50兆個の「細胞」でできている。これは必ずしも「歴史学」の話ではなく、「サイエンス(科学)」の話となるので、違和感を覚える方もおられるかもしれないが、「サイエンス」といっても今では常識に近い内容であるので、我われの細胞の中がどうなっているのか、それを見てみることにする。薄い膜で包まれた細胞の中は「細胞液」という液体で満たされている。この細胞液に浮遊して一つの「細胞核」というこれも薄い膜で包まれた微小な、かつ、重要な構造体がある。また、「ミトコンドリア」という多数の構造体も浮遊している。ミトコンドリアは一つの細胞の中に二、三百もあって、ヒトの体重のおよそ 10パーセントがミトコンドリアの重量である。
ミトコンドリアの DNAは、母から子へと伝えられる。多くの民族のミトコンドリアの遺伝子情報(DNA)を調査した結果、全人類は「16万±4万年」前にアフリカの奥地に暮らしていたひとり(あるいは少数)の女性の子孫であることが分かった(1987年の英科学誌『ネイチャー』)。東洋人も、白人も、黒人も、アメリカ原住民も、すべてそのアフリカの女性の子孫である。その子孫は、何万年もの間アフリカの奥地で暮らしていた。その子孫の一部がアフリカの東側の草原を北上して、今から4.5万~8.7万年前に、シナイ半島、あるいは、紅海を経由してユーラシア大陸へ渡った。これは、人類の「出アフリカ」と呼ばれることがある。それには、気候の変動、食料その他の原因はあったのかもしれないが、彼らは、そこからヨーロッパへ、あるいはアジアへと移動して行った。そして、その子孫がついに日本にもやって来た。縄文人である。
今から二万年前には、北海道・樺太は大陸と地続きであった。そこで、縄文人は出アフリカの後、中央アジアからバイカル湖畔に至り、北海道からやって来た。津軽海峡を渡って本州に入ったのだという仮説がある。しかし、それを証明するものはない。また、朝鮮半島から九州北部に入って来たという仮説もある。それを証明するものもない。
縄文時代は BC 14000年頃から BC1000年頃まで、一万年以上も続いたことが知られている。縄文時代には、「縄文海進」といって海面が今より二、三メートル高く、また、地域によっては五、六メートル高く、日本列島は大陸や朝鮮半島から孤立していた。縄文時代の晩期の総人口は、コンピュータ考古学による復元では、75,800人であった(小山修三教授)。その人口の半数以上が、東北地方に集中している。当時の東北地方は、温暖で食糧も豊かであった。時おり大陸から襲って来るコレラや天然痘などの疫病も東北では少なかったと考えられている。
縄文時代には、森羅万象に八百万(やほよろず)の神々が宿った。人びとは平等であった。糸魚川流域で採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかることから、縄文人は、日本列島内では活発に交易をしていたと考えられている。
ここで、話を「細胞」のことに戻そう。
すべての細胞の中には、前記した通り、一つの微小な、かつ、重要な「細胞核」がある。細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体がある。染色体とは、1880年代に色素に染まって見えるので、そのように付けられた名称である。現在は、「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」と言っている。染色体は、顕微鏡で観ると縮こまって見えるが、本当は、とてつもなく細長い代物(しろもの)である。ヒトの染色体は、全部で「46本」ある。ヒトの 46本の染色体のうち 23本は父親からもらったものである。残りの 23本は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。この 23対の染色体には固有の番号がついている。受精によって 46本になったものを「ディプロイド」という。人はディプロイドである。46本の DNAは、直系が約 2 nm (ナノメートル 1ミクロンのさらに 1,000分の1の単位)で、長さが合計約 2メートル。仮に直径 2ミリメートルの針金にたとえると、長さは約 2,000キロメートルで、およそ九州南端から北海道北端までの距離である。そこに遺伝子(DNA)情報としてアミノ酸分子が並ぶ。 男性の 46本の染色体のうち「Y染色体」と呼ばれるもの(図の 23番目の対の右のほう)は、男性だけがもっている。これは、父親から息子へと引き継がれる。日本にやって来た縄文人は、Y染色体として「C1a1」または「D1a2a」という遺伝子の型をもつことが分かっている。前者(C1a1)は、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。後者(D1a2a)は、現代の日本人男性の約 30パーセントがもっている(M.F. Hammer)。この二つは、縄文人の子孫の遺伝子として日本にしか存在しない(韓国の済州島で C1a1が見つかった一例はある)。 なお、アイヌ人は縄文人の「D1a2a」をもつ人として 75パーセント、オホーツク北方人の「C2」をもつ人として 25パーセントのいずれかである。また、沖縄県人は、男性の約 55パーセントが縄文人の「D1a2a」をもっている。青森県人は男性の約 40パーセントが「D1a2a」をもっている(M.F. Hammer)。
日本が縄文時代になっても、アジア大陸では人類の移動が続いていた。
BC 1498年(± 825年)に、北東アジアにいた民族が、朝鮮半島を通って「弥生人」として大量に九州に流入した(Science Advances 2021)。中国では「殷」(BC 17世紀- BC 1046)の時代である。 流入した弥生人は、前記縄文晩期の総人口 75,800人に対して、総計で 47,100人であったと推定されている(Science Advances 2021年)。流入した弥生人のY染色体の遺伝子型は「O1b2」である。
一般には、流入した弥生人が稲作を伝えたのではないかと考えられているが、どうもこの流入によって日本に稲作が伝わったわけではないようである。流入した弥生人(O1b2)の故郷は「西遼河流域」から朝鮮半島北部にかけての地域と推定されている。この遺伝子(O1b2)は、現在でもその地域の多くの人びとがもっている。その地域では、イネは育ち難い。イネは熱帯・亜熱帯の植物であるから。流入した弥生人は、雑穀を栽培して暮らす民族であったのではないかと考えられる。
弥生人の遺伝子は、現代人に引き継がれていて、日本人男性の約 30パーセントが、この遺伝子「O1b2」をもっている。 【2】 江南人の稲作はいつ伝わったか
揚子江中下流域のことを「江南地方」という。そこには江南人が住んでいた。特に中流域のすぐ南を「湖南」というが、湖南の「玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡」(湖南省道県白石寒村)からは約 1万4千年前の稲作の跡(稲籾)が見つかっている。彼らはジャポニカ米(湿潤米)を栽培し、高倉式の倉庫にそれを保管して暮らしていた。揚子江は大河である。その流域面積は約 181万平方キロメートルで、日本の国土の約 4.8倍。向こう岸へ渡るだけでも筏(いかだ)や川舟が必要である。江南人は、航海技術に優れていたようである。
紀元前 1000年近くになって、江南人の一部が山東半島を発って黄海経由で朝鮮半島中南部に着岸した。中国では殷が滅亡し、周(BC 1046年- BC 256)が興るころである。江南人は朝鮮半島中南部の河川地方で稲作を行った。それまで朝鮮半島では雑穀栽培が行われていたようである。しかし、朝鮮半島中南部でも、稲の生育は必ずしも良くなかった。
平成十五年(2003年)に、考古学的発掘によって、紀元前 1,000年ごろ朝鮮半島中南部の稲作が九州北部に伝わったことが分かった。現在、この「紀元前 1,000年」ごろが「弥生時代」の始まりであると考えられている。九州北部のほうがより温暖であったのだろう。当時の稲作はごく小さい規模で行われたようである。たとえば、初期の水田は、泉の近くにつくられた数坪の沼地であった。 江南人が朝鮮半島中部に移動した理由は分からない。稲作が朝鮮半島中部と我が国に伝わったのは、中国の本土では春秋の覇者が各地に出始めたころである。稲作の農民にとって安定した生活を送ることは困難だったのかもしれない。 江南人は、我が国に稲作を伝えたが、日本人の祖先となった弥生人ではない。 【3】 江南人の「二種の神器」「外洋航海技術」はいつ伝わったか 中華の地でも、他の文明(メソポタミア、インダス、エジプト)と同様に、コムギの文明が発達した。それも世界最大の耕地面積と最大の収穫量を誇った。鉄器が使われるようになると更に生産量が増えた。多くの農民が春秋の覇者となった。それを統一したのが秦の始皇帝(BC259-BC210)であった。中華の地にはその後も前漢・後漢などの大帝国が出現した。
一方、揚子江中下流域の江南地方には、江南人が住んでいた。前漢の時代になると、江南人は、珍しい銅剣・銅鏡を「二種の神器」として祭祀に用いるようになっていた。
前漢の政策によって漢人(Han)が南下した。 紀元前 100年ごろ、一部の江南人は「銅剣・銅鏡」をもって九州北部に航行した。朝鮮半島には銅剣・銅鏡を祭祀に用いる風習はないので、江南人は海路直接九州に渡来したと推定される。そのころまでに、江南人の航海技術は外洋航海に耐えるように高くなっていたようである。九州に渡来した江南人の一部は、さらに、稲作の伝播に沿って、紀元前 60年ごろに畿内に到達したと推定される(神武東征の神話)。 【4】 紀元前の日本列島に王国はあったか 「二種の神器」(銅鏡・銅剣)が九州北部に伝わったのは前記したように BC 100年ごろと推定されている。九州北部では、これに縄文時代から流通していた翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)が加わって「三種の神器」となったようである。そのころから、九州北部に江南人の小国が幾つかできたと推定される。これらの小国は、外洋航海術をもっていた。これを用いて朝鮮半島北部の前漢・楽浪郡と交易をするようになった。『漢書・地理誌』の記述は、そのことのようである。その結果、九州北部に青銅器と鉄器が同時に入ってきた。日本には青銅器時代がない。そのころ、朝鮮半島中南部には、人はわずかに住んでいたが、小国といえるほどのものはなく、北部の漢と交易をすることもなかったようである。 稲作は長く(数世紀近く)九州北部にとどまった。その後少しずつ西日本に広がった。狩猟採集をして暮らす縄文人の地域に、渡来した弥生人が侵攻して土地を占領した。 BC 15世紀の弥生人の渡来と、BC 10世紀の稲作の伝来とは別々に起きたことであったが、弥生人の東進と、稲作の東進が、このとき初めて軌を一にしたのではないかと推定される。 これによって、狩猟採集を中心とする生活から、稲作を中心とする生活に切り変わっていった。その「弥生」の生活の最前線が近畿地方を通過したのは、「紀元前 50年」ごろであったと推定されている。
稲作は、紀元前四世紀に早くも青森県弘前市の砂沢遺跡にまで伝わった。本州最北端最古の水田跡遺跡として残っている。ごく小規模の水田跡であるが、縄文時代からの交易路であった日本海航路で伝わったものと推定されている。砂沢遺跡からは縄文式土器が出土する。東北地方は、温暖で食料が豊かであった。東北地方では、一部に稲作が伝わっても、日本列島の時代区分としての弥生時代が西暦 250年ごろに終わって西暦 350年ごろになるまで狩猟採集の生活が続いた。
皇室の祖先は、『記紀』が伝える「日向(ひむか)」の国(宮崎県・鹿児島県)の人びとではなく、「九州北部」の人びとであった可能性が高い。それは、現在の皇室に九州北部の「三種の神器」が伝わっているからである。 皇室の祖先は、東進の過程で九州に「胸肩(むなかた 宗像)國」と「菟狹(うさ 宇佐)國」を残した可能性が高い。「宗像」「宇佐」は、『記紀』の神話にも「葦原中國」の性格を残している。最前線の東征軍は、「吉備國」を残して最後は「葦原中國」に至ったようである。そのころが、前記「弥生」の最前線が近畿地方を通過する「紀元前 50年」ごろであったと推定される。 そのとき一部の人びとは、熊野灘を通って遠く関東の利根川河口まで東航した可能性がある。関東・東北地方が温暖で食料も豊かであることを直感的に知っていたのではないか。 「神武東征」とは、弥生人が稲作とともに東進した「戦いの記憶」であったのかもしれない。神武東征軍と戦った「長髄彦(ながすねひこ)」も、弥生人に殺された縄文人のひとりだったのかもしれない。 皇室の祖先は、何波にも分けて重層的に東進したのではないかと推定される。特に、多くの人びとは「吉備國」に長くとどまったのではないか。なぜなら、その後奈良盆地に出現する「葦原中國」は、「吉備國」の性格が色濃く残っているからである。それは、初期の葦原中國が、祭祀の仕方から古墳の造り方まで、あたかも「吉備國」であったかのようであるから。初代神武天皇とそれに続く闕史八代の天皇は、葦原中國、あるいは、吉備國にいたのかもしれないが、西暦 200年代になるまでは、奈良盆地の中に何らかの王権が存在した痕跡はない。 【5】 日本列島最初期の王国はどこにあったか
福岡市の福岡空港の南にある「板付(いたづけ)遺跡」は、弥生時代最古の遺跡の一つと考えられている。これは、佐賀県唐津市の「菜畑(なばたけ)遺跡」に次ぐ、最初期の水稲耕作遺跡である。また、福岡県粕屋郡粕屋町の「江辻遺跡」に次ぐ、最初期の環濠集落である。板付遺跡からは、縄文晩期(BC1500-BC1000)の土器も多く発掘されている。
福岡県古賀市の馬渡(うまわたり)・束ヶ浦(そくがうら)遺跡からは、王墓と推定される甕棺の中から細型銅剣二本、銅戈一本、銅矛二本が出土した。紀元前二世紀にさかのぼる可能性がある。この古賀市と粕屋郡の辺りが『魏志倭人傳』の「不彌國(ふみこく)」ではないかとみられる。不彌國、あるいは、その前身であった国は、日本で最初期の王国であった可能性が高い。 さらに、福岡市西区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」からは紀元前一世紀の王墓が発掘されている。特に三号木棺墓からは、中国遼寧省の「多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡」一面を含む細形銅剣日本・細形銅矛一本・細形銅戈一本・勾玉一個・管玉九十五個が出土している。奴(な)國、あるいは、その前身であった国も、日本で最初期の王国であった可能性が高い。 これらの王国は、『漢書』が記すように、本当は百余の小国に分かれていたのかもしれない。航海技術をもつ江南人の国であったと推定される。幾つかの小国は朝鮮半島北部の前漢と交易をしたようである。
西暦 57年に九州北岸の「委奴國」の王は、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢して「漢委奴國王印」の金印をもらった。金印が福岡藩の志賀島で発見されたとき、この金印は最初は何なのか分からなかった。しかし、『後漢書』に「倭奴國」の金印のことが書かれていた(建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬『後漢書』東夷傳)。このことから、「倭奴國」が正しいのだろうと推測することが、この金印の文字を解釈する上で、重要な役割を果たしてきた。我われは、社会科の教科書でも「かんのわのなのこくおういん」として学ぶ。 前漢の時代に武帝(在位 BC 141-BC 87)は、朝鮮半島南端近くまで漢の領土としてこれを支配していた。その結果、最南端に倭人が住んでいることを知っていた。しかし、朝貢はそこからではない。当時の漢の倭國に対する認識は、「倭國」とは、対馬海峡を内海として、朝鮮半島南岸と九州北岸にそれぞれ「倭人」の住む国のことであり、その最南端、すなわち、九州北岸が「極南界」ということだったのであろう。 また、福岡県春日市の「須玖岡本(すくおかもと)遺跡」の巨石墓は、二世紀半ばの奴國の王墓と見られ、三十面の銅鏡が出土した。 【6】 日本列島二番目の王国はどこにあったか 福岡平野のすぐ西にある「怡土(いと)國」は、「縄文海進」によって海面が高く、糸島平野は海底にあった。稲作は、ままならなかった。しかし、朝鮮半島との交易を通して栄えていた。鉄製の農具は、作物の収穫量を飛躍的に増大させた。鉄製の武器は、兵力を飛躍的に強化した。福岡藩の志賀島で発見された金印(漢委奴國王印)には、「倭奴國」ではなく「委奴國」と刻まれている。南朝宋の時代に、范曄(398-445)はその実物(金印)を「見ない」で『後漢書』(440年)を書いた。後漢の光武帝は、倭の奴國の王に金印を授けたのか? それとも、委奴(ゐな)という国の国王に金印を授けたのか? これに関して、金印を授けた漢の認識はどうだったのであろうか? 後漢の永初元年(西暦 107年)に「怡土國」の王・帥升(すゐせう)らが、第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した。百六十人もの生口(奴隷)を献上した(後漢書)。後漢では、帥升を「倭の百土(をと)國王」と音写したようである(『翰苑』写本・太宰府天満宮、北宋版『通典』)。後漢書のその後の新しい写本では「百土」の二文字は削除されている。
鉄器の輸入によって兵力をつけていた怡土國王は、對馬國・一支國・奴國・不彌國を支配し、それぞれの国に「ひなもり(卑奴母離)」という武官を派遣していたようである。漢は、帥升に対して改めて金印を授与しなかった。その理由は、帥升の「倭百土國」は、金印(西暦 57年)の「委奴國」より規模は大きくなっているようであるが、同一国であると判断したからにほかならない。百六十人もの生口は、怡土國が対馬國・一支國・奴國・不彌國から供出させたのであろう。縄文時代にはなかった、専制君主制国家のようである。
糸島市の「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡」や「平原(ひらばる)遺跡」は、二世紀末の怡土國王の墓と考えられている。三雲南小路遺跡の甕棺墓からは、中国製の銅鏡三十枚が出土した。平原(ひらばる)遺跡には、五つの墳丘墓跡がある。一号墓だけは復元されている。十四メートル × 十二メートルの方形周溝墓である。周溝墓は、周溝から掘り出した土を内側に盛るだけであるから、通常は高さが低い。この一号墳は、周溝墓であるが、その上に墳丘が「乗って」いる。方形周溝墳丘墓である。それは、副葬品から、伊都國の女王または巫女(みこ)の墓と推定されている。
この一号墓から四十面の銅鏡が出土した。その中には直径 46.5センチメートルの大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)も破損した形で五枚あった。「内行花文八葉鏡」の直径 46.5センチメートルとは、漢の時代の「二尺」となり、この直径では円周が「八咫(やた)」(親指と中指をひろげた長さの八倍)となる。伊勢神宮に記録が残る「御船代」(みふなしろ 八咫鏡の箱)の寸法などから八咫鏡と同じではないかとも想像されている。
この「怡土國」が日本で二番目にできた王国であろう。 二世紀末に怡土國が邪馬臺國の支配下に入ってからは、怡土國では、あまり大きな墓は作られなくなる。卑彌呼の時代になって、「怡土國」は、魏使によって「伊都國」と音写された。 さらに後世になって、西暦 366年(推定)に伊都國王は、第十四代仲哀天皇に帰順するとき、自らを朝鮮半島に天下った日桙(ひぼこ)の子孫であると名乗った(肥前國風土記)。日桙は、事実かどうかは分からないが、『日本書紀』によれば第十一代垂仁天皇の時代に渡来した人物である。すると、前記の帥升など、それ以前の伊都國王がどのような人物であったのかは、分からない。君主思想をもっているようなので、縄文人ではなかったであろう。 【7】 皇室の祖先は九州北部のどこから東進したか 前記したように、皇室の祖先は、『記紀』が伝える「日向(ひむか)」の国(宮崎県・鹿児島県)の人びとではなく、「九州北部」の人びとであった可能性が高い。それは、現皇室に九州北部の「三種の神器」が伝わっているからである。古代神話の中で海の神の地位は高い。ギリシャ神話のポセイドンもゼウスに次ぐ圧倒的な強さをもっている。神話ではあるが、『日本書紀』に出てくる「海神(わたつみ)」も、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子である。したがって、現皇室の祖先神とされる。この海神は、福岡市東区の「志賀海神社」を総本社として祀(まつ)られている。安曇連(あずみのむらじ)が祭祀を務めたようである。また、神話ではあるが、住吉(すみのえ)神も、伊弉諾尊が「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)」で「禊(みそぎ)」を行ったときに生まれたとされる海神である。『筑前國住吉大明神御縁起』では、福岡市博多区の「住吉神社」が全国のすべての住吉信仰のそもそもの始まりとされている。大阪市の住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』でも、筑紫大神が住吉の始源であるとされている。
福岡市には、西区・早良区・城南区・中央区・南区・博多区・東区の七つの区がある。福岡市東部(東のほうに位置する博多区と東区あたり)は、葦原中國の色が濃く、どうも皇室の祖先は、長い間そこで暮らしていたのではないかと想像される。これは、「海神」「住吉神」を祀っていたということに依拠する想像である。奴國にいたのかもしれないし、不彌國、あるいは、怡土國の内部にいたのかもしれない。
皇室の祖先は、揚子江下流の江南地方から航海して来た可能性がある。稲作の技術と航海の技術があったことから、最前線の東征軍は早くも BC 60年ごろには葦原中國(奈良盆地)に到達したのではないか(神武東征の神話)。また、一部の人びとは熊野灘から利根川河口まで東航した可能性がある。 皇室の祖先が九州北部から東進を始めたのは、何らかの理由があったからに相違ない。それは、福岡市西部(西のほうの五区あたり)の奴國が、対馬國、一支國、不彌國とともに、怡土國に兵力で服属したころ(西暦 100年ごろと推定される)だったのではないか。前記したように伊都國の平原遺跡一号墓から「内行花文八葉鏡」五枚の破片が出ている。この銅鏡は直径が 46.5センチメートルあって、周囲が八咫(やた)の寸法をもつ。仮に三種の神器の「八咫鏡」(伊勢神宮 火災で溶解)が伊都國の五枚と合わせて六枚であったのならば、皇室の祖先と伊都國との間に「何か」があったのかもしれない。 【8】 卑彌呼の時代の日本列島に王国は幾つあったか
毎年十月(神無月)に八百万(やほよろづ)の神々は出雲の「神奈備山(かんなびやま)」に集まる。島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、二世紀半ばに出雲に王国が存在したことを物語る。これは、九州北岸の怡土王國より新しく、卑彌呼の女王國・倭國より古い王国である。荒神谷は「神奈備山」の麓にある。荒神谷から出土した 358本の整然と並んだ銅剣は、358人の豪族がいて、そこに何らかの祭祀を行う宗教国家が存在したことを物語るようである。『延喜式神名帳』は、『延喜式』(927年)の巻九・十のことであるが、当時「官社(式内宮)」に指定されていた全国の神社の一覧である。そこに掲載された出雲地方の式内宮は 358社であるが、これは偶然の一致かもしれない。『記紀』では、出雲を特別な地域であるとして認識している。また、神話の中の三分の一を出雲神話で占めている。
出雲市大津町の西谷(にしだに)墳丘墓群は、32基のうち 6基は「四隅突出型墳丘墓」である。これは、出雲地域を中心とした特徴的な形をもつ。西谷二号墳丘墓は約二十四メートル × 約三十六メートルの方形である。高さは約四メートル。突出部を含めると約五十メートルの大型墳丘墓である。 出雲には、安来市に塩津墳丘墓群がある。出雲氏の墳丘墓群であろうと推定されている。塩津一号墳丘墓は約二十五メートル × 約二十メートルの方形である。前期の築造であるが、四隅突出型墳丘墓の特徴をもつ。この「出雲」が日本で三番目にできた王国であろう。
二世紀後半の岡山平野に「吉備王國」が存在した可能性がある。二世紀末の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)は、直径約四十メートル、高さ約五メートルの墳丘墓である。墳丘墓であって、未だ古墳といえるほどの統一性をもっていない。前後に、二十メートル余りの突出部がついている。前方後円墳の原型かもしれない。突出部分などの大部分は宅地造成などで失われているが、墳丘墓としては日本最大級である。埋葬された木棺の底には三十キログラムを越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていた。
吉備王國は、皇室の祖先が九州北部を発ち、宗像・宇佐を経て奈良盆地へ東進するための足がかり(前線基地)の王国として発展した可能性が高い。この「吉備」が、日本で四番目に出来た王国であろう。
大和王権の最前線は、すでに紀元前 50~70年に葦原中國(奈良盆地)に到達していた可能性がある(神武東征の神話)。西暦 180年の段階でそこ(葦原中國)に未だ何らかの王国が存在した痕跡はない。 西暦 180年ごろ、伊都國王は、すでに支配下においた近隣の奴國・不彌國・對馬國・一支國に加えて、筑紫(筑前・筑後)の三十か国を兵力で支配しようとした。しかし、筑後地方で稲作によっていち早く豊かになっていた GDP大国群はこれに反発した。これが「倭國大亂」であったと推定される。
それは、ごく地域的な(現在の県内くらいの)争乱であったと考えられる。戦場の一つであった吉野ヶ里遺跡からは体内に鉄鏃(てつぞく)をもつ当時の遺体が発掘される。一方、漢としては帶方郡を通して倭國との交易が完全に途絶えてしまった。相手国が「無主」となったのであるから、「倭國大亂」と記録されたようである(後漢書)。
西暦 182年ごろに「倭國大亂」は、卑彌呼が「女王」として共立されて全体の祭祀権をもつ。伊都國王は「大率」(だいそつ または一大率)として加盟国の行政監察権をもつ。そのような条件で収束した。「大率」という漢語の職名は、漢の帶方郡が考えたものであろう(松本清張 1909-1992)。その結果、伊都國王の武力支配の野望はくじかれ、君主制のない、縄文時代からの平等な社会(寄り添って暮らす環濠集落群)が揺り戻された。この「女王國・倭國」が日本で五番目に出来た王国であろう。 前記したように、神武天皇も、闕史八代の天皇も、我われがイメージする「天皇」としての存在ではなかったのかもしれないが、吉備王國、あるいは葦原中國(奈良盆地)の中で、婚姻関係などによって地域に根を下ろし、それぞれが何らかの役割を果たしながら、九代かけて、葦原中國に、第十代崇神天皇(推定在位 225-258)を出現させた可能性が高い。この「葦原中國」が日本で六番目に出来た王国であろう。 纏向遺跡は、第十代崇神天皇の時代に開発が進み、最初は約 1キロメートル四方であったと推定されている。そのころの人口は周辺を含めて約 1万人程度。第十一代垂仁天皇の時代には約 1.5キロメートル × 2キロメートル。そのころの人口は周辺を含めて約 3万人になったと推定されている。纏向遺跡の開発は、それ以前は何もなかったところに忽然と姿を現したわけである。吉備王國からの人と物資の流入で支えられたと推定されている。
畿内で最初に現れる古墳は、築造推定西暦 220年ごろの纏向石塚古墳である。纏向石塚古墳は、最初の前方後円墳である。墳丘部の全長約 96メートル、後円部径約 64メートル、前方部の長さ約32メートル。周濠幅は約20メートルである。吉備の楯築(たてつき)墳丘墓が纏向の前方後円墳の原型となったのではないかと推定される。また、纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていた。この纏向石塚古墳は、実在した可能性が高いとされる第十代崇神天皇の在位期間(推定 225-258)より古い。 また、纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土する。弧文は吉備王國固有の祭祀のための模様であったと考えられている。
平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。
これらのことから、初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王國であるかのようであった。 しかし、大和王権権は、政権の姿がようやく明確になる第十代崇神天皇のころから、皇祖を祀る祖霊神信仰に徹していく。この祖霊神信仰は地方の豪族の祖霊も神と認めるもので、地方の豪族はこれを受けいれやすく、大和王権よりやや小型の前方後円墳を築造し始めた。 西暦 200年には「出雲王國」「吉備王國」「女王國・倭國」「葦原中國」の四つの王国が併立していたようである。ただし、「葦原中國」は、未だ第九代開化天皇の時代である。開化天皇は、実在しなかったとされる闕史八代の最後の天皇である。しかし、西暦 200年のころに、吉備色の強い何らかの王権が存在しなければ、纏向石塚古墳(推定築造 220年)は存在し得なかったであろう。 なお、南東北には大和王権に従わない女王たちの「女王国連合」があったと報道されている(NHK BS4K 2023年)。その「可能性」はあるのかもしれない。ただし、古代でも、単にある地域に人びとの生活グループがあるというだけでは、国とはいえない(松本清張)。支配者として王がおり、被支配者として国民がいる。何らかの統治機構がある。そのような条件がそろわなければ王国とはいえないであろう。 【9】 神武天皇はなぜ東征したことにされたか 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。その規模は、時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。イスラエル国でも家系は男系である。しかし、イスラエル国では、イスラエル国民のうち、ユダヤ人とは、「ユダヤ人の母親から生まれた人、またはユダヤ教に改宗したことを認められた人」と定義している。それ以外の人は「イスラエル人」としている。 古代イスラエルには、多くの「祭司 (コーエン Cohen)」がいた。「祭司」は世襲であった。「コーエン家」は現在まで続く。ウィリアム・コーエン(William Cohen) は、アメリカの国防長官であった(在任 1997-2001)。また、エリ・コーエン(Eli Cohen)は、エルサレムのユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、空手五段であったが、駐日イスラエル大使を務めた(在任 2004-2007)。現在のすべての「コーエン」は、モーゼの兄・アロンの子孫であると信じられている。モーゼやアロンが実在したかどうかは分からないが、「Y染色体ハプロイド」の DNA解析から、すべての「コーエン」は、共通のひとりの男性祖先にさかのぼる可能性が高いと推定されている。その染色体は「アロンY染色体(Y-chromosomal Aaron)」と呼ばれる。 日本の古墳時代に、中国では西晉が匈奴の侵攻で滅亡した(316年)。長安も洛陽も陥落した。中国大陸は、北方民族が支配する「五胡十六国」の時代となった。その動乱の中で、漢人(Han)に混じって少なくとも 200人のユダヤ人が渡来した可能性が高い。その中に「アロンY染色体」をもつ世襲の「コーエン」がいた可能性がある。そして、縄文・弥生の人びとに神々をどのように祀(まつ)ればよいかを広めたのではないか。 現在の日本人の間にユダヤ人の DNAはない。秦氏もユダヤ人ではない。日本には古墳時代にユダヤ人が流入したが、人種として存続するためには一定の数のコミュニティを形成することが必要であったと考えられる。当時の日本にはそれだけの人数のユダヤ人はいなかった。高い文化をもつユダヤ人は、日本で尊敬され、利用され、そして、自然に消滅したと推定されるのである。 「コーエン」は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和王権の中枢で祭祀を司る氏族「中臣(なかとみ)氏」として頭角を現したのかもしれない。「天岩戸(あまのいはと)」の物語は、天皇の祖先である天照大神(あまてらすおほみかみ)を、天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した。太陽がなければ地上のあらゆるものは生きて行けない。そのように、天皇支配の正当性を物語るものである。八世紀に書かれた『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の「天岩戸」の物語は、中臣氏である藤原不比等(ふひと 659-720)の立場を反映して、その始祖の「コーエン(天児屋命)」を称える成功神話であろう。 『旧約聖書』は「天地創造」から始まり、ヘブライ人に撰民思想(神に撰ばれた民という思想)を保障している。『日本書紀』も「天地創造」から始まり、日本人に神国思想を保障している。『日本書紀』は、あたかも日本という国が少なくとも「イスラエル」と互角であると述べているかのようである。すなわち、『日本書紀』は、紀元前十三世紀ごろモーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、瑞穂(みづほ)の国(「ミヅラホ」はヘブライ語で「日出ずるところ」の意)に東征して「カナン(ヘブライ語で「葦原」の意)」の地に至ったことを「知って」いて編纂されたのではないかと想像される。すなわち、初代神武天皇が、モーゼと互角の建国者であるためには、神武天皇に何としても「東征」してもらう必要があったのではないか。 『旧約聖書』によれば、「聖典の民」の祖・アブラハムは、「ダガーマ地方のハラン(Harran)」にいたが、孫のヤコブはイスラエルの地で神に撰ばれたユダヤ人の始祖となる。一方、『日本書紀』によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原(たかまがはら)にいたが、高千穂に降臨して大和民族の始祖となる。ヤコブは、ラケルと結婚し、その父からラケルの姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。一方、瓊瓊杵尊は薩摩半島の吾田國(あたのくに 薩摩國閼駝郡)の笠沙(かささ)の國神(くにつかみ)の娘・木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚し、その父から木花開耶姫の姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。ヤコブはラケルとの間にヨセフを産むが、ヨセフは兄にいじめられてエジプトに行く。ヨセフはエジプトの祭司の娘と結婚してエフライムを産む。エフライムの四番目の息子べリアの子孫・ヨシュアがイスラエルの地を征服する。一方、瓊瓊杵尊は木花開耶姫との間に山幸彦(彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと)」を産むが、山幸彦は兄(海幸彦)にいじめられて海神(わたつみ)の国に行く。山幸彦は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)と結婚して鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産む。鸕鶿草葺不合尊の四番目の息子・神武天皇が葦原中國(あしはらのなかつくに)を征服する。 江戸時代まで、皇室から毎年勅使が遣わされる神社は、茨城県の鹿島神宮(鹿嶋市)と千葉県の香取神宮(香取市)、三重県の伊勢神宮(伊勢市)の三社だけであった。そのうち最も古い二社が関東にある。縄文時代に、日本列島の中心地は東北地方であった。そこは温暖で食料も豊富であった。大陸や朝鮮半島から時おり九州地方に侵入してくる結核や天然痘などの疫病も、東北地方ではあまり流行らなかった。縄文晩期から弥生中期にかけて関東地方は、西日本と東北地方の中間にあって比較的に豊かであったと考えられる。鹿島神宮が創建されたのは神武天皇の時代。香取神宮が創建されたのも神武天皇の時代と伝えられる。鹿島神宮の神は海から東一之鳥居のある所に上がって来たという。そこがすべての始まりの地といわれる。鹿島神宮と、東一之鳥居、香取神宮は陸上に一直線に並ぶ。東一之鳥居が日向(ひむか)の鳥居となっている。これが後世の「日向」の語源となった可能性がある。明治時代に國家神道の頂点に置かれた伊勢神宮は、関東の二社よりも新しく、『日本書紀』によれば垂仁天皇(推定在位 258-306)によって創建された。 『大寳律令』(701年)が完成したとき、九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となった。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、そもそも、神武天皇の故郷として関東(茨城県・千葉県)を選ぶか、それとも、律令体制下で「日向國」とされた隼人の国(宮崎県・鹿児島県)を選ぶかを激論したに相違ない。結果、後者(隼人の国)が選ばれた。その上で、神武天皇の故郷を、豊かな海洋文化をもち、豊かな山岳文化をもつ隼人の国とした。すなわち、編纂チームは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の地も、海幸彦・山幸彦の神話の地も、神武東征の起点となる出発の地も、すべて宮崎県・鹿児島県を現実の地として採用した。事実はどうであったのであろうか? 【10】 神武天皇はなぜ紀元前 660年に即位したことにされたか 日本人が「神武天皇」のことを初めて知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)が書かれてからである。日本人が、天照大神(あまてらすおほみかみ)や素戔嗚尊(すさのをのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)などのことを初めて知ったのも『日本書紀』が書かれてからである。『日本書紀』の編纂チームは、舎人親王(とねりしんのう 676-735)を総裁とし、多くの学者と、「ふひと(史)」(物事を書き記す役人)からなっていたと推定されている。その陣容について記録はない。『日本書紀』には、初代神武天皇は、百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上かかったことになっている。 『魏志倭人傳』(285年)に「倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている(其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀)。これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が注釈として挿入したと考えられている。『日本書紀』の編纂チームも、『魏志倭人傳』を読んでいた。仮に、古代に「春秋二倍暦」を適用して、現在の一年を「2年」と数えていたのなら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも可能であったことになる。 日本が第二次世界大戦で負けると、多くの歴史学者は「自虐史観」をもつようになった。初代神武天皇の実在性を頭から否定した。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八代の天皇は、実在した可能性はないとして「闕史(けっし)八代」と呼ばれるようになった。しかし、全人類は 16万±4万年前にアフリカの奥地にいた女性の子孫である。子には必ず親がいる。神武天皇も、闕史八代の天皇も、我われがイメージする「天皇」としての存在ではなかったのかもしれないが、奈良盆地の葦原中國の中で、あるいは、吉備國の中で、婚姻関係などによって地域に根を下ろし、それぞれが何らかの役割を果たしながら、九代かけて、初代の、かつ、第十代の、崇神天皇を葦原中國に出現させたのではないか。 仮に『日本書紀』で古代の天皇の時代は「春秋二倍暦」で書かれているとしてこれを西暦に復元すると、神武天皇即位は「BC 70年~BC 50年」であったことが分かる。いつ春秋二倍暦から正歳四節暦に切り替わったと考えるかなど、復元の条件によっては、このようにばらつく。筆者の推定では、神武即位は「BC 60年」であった(前著『邪馬臺國』 自由塾 2022年)。当時(BC 70年~BC 50年)「河内湖」(東大阪市全域)は存在していて、神武天皇の水軍が生駒山麓に接岸することは可能であった。しかし、これをもって神武天皇が実在したことの直接の証拠とすることは困難であろう。舎人親王(676-735)以下『日本書紀』の編纂チームは、古代に河内湖が存在していたことを知っていただけかもしれないのであるから。西暦 200年近くまで、葦原中國(奈良盆地)に何らかの王権が存在した痕跡はない。 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で、「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は千二百六十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 「紀元前 660年」とは、聖德太子(574-622)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉(かのととり)の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位した。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の大前提として、古代の多くの天皇の時代を「春秋二倍暦」で編纂したのに相違ない。 日本で「正歳四節暦」が使われるようになったのは、第二十九代欽明天皇(在位 539-571)の時代に百濟から暦博士(こよみのはかせ)・固德王保孫(ことくおうほうそん)が渡来してからである(日本書紀)。『日本書紀』の編纂が始められたのは、それよりさらに後の第四十代天武天皇(在位 673-686)のときである。 仮に古代において「春秋二倍暦」が本当に使われていたとすれば、春に始まって秋に終わる一年は、暑い一年であったであろう。また、秋に始まって春に終わる一年は、寒い一年であったであろう。しかし、舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、「正歳四節暦の一年」の間に「春夏秋冬の十二か月」が「二回」あったことにした。これによって、神武天皇は「西暦の紀元前 660年」に即位したことになった。出来上った『日本書紀』を見る限り、後世の我われがどの天皇に「春秋二倍暦」が適用されているのか、適用されていないのかを判断するための直接の手立てはない。 考古学的に実在した可能性が高い第二十一代雄略天皇の崩御年は、『古事記』では百二十四歳、『日本書紀』では六十二歳と、ちょうど二分の一である。第二十六代継体天皇は、『古事記』では四十三歳、『日本書紀』では八十二歳で、ほぼ二倍である、この時期あたりが、『日本書紀』が「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ移行して「編纂」されたのではないかと推定される。それは、必ずしもそのころの日本で「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ現実に移行したとは限らない。そもそも、古代において「春秋二倍暦」が本当に使われていたかどうかも分からないのであるから。 なお、第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からくだって二十一番目の辛酉の年は 1861年であった。1853年に日本は、ペリー(M. Perry 1794-1858)が浦賀に来航し、1867年に一橋慶喜(1837-1913)が大政を奉還するなど、激動の時代であった。日本では、武士が食料も兵力も自前で調達するようになると、政権を奪取して武家政治を開く。また、黒船がやって来て、徳川幕府には江戸湾を守る海軍力もないことが露見すると、王政が復古する。日本とは、そのような国である。 第二章 【11】 卑彌呼はどのようにして「親魏倭王」の金印紫綬をもらうことができたか 卑彌呼の女王國(三十か国連合)・倭國は、教科書に出てくるような「環濠集落群」の集まりだったであろう。お互いに寄り添って暮らしていたと考えられる。ひとつの環濠集落だけで孤立して生きて行くことはできないからである。後世の飛鳥時代になると、それらの環濠集落群は約三十の「郡(ぐん)」になったと推定される。その一つが九州北岸の「怡土郡」(旧伊都國)であった。『魏志倭人傳』に出てくる「斯馬(しま)國」は飛鳥時代に「志摩郡」となる。斯馬國は『縄文海進』によって海面が高く、本当の島であった。太宰府天満宮の『翰苑』第三十巻写本(倭國)(国宝)には、伊都國と斯馬國とは「傍(かたは)らに連なる」と書かれている。これら二つの国は、明治時代には合併して「糸島郡」となった。斯馬國の次に出てくる「已百支(しをき)國」は飛鳥時代の小城(をき)郡であろう。明治時代には、旧女王國・倭國の約三十の郡全体が、北岸の旧伊都國を含むひとつの「縣(けん)」になったようである。女王國・倭國に牛馬はいなかった(魏志倭人傳)。日本に牛馬が輸入されたのは五世紀になってからである。伊都國王が「大率」の権限をもち、行政監察のために、加盟三十カ国に怖れはばかられるほど(魏志倭人傳)、「歩いて」回ることができたのも、女王國・倭國が、ひとつの「縣」くらいの支配領域しかなかったからであろう。それは筑紫(筑前・筑後)であったと推定される。ただし、女王國・倭國には長崎縣の一部、佐賀縣の一部、大分縣の一部も含まれていたのではないかと考えられる。 女王國・倭國の首都国であった邪馬臺國も、環濠集落群のひとつであった。人口は多くて数百人かそれくらいだったであろう。卑彌呼の居所は、小高い山の上にあって、女王の居室と、見晴台と、城柵が設けられていた。そこは、いつも衛兵がいるだけの質素な(現代風にいうと、しょぼい)宮殿であったと推定される。
では、西暦 238年に、その小国(現在の県くらいの国)の女王・卑彌呼は、どのようにして魏(ぎ)の第二代皇帝・曹叡(そうえい 205-239)から 「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印を授かることができたのであろうか?
魏の皇帝から「親魏」という破格の高い称号をもらったのは、インドのクシャーナ朝の国王(仏教を奨励したカニシカ王の孫)と卑彌呼の二人だけであった。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に倭國が魏の友好国である(属国ではない)と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉であった。卑彌呼には、果たしてクレオパトラ(BC69-BC30)のような何か強烈な魅力でもあったのであろうか? 皇帝の徳は、朝貢する国が、大国であればあるほど、また、遠国であればあるほど高いと考えられていた。 では、そもそも、女王國・倭國は、魏の敵国・蜀の西方にあるインド・クシャーナ朝に匹敵する「大国」であったのであろうか? また、邪馬臺國は、魏のもうひとつの敵国・呉の東方にある「七万戸」の大都市とでもいえたのであろうか? 卑彌呼の居所は、「侍女千人」を擁する大宮殿といえたのであろうか? 卑彌呼は、「百余人の殉葬者」と共に埋葬されたのであろうか? 朝鮮半島の帶方郡から末盧國までは「萬餘里」もあったのであろうか? 以上のいずれも、「考古学的発掘」(弥生時代に九州地方の人口は約 105,100人であり、七万戸の都市などは日本のどこにも存在しない)と「衛星写真」によって科学的に否定されている。また、九州の王墓からは殉葬者の遺骨は出ていない。九州北部の稲作のルーツである中国江南地方にも殉葬の風習はなかった。中原(ちゅうげん)の地の漢や魏などの帝国には、殉葬の風習があったようである。 では、それは、一体どういうことであろうか? 卑彌呼は、何か手品をしたわけではない。卑彌呼は、ただ一世一代の「大勝負」を打っただけである。それは、卑彌呼六十八歳のときであった。 西暦 237年に、魏の朝鮮半島の帶方郡(たいほうぐん)は、魏の皇帝・曹叡から朝貢するように求められた。帶方郡は、それに反旗を翻し、自ら燕國(えんこく)と称した。すると、魏がこの燕國を討伐する動きとなった。魏の将軍は、司馬懿(しば い 179-251)であった。この情報は直ちに卑彌呼に伝わった。倭國は、今は魏の敵国となった帶方郡のそれまで友好国(交易国)であった。帶方郡に朝貢していた。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として魏に攻め込まれると、ひとたまりもない。 卑彌呼は直ちに特使・難升米(なしめ)を送った。それは、「これまでの帶方郡を裏切って、魏の皇帝に直接朝貢せよ」という、卑彌呼六十八歳にとって一か八かの「大勝負」であった。この「大勝負」を魏の将軍・司馬懿が知って、高く評価する結果となる。 将軍・司馬懿は、帶方郡を完全に討伐した。官僚と兵をひとり残らず捜索して十五歳以上の男子をすべて惨殺した。「京観(けいかん)」といって、首を高く積み上げて記念碑にした。 卑彌呼の特使は、将軍・司馬懿の後押しで、魏の都・洛陽(らくよう)に行き、魏の皇帝・曹叡に朝貢した。皇帝は倭國からの朝貢に喜び、将軍・司馬懿の後押しで卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が贈られることになった。それは将軍・司馬懿の生涯の「てがら」でもあった。 西暦 240年に卑彌呼に金印紫綬を届けに来た魏使は、武官(将軍・司馬懿の配下)であった。魏使は(現代風に言うと、しょぼい)「大国」に当惑したであろう。しかし、皇帝と将軍・司馬懿の体面を最大限に慮(おもんぱか)って、卑彌呼の女王國は「敵国・呉の東」の「遠方」の「大国」に相違ありません。首都・邪馬臺國は「七万戸」です。「侍女千人」です。「殉死者百余人」です。という報告書を書いた(魏志倭人傳)。 【12】 魏にとって女王國・倭國とは何であったか 西暦 220年、後漢が滅亡して、中国は魏・呉・蜀の「三すくみ」の状態となった。魏の将軍・司馬懿(しばい 179-251 仲達)は、呉に対する国土防衛の任に当たった。また、将軍・曹真(そうしん 生年不詳-231)は、蜀に対する国土防衛の任に当たった。司馬懿と曹真は、互いに政敵であった。魏は、第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)の時代であった。 蜀には諸葛孔明(諸葛亮 181-234)がいて、西域の多くの異民族を味方につけていた。魏は蜀からの攻撃に実に手を焼いた。西暦 229年、将軍・曹真は、蜀の西の遠方にある大国・インド・クシャーナ朝(大月氏國)に朝貢させることに成功した。クシャーナ朝に「親魏大月氏國王の金印紫綬」が授与された。これによって西域の異民族による攻撃は沈静化した。
一方、将軍・司馬懿は、曹真の業績をどうしても超えることができない。何としてでも呉の「東の遠方」に「大国」が必要であった。その大国に対して何としてでも魏に「朝貢」させることが必要であった。そして、何としてでもその大国に皇帝から「親魏の金印紫綬」が授与されることが必要であった。
中国は東方が海に面する国である。毎朝その東方から太陽が昇って来る。中国では、春秋時代から多くの人びとが、東の海の彼方に「神仙の国」があると信じていた。 漢の時代の帯方郡の記録に女王國・倭國のことが書かれていた。それは、帯方郡から伊都國に至る道のりなどについてであった。司馬懿は、その情報を手に入れていた。 西暦 238年に卑彌呼六十八歳が朝貢したとき、司馬懿五十九歳は、これを呉の東の遠方の大国であるとして、皇帝・曹叡三十四歳に朝貢させることに成功した。司馬懿の業績として卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が授与されることになった。 司馬懿は、魏使の復命書(帰朝報告著)を検閲したであろうと考えられている。司馬懿にとって、その復命書がすべてであった。「大月氏國の遠さ 16,370里(後漢書)を超える 17,000里」「侍女千人」「七万戸」「殉葬者百余人」などとして、魏の宮廷クーデターのためのプロパガンダに利用した。しかし、衛星写真で見ると、距離はその半分もない。卑彌呼の祈祷所は、城柵と見晴台があって、衛兵がいるだけであった(居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 『魏志倭人傳』)。「侍女千人」などの何か所かは、この記述と整合しない。。山門國の環濠集落の人口は推定で数百人。日本に殉葬の風習はなかった。 司馬懿は、その「てがら」が高く評価されて領土を与えられた(『晉書』)。 西暦 265年、司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)は、魏に政権を禅譲させて国号を「西晉」とし、初代皇帝・武帝(在位 265-290)の地位に就いた。司馬懿は、生涯「嘘」を貫き通したようである。それが司馬懿の「戦争」であった。 西暦 280年、武帝の西晉は、中国を再び統一する。陳壽(ちんじゅ 233-297)は、蜀の官僚であったが、首をはねられることはなく、西晉に官僚として採用された。 西暦 285年、陳壽五十二歳は魏の宮廷内に木簡、竹簡、絹布などに書かれて散らばっていたと思われる漢の時代の記録と、魏使の復命書を編集して『魏志倭人傳』(二千六文字)を書いた。それは『三國志』の中の『魏書』第三十巻『烏丸鮮卑東夷傳(うがんせんびとういでん)』の「東夷傳」の中に書いた。司馬懿の業績を称えて司馬炎の皇帝としての正当性を書き述べ(て自らが生き延び)るための私書であったが、後に中国の正史となる。 【13】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか 魏の都・洛陽から卑彌呼より先に金印をもらったインドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていた(『後漢書』西域傳・大月氏國)。洛陽から帶方郡までの距離は「5,000里」であった(『後漢書』郡國誌)。魏使は、帶方郡から末盧國までの距離を海路で「10,000里」とした(魏志倭人傳)。末盧國から不彌國までの距離は「700里」、不彌國から邪馬臺國までは「1,300里」とした(魏志倭人傳)。そのうえで、魏使は、第二代皇帝・曹叡(そう えい)と将軍・司馬懿(しば い)の体面を最大限に慮(おもんぱか)って、卑彌呼の女王國は洛陽から17,000里もある「遠方」の大国に相違ありません。という報告書を書いた(魏志倭人傳)。衛星写真で見ると、その半分もない。 福岡市から久留米市を通って柳川市に至る平野部は、九州北部を東西に分ける地溝帯である。卑彌呼の時代に海面は「縄文海進」によって今よりも二、三メートル、地域によっては五、六メートル高かった。吉野ケ里遺跡も、背振山麓にあって、当時は波打ち際にあった。有明海の潮差(干満差)は、日本最大の約六メートルである。防波堤がない古代に、有明海の満潮は、一日に二回、陸上まで高さ六メートルの津波のように押し寄せた。特に有明海の北東部は、行く先がだんだん狭くなる固有の地形から、大量に押し寄せた海水は行き場がなく、宝満川などを通って奥深くまで遡上(そじょう)した。さらに北へ御笠川などを通って博多湾に流れ出ていたと推定される。 卑彌呼の時代(弥生時代)には、筑前地方から現在の平野部を通って筑後地方まで川舟で航行することが可能であった。平野部は、現在最も海抜が高い大宰府付近でも海抜四十メートル近くしかない。それも過去二千年近くの土砂の堆積層である。当時は、海抜ゼロメートルの航路があったと推定される。それは、縄文時代に北の筑前地方と南の筑後地方とをつなぐ主要な交易路であった。卑彌呼の時代には、航路の周辺に多数の環濠集落群があったと考えられる。 『魏志倭人傳』には、邪馬臺國は「不彌(ふみ)國」の南の「投馬(とぅま)國」のさらに南にあると書かれている。そこで、邪馬臺國が畿内にあったことの裏付けとするために、この南を何としても「東」と読み替える努力が行われてきた。しかし、武官であった魏使が、太陽や月、星座を見て、方角を間違えることはない(松本清張)。魏の武官でなくても、我われが方角を間違えることもないであろう。 前記したように、宗像國と宇佐國は葦原中國の勢力を残していた。不彌國とは、奴國の東、宗像國の西にあった臨海国であろう。それは現在の福岡県粕屋郡であると推定される。女王國・倭國は、北岸の伊都國に大率を置き、伊都國から引き継いで、對馬國、一支國、奴國、不彌國などの臨海国に副官として「ひなもり(卑奴母離)」という海防担当官を置いて朝鮮半島からの脅威に備えていた。 「投馬(とぅま)國」とは、不彌國と山門國の間にあった広大な「妻(とぅま)國」であった可能性が高い。投馬國は、海に面した国ではない。投馬國は内陸国であった。海防担当官「ひなもり(卑奴母離)」がいない(魏志倭人傳)。妻國は、その南端が飛鳥時代に「妻郡」となった。 邪馬臺國畿内説その他の説は、この投馬國が内陸国であるということを見落としている場合が多い。
『魏志倭人傳』には「水行二十日」などと書かれているが、「水行二十日程(てい)」とは書かれていない。当時の古典の読み方として、「水行二十日程(てい)」とは「二十日間で航行し得る距離」のことである。『魏志倭人傳』の「水行二十日」とは、たとえば、川舟に荷物を積み、周辺の環濠集落群に中国からの使者として歓待され、何日も逗留しながら、「実際にかかった日数」のことである(中国語学者・謝銘仁教授)。
当時の旅は、昼前に出発して、太陽が傾くと宿泊の用意をした。連日周囲の環濠集落に招待されて宴会。何日も逗留した。環濠集落群としても、一生に一度来るか来ないかの中国からの使者であった。あっちの環濠集落からも、どうか来てくれ。こっちからも来てくれ。行きつ戻りつの寄り道で、一日に何キロメートルも進めなかったと推定される。これも、「親魏倭王」の国は、魏からの使者をそれほど歓待した。ということであろう。 不彌國から邪馬臺國までの距離は、魏使が末盧國から不彌國まで移動した距離を「700里」として(魏志倭人傳)、「1,300里」の距離しかなかった(魏志倭人傳)。『魏志倭人伝』によれば、不彌國から邪馬臺國までの前記「1,300里」が、不彌國から邪馬臺國までの「水行二十日と水行十日陸行一月」というわけであろう。
仮に『日本書紀』に記される第十二代景行天皇の「第一次九州親征」が事実であったとして、「景行天皇紀」で、八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)がいたとされる「美しい山」を衛星写真で調べると、それは、どうも「女王山」(じょおうやま みやま市瀬高町大草 現在の標高 195メートル)のようである。この「女王山」に卑彌呼の祈祷所があったと推定される。
卑彌呼の祈祷所には、居室と、見晴台と、城柵があった。前記したように、いつも衛兵がいるだけの質素な(現代風にいうと、しょぼい)ものであったと推定される。「居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」(魏志倭人傳)
前記したように、西暦 366年に北岸の伊都國王は、最後の女王・八女津媛を裏切ると、引嶋(下関市彦島)で第十四代仲哀天皇・神功皇后に自らの三種の神器(八尺瓊・白銅鏡・十握劒)を献上して大和王権に帰順した。翌年(西暦 367年)、八女津媛が大和王権によって「田油津媛(たぶらつひめ)」の蔑称で誅殺されると(邪馬臺國の滅亡)、地域では大和王権に遠慮して「女王山」は「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。現在も「女山(ぞやま)」と呼ばれている。
邪馬臺國の滅亡から三世紀経って、西暦 663年に「白村江の戦」で敗れた大和朝廷は、唐・新羅の侵攻を恐れて、この女山に筑後平野・有明海を見晴らす山城を造った。その一部が今も女山神籠石(ぞやまこうごいし)として残っている。 【14】 卑彌呼の墓はどこにあるのか 西暦 238年に、卑彌呼は、魏の将軍・司馬懿(しば い 179-251)の後押しで、第二代皇帝・曹叡(そうえい 205-239)から金印紫綬を授与されることになった。西暦 240年に金印紫綬を卑彌呼に届けに来た魏使は、武官(司馬懿の配下)であった。女王國・倭國は、現実には、九州北岸の伊都國(飛鳥時代の怡土郡)や隣接する斯馬國(飛鳥時代の志摩郡)などの約三十か国(飛鳥時代の約三十郡)からなる。現代でいうと「県」くらいの大きさしかない。魏使は、その小規模な(現代風にいうと、しょぼい)「大国」に当惑したであろう。卑彌呼の宮殿は、居室と、見晴台と、城柵があっていつも衛兵がいるだけであった(居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 『魏志倭人傳』)魏使は、その(現代風にいうと、もっとしょぼい)「大宮殿」に当惑したであろう。しかし、魏使は、皇帝と将軍の体面を最大限に慮(おもんぱか)って、卑彌呼の女王國は「敵国・呉の東」の「遠方」の「大国」に相違ありません。「七万戸」です。「侍女千人」です。「殉葬者百余人」です。という報告書を書いた(魏志倭人傳)。 卑彌呼の墓は、仮に現存するとしても、その規模は「推して知るべし」であろう。
我が国に盛土遺跡として残る墳墓には「二通り」あった。「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と「古墳(こふん)」である。この二つは、築造された時代も、工法も、特徴も正確に異なる。我われはこれをよく理解して、術語としては正確に使い分けることが求められる。たとえば、秦の始皇帝陵は「墳丘墓」である。「古墳」ではない。
前者(墳丘墓)は、西暦 250年ごろまでの弥生時代に築造された。「墳丘墓」の形状には統一性がない。後者(古墳)は、西暦 250年ごろからの古墳時代になってから築造された。「古墳」の形状には統一性がある。それは、我が国で独自に発展したものである。 西暦 250年以降、大和王権の全国支配によって、弥生時代までの墳丘墓は廃(すた)れていく。たとえば、西暦 250年ごろ築造された京都府城陽市の「芝ケ原第十二号墳」は墳丘墓であるが、東南部に台形の祭壇としての突出部があり、前方後円墳に近い特徴をもっている。
日本の墳丘墓は、一般にあまり大きくはなかった。円形で直径 15メートル程度までである。方形でも一辺 20メートル程度までである。古い順に「堆築(たいちく)」「層築(そうちく)」「版築(はんちく)」という三つの工法があった。いずれも中国の江南地方や山東半島などから海を経て九州に直接伝わった工法である。「堆築」は、ただ土を積み上げるだけ。「層築」は、異なる土を層状に締め固める。「版築」は、大規模な木枠を組み、土砂を突き固めた。
たとえば、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」(BC 150年ごろ)は、大部分が「層築」で築造されている。南北約 39メートル、東西約 26メートルの長方形に近く、墳丘墓としては国内最大級である。当初は 4.5メートル以上の高さがあったのかもしれないが、二千年の風雨に浸食されて、今は約 2.5メートルしかない。 福岡県みやま市瀬高町山門に「堤(つつみ)」という地区がある。この地区は、東西南北に約二百メートル四方の広さがある。周辺よりやや小高い(二、三メートル)。この地区には周りを囲んで環濠の跡が認められる。弥生時代にひとつの環濠集落であったと推定される。そこは、十か所以上の民家の軒先に、それぞれ二、三トンはありそうな巨石が地上に幾つか露出している。
みやま市ではこれらを「堤古墳群」と命名しているようである。しかし、明らかに「古墳」ではない。弥生時代の「墳丘墓」の跡であると推定される。その理由は、あまりにも原型をとどめないからである。おそらく、稲作と共に中国の江南地方から伝わった「堆築(たいちく)」という原始的な工法によって土が盛られたために、二千年の風雨によって土が洗い流された結果、巨石が露出したのではないかと推定されるからである。
古代にこの堤地区にはどのような「思想」をもつ人びとが住んでいたのであろうか? なぜ環濠集落の中に幾つもの墳丘墓があるのであろうか? 吉野ヶ里遺跡にも環濠集落の中に墳丘墓はある。しかし、吉野ヶ里では、墳丘墓は主要な生活圏からやや離れて造られている。 縄文人は、風や木の葉に宿る精霊と交信した。死んでしまった人にも、霊が宿っている。生きている自分と同じように存在理由がある。したがって、自らの生活圏の中にお墓を造る。これは、事物にはその背後にそれぞれの価値や思想、力などが臨在すると感じるアニミズム(精霊信仰)に基づくものあろう。稲作によって物事に順序や上下ができるより前の、縄文人の感じ方に近かったのではないか。 『魏志倭人傳』によれば、卑彌呼の墓は、「さしわたし(径)」が「百余歩」であった(卑彌呼以死大作冢徑百餘歩)。果たして、卑彌呼の墓はどこにあるのであろうか? 福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)に「権現塚(ごんげんづか)」がある(写真)。
「権現塚」は、「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにある。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲む。
古代の中国では、「里」とは、どの時代においても「三百歩」であった。衛星写真で東松浦半島から糸島市まで魏使が歩いた距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径 45メートルは「百余歩」である。
「権現塚」は、前記したように、周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝が囲む。すなわち、「周溝墓」の特徴をもっている。 周溝墓は、溝から掘り出した土を周溝の内側に盛るだけである。したがって、通常は高さが低い。どのように大きな周溝墓も比較的に少ない日数で築造される。『魏志倭人傳』には卑彌呼の墓の「さしわたし(径)」のことは書かれているが、高さのことが書かれていない。『魏志倭人傳』に依拠する限り、築造されつつあった卑彌呼の墓は「円形周溝墓」であった可能性が高い。また、棺はあって、石室のような槨(かく)はなかったものと思われる(魏志倭人傳)。木棺であれば現在に形をとどめないであろう。 円形周溝墓は北部九州にはほとんどない。円形周溝墓は「ひとり」を埋葬することが多い。円形周溝墓に葬られた人は、特別な限られた人であったといえる。しかし、円形周溝墓からは副葬品が出ないことが多い。 「権現塚」の形状は、全体として円形であるが、古墳時代の「円墳」(円形古墳)とは一見して異なる。直径が 45メートルもあるにしては、高さ 5.7メートルは、「円墳」にしては低すぎである。 「円墳」(円形古墳)との相違については後述するが、「権現塚」には、先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」が存在する。 吉野ヶ里は女王國・倭國に属する国であった。そこに巨大な「北墳丘墓」があることは首都国・邪馬臺國にも知られていた。「権現塚」は、円形周溝墓の上に、吉野ヶ里の墳丘墓を凌ぐ規模の墳丘を「乗せた」可能性が高い。弥生時代晩期の「版築」という中国から伝わった工法が用いられており、大規模な木枠で成型して突き固めたと見られる。風雨に強く、表面は洗い流されているが、形状は長く保たれている。 「権現塚」は、周囲の溝を含めると、直径は優に 70メートルに近い。仮に墳丘墓であるとすると、日本には他にこれほどの巨大な「墳丘墓」は存在しない。 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定した。また、古墳時代中期(五世紀)に築造された「古墳」であろうと推定した。発掘調査や、炭素 14による年代測定などは行われていないようである。 これだけの大きな規模をもち、しかも、後世の「古墳」のようにその形状がはっきりと保たれているので、みやま市教育委員会が、これを「古墳」であろうと推定したのも無理はない。しかし、この権現塚は、「弥生時代最晩期」(西暦 250年ごろ)の希少な「円形周溝墓」である。かつ、日本最大の「墳丘墓」である可能性が高い。このことから、この権現塚は『魏志倭人傳』の卑彌呼の「円形の墓(円形周溝墳丘墓)」である可能性が非常に高い。 【15】 古墳時代の「古墳」とは何か
西暦 250年を過ぎると、日本は「古墳時代」となる。「円墳」(円形古墳)、「前方後方墳」、「前方後円墳」などの「古墳」が築造されるようになる。特に、大和王権に従属する国々では、「前方後円墳」が造成されるようになった。前方後円墳は、大化の改新で築造を禁止されるまで、約四世紀にわたって築造された。「古墳」は、統一的な形をもっている。風雨に耐えて長く保存される。巨大なものも存在する。
たとえば、「円墳」(円形古墳)は、球を水平に浅くスライスした形である。また、多くは、二段、あるいは、三段になっている。いずれの段も球のスライスの一枚としての統一した形をもっているので、墳丘墓とは一線を画する特徴がある。
四世紀半ば過ぎに(西暦 367年と推定される)、福岡県みやま市瀬高町も女王國・倭國の「山門國」から大和王権の「山門縣(やまとのあがた)」となった。この地域でも、前方後円墳が築造されるようになった。たとえば、「車塚古墳」(みやま市瀬高町山門)は、古墳時代中期(五世紀)の「前方後円墳」である。 【16】 箸墓古墳はなぜ卑彌呼の墓にしようとされたのか 畿内からは、卑弥呼の時代に中国からもち込まれた銅鏡など、一時代を画したといえるほどの態様では遺物が全く出て来ない。それは、中国と交易を行った九州北部に集中している。
畿内では、多くの歴史学者・考古学者が、卑彌呼の墓は奈良盆地のどこかに『魏志倭人傳』に記される「径百余歩」の「円墳」として存在しなければならないという「使命感」の下に探索を重ねた。しかし、それらしいものは存在しなかった。
そもそも、卑彌呼は古墳時代の人ではない。卑彌呼は弥生時代の人なのであるから、その墓は「古墳」ではなく、「墳丘墓」でなければならない。 戦前、笠井新也(1884-1956)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を卑彌呼とする説や、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」(大市墓)を卑弥呼の墓とする説を提唱した。 その後、箸墓古墳は、よくよく考えてみると「後円部」が丸いではないかという発想のもとに、これを何としても卑彌呼の墓であるとして、古墳域内の有機物の中から卑彌呼の死去の「西暦 247年ごろ」に一致するものが出るのではないかという期待をもって調査が行われた。それも近年 NHKなどの公共マスメディアと一体となって行われた。 確かに、魏の時代の「里」が 459メートルであったことと、いずれの時代においても里は 300歩であったことを考えると、箸墓古墳の後円部の直径約 150メートル(Wikipedia)は「百歩」の 153メートルに近い。しかし、「箸墓古墳」は、その築造が何年であれ、「墳丘墓」ではなく、全長 278メートル、高さ 30メートルの「古墳」であり、巨大な「前方後円墳」であるから、卑彌呼の墓ではない。 倭迹迹日百襲姫命は、夫の大物主神(おほものぬしのかみ)との行き違いのときに箸の事故で死んだ(日本書紀)。邪馬臺國では「籩豆(へんとう)」という高坏を用いて箸は使われなかった(魏志倭人傳)。卑彌呼は箸とは無関係である。また、卑彌呼は生涯独身であった(魏志倭人傳)。箸墓古墳は卑彌呼の墓ではない。 近年に至って、纏向(まきむく)遺跡の発掘が進んだ。纏向遺跡は、JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅を中心に、その規模は東西約 2キロメートル・南北約 1.5キロメートルにも及ぶ。その面積は約 90万坪。これを発掘するには、多額の公的資金を必要とする。そのために、纏向こそが、卑彌呼の邪馬臺國であるというアドバルーンを上げ、邪馬臺國・纏向説が、NHKなどの公共マスメディアと結びついて一体となって展開された。 しかし、事実かどうかが分かるわけではないが、『日本書紀』が伝承するところによれば、第十一代垂仁天皇は在位一年目に纏向に宮殿を建て、これを珠城宮(たまきのみや)とした(冬十月更都於纏向是謂珠城宮也)。『古事記』が伝承するところによれば、第十二代景行天皇は在位二年目に纏向の宮殿・日代宮(ひしろのみや)で治世をした(大帶日子淤斯呂和氣天皇坐纒向之日代宮治天下也)。『記紀』の伝承に照らしてみる限り、現在発掘される纏向遺跡の正体は、これらの天皇によって造営された宮殿の跡であろう。 第三章 【17】 第十代崇神天皇は実在したか
前記したように、明治時代に「日ユ同祖論」(日本人とユダヤ人は同じ祖先をもつという説)が独り歩きした。現代の日本人の間にユダヤ人の遺伝子(DNA)は存在しない。日本人はユダヤ人の子孫ではない。たとえば、日本には秦(はた)氏の子孫が多くいるが、秦氏もユダヤ人ではない。
中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。その規模は、時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。 ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。 西暦 316年ごろ、西晉は北方民族の侵攻によって滅亡した。洛陽も長安も開封も陥落した。中原(ちゅうげん)の地は、匈奴の「前趙(ぜんちょう)」となった。その後、中国大陸は北方民族が支配する「五胡十六國」の時代となる。そのころ、大量の漢人(Han)が難民として日本に流入した。そのことが、「ミトコンドリア DNA」の解析の結果分かっている。日本は、各地に前方後円墳などが築造される「古墳時代」であった。 推定され得ることとして、大量の漢人に混じって、少なくとも 200人のユダヤ人難民が渡来したのではないか。このことには合理的な理由があると推定される。日本では、ユダヤ人の血統(種)は自然に消滅した。しかし、当時のユダヤ人は読み書きができる「ふひと(史)」として重用されていた可能性が高い。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、その陣容について記録はない。しかし、ユダヤ人の有能な子孫が「ふひと」として含まれていた可能性は高い。
イスラエルの地に定住したユダヤの十二支族は、ダビデ王(BC 1040-BC 961)のときに「イスラエル王国」として統一された。一方、第十代崇神天皇は四道將軍を派遣して国内を統一した(日本書紀)。
『旧約聖書』の「サムエル記下巻 24:15」によれば、ダビデ王の時代に三年間の飢饉と疫病によって七万人の民が死んだ。『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に疫病が三年間流行り、民の大半が死んだ(國内多疾疫民有死亡者且大半矣)。 ダビデ王は天なる神に祈った。崇神天皇は天神地祇に祈った。 「サムエル記下巻 8:14」によれば、ダビデ王は「エドムの地」で戦った(He put garrisons throughout Edom)。一方、崇神天皇は「挑(いどみ)の河」で戦った(各相挑焉故時人改號其河曰挑河)。 「サムエル紀下巻 24:2」によればダビデ王は初めて人口を調査した。一方、崇神天皇も初めて人口を調査した(秋九月甲辰朔己丑始校人民)。 ダビデ王の子・ソロモン王は天なる神を祀(まつ)るためにイスラエル神殿を創建した(現在はヘロデ王の時代の「嘆きの壁」などの外壁しか残らない)。一方、崇神天皇の子・第十一代垂仁天皇は、天照大神を祀るために伊勢神宮を創建した。 『日本書紀』は、崇神天皇があたかもダビデ王と互角であると述べているかのようである。 すると、第十代崇神天皇が実在したかどうかは、本当に分からない。しかし、「誰か」がそのころ国内を統一した。「誰か」がそのころ人口を調査した。そのような「誰か」は実在した。その「誰か」を具現化する存在として、舎人親王以下『日本書紀』(720年)の編纂チームはこれを「第十代崇神天皇」としたのであろう。
事実であったかどうかは分からないが、『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇が即位(推定西暦 225年)して数えの十年目(推定西暦 229年)に、孝元天皇の皇子の武埴安彦(たけはにやすひこ)が山背(やましろ)より攻めてきた。その妻の吾田媛(あたひめ)も大坂(おほさか)から攻めてきた。崇神天皇は、彦國葺(ひこくにぶく)を遣わして武埴安彦を討たせた。また、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと 吉備津彦命)を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。その結果、葦原中國の版図は、奈良から京都・大阪にまで広がった。
事実であったかどうかは分からないが、『日本書紀』によれば、崇神天皇は、同じ年(推定 229年)に全国平定のために四道将軍を派遣した。すなわち、大彦命(おほひこのみこと)を北陸道に、武淳川別(たけぬなかはわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西海道に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)丹波にそれぞれ派遣した。 翌年(推定西暦 230年)四道将軍は、それぞれ地方を平定したことを報告した。
事実であったかどうかは分からないが、『日本書紀』によれば、崇神天皇は、即位して数えの六十一年目(推定西暦 255年)に吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根(いづものふるね)を誅殺させた。これによって山陰道は葦原中國の支配下に入った。 一方、女王國・倭國では、西暦 238年に卑彌呼が魏の第二代皇帝・曹叡(205-239)に特使・難升米(なしめ)を派遣して朝貢した(魏志倭人傳)。これは事実であろう。 西暦 240年に魏使が金印紫綬を卑彌呼に届けるために女王國・倭國を訪ねた(魏志倭人傳)。 西暦 247年に女王國・倭國では卑彌呼が死去した(魏志倭人傳)。 西暦 248年に十三歳の少女・臺與(とよ)がこれを後継した(魏志倭人傳)。 【18】 第十代崇神天皇から第十五代應神天皇までの天皇はいつ即位しいつ崩御したか 第十代崇神天皇は、実在した可能性があるとされる天皇である。また、九州北部に卑彌呼がいたころ、畿内に大和王権を確立したと考えられる天皇である。当時の天皇がいつ即位していつ崩御したかは、多くの人にとって重要な関心事であろう。しかし、我われ日本人が第十代崇神天皇等のことを知るのも、八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。当時の天皇が実在したかどうかは、本当は分からない。特に、仲哀天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)という古代史上最大のヒーローの息子であり、神功皇后という古代史上最大のヒロインの夫なのであるから、実在したかどうかは本当に分からない。 一方、『日本書紀』(720年)よりやや古く、大阪の住吉大社に『神代記』(702年 国の重要文化財)が残されている。『神代記』によれば、崇神天皇は実在し、その崩御年は「戌寅(つちのゑとら)の年」であったと書かれている(彌麻歸入日子之命者大日日命御子也志貴御豆垣宮御宇天皇六十八年以戊寅年崩葬山邊上陵)。崇神天皇は、統一国家としての日本を造り上げた大王であると考えられているので、その崩御年は多くの人によって長く記憶されたであろう。明治時代の歴史学者・那珂通世(1851-1908)も、崇神天皇の崩御年は「西暦 258年」の戊寅(つちのゑとら)の年であった可能性が高いとしている。 仮に崇神天皇が西暦 258年の戊寅の年に崩御したとすると、その在位期間は三十四年間(『日本書紀』では六十八年間)であったので、即位は「西暦 225年」であったことになる。第十一代垂仁天皇は崇神天皇崩御の西暦 258年に即位したが、在位期間は四十九年間(『日本書紀』では九十九年間)であった。すると、「西暦 306年」に崩御したことになる。以下同様にして、次の表は、『日本書紀』の内容に依拠して、第十代崇神天皇から第十五代應神天皇までの生年・即位年・崩御年を西暦で表したものである。 初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年(改) (『日本書紀』より西暦に復元 入口紀男・入口善久)
上表の内容について、以下、事実であるかどうかを検証する。
『日本書紀』には、たとえば、神功皇后が魏の皇帝から印綬を授けられたと書かれている。 「卅九年是年也太歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也。卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」(『日本書紀』神功皇后紀) この記述は、大和朝廷(『日本書紀』720年を編纂したチーム)が、卑彌呼(169頃-247)が魏の皇帝から金印紫綬を授けられた業績を、大和王権である神功皇后の業績として召し上げようとした内容にほかならない。 神功皇后は、摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した(遣斯摩宿禰于卓淳國)。本居宣長(もとおりのりなが 1730-1801)は、この派遣の年は正確に百二十年間(干支二巡)繰り上がっていると指摘した。本居宣長によれば、「摂政四十六年」は、本当は「西暦 366年」だということになる。 『日本書紀』によれば、翌年の摂政四十七年(西暦 367年)に百濟から近肖古王(在位 346-375)の使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅の調(みつき)の使いも一緒に来た。神功皇后と譽田別尊(第十五代應神天皇・そのとき乳児)は喜んで「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた。群臣みな涙を流さぬ者はなかった。(於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣群臣皆莫不流涕『日本書紀』神功皇后紀) この「西暦 367年」が仲哀天皇崩御の年である。この年の暮れ近くに應神天皇が産まれていたわけであろう。 神功皇后の摂政の期間は「正歳四節暦(西暦)」で書かれている。しかし、摂政をした期間は、文字通り「六十九年間」ではなく、仮に摂政の事実があったとして、「摂政六十一年」(西暦 381年 辛巳 かのとみの年)から「摂政六十九年」(西暦 389年 己丑 つちのとうしの年)までの「九年間」であった。 『日本書紀』には、神功皇后の摂政五十五年(西暦 375年)に百濟の肖古王が薨(こう)じたと書かれている。百濟では、確かに近肖古王は西暦 375年に死去している。百済の歴史は、一貫して「正歳四節暦」(西暦)で書かれており、中国の歴史書と照合可能である。この「西暦 375年」は事実であると推定される。神功皇后の摂政六十四年(西暦 384年)に百濟の貴須(くゐす)王が薨(こう)じたと書かれている。百濟では、確かに貴須王は西暦 384年に死去している。 應神天皇は「西暦 390年」に即位したことになる。『日本書紀』には、應神天皇三年に百濟の阿花王(あかおう 在位 392-405)が即位したと書かれているが、百濟で阿花王は確かに西暦 392年に即位している。應神天皇十六年に阿花王が薨じたと書かれているが、百濟で阿花王は確かに西暦 405年に薨じている。また應神天皇二十五年に百済の直支王(ときおう 在位 405-414)が薨じたと書かれているが、百濟で直支王は確かに西暦 414年に薨じている。應神天皇記もここまでは正確に「正歳四節暦」(西暦)で書かれている。しかし、應神天皇二十六年から應神天皇四十一年までは「春秋二倍暦」で書かれており、應神天皇は「西暦 421年」に「五十五歳」(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。 第十五代應神天皇は、現在の日本人にとって重要な天皇のひとりである。應神天皇は、第十六代仁徳天皇から男系が途絶えた第二十五代武烈天皇までと、第二十六代継体天皇から現在の今上陛下まで続く共通の男系祖先である。そのために應神天皇は皇祖神として奉られることになった。仏教が伝来すると「八幡大菩薩」と称えられた。そのために應神天皇を初代天皇とする根強い仮説もある。ただし、『日本書紀』の「應神天皇紀」に書かれた内容には百濟の歴史との対応がとれないものが多く、それらがそのまま事実であったとは限らない。 第十代崇神天皇崩御(西暦 258年)から第十五代應神天皇即位(西暦 390年)までの 132年間は、天皇は、必ずしも「第十一代垂仁天皇」「第十二代景行天皇」「第十三代成務天皇」「第十四代仲哀天皇」「神功皇后」の形で存在したわけではなかったのかもしれない。しかし、「誰か」が何らかの役割を果たしながら西暦 390年に第十五代應神天皇を出現させた。各天皇は、それを具現化した存在であったとはいえる。その限りにおいて、前記の表の内容は、現在のところ事実であると推定される。 【19】 臺與(とよ)のとき女王國・倭國の版図はどこまで広がったか 事実であったかどうかは分からないが、『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇(推定在位 225-258)の晩年、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と称する都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が敦賀(つるが)に上陸した。
第十一代垂仁天皇(推定在位 258-306)は、都怒我阿羅斯等の話から、そのころ女王國・倭國の伊都國王が穴門國(山口県)を支配していることを知った(『日本書紀』垂仁天皇紀)。そのころ臺與が生きていれば二十三歳である。
八世紀に舎人親王以下『日本書紀』(720年)の編纂チームは、『魏志倭人傳』(285年)の内容を知っていた。したがって、編纂チームは、伊都國王が何者であるかを知っていた。このことは、当時の大和朝廷が、葦原中國と女王國・倭國が互いに異なる国であることを知っていたことを意味する。
都怒我阿羅斯等は「額に角のある人」と書かれているが、当時珍しい「立物(たてもの)」のある兜(かぶと)を被っていたと考えられる。日本では、平安時代以降に仏具の製造技術によって甲冑が製造されるようになった。兜(かぶと)には額に大きな立物がつくようになった。
女王國・倭國は、女王・臺與(235-没年不詳)の時代であった。女王國・倭國の支配は、穴門國(山口県)まで及んでいたようである。しかし、それが女王國・倭國が本州にまで版図を拡げた限界であった。 第四章 【20】 女王國・倭國はいつどのように衰退したか 西暦 265年に魏の第五代皇帝・曹奐(そう かん)は、政権を司馬炎(しば えん)に禅譲し、司馬炎は西晉を建てた(初代皇帝・武帝 在位 265-290)。この情報は女王國・倭國に伝わったと推定される。翌西暦 266年に倭國は西晉に朝貢した(泰始二年十一月己卯倭人來獻方物 『晉書』武帝紀)。臺與は、生きていれば三十一歳である。朝貢したのは臺與であった可能性が高い。西晉は、その後も臺與の女王國・倭國を優遇したと考えられる。 なお、『日本書紀』の「神功皇后紀」には「摂政六十六年(西暦 386年)は晉の武帝の泰初二年である。『晉起居注』に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとある」と記している(六十六年是年晉武帝泰初二年晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻)。武帝の泰始二年は西暦 266年である。大和王権(『日本書紀』の編纂チーム)は、ここでも女王國・倭國の臺與の業績を大和王権(神功皇后)のものとして召し上げようとした。 西暦 280年に西晉が中国を再統一すると、武帝は変貌し、酒と女に溺れて朝政を顧みなくなった。この情報も女王國・倭國に伝わったと推定される。臺與が生きていれば四十五歳である。その前後から女王國・倭國は衰退していったのではないかと推定される。 西暦 300年近くになると、女王國・倭國の中に大和王権の前方後円墳が幾つか築造される。大和王権の勃興に伴って、幾つかの国々が個々にいち早く同盟関係を結んだと考えられる。 女王國・倭國内及び周辺地域の初期の前方後円墳
臺與の後も独身の女性の呪術者がこれを後継したと想像されるが、『日本書紀』「景行天皇紀」に記述される伝承から「八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)」として神格化され、山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)の女王山にいて、人前にはあまり姿を見せなくなって行ったのではないかと推定される。
そのころの女王國・倭國は、小国が乱立する状態となり、邪馬臺國もそのひとつとなったようである。しかし、八女津媛も伊都國王も存在し続けた。 西暦 316年に西晉は匈奴の侵攻によって滅亡する。長安も洛陽も陥落した。以後中国は「五胡十六國」の時代となる。 【21】 景行天皇は九州を親征したとき、なぜ女王國・倭國を攻撃しなかったか 大和王権は、九州地方には天皇に従わない部族が多くいると感じていた。事実であったかどうかは分からないが、『日本書紀』によれば、第十二代景行天皇によって九州親征が行われた。それは景行天皇十二年(西暦 311年)から景行天皇十九年(推定西暦 315年)まで五年かけて行われたようである。大和王権による九州親征は、二回行われた。景行天皇による「第一次九州親征」と、第十四代仲哀天皇・神功皇后による「第二次九州親征」である。 景行天皇は、九州で各地に行宮(あんぐう)を建てて住み、戦闘を展開して周辺の土蜘蛛(つちぐも 豪族)を討伐したようである。 『肥前國風土記』に、第十代崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかったとある(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十余人拒捍皇命不肯降服)。景行天皇としては少なくともこれに優(まさ)る陣容の軍勢を率いていたと考えられる。 天皇は北九州市小倉南区の「朽網(くさみ)」で土蜘蛛を討伐したという伝承がある。また、菟狹(うさ 大分県宇佐市)の土蜘蛛・「鼻垂(はなたり)」を討った。その一方、兵を遣わして高羽(たかは 福岡県田川市)の土蜘蛛・「麻剥(あさはぎ)」を討った。禰疑山(ねぎのやま 大分県竹田市)の土蜘蛛・「八田(やた)」と「打猿(うちさる)」を討伐した。血が流れてくるぶしまで浸かったようである。襲國(そのくに 鹿児島県曽於市)で八十梟帥(やそたける)と呼ばれる「厚鹿文(あつかや)」・「迮鹿文(さかや)」を誅殺した。熊縣(くまのあがた 熊本県球磨郡)で「弟熊(をとくま)」を誅殺した。熊本県の緑川流域で土蜘蛛・「土折猪折(つちおりいおり)」を討った。兵を遣わして、佐賀県武雄市の嬢小山(をみなやま 鬼鼻山)にいた土蜘蛛・「八十女(やそめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。八十とは多いという意味である。八十女は数名の女王層であった。全員で抵抗して壮絶な最期を遂げたようである。また、兵を遣わして佐賀県唐津市の賀周里(かすのさと)の土蜘蛛・「海松橿媛(みるかしひめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。女王であった。平戸島の土蜘蛛・「大身(おほみ)」を討った(肥前國風土記)。玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛・「津頰(つづら)」を討った。 天皇は、熊本県の菊池川沿いに夜間に山鹿に至った。熊本県山鹿市には景行天皇を松明(たいまつ)で招いた故事から現在も「山鹿燈篭の祭り」が行われている。 御木(みけ 福岡県三池郡)の土蜘蛛・「耳垂(みみたり)」を討った。
西暦 314年に景行天皇が女王國・倭國の八女縣(やめのあがた)に着き、そこから少し北のほうにある藤山を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、「猨大海(さるのおほみ)」(水沼縣主となる 福岡県三潴郡 みづまぐん)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えたようである(則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中)。
天皇は北上して佐賀県の神埼郡と三根郡に至る(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里があった。神埼郡の宮処(みやこ)郷に仮宮を設営した(肥前國風土記)。養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。また、御井郡の高羅(かうら)を仮宮とした(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 福岡県うきは市)に行宮を建てた。一方、神代直(かみしろのあたひ)を肥前國浮穴郷(うきあなのさと)に遣わして土蜘蛛・「浮穴沫媛(うきあなわひめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。女王であった。西暦 315年に天皇は的邑から畿内の纏向に帰還した。
この景行天皇による第一次九州親征で見えてくるものがある。それは、女王國・倭國に入ってから、「征伐の旅」ではなく「巡幸の旅」となったことである。特に山門郷を素通りしている。 西暦 247年の卑彌呼の死から半世紀以上経って女王國・倭國(筑前・筑後の三十か国連合)は崩壊しつつあった。それでも連合国としては、どの加盟国も土蜘蛛のように景行天皇軍に単独で対戦することはなかった。 いつも山の中にいる「八女津媛(やめつひめ)」という女神が出てくるが、猨大海(さるのおほみ)は、「八」とはいつの世にもいる多世代の女神の意味として答えている。福岡県八女市や八女郡の語源となっている。景行天皇が藤山(福岡県久留米市藤山町)から南に見た「美しい山」は、衛星写真で見ると、どうも山門郷の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草 標高 195メートル)のようである。猨大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、緊迫した状況の中で、シャーマンとして神格化された連合国・倭國の女王がいるとは答えないで、いつも山中にいて人前に姿を現さない女神がいると答えた。この八女津媛こそが景行天皇が討つべき連合国・倭國の女王であった。景行天皇が八女津媛を討たなかった理由は、天皇は、八女津媛は女神であって女王ではないと判断したのに相違ない。猨大海(さるのおほみ)、恐るべし。 景行天皇は、この九州親征で、豐國、日向國、肥國を平定した。しかし、筑紫(筑前・筑後)の女王國・倭國は、討伐されないで残った。女王としては、八女津媛だけが残った。伊都國王も残った。 この景行天皇による「第一次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。『古事記』に記載はない。史実ではなかった可能性がある。しかし、「誰か」が「何ら」かの役割を果した。そのような事実はあったのではないかと考えられる。一方、九州には、各地に景行天皇の足跡・痕跡・地名等が数多く残されている。 【22】 女王國・倭國はいつどのように滅亡したか 第十代景行天皇による一回目の九州親征に続いて、大和王権による二回目の九州親征は、史実とすれば西暦 363年から367年にかけて、実在したとすれば第十四代仲哀天皇・神功皇后によって行われた。
西暦 363年に仲哀天皇が德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいたとき『日本書紀』によれば、「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいた。知らせを聞いたが、角鹿に水軍がいるわけではない。陸路南下し、水軍を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に至った。
仲哀天皇と神功皇后は穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮神社 いみのみや)で三年間、情報を収集しながら治世をした(古事記)。周防の沙麼を水軍基地とした。 第十二代景行天皇の「第一次九州親征」のとき、景行天皇が討たなかったのは、藤山(久留米市藤山町)の南に見える「美しい山」(景行天皇紀)の八女津媛(やめつひめ・多世代の女王)だけであった。「美しい山」は衛星写真で見ると、どうも山門國・女王山であったのではないかと推定される。 女王國・倭國は、魏の「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもっている。また、女王・臺與(とよ)が魏を継承した西晉に朝貢している。さらにそれを継承した東晉によって軍事上の安全を保障されているかもしれない。すると、仮に大和王権が女王國・倭國を攻撃すると、中国の大国との大きな政治的・軍事的問題を引き起こす可能性がある。 新羅の塵輪(じんりん)なる者らが豐浦宮に攻め入った。仲哀天皇自ら弓を取って防戦し、塵輪を射殺した。
西暦 366年に崗國(をかのくに 飛鳥時代の遠賀郡)を支配していた国王・熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。熊鰐は後に大和王権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる(筑紫伊覩縣主祖五十迹手聞天皇之行拔取五百枝賢木立于船之舳艫上枝掛八尺瓊中枝掛白銅鏡下枝掛十握釼參迎于穴門引嶋而獻之『日本書紀』)。
また、伊都國(福岡県糸島市)の国王・五十跡手(いとで)が仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。五十跡手は、自らについて「高麗(こま)の國の意呂山(おろさん 韓国蔚山広域市)に天降りし日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」と名乗った(肥前國風土記・逸文)。 日桙という人物は新羅王の子であり、第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は多遅摩母呂須玖の子孫である(古事記)。また、葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(母曰葛城高顙媛 『日本書紀』)。神功皇后はその母の遠く古い故郷である朝鮮半島に強い憧憬をもっていた。神功皇后は、新羅國には眩(まばゆ)い金、銀、彩色などが沢山あると考えていた(眼炎之金銀彩色『日本書紀』)。 伊都國はこのとき大和王権に併合された。そもそも、伊都國王とは女王國の「大率」(行政監察官)の権限をもつ者にほかならない。このとき、大和王権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と加盟国について全貌を知った。また、女王が山門國の女王山にいる八女津媛であること。呪術者であることなどを知った。五十跡手は、後に大和王権下で伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。 『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の崗湊(をかのみなと)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神であった大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和王権の女王國・倭國への侵攻を拒んだわけである。 仲哀天皇は熊鰐に勧められて崗湊の二神に祈った。そのとき、舵取り人で倭國の菟田(うた)の人・伊賀彦(いがひこ)を祝(はふり 神官)に立てて祈ったところ船が進んだ(天皇則禱祈之以挾杪者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭則船得進)。大和王権も自らの葦原中國を倭國と認識していたことが分かる。 前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座する神々であった。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。 神功皇后は、危険を分散するために、別の軍船で洞海湾から崗湊に向かった。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見ようとした。その後、満潮を待って崗湊に着いた。 仲哀天皇は玄界灘を通って奴國に向かった。神功皇后はいったん遠賀湾を軍船で南下し、陸路福岡県若宮市を通り、奴國に向かった。 神功皇后は、真紅の絹の上衣、紫色の裳を着ており、縞織物の帯に鹿の角の腰飾りを差し、皮の靴を履いていたと伝えられる。青いガラスの管玉と瑪瑙(めのう)のネックレス、緑色の翡翠(ひすい)の指輪と貝殻のブレスレットをつけていた。また、宝石のイヤリングをつけ、竹編みの笠を深くかぶって傲然としていた。当時竪穴式の住居に住んで貫頭衣を着て暮らしていた庶民は、遠くからその姿を見て驚いたであろう。 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)を行宮とした。
西暦 367年、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。
神功皇后は軍勢を率いて橿日宮を出発し、御笠川を南下した。橿日宮から松峽宮に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。 神功皇后は、先ず層増岐野(そそぎの)において土蜘蛛・羽白熊鷲(はじろくまわし)と交戦して圧倒的な兵力でこれを誅殺した。皇后はこのとき髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。 皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を少し南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門國である。最後の女王・八女津媛(神格化した多世代の女王)はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいる。 『日本書紀』によれば、(西暦367年に)神功皇后はこれを土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)として誅殺した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。八女津媛を兄・夏羽の軍が防衛していた。夏羽が駆けつけるよりも前に八女津媛は殺されたので、夏羽の軍は四散した。「たぶらつひめ」とは「たぶらかしの女性呪術者」という意味である。大和王権の八女津媛に対する蔑称であった。 山門國は大和王権下で山門縣(やまとのあがた 福岡県みやま市瀬高町)となる。これが邪馬臺國の滅亡であった。
女王山の現在の地名は「大草」である。「おほいくさ」の跡地と伝えられる。しかし、八女津媛が抗戦した痕跡は見られない。女王山は、地域ではその後大和王権に遠慮して女山(ぞやま)と呼ばれるようになった。
この仲哀天皇・神功皇后による大和王権の「第二次次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。史実ではなかった可能性がある。しかし、「誰か」が「何ら」かの役割を果して女王國・倭國は滅亡した。そのような事実はあったのではないかと考えられる。 【23】 最期の女王・八女津媛の墓はどこにあるのか 福岡県みやま市瀬高町大草(おおくさ)の女王山の麓に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる古墳がある。「田油津媛(たぶらつひめ)」の墓と伝えられる。表土ははぎとられ、石室に近い部分だけが残る。この墓は明治の初めまで「女王塚」と呼ばれた。雨が降ると血が流れると言われた。その真偽は分からないが、ある意味の怨みがこもっているとして伝承されている。この古墳は、円形であるが、短い後方部をもつ帆立貝型古墳である。帆立貝型古墳は、前方後円墳を築造することが許されないときに築造されることがあった。田油津媛の墓である可能性がある。
田油津媛の墓であるとすれば、女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいた最後の女神・八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)の墓である。
前記したように、『日本書紀』によれば、(西暦367年に)神功皇后はこれを土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)として誅殺した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。 「たぶらつ」とは「たぶらかしの」という意味の大和言葉である。神功皇后の軍勢が敵である呪術者(シャーマン)・八女津媛に対してつけた蔑称であった。 女王山は、地域では大和王権に遠慮して「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。 明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。日本で最初の肖像画入り紙幣であった。明治政府に対して当時の地域では、この古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、そのまま現在に至る(みやま市指定文化財)。 参照文献
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