【趣旨】 現皇室には、なぜ「三種の神器」が伝わっているのであろうか? 天照大神は、実在したのであろうか? 仮に実在したとして、天照大神はどこにいたのであろうか? 天照大神と倭國の女王・卑彌呼(169ごろ-247)とは、同一人物だったのだろうか? 神武天皇は、実在したのであろうか?西暦 265年に魏の国の魚豢(ぎょかん)によって編纂された『魏略』にも、その二十年後の西暦 285年に西晉の国の陳壽によって編纂された『魏志倭人傳』にも、帶方郡から末盧國までは「一万余里」、帶方郡から邪馬臺國までは「一万二千余里」、また、末盧國から伊都國までは「五百里」と書かれている。それゆえに、伊都國から邪馬臺國までは「千五百余里」である。これによって、邪馬臺國は福岡県内の近さにあることがはっきりしている。しかし、前者(魏略)には、「二万戸」「五万戸」「七万戸」「水行二十日」「水行十日陸行一月」「以婢千人自侍」「殉葬者百餘人」など、卑彌呼が強大な権力をもつ遠方の大国と形容する決定的な文言が見当たらないが、一方、『魏志倭人傳』にはこれらの文言が挿入されている。これら二つの書が編纂された二十年の間に、魏の国でいったい何が起きていたのであろうか? 『魏志倭人傳』に、魏使は「奴國」のすぐ東にある「不彌國」から「南」へ行くと「投馬國」があったと書かれている。この「投馬國」とは現在のどこのことであろうか? 本書は、そのように、「日本の古代史」に関連してどっさりと積み上げられてきた様ざまな仮説と禁忌(タブー)に疑問を投げかけ、それらを現在において可能な限り科学的に検証することを目的としている。 筆者は、生命体画像工学を専門とする自然科学者である。また、熊本大学大学院において二十年間社会文化科学の教授の任にもあった。数学や物理学などの自然科学の分野では、多くの場合に正解は「ひとつ」である。一方、社会文化科学の分野では正解が「ひとつ」とは限らない。そこに社会文化科学の難しさがある。この「社会文化科学」という術語は、欧米にはない日本の造語である。それでも、社会文化科学は、仮説を立て、検証し、進歩するという科学としての属性をもっている。 古代の日本に起きた事実は「ひとつ」である。それは、一体どのようなものであったのだろうか? この書が読者の皆さまの知的好奇心にスイッチを入れることができれば幸いである。本書は、もとより筆者が浅学菲才の身でこれを執筆したものである。ご叱正くださればさらに幸いである。
第一章 【1】 「縄文人」とはどのような人びとであったか 我われの身体は「細胞」でできている。その成分のおよそ 70パーセントは水(H2O)である。薄い膜で包まれた細胞の中は「細胞液」という液体で満たされている。この細胞液に浮遊してひとつの「細胞核」というこれも薄い膜で包まれた微小な、かつ重要な構造体がある。
写真は、受精後 2時間 7分経ったヒトの実物の「胚(はい)」である。数個の細胞に分裂したところを色素とレーザー顕微鏡を用いて撮像したものである。この撮像は、倫理委員会の慎重な審査を経て行われている。ピンク色に染まって見えているのが個々の細胞である。ひとつの細胞の中にひとつずつ青色に染まって見えているのが細胞核である。細胞分裂はこのまま進み、脳ができ、骨ができる。手足もできる。細胞の数が約三兆個になるとヒトとして出生する。我われには大人でおよそ五十兆個の細胞がある。
細胞液の中には「ミトコンドリア」という多数の構造体も浮遊している。ミトコンドリアはひとつの細胞の中に四、五百個もあって、ヒトの体重のおよそ 10パーセントがミトコンドリアの重量である。ミトコンドリアにも遺伝子(DNA)がある。それは、母から子へと伝えられる。多くの民族のミトコンドリアの DNAを調べた結果、現生人類(ホモ・サピエンス)は「十六万±四万年」前にアフリカの奥地に暮らしていたひとりの(あるいは、少数の)女性の子孫であることが分かった(1987年の英科学誌『ネイチャー』)。東洋人も、白人も、黒人も、すべてアフリカにいたその女性の子孫である。その子孫は、何万年もの間アフリカの奥地で暮らしていたが、その子孫の一部がアフリカの東側の草原を北上して、今から四万~八万年前に、シナイ半島を経由して、あるいは、紅海を経由してユーラシア大陸へ渡った。これは、現生人類の「出アフリカ」と呼ばれることがある。彼らは、そこから西のヨーロッパへ、あるいは東のアジアへと移動して行った。そして、その子孫がついに日本にもやって来た。縄文人である。
それまで、ヨーロッパ・アジアにはネアンデルタール人などが生存していた。ネアンデルタール人は現生人類(ホモ・サピエンス)ではないが、現生人類の遺伝子には、ネアンデルタール人の遺伝子がわずかに(1~4パーセント)含まれていることが知られている。 縄文人は、約 4万年前から日本列島にいた可能性が高い。人骨は出ていないが、旧石器は出ている。そのころ北海道は大陸と地続きであった。津軽海峡は歩いて渡ることができた。縄文人は一般には北方から日本列島にやって来たと見られている。縄文土器など「縄文文化」の時代は BC 14000年ごろから BC 1000年ごろまで、一万年以上も続いたことが知られている。縄文時代には気温が現在よりも約 2 ℃高く、北極の氷は大量に溶けていた。縄文時代の中後期には「縄文海進」といって海面が今より二、三メートル高かった。また、地域によっては五、六メートル高かった。日本列島は大陸や朝鮮半島から孤立していた。縄文晩期の総人口は、コンピュータ考古学による復元では 75,800人であったと推定されている(国立民博・小山修三教授)。当時(縄文晩期)の東北地方は、渡来人によってもたらされる疫病(肺結核など)も比較的少なく、温暖で食糧も豊かであった。
縄文時代の人びとは鹿や猪を狩り、魚や貝を獲り、木の実などを採って暮らした。そのような暮らしが文明のレベルにおいて後進のものであったかというと、必ずしもそうとは限らない。
「一反(たん)」のどんぐりの林から「一石(こく)」のどんぐりが採れた。それを食べることによって人が「ひとり一年間」生きることができた。どんぐりには硬い殻があるので長く保存ができた。どんぐりは、そのままでは苦いので石でつぶし、水に何日もつけて苦味を除いた。すると混じりけのないデンプンが残る。それを火で焼いて食べた。発酵させて焼くとパンもできた。鮭の汁をかけて焼くと栄養豊富なクッキーもできた。木の実の栽培もした。それを発酵させると酒もできた。縄文人は美食を求める食通(グルメ)でもあった。人前に出るために気のきいた物を着た。べんがら(黄土を焼いた赤い顔料・酸化第二鉄)で化粧もした。日本列島に共通語はなく、縄文人はその土地の言葉を話した。音楽を聴き、自由な時間を楽しんだ。 縄文時代には、森羅万象に八百万(やほよろず)の神々が宿った。人びとは平等であった。縄文の人びとは、豊かな暮らしの中で 世界最初に土器を造った。土器は、煮炊きによって食中毒を防いでくれる。縄文の人びとはそのような土器に驚きの飾りをつけた。糸魚川流域で採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかっている。このことから、縄文人は、日本列島内では活発に交易をしていたと見られている。 弥生時代になると、稲作が行われた。稲作でも「一石(こく)」とは、「一反」の田から採れるコメの量のことである。これで人が「ひとり一年間」食べて生きることができる。人びとは定住し、食料を計画的に得ることができるようになった。しかし、一石のコメを作るには、先ず、春先を待って、土を水でやわらかくこねた苗代(なわしろ)を造る。これにたねもみをまいて苗(なえ)を育てる。一方で、田を整地し、水を引く。これに時機を逸しないで田植えをする。昼夜水が枯れないようにする。草刈りや中干(なかぼ)しをする。嵐の夜も田に行って稲穂が倒れないように縄を張る。秋になって稲穂が実ると、枯れないうちにす早く稲刈りをする。これは、縄文時代のようにどんぐりを拾ってきて余った時間を楽しむのとは違って、重労働である。それゆえに、稲作が伝わっても、縄文の生活から弥生の生活に容易には切り替わらなかった。
ここで、話を「細胞」のことに戻そう。
すべての細胞の中には、前記した通り、ひとつの微小な、かつ、重要な「細胞核」がある。細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体がある。染色体とは、1880年代に色素に染まって見えるので、そのように付けられた名称である。現在は「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」といっている。染色体は、顕微鏡で観ると縮こまって見えるが、本当は、とてつもなく細長い代物(しろもの)である。ヒトの染色体は、全部で「四十六本」ある。うち二十三本は父親からもらったものである。残りの二十三本は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。この二十三対の染色体には固有の番号がつけられている。受精によって 四十六本になったものを「ディプロイド」という。人はディプロイドである。四十六本の DNAは、直径が約 2 nm (ナノメートル・1ミクロンのさらに 1,000分の1の単位)で、長さが合計約 2メートル。仮に直径 2ミリメートルの針金にたとえると、長さは約 2千キロメートル。およそ九州南端から北海道北端までの距離である。そこに遺伝子(DNA)情報としてアミノ酸分子が並ぶ。 男性の四十六本の染色体のうち「Y染色体」と呼ばれるもの(図の 23番目の対の右のほう)は、男性だけがもっている。これは、父から息子へと引き継がれる。日本にやって来た縄文人は、Y染色体として「C1a1」または「D1a2a」という遺伝子(DNA)のタイプ(型)をもっていたようである。 Y染色体の型「C1a1」は、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。この「C1a1」は、日本固有のものである。しかし、「C1a1」の祖先の移動ルートは謎に包まれていて、古代ヨーロッパのクロマニヨン人や現代のヨーロッパ人から見つかる例がある。Y染色体の型「D1a2a」は、約 4万年前に日本列島で生まれたと見られている。現代の日本人男性の約 35パーセントがもっている。また、朝鮮民族の 約 4パーセントがもっている(J. Human Genetics, 2006)。 なお、アイヌ人は縄文人の「D1a2a」をもつ人として 75パーセント、オホーツク北方人の「C2」をもつ人として 25パーセントのいずれかである。また、沖縄県人は、男性の約 56パーセントが縄文人の「D1a2a」をもっている。青森県人は男性の約 39パーセントが「D1a2a」をもっている(J. Human Genetics, 2006)。 【2】 「弥生人」はいつどこから流入したか
近年の研究で、BC 1498年(±825年)の縄文時代に、北東アジアにいた民族が、朝鮮半島を通って「弥生人」として大量に九州に流入した可能性が高いことが分かった(Science Advances, 2021)。中国では「殷」(BC 17世紀 - BC 1046)の時代である。
流入した弥生人は、3、4万人であったと見られ、母系で伝わるミトコンドリア DNAの構成比で、国内の人口の四十パーセント近くを占めるに至った(N. P. Cooke et al., 2021)。彼ら(弥生人)のY染色体の型は「O1b2」であったと見られる。彼らは、稲作ではなく、もっぱらアワやキビなどの雑穀を栽培して暮らす民族であった。日本では、弥生時代の開始とは、弥生人が流入したときではなく、「稲作が最初に始まったとき」と定義されている。北東アジアから弥生人が流入したことによって日本が縄文時代から弥生時代に変わったわけではない。
流入した弥生人(O1b2人)の故郷は、「朝鮮半島北部」の周辺(北東アジア)と見られる。弥生人の遺伝子(O1b2)は、現在でもその周辺の多くの人びとがもっている。この「O1b2人」は、現在の中国の華北にも華中・華南にも存在しない(J. Human Genetics, 2006)。この弥生人の遺伝子「O1b2」は、現代人にも引き継がれていて、日本人男性の約 24パーセントがこの遺伝子をもっている(J. Human Genetics, 2006)。
【3】 博多湾と有明海は「海」でつながっていたか 約九万年前に阿蘇カルデラの破局噴火(阿蘇 Ⅳ)によって、九州の主要部は火砕流に覆われた。火山灰は朝鮮半島にも北海道にも降り積もった。その後、約二万八千年前の姶良(あいら)カルデラの破局噴火で、九州北部も全体が約六十センチメートルの火山灰に覆われた。さらに、約七千三百年前の鬼界カルデラの破局噴火で、九州北部も全体が約二十センチメートルの火山灰に覆われた。火山灰は朝鮮半島にも東北地方にも降り積もった。これらの火山灰は、現在も九州全域を覆い、圧縮されて凝灰岩となったり河川などを通して土砂として流れ出たりしている。
博多湾から太宰府市あたりを通り有明海にいたる低地部(筑紫平野)は、九州北部を東西に分ける「地溝帯」である。この東側全体は古代に「宇佐嶋」と呼ばれていた可能性がある。『日本書紀』によれば天照大神と素戔嗚尊(すさのをのみこと)の契約で「宗像三女神」が高天原から「宇佐嶋」に降臨したとされるからである。三女神は航海術などあらゆる「道」の最高神とされる。高天原で生まれた三人のお姫さまが宇佐嶋の宗像に移り住んだのかもしれない。出雲と宗像の結びつきは強い。『古事記』によれば、三女神のひとり・田心媛神(たごりひめ)は大國主命と結婚した。
九州北部を東西に分ける前記の地溝帯も、山間部などから流れ出た土砂の分厚い堆積層に覆われている。その現在の最高地点は太宰府市あたりである。その標高は約四十メートルである。ここが地溝帯の水の流れを南北に分ける「分水嶺」(ぶんすいれい)である。
この分水嶺の標高は、千八百年前の卑彌呼の時代には現在より低かったと見られる。この分水嶺に近い「二日市温泉大丸別荘」の温泉掘削コアによれば、現在の海水面より深いところから弥生時代晩期の地層が見つかっている。 弥生時代には海面も「縄文海進」の影響で高く、吉野ケ里も当時は波打ち際にあった。宝満川と筑後川の合流点は、現在は内陸の平野部にあるが、当時は海底にあった。有明海の潮差(干満差)は日本最大の約六メートルである。防波堤がない弥生時代に、標高ゼロの地点でも満潮によって一日に二回、深さ三メートルの海底となった。 博多湾と有明海は、海水が接近していたが、つながっていた形跡はない。現在の博多湾と有明海は、海の生物相も異なっている。しかし、太宰府市付近から北の博多湾へ流れる御笠川と、南の有明海へ流れる宝満川は、弥生時代には太宰府市あたりの分水嶺も低く、上流を取り合ってつながっていた可能性が高い。当時は少人数で運べる川舟で移動したり、川づたいに歩くことができたであろう。現在もこの二つの川は、上流は支流でつながっている。 【4】 「稲作」はいつどこから伝わったか 中国の揚子江中下流域のことを「江南地方」という。そこには江南人が住んでいた。江南人は BC12000年ごろから水田耕作によって「熱帯ジャポニカ米」を栽培して暮らしていたようである。一方、山東半島から遼東半島、朝鮮半島北部の地域には BC 10500年ごろ「温帯ジャポニカ米」が原生していたようである(宮本一夫他, 九州大学リポジトリ 2019年)。驚くべきことに、この地域は、野生のイネの北限よりもはるか北に位置する。朝鮮半島には、そのように世界最古級のイネはあったが、それでも、もっぱらアワやキビなどの雑穀栽培が行われたようである。そのころ日本では、九州北部でも狩猟採集の生活が行われていた。
朝鮮半島には旧石器時代の遺跡が非常に少ない(日本の百分の一くらいしかない)。朝鮮半島は寒冷で、ほとんど無人であったと見られている。それでも、BC 1000年ごろから朝鮮半島には人びとが住み始め、「無文土器」と磨製石器が出始める。そのころ、朝鮮半島に早くも青銅器が流入したようである。
平成十五年(2003年)に、考古学的発掘と「炭素 14年代測定」という科学的な方法によって、紀元前 1000年ごろ朝鮮半島中南部の河川地域で稲作が行われたことが分かった。このことから、我が国の弥生時代の始まりも紀元前 1000年ごろと見なされるようになった。 しかし、九州北部で紀元前九世紀ごろ栽培されたのは揚子江流域の江南地方の「熱帯ジャポニカ米」であったと見られている(九州大学リポジトリ, 2019年)。この熱帯ジャポニカ米は直接九州北部にもち込まれたようである。その後、紀元前五、六世紀ごろに朝鮮半島中南部から「温帯ジャポニカ米」が九州北部にもち込まれた(九州大学リポジトリ, 2019年)。 稲作はその後何世紀もの間、九州北部にとどまった。その間の紀元前四世紀ごろに日本海航路で青森県弘前市の「砂沢水田遺跡」にまで伝わったものもある。しかし、その東北地方でも、350年ごろまで狩猟採集の生活は変わることなく続いた。 なお、揚子江流域の江南人のY染色体の型に弥生人の「O1b2」は見つからない(J. Human Genetics, 2006)。江南人は弥生人ではない。 【5】 我われは、弥生人と話すことはできたか 日本語は、様ざまな言語が交じり合ったものと見られているが、世界の孤立語である(金田一春彦 1913-2004)。日本語は、英語や漢語とは文法的にも根源的に異なっている。それでも、現代日本語はアルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、北東アジアから流入した弥生人「O1b2人」の古代朝鮮語が基盤になっていると見られる。仮に我われがタイムスリップして邪馬臺國に行ったとする。そして、卑彌呼や高官の難升米(なしめ)らと話してみたとする。そこで聞かされる弥生晩期の言葉は、ひどく古めかしい方言のように感じられるかもしれないが、言葉としては通じたのではあるまいか。「いと(伊都)」「しま 島(斯馬)」「やまと (山門)」などの地名・語彙も同じだったであろう。文字のない時代に、後漢からの使者、あるいは、魏からの使者による当時の音写が、音韻学的に正確であったとは限らない。 東北地方・北海道地方には、アイヌ語の地名が多く残されている。アイヌ人の中にY染色体 DNAの型「O1b2」をもつ人はいない。アイヌ人は、縄文人(C1a1人または D1a2a人)の言葉を多く伝えている可能性がある。仮に我われがタイムスリップして縄文時代に行ってみても、言葉は容易には通じなかったであろう。 【6】 「二種の神器」と「航海術」はいつどこから伝わったか 中国でも、他の文明(メソポタミア、インダス、エジプト)と同様に、コムギの文明が発達した。それも世界最大の耕地面積と最大の収穫量を誇った。「中原(ちゅうげん)」の地と呼ばれた。BC 600年ごろ鉄器が使われるようになると更に収穫量が増えた。すると、多くの農民が春秋の覇者となった。それを統一したのが秦の始皇帝(BC 259-BC 210)であった。中原の地には、その後も前漢・後漢などの大帝国が出現した。前漢の武帝(在位 BC 141- BC 87)が中国を統一したころ、揚子江中下流域には、江南人が住んでいた。江南人は稲作を行い、高床式の倉庫に保管し、珍しい銅剣・銅鏡を「二種の神器」として祭祀に用いて暮らしていた。「祖霊神信仰」をもっていた。また、「太陽神話(天岩戸神話の原型)」をもっていた。鯨面分身(顔や身体に入れ墨をすること)をしていた(鳥越憲三郎 2004年)。 揚子江は、現在内陸地の武漢でも川幅が 1~3キロメートルある。流域面積は 180万平方キロメートル(Wikipedia/長江)と、日本の国土の面積(38万平方キロメートル)の五倍に近い。周囲には広大な湖が無数にある。古代から江南人は親戚を訪ねるにも舟であった。江南人は航海術に優れていた。
紀元前 100年ごろ、武帝の政策によって漢人が江南地方に南下した。江南人はそこを追われた。多くの江南人はラオスやタイ北部の山岳地帯に逃れたようである。江南人は、Y染色体の型「O1b1」をもつ人びとではないかと見られる。鳥越憲三郎はそこ(山岳地帯)へ行ってみたが、人びとは見かけも、古代からの暮らしも日本人と少しも変わらなかったと述べている(2004年)。
そのとき、一部の江南人は九州へ航行したようである。弥生時代に大陸から熱帯ジャポニカ米や墳丘墓が直接伝わるなど、以前から多くの渡来人が個々に来ていたことは分かっているが、この紀元前 100年ごろの江南人の渡来は、民族としての渡航であり、「Great Crossing (大渡航)」であったと見られる。朝鮮半島には銅剣・銅鏡を祭祀に用いる風習はないので、江南人は九州に直接渡来したと見られる。江南人は航海術に優れていたが、揚子江河口から九州へのこの航海は、命懸けの「漂流」に近いものだったであろう。 気象庁は、人工衛星や船舶、フロートなどからの情報を用いて海流や風速などのマップを毎日作成して公表している。季節によっては、揚子江河口から九州へ向かう海流があるが、1ノット以下である。風力のほうがはるかに強く、仮に 4ノットの帆船を用いてひたすら東へ航行すると、五日で九州に上陸可能である。 遣唐使の粟田真人(生年不詳-719)のように北へ流されて五島列島に漂着する例はあったが、対馬海峡から日本海へ流されてしまうと多くはそれっきりである。鑑真(668-763)や遣唐使の吉備真備(695-775)のように屋久島に漂着した例もあったが、黒潮に巻き込まれて太平洋に流されてしまうと多くはそれっきりである。江南人は、揚子江河口から多人数で出港したが、無事に九州に上陸できたのは少人数であったと見られる。
江南人は、どこに上陸したのであろうか?
江南人は、「有明海」に漂着した可能性が高いと見られる。有明海から舟で、あるいは、川づたいに歩いて、容易に九州北部に出たであろう。もちろん、長崎県や熊本県、鹿児島県などに上陸した可能性もあるといえばあるが、江南人がその後九州北部に定住したことを見ると、有明海に漂着した可能性が高い。このとき、江南人は、九州北部に丸木舟や筏(いかだ)に替わって「準構造船」を伝えたようである。江南地方では「潜水漁法」や「鵜飼」が行われていたが、これらも日本のその後の漁法となった。 江南人は九州北部に定住すると、航海術を利用して後漢の樂浪郡と交易を始めたようである。日本に初めて青銅器と鉄器が同時に入ってきた。それゆえに、日本には青銅器時代がない。後漢の歴史家・班固(はんこ 32-92)とその妹の歴史家・班昭(はんしょう 45-117)は、『漢書』(前漢のことを書いた歴史書)を編纂し、「地理志・燕地条」に「樂浪郡の海の中に倭人がいる。百餘国に分かれている。季節の贈り物をもってやって来る」と書いた。「樂浪郡」と書かれているので、それは前漢がその南にあった「眞番郡」を失った紀元前一世紀半ば以降のことであろう。
九州北部の少数民族・江南人は、大和王権の祖先となった可能性が高い。それは、たとえば、現在の皇室に「二種の神器」や「祖霊神信仰」「太陽神話」が伝わっているからである。江南人と見られるY染色体の DNA型「O1b1」は現代の日本人男性の約 1パーセントに存在する。
一方、隼人は、揚子江上流域の北部から九州南部へ渡航してきたようである。隼人のY染色体の型は「O-P201」ではないかと見られているが、よくは分かっていない。『大寶律令』(701年)には隼人のことは「異人」と書かれている。当時は言葉も通じなかったようで、朝廷には通訳がいた。隼人も稲作民族であったが、「二種の神器」をもっていない。九州南部で稲作が行われるようになったのは 350年ごろである。九州南部はシラス地帯が多く、稲作に適していなかったからである。隼人は、江南人とは異なり、政権国家を形成することはなかった。 なお、「熊襲(くまそ)」には前後の歴史がなく、民族として実在した痕跡がない。墳墓も発見されていない。熊襲は大和政権から見てこれに恭順しない九州の部族に対する総称であったと見られる。 なお、Y染色体の型「C1a1」は、前記したように、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。この「C1a1」は、日本固有のものであり、朝鮮半島や中国大陸で見つかった例はそれぞれ 2、3例しかない。それゆえに、江南人が樂浪郡と交易を始めるより前は、それまで対馬海峡を渡ることは困難であったと見られる。 【7】 弥生時代にはどのような墓が造られたか
縄文時代は、森羅万象に八百万の神々が宿る。そのような世界であった。貝殻にも精霊が宿っていた。貝殻もゴミではなく神さまであるから生活圏の中に置かれた。そこに貝塚ができた。死んだ人にも精霊が宿っている。遺体も貝塚に置かれた。その後中国の江南地方から「祖霊神信仰」が伝わった。我が国でも墓が造られるようになる。
我が国の大規模な墳墓には二通りあった。「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と「古墳(こふん)」である。この二つは、築造された時代も、工法も明確に異なる。たとえば、秦の始皇帝陵は「墳丘墓」であって「古墳」ではない。 墳丘墓は弥生時代に造られた。墳丘墓は形状に統一性がない。規模もあまり大きくはなかった。円形で直径 15メートル程度までである。方形でも一辺 20メートル程度までである。古い順に「堆築(たいちく)」「層築(そうちく)」「版築(はんちく)」という三つの工法があった。「堆築」は、ただ土を積み上げるだけ。「層築」は、異なる土を層状に締め固める。「版築」は、大規模な木枠を組み、土砂を突き固めた。いずれも中国の江南地方や山東半島などから海を経て九州に直接伝わった(日本土木学会 2012年)。
福岡県みやま市瀬高町山門に「堤(つつみ)」という地区がある。この地区は、東西南北に約二百メートル四方の広さがある。周辺より全体が二、三メートル高い。この地区には周りを囲んで環濠の跡が認められる。弥生時代に環濠集落であったと見られる。そこは、十か所以上の民家の軒先や裏庭に、それぞれ三、四トンから数トンはありそうな巨石が地上に幾つか露出している。みやま市ではこれらを「堤古墳群」と命名しているようである。しかし、これらは明らかに「古墳」ではない。より古い弥生時代の「墳丘墓」の址である。堆築によって土が盛られただけであったために、二千年の風雨によって土が洗い流された結果、巨石が露出したと見られる。なぜ環濠集落の中に幾つもの墳丘墓があるのであろうか? それは、縄文時代からの伝統で、自らの生活圏の中に遺体を葬り、そこに墓を造ったからと見られる。
吉野ヶ里遺跡には、環濠集落の中に「北墳丘墓」(西暦 150年頃)がある。この北墳丘墓は、主要な生活圏からやや離れて造られている。みやま市の「堤古墳群」の墳丘墓群よりも新しいと見られる。北墳丘墓は、大部分が「層築」で造られている。南北約 39メートル、東西約 26メートルの長方形に近く、墳丘墓としては国内最大級である。当初は 4.5メートル以上の高さがあったのかもしれないが、二千年の風雨に浸食されて、今は約 2.5メートルしかない。
古墳は、西暦 290年ごろから築造された。古墳は、統一的な形をもっている。風雨に耐えて長く保存される。たとえば、「円墳」(円形古墳)は、半真球、あるいは、半真球を水平にスライスして二段、あるいは、三段になっているものもある。いずれの段も真球のスライスの一枚としての統一した形をもっている。円墳は弥生時代の円形墳丘墓とは一線を画して形状も築造方法も異なっている。
【8】 伊弉諾尊はいつから皇祖神となったか 『日本書紀』に、履中天皇が淡路島で狩りをしたとき、島の伊弉諾が祝(ほふり 神官)に神託して飼部(うまかいべ)の入れ墨の血の臭いが堪えられないと言ったとある。「秋九月乙酉朔壬寅天皇狩干淡路嶋是日河内飼部等從駕執轡先是飼部之黥皆未差時居嶋伊奘諾神託祝曰不堪血臭矣」(『日本書紀』履中天皇紀) その時代に、伊弉諾は地方豪族が祀る淡路島の「島神(しまがみ)」ではあったが、ことさら皇祖神としての扱いを受けていなかったようである。 伊弉諾尊は、『古事記』(712年)『日本書記』(720年)が編纂された八世紀、あるいは、『帝紀』(『帝皇日繼』 すめらみことのひつぎ)と『舊辭(くじ 旧辞)』(『先代舊辭』 さきのよのふること)が編纂された天武天皇(在位 673-686)の時代に、皇祖神として採用された可能性がある。 『大寶律令』(701年)が完成したころ、日本は過去の豪族政治に訣別し、天皇を中心とする中央集権体制を確立して行こうとする時代であった。大和王権の近隣にある淡路島から阿波、讃岐にかけて何としても豪族に反乱を起こされてはならない。そのような豪族に対する融和策として伊弉諾尊を皇祖神とし、淡路島を国産みの最初の島とした可能性が高い。 「ナギ(禰宜 ねぎ・神官)」「ミーサーサガー(陵 みささぎ)」「トシュウェイグモ(土蜘蛛)」「ミヤツェグ( 造 みやつこ)」「アグダナシ(縣主 あがたぬし)」などはヘブライ語であると見られている。「イザナギ」とは、預言者イザヤ(英語 Isaiah アイゼイア)の神官「ナギ」なのかもしれない。 【9】 天照大神は実在したか 日本人が「天照大神」のことを広く知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)が書かれてからである。「天照大神」は、それまで皇室の中で、また、豪族の間で「記憶の中の存在」として知られ、信じられていたと見られるが、『日本書紀』の編纂のときに神話の中の存在として整理されて記載された。天地開闢の後に「高天原」にいて日本を治めた「天照大神」とは、どのような存在であったのだろうか? また、どこにいたのであろうか?
人には必ず親がいる。しかし、『日本書紀』によれば、現皇室の祖先は、必ずしもそうではない。ということになっている。天照大神には両親(伊弉諾尊 いざなぎのみこと・伊弉冉尊 いざなみのみこと)はいるが、祖父母はいない。伊弉諾尊・伊弉冉尊を含めてそれ以前は神々の世界である。ということになっている。神々の世界と地上の世界とのこの「Great Discontinuity (大分断)」は、BC 100年ごろ揚子江流域から「二種の神器」や「祖霊神信仰」「太陽神話」などをもって命がけで渡来した江南人の「民族」としての「渡航の記憶」であった可能性がある。
『日本書紀』によれば、日本の国土(大八洲 おほやしま)は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、天浮橋(あめのうきはし)に立って創ったことになっている。江南人にとっては、九州に上陸するまでは日本列島自体が存在しなかった。それがこの「国産み」の神話を生み出した可能性がある。 『日本書紀』によれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊は、大八洲を創ると、次に、この国を治めるものとして天照大神を生んだ。「天照大神」は、江南人の男女が九州に上陸して生まれた実在の娘であった可能性がある。そのお姫さまが巫女として太陽神を祀った。そのことが民族としての「祭祀の記憶」として残り「天照大神」の神話を生み出した。もちろん、天照大神は『記紀』に述べられた神話上の存在である。 江南人の上陸地点と見られる筑後の「山門(やまと)國」(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)は、すべての始まりの地であった可能性がある。「山門國」には、そこを「高天原」とする仮説がある(Wikipedia/山門郡)。山の麓の「やまと」や「みなと」の地名は日本各地にあるが、筑後の「山門」が「大和」の語源となった可能性がある。 福岡県みやま市・柳川市(旧山門國)を矢部(やべ)川が流れている。弥生時代に稲作が伝わると、矢部川は山門國の水田を潤した。矢部川の水源は、山門國の女王山(みやま市瀬高町大草)から正確に東の方角にあって約 25キロメートル離れている。そこは、周囲から山水が流れ込む「日向神峡谷(ひゅうがみきょうこく)」である。現在はダムの湖底にある。この地域は、福岡県八女市の南端に位置し、かつて「八女郡矢部村」が存在したところである。
みやま市には、日向神峡谷は天照大神の生誕の地であり、古代に、いつの世も巫女によって太陽神が祀られたとする伝承がある。もちろん、「高天原」は神話上の場所であり、『記紀』に具体的な地理的位置は明示されているわけではない。
『日本書紀』によれば、天照大神の居所には田があった。また神殿もあった。天照大神は、現在は天皇によって行われる「新嘗祭(にいなめさい)」を行い、初穂を奉献していた。天照大神は「太陽神話」に基づいて日の巫女として太陽神を祀っていた可能性が高い。その死後に祖霊神信仰によって自身が太陽神とされた可能性がある。「天岩戸の神話」は、その死のことだったのかもしれない。『日本書紀』で、天照大神の物語が「天岩戸の神話」で終わっているからである。もちろん、「天岩戸の神話」は、天照大神が素戔嗚尊の乱暴狼藉を避けて天岩戸に隠れたことで世界が闇に包まれたという神話上の物語りである。 【10】 茨城県鹿嶋市の地名「高天原」に天照大神はいなかったか 江戸時代まで、皇室と関係する(皇室が毎年勅使を送る)神社は、茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮、三重県の伊勢神宮の三社であった。日本には「高天原」と伝承される地域が福岡県みやま市のほかにも幾つかある。福岡県那珂川市、福岡市東区志賀島、福岡県朝倉市、熊本県阿蘇周辺、宮崎県西諸県郡高原町、宮崎県西臼杵郡高千穂町、岡山県真庭市、滋賀県犬上郡多賀町、奈良県御所市、茨城県鹿嶋市などである。もっとあるのかもしれない。
縄文時代から弥生時代にかけて、寒冷化に伴い、食料が豊かな地域は少しずつ南下した。日本で前方後円墳が最も多いのは千葉県の 685基である。奈良県は 239基、大仙陵古墳(仁德天皇陵)がある大阪府は 182基である。古墳時代に関東は豊かであり、多くの豪族がいたことを示唆している。
鹿島神宮と香取神宮は、利根川を挟んで相対する位置にある。鹿島神宮の神は、海から東一之鳥居のある所に上がって来たという。そこがすべての始まりの地であったという。近くに「高天原」の地名もある。鹿島神宮と、東一之鳥居、香取神宮は、陸上に一直線に並んでいて、東一之鳥居が「日向(ひむか)の鳥居」となっている。この「日向の鳥居」が「日向」の語源かもしれない。ただ、鹿島神宮の近くの「高天原」は、そこに「何か」を示唆する考古学的な痕跡はないようである。 【11】 天照大神は卑彌呼と同一人物か 卑彌呼は女性であったが、天照大神も一般には女性であると考えられている。卑彌呼は倭國の祭祀権をもつ女王であり、天照大神は神道の中心的女神である。天照大神が太陽神であるのに対して、卑彌呼も日の巫女と考えられている。卑彌呼が生涯独身であったのに対して、天照大神にも夫はいないことになっている。卑彌呼には弟がいたが、素戔嗚尊は天照大神の弟であった。卑彌呼が倭國の都と定めた邪馬臺國と大和國とは音が似ている。これらのことから、卑彌呼が天照大神の人間としての姿であり、神格化されて天照大神として祀られたとする仮説(天照大神・卑彌呼同一人物説)が提唱されたことがある。また、その仮説は発展して、西暦 247年に卑彌呼が死去したことが天照大神の天の岩屋こもりであり、十三歳の臺輿が即位したことが天照大神の天の岩屋からの再来であるという話しまであった。一方で、大和王権は何としても「和」の中から生まれたのだ。卑彌呼の女王國・倭國が何としても「そのまま」大和王権になったのだ。そのような「信仰」ともいえるものが現在も存在している。その信仰が「天照大神・卑彌呼同一人物説」に拍車をかけたようである。ある人物は別のところで別名を名乗っているが、実はこの二人は同一人物であるといった話しは、面白いのでドラマになる。たとえば、我が国にはかつて「義經成吉思汗(よしつねジンギスカン)説」という風説があった。それはいわゆる「判官(ほうがん)びいき」によって、源九郎判官義經(1159-1189)が大陸に渡って成吉思汗(チンギス・ハーン 1162-1227)になったというものであった。林羅山(1583-1657)がその著書『本朝通鑑』の中で、新井白石(1657-1725)が『讀史餘論』の中で、德川光圀(1628-1701)が『大日本史』の中で、F. シーボルト(1796-1866)が『日本』の中でそれぞれ記述した。当時の日本にこれ以上の知識陣はいなかった。しかし、当のモンゴルに「義經渡來傳説」は存在しない。チンギス・ハーンは、当時日本でいえば鎌倉時代の人物であり、モンゴルの正史の『元史』『元朝祕史』『集史』などに、父親・也速該(イェスゲイ 1133-1170)と母親・訶額侖(ホエルン 1142-1221)の子・鐵木眞(テムジン)として出生したことが記録されている。民間にも「義經渡來傳説」はなく、伝承の痕跡さえもない。したがって、「義經成吉思汗説」は明らかに偽説である。現在は完全に否定されている。 歴史上のある人物が伝説化して別の名称で呼ばれることはある。ガウタマ・シッダールタは「仏陀」と呼ばれるようになった。ジャンヌ・ダルクは「オルレアンの少女」、バッハは「音楽の父」であった。「神童」といえばモーツァルトか天草四郎。「戦場の天使」といえばナイチンゲールであった。このような同一人物説は、人びとがその人物・業績などに尊敬を込めて呼ぶようになったものであろう。しかし、歴史上の人物と神話上の人物などを安易に結びつけて、それらが同一人物だったとして一番乗りを競うといった話しは面白いが、いただけない。 天照大神は神々の世界の存在である。天皇家の始祖であり、太陽神である。一方、卑彌呼は『魏志倭人傳』にも記された実在する人物である。この二人は、同一人物ではあり得ない。 これまで「数理考古学」などと称して、天照大神は卑彌呼と同一人物であるとする大きな仮説が立てられたことがある。 たとえば、心理学者・歴史学者の安本美典らは、次のように主張した。 「史実として記録がはっきりしている第三十一代用明天皇(在位 585-587)から古代最後の第七十四代鳥羽天皇(在位1107-1123)までの平均在位年数は「11.8年」である。天照大神が神武天皇の五代前であるとすると、天照大神は西暦 183年前後に日本を治めていたことになる。標準偏差(数値の前後のばらつき)を考えると105年から 261年までの間に活動していたことになる。すると、卑彌呼が即位した 182年すぎから死去した 247年までがこれにすっぽり入るので、卑彌呼は天照大神である」 その話しは、以下のように幾つかの点で間違っている。
【12】 日本列島最初の「王国」はどこにあったか
福岡市の福岡空港の南にある「板付(いたづけ)遺跡」は、弥生時代最古の遺跡のひとつと見られている。ここは、佐賀県唐津市の「菜畑(なばたけ)遺跡」に次ぐ、最初期の水稲耕作遺跡である。また、福岡県糟屋郡粕屋町の「江辻遺跡」に次ぐ、日本最初期の環濠集落である。板付遺跡からは、縄文晩期(BC 1500-BC 1000)の土器も多く発掘されている。ただし、この板付遺跡は、生活グループの址とは見られるが、王国の址であったことを示唆する痕跡はない。
福岡県古賀市(旧糟屋郡古賀町)の「馬渡(うまわたり)・束ヶ浦(そくがうら)遺跡」からは、王墓と見られる甕棺の中から細型銅剣二本、銅戈一本、銅矛二本が出土した。この遺跡は、紀元前一世紀半ばのものである。朝鮮半島に銅剣を副葬品として埋葬する風習はない。それは日本独自のものである。この地域には、日本で最初の王国が存在した可能性が高い。 福岡市西区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」からは紀元前一世紀後半の王墓と見られるものが発掘されている。特に三号木棺墓からは、中国遼寧省の「多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡」一面を含む細形銅剣二本・細形銅矛一本・細形銅戈一本・勾玉一個・管玉九十五個が出土している。ここからは「銅剣」「銅鏡」「勾玉」の組み合わせが日本で最初に出土した。 福岡県春日市の「須玖岡本(すくおかもと)遺跡」の巨石墓は、紀元前後ごろの奴國の王墓ではないかと見られ、三十面の銅鏡が出土した。一世紀半ばごろの奴國は強大であり、筑前國の旧那珂郡・旧早良郡あたりを支配していたと見られる。 九州北部に王国として勃興したこれらの国々は、江南人の国々であったと見られる。航海術を利用して前漢(樂浪郡)と交易を行ったようである。それによって、当時九州北部は急速に豊かになっている。『漢書・地理誌』は、前記したように、そこに住む江南人を「倭人」と呼んだ。「百餘國に分かれている」と書いた。この「百餘國」とは、百國を「単位」として書かれている。「一國」を単位として書かれているわけではないので、百国余りであったとはいえない。たとえば事実が「三十國」しかなくても、記録としては「ゼロ國」か「百餘國」の二択しかないからである。 そのころ、九州北部に王国群を支配する「すめらみこと」(天皇)は出現しなかった。しかし、世代は交替していった。 伊都國(福岡県糸島市)、一支國、對島國は、これらの国々に交易路を提供した。その中で、伊都國王は新羅系の人物であると見られる。その根拠は『肥前國風土記・逸文』によれば、自らについて「高麗(こま)の國の意呂山(おろさん 韓国蔚山広域市)に天降りし日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手(いとで)是なり」と名乗った。天日槍は、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時代の新羅王子である。五十跡手が日桙の直系の子孫であったかどうかは分からないが、新羅人だったのではないかと推定される。
西暦 57年に九州北岸の「委奴國」の王は、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢して「漢委奴國王」の金印をもらった。金印が福岡藩の志賀島で発見されたとき、この金印は最初は何なのか分からなかったが、『後漢書』に「倭奴國」の金印のことが書かれていた(建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬『後漢書』東夷傳)。このことから「倭人の奴の國」が正しいのだろうと推測することが、この金印の文字を解釈する上で、重要な役割を果たしてきた。
金印には「倭奴國」ではなく「委奴國」と刻まれている。南朝宋の時代に、范曄(398-445)はその実物(金印)を「見ない」で『後漢書』(440年)を書いた。仮に「委という奴」の国王に金印を授けたのであると、それは伊都國王であった可能性がある。また、「委と奴」の連合国の王に授けたのではないか、という疑義もある。 当時の漢の倭人に対する認識は、倭人は、対馬海峡を内海として、朝鮮半島南岸と九州北岸に同じような言葉を話す人びとが住んでいるというものであった。その南端、すなわち、九州北岸が「極南界」である。朝貢は、そこからということだったのであろう。 【13】 神武天皇は実在したか
稲作は、九州北部に伝わっても、数世紀の間、そこにとどまった。縄文人はなお狩猟採集の生活を続けた。弥生人はなお雑穀栽培の生活を続けた。稲作はあまり行われなかった。それは、稲作が計画性を要する重労働であったからではないか。そのような中で、いちはやく稲作を行って見せたのは BC 100年ごろ渡来した江南人であったと推定される。それは、江南人がもともと稲作民族だったからである。稲作は、その後少しずつ西日本に広がった。稲作とは、狩猟採集をして暮らす縄文人の地域に「侵攻」して土地を「収奪」して行う仕事であった。それが稲作であった。それによって、狩猟採集を中心とする生活から、稲作を中心とする生活に切り変わっていく。その「稲作」の最前線が近畿地方を通過したのは「紀元前 50年ごろ」であったと見られている。
『日本書紀』によれば、神武天皇は東大阪市を航行して生駒山麓の河内國草香邑(東大阪市日下町)の靑雲の白肩之津に接岸した(三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河内國草香邑靑雲白肩之津)。
可能性として、BC 50年ごろ天照大神から数えて六代目にあたるという「いはれびこ」が、崗國(をかのくに 福岡県遠賀郡)を発ち、稲作に適した土地を求めて瀬戸内海沿岸から遠く近畿地方にまで侵攻した。そのころはまだ「縄文海進」によって海面が高く、東大阪市を航行して生駒山麓に接岸できた。そこで稲作をして暮らすには、土地を収奪しなければならなかった。「ながすねひこ」などの抵抗勢力と戦った。その「戦いの記憶」が九州北部の王国群の間で民族としての英雄「いわれびこ」の東征神話を生み出した可能性がある。「いはれびこ」が畝傍山麓で初代天皇に即位したことを示唆する考古学的痕跡はない。 【14】 神武天皇は、なぜ紀元前 660年に即位したことにされたか 『日本書紀』に、初代神武天皇は百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上経ったことになっている。『魏志倭人傳』(285年)に「魏略に曰く、倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている(魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀)。これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が『魏略』を見て、注釈として挿入したと見られている。『日本書紀』の編纂プロジェクトもこの『魏志倭人傳』を読んでいた。仮に、古代に「春秋二倍暦」を用いて、現在の一年を「二年」と数えていたのなら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも可能であったことになる。『古事記』もこの「春秋二倍暦」を用いて書かれた可能性が高く、神武天皇は百三十七歳で崩御したことになっている。それは、そもそも、『帝紀』と『舊辭』といって、西暦 681年ごろ天武天皇(在位 673-686)が編纂させた史書にそのように書かれていたと見られる。読み書きできる人が少ない中で、『帝紀』『舊辭』の編纂プロジェクトの中に、ユダヤ人の史(ふひと 読み書きができる役人)がいた可能性もある。古代イスラエルには(現在も)春の正月とは別に秋の正月(ローシュ・ハシャナ)があった。モーゼは「出エジプト」のとき八十歳であった。カナンの地にたどり着いたとき百二十歳であったという。 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は千二百六十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 「紀元前 660年」とは、聖德太子(574-622)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位した。ということになった。舎人親王以下『日本書紀』の編纂プロジェクトは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の大前提として編纂したのに相違ない。 【15】 神武天皇から崇神天皇までは「闕史(けつし)八代」のみか 『日本書紀』によれば、神功皇后は摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した。本居宣長(1730-1801)は、この派遣の年は百濟史との対比から正確に「干支二巡」(120年)繰り上げて書かれており、本当は「西暦 366年」であると推定した。すると、翌摂政四十七年(西暦 367年)に百濟から使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅の調(みつき)の使いも一緒に来た。神功皇后と譽田別尊(第十五代應神天皇)は喜んで「先王が所望したまいし國人(くにびと)、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた。この「西暦 367年」が第十四代仲哀天皇崩御の年であると推定される。前年の摂政四十六年(366年)は、仲哀天皇の在位期間中であるから、卓淳國に使者を派遣したのは神功皇后ではなく、在位中の仲哀天皇であったことになる。「先王が所望したまいし」も、そのことと整合するようである。そこで、筆者らは、前記の仲哀天皇崩御の年と推定される「367年」を起点として『日本書紀』を「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」に変換して積み上げ、初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年を推定した。結果は、神武即位は BC 60年となった(入口紀男『邪馬臺國』自由塾 2022年)。 『日本書紀』が「春秋二倍暦」からどの天皇の代で「正歳四節暦」へ移行して編纂されたと見るかによっても、あるいは、『古事記』を反映するかどうかによっても、結果に数年の誤差が生じる。長浜浩明は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(展転社 2012年)の中で、神武即位を「BC 70年」と推定した。また、牧村健志は 『よみがえる神武天皇』(PHP研究所 2016年)の中で、神武即位を「BC 37年」と推定した。 いずれの推定も、『日本書紀』は、古代の天皇については「春秋二倍暦」が用いられていると推定する一方で、『日本書紀』の通りに初代神武天皇から第十代崇神天皇までは「闕史八代のみ」と推定している。その推定に、根源的な「ダブル・スタンダード(二重基準)」があった。
図は、『日本書紀』に依拠して各天皇の即位年を黒丸●印で表したものである。タテ軸は黒字で初代から古代最古の天皇・第七十四代鳥羽天皇まで並んでいる。青字の数字は天照大神を初代とするもので、その鳥羽天皇は第 100代というわけである。ヨコ軸は西暦年である。たとえば、『日本書紀』に書かれる初代神武天皇の即位年は BC 660年のところに上から最初の黒丸●印で示している。次に第二代綏靖(すいぜい)天皇と続く。初代神武天皇の在位期間から仁德天皇の在位期間まで、わずか十六代で 1,000年以上を経た。そのようなことになっている。 「白〇印」は、『日本書紀』では初期の天皇が「春秋二倍暦」(春と秋に正月がある暦法)を用いて書かれていると推定して「二分の一」をかけて表したものである。すると、初代天皇の即位が BC 50年ごろとなり、それなら「縄文海進」によって生駒山麓に接岸することも可能であったということになる。しかし、図の「白〇印」の曲線を見ると、なお初期の天皇の在位期間は長く、人間の世界で起きたこととしてはどうも「不自然」ではないかと感じられる。 第十七代履中天皇から第七十四代鳥羽天皇までの天皇の即位年は、図の一本の青い直線上におよそ乗って(重なって)いる。この青い線は、正確には多項式の曲線で近似すべきものであるが、ここでは、直線で表している。それでも、この即位年と青い直線との相関は非常に高く(相関係数が「1.00」に非常に近く)、この高い相関が偶然に起きる確率はほとんどゼロである。 「青●印」は、初期の天皇の即位年などを、単にその青い直線の上に乗せてみたものである。「青●印」で見る限り、「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)は、時期的に見て西暦 200年ごろ吉備で即位したと見られる。九州北部にいたころから民族としての東征神話の記憶に残る英雄「いはれびこ」に「見立て」て讃えられた可能性は高い。その後も、吉備王朝に「闕史八代」の天皇が次つぎと出現して人びとの記憶に残ったと見られる。 図では、この直線を、BC 100年あたりまで延長して描いている。BC 100年すぎに即位した天皇を「天照大神」としている。その六代目を東征神話の「いはれびこ」としている。 天照大神は、日向神(ひゅうがみ)峡谷(福岡県八女市矢部村)の初代の日の巫女であった可能性がある。卑彌呼は、日向神峡谷の日の巫女であったが、倭國の女王(在位 182年すぎ-247年)として山門國女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)に迎えられた可能性がある(元西鉄職員・郷土史家の村山健治 1915-1988 説)。その後継者の「臺輿」も日向神峡谷の日の巫女であったと見られる。いつの世にもおられる日の巫女は、「八女津媛」(やめつひめ・多世代の女神)と呼ばれた。 ここでは既知のデータに基づいて、そのデータの範囲を超えた部分の数値を推測する「外挿(extrapolation)」を行っている。外挿によって「何か」が示唆されても、その「何か」が事実として証明されたことにはならない。しかし、これまで想定し得なかった「何か」が示唆されることがある。外挿を利用するには、それを科学的に様ざまな面から検証することによって、事実に近づけていくという努力が必要となる。
2020年にケンブリッジ大学が公表した炭素 14年代測定の較正曲線「IntCal20」に照らして、西暦 280年以前の奈良盆地には、環濠集落などの生活グループはあったが、何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的痕跡はなく、それは皆無である。 【16】 大和王権の祖先はなぜいつどこから東遷したか 大和王権の祖先は、前記したように「九州北部」の人びとであった可能性が高い。九州北部では、江南地方の「二種の神器」(銅剣・銅鏡)に、縄文時代から流通していた翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)が加わって「三種の神器」となった。また、江南地方の「祖霊神信仰」も行われるようになった。紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけて実戦には使えない「平型銅剣」が出ている。これは、銅剣が早くから祭祀用に用いられていたことを物語る。朝鮮半島では銅剣が祭祀の道具として用いられた形跡はない。では、大和王権の人びとは、九州北部の「どこ」にいたのであろうか? 福岡県古賀市の「馬渡・束ヶ浦遺跡」、福岡市西区の「吉武高木遺跡」、福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」など日本最初期の王国群を擁した、福岡市あたりから遠賀川の流域のあたりの人びとが、大和王権の祖先であった可能性が高い。すなわち、旧早良郡、旧那珂郡、旧糟屋郡、旧鞍手郡、旧遠賀郡、旧田河郡など、「筑前國北岸」の人びとである。 古代神話の中で、海の神の地位は高い。ギリシャ神話の海神・ポセイドンも最高神・ゼウスに次ぐ圧倒的な強さをもっている。神話ではあるが、『日本書紀』に出てくる「海神(わたつみ)」も、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子である。また、これも神話であるが、神武天皇は海神の娘・豐玉媛(とよたまひめ)の孫である。それゆえに、「海神」は皇祖神とされる。この「海神」は、福岡市東区の「志賀海神社」を全国の総本社として祀(まつ)られている。安曇連(あづみのむらじ)が祭祀を務めたようである。 また、これも神話であるが、住吉(すみのゑ)神も、伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきがはら)で禊(みそぎ)をしたときに生まれたとされる海の神である。『筑前國住吉大明神御縁起』では、福岡市博多区の「住吉神社」が全国のすべての住吉信仰のそもそもの始まりとされている。大阪市の住吉大社(すみのゑのおほやしろ)の『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも、この筑紫大神が住吉信仰の始源であるとされている。
大和王権の祖先は、筑前國北岸に日本最初期の王国群を残すなど、繫栄していた。その祖先が、なぜ東遷を始めたのであろうか?
福岡平野のすぐ西の伊都國は「縄文海進」によって海面が高く、糸島平野は海底にあった。隣の斯馬(しま)國は本当の島であった。耕作は、ままならなかった。しかし、伊都國は後漢(樂浪郡)との交易権を実質的に独占していた可能性がある。鉄製の農具は作物の収穫量を飛躍的に増大させた。鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化した。 西暦 100年ごろ、伊都國王は支配権を拡大するために、伊都國のすぐ東の大和王権の祖先が暮らす奴國、不彌國(当時の国名がこの通りであったかは分からないが)などに侵攻したと見られる。これが、大和王権の祖先がそこから瀬戸内海方面へ東遷(流落)した時機と原因であったと見られる。 大和王権の祖先は、宇佐國を経て瀬戸内海沿岸へ向かった。また、出雲王國の祖先は、宗像國から日本海方面へ向かった。一方、對馬國、一支國は、伊都國王に服属した。奴國、不彌國などには、東進に取り残された人びとがいて、伊都國王に服属した。 宇佐國は、その後大和王権の瀬戸内海交易の拠点となった。宗像國は、その後出雲王國の大陸交易の拠点となったが、出雲王國が大和王権に服属してからは、大和王権の大陸との交易拠点となる。 【17】 日本列島最初の「連合王国」はどこにあったか 後漢の永初元年(西暦 107年)に「倭國王・帥升(すいしょう)ら」が、第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した。そのとき百六十人もの生口(奴隷)を献上した。この帥升のことは、『後漢書』を見て書かれたと思われる、太宰府天満宮の『翰苑』写本(国宝)には「倭面上國王」と書かれている。北宋版『通典』には「倭面土國王」と書かれている。その少なくとも一方は誤写であろう。『後漢書』のその後の新しい写本に、その二文字はない。歴史学者・白鳥庫吉(1865-1942)は、その失われた二文字を「回土(えと)」として伊都國王のことであるとした。筆者は、その二文字を「百土(をと)」として、同じく伊都國王のことであると見ている。ただし、『後漢書』には最初から「倭國王」と書かれていたのかもしれない。北宋版『通典』、あるいは、『翰苑』が書かれるとき、『後漢書』とは別に「倭面土國王」とする第三の資料が残っていたのかもしれない。今となっては分からないが、帥升は伊都國王であったと見られる。
鉄器の輸入によって兵力をつけた伊都國王は、對馬國・一支國・奴國・不彌國などを支配し、これらの国々に「ひなもり(卑奴母離)」(「さきもり」のようなもの)という武官を派遣したと見られる。これが日本で最初の連合王国「倭國」であろう。伊都國がその盟主国であり、首都国であった。この倭國には斯馬國なども属していたであろう。後漢に対する朝貢は、日本列島最初の連合王国を樹立した帥升の「お披露目」であった可能性がある。そのころ伊都國の人口は、これら属国の人口をすべて含めると、「一万戸」を単位として「戸万餘」であったので、その実数は分からない。その記録が何らかの形で宮廷に残った可能性がある。
糸島市の「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡」や「平原(ひらばる)遺跡」は、二世紀末の伊都國王の墓と見られている。三雲南小路遺跡の甕棺墓からは、中国製の銅鏡三十枚が出土した。平原遺跡には、五つの墳丘墓跡がある。一号墓だけは復元されている。十四メートル×十二メートルの方形周溝墓である。それは、副葬品から判断して女性の墓であり、伊都國の女王または巫女(みこ)の墓ではないかと見られている。この一号墓から四十面の銅鏡が出土した。その中には大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう 内行花文八葉鏡)が破損した形で五枚あった。なぜ破壊されて出土したのかは分かっていない。この銅鏡は直径が 46.5センチメートルあって、これは漢の時代の「二尺」である。この直径では周囲が「八咫(やた)」の寸法(親指と中指を拡げた長さの八倍)である。三種の神器の「八咫鏡」(伊勢神宮)は、諸説はあるが、伊都國の五枚と合わせて六枚あったうちの一枚だったのかもしれない。「内行花文八葉鏡」のうち四面は伊都国歴史博物館に、また一面は九州国立博物館に収蔵・展示されている。
二世紀末に伊都國が山門國の支配下に入ってからは、伊都國では、あまり大きな墓は作られなくなる。これは、交易を独占できなくなって衰退したからではないかと見られる。 【18】 卑彌呼の女王國が出現する以前の日本列島に王国は幾つあったか 江南地方の「二種の神器」と「祖霊神信仰」をもち、西暦 100年ごろに宗像國を発って日本海方面へ向かったと見られる一族は、その後どうなったのであろうか? また、大和王権の祖先として西暦 100年ごろに九州北部を発ち、宇佐國を経て瀬戸内海方面へ向かったと見られる一族は、その後どうなったのであろうか?
毎年十月(神無月)に全国の八百万(やほよろづ)の神々は、出雲の「神奈備山(かんなびやま)」に集まる。島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)の「荒神谷(こうじんだに)遺跡」は、西暦 150年ごろに出雲に王国が存在したことを示唆している。荒神谷はその「神奈備山」の麓にある。荒神谷から出土した「358本」の整然と並んだ銅剣は、358人の豪族がいて、そこに何らかの祭祀を行う宗教国家が存在したことを物語る。『延喜式神名帳』は、『延喜式』(927年)の巻九・巻十のことであるが、当時「官社(式内宮)」に指定されていた全国の神社の一覧である。そこに掲載された出雲地方の式内宮は「358社」である。これは偶然の一致かもしれない。
出雲市大津町の「西谷(にしだに)墳丘墓群」は、32基のうち 6基は「四隅突出型墳丘墓」である。「四隅突出型」は出雲特有の形である。西谷二号墳丘墓は、約二十四メートル × 約三十六メートルの方形である。高さは約四メートル。突出部を含めると約五十メートルである。出雲には、安来市に「塩津墳丘墓群」もある。出雲氏の墳丘墓群であろうと見られている。塩津一号墳丘墓は約二十五メートル × 約二十メートルの方形で四隅突出型墳丘墓である。
西暦 180年ごろに、岡山平野に「吉備王國」が繫栄した。九州北部から流落した一族は、宇佐國、安藝國を経てこの吉備に到ったようである。
西暦 200年前後に吉備に「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)とされる大王が出現したと見られる。大王は、古代の東征神話の英雄「いはれびこ」に見立てて讃えられた。吉備王朝に、後世に「闕史八代」とされる「すめらみこと」(天皇)が次つぎと出現する。その「記憶」は、吉備王國から纏向にもちこまれる。
「楯築(たてつき)墳丘墓」(岡山県倉敷市)は、直径約四十メートル、高さ約五メートルの墳丘墓である。墳丘墓としては日本最大級である。前後に、二十メートル余りの突出部がついていて、これは「280-310年」に纏向で築造される最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」の原型と見られている。埋葬された木棺の底には三十キログラム余りの水銀朱が敷き詰められていた。 讃岐・阿波は、瀬戸内海を隔てて吉備王國と同族の文化圏にあったようである。弥生時代の多くの墳丘墓が残されている。兵庫県淡路市の伊弉諾神宮は、式内明神大社として伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱を祀る。徳島県美馬市の伊射奈美神社は式内小社であるが伊弉冉尊を祀る。伊弉諾尊・伊弉冉尊の「Great Crossing(大渡航)」の時代からの民族としての記憶をもつ豪族が多かったようである。八世紀の『記紀』にも、国生みで最初に淡路島ができるなど、その豪族の力が反映されていると見てよい。 吉備王國にとって間近な脅威は出雲王國であった。それが、280年ごろから吉備王國がさらに纏向へ東進する原因であったと見られる。出雲が神話の約三分の一を占めているのはそのためであろう。 西暦 280年以前に、奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的痕跡はない。それは、この段階では皆無である。 【19】 日本最初の邪馬臺國畿内説は誰が提唱したか 魏の皇帝から「親魏」という破格の高い称号をもらったのは、インドのクシャーナ朝の国王(仏教を奨励したカニシカ王の孫)と卑彌呼の二人だけであった。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に「属国ではない」と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉であった。大和王権(『日本書紀』編纂の国家プロジェクト)としては、それを何としても許すことができない。日本最初の「邪馬臺國畿内説」は奈良時代の『日本書紀』(720年)の中に見られる。それは、神功皇后を卑彌呼と見なして、魏の景初三年(239年)に倭國の女王が魏の明帝に難斗米(なしめ)を朝貢させ、皇帝から印綬を授与されたとするものであった。すると邪馬臺國は神功皇后が都と定める大和にあったことになる。 「卅九年是年也太歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也。卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」(日本書紀・神功皇后紀) また、神功皇后を卑彌呼の後継者・臺與(とよ 235-没年不詳)と見なして魏の後継国・晉の泰初二年(266年)に武帝に朝貢したとするものであった。 「六十六年是年晉武帝泰初二年晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻」(日本書紀・神功皇后紀) 『日本書紀』編纂の国家プロジェクトは、神功皇后が在位したとする期間を正確に「干支二巡」(120年)繰り上げることによって卑彌呼(169頃-247)と臺輿(235-没年不詳)の業績を神功皇后のものとして召し上げた。 【20】 「纏向(まきむく)遺跡」は、卑彌呼の「倭國」の遺跡か 奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的な「最古」の遺跡は「纏向遺跡」である。纒向遺跡は、JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅を中心に、その規模は東西約 2キロメートル・南北約 1.5キロメートル。その面積は約九十万坪に及ぶ。纏向遺跡はもともと小規模なものと見られていたが、2009年から大規模な建物址が発掘されるようになった。そこには、柵や砦で囲まれた「宮殿址」らしいものがあることが明らかになっている。『記紀』には、第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇が纏向にそれぞれ宮殿を造営したと書かれている。 「遷都於磯城是謂瑞籬宮(みづかきのみや)」(日本書紀・崇神天皇) 「坐師木水垣宮」(古事記・崇神天皇) 「更都於纒向是謂珠城宮(たまきのみや)也」(日本書紀・垂仁天皇) 「坐師木玉垣宮」(古事記・垂仁天皇) 「更都於纒向是謂日代宮(ひしろのみや)」(日本書紀・景行天皇) 「坐纒向之日代宮」(古事記・景行天皇) 奈良県桜井市に「磯城瑞籬宮伝承地」は存在するが、『記紀』の記述を比較して見ると崇神天皇の磯城も纏向のことであったようである。 「炭素 14年代測定法」は、科学的に正確な年代測定法である。植物は、太陽光線の下で大気中の炭酸ガスを吸って光合成を行っている。動物はその植物を食べて生きている。自然界に存在する炭素「C」は原子番号「6」であり、原子核の中に陽子(ようし) 6個と中性子 6個がある。また、周囲を陽子の数と同じ 6個の電子が回っている。この炭素は、陽子の数と中性子の数を合わせて「C-12」(炭素 12)と呼ばれる。我われの体重の約二割がこの「C-12」である。ところが、この炭素「C」の中に 0.00000000012パーセントの割合で「C-14」といって陽子 6個と中性子 8個のものが存在する。これは放射性元素である。人も動植物も、体内の「C-14」から周囲にわずかに放射線を放っている。「C-14」の放射線の半減期は「約 5,370年」である。それゆえに、5,370年前の動植物の炭素「C-14」は、放出される放射線量が半分である。これによって、古代の地層などから発掘された動植物が何千年前の動植物であるかが分かる。これが「炭素 14年代測定法」である。1950年を基準として「BP(before present)」で表される。 炭素 14年代測定法は、大気中の放射性元素「C-14」の濃度がいつの時代も一定であるという前提に立っている。しかし、大気中の「C-14」の濃度は時代と共に変動している。そこで、世界中から古代の樹木を集めて、当時の大気中の「C-14」の濃度を推定する作業が進められている。 2020年にケンブリッジ大学から古代の大気中の「C-14」の濃度を反映した、炭素 14年代測定の更正曲線「IntCal20」が発表された。日本の古代の木材も使用されている。
纏向で十二個のモモの核が見つかっている。「IntCal20」に照らすと、その実年代は、「220-260年」あるいは「290-340年」である。この結果は、2013年の「Intcal13」と比較すると、纏向遺跡の年代が以前考えられていたよりも、およそ 100年近く新しくなったことになる。日本の古代史観は、これによって大きく変わることになった。
通常、炭素 14年代測定の結果が「一意」に定まらないということは、古代に起きた事実としてはあり得ない。今後さらに精査が進むことによって、纏向遺跡の実年代は、「290-340年」となる可能性が高い。その根拠は、纏向で最初に築造されたと見られる日本最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」の築造年が「IntCal20」に照らして「280-310年」と見られること、「箸塚古墳」もその築造年が「IntCal20」に照らして「295-315年」と見られるなど、纏向に王権が存在したとすれば、「290-340年」であったことが強く示唆されるからである。 八世紀に書かれた『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)は、二十一世紀になって纏向で大規模な宮殿址が発掘されようとは知らないで書かれているわけであるから、これを常識的に見ると、纏向の宮殿址は、やはり第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の宮殿址であろう。その纏向遺跡が 290年以降のものである可能性が高いことが分かったわけであるが、それ以前の奈良盆地には、何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はなく、それは皆無である。 纏向遺跡は、卑彌呼の在位期間「182年すぎ-247年」より約 100年新しいので、卑彌呼の「倭國」の遺跡ではない。 【21】 現在の「箸塚古墳」(築造 295-315年)は、誰の墓か 『日本書紀』(720年)に第十代崇神天皇は倭迹迹日姫命(やまとととびひめのみこと)を大市の箸墓に葬ったとある。宮内庁は、これを現在の「箸塚古墳」(大市墓)としている。『魏志倭人傳』に卑彌呼の墓は径(さしわたし)百餘歩と書かれている。卑彌呼が死去した 247年は、まだ弥生時代であった。当時は「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)はあったが、箸墓古墳のような完成した「前方後円墳」はなかった。それでも「箸墓古墳」は、よくよく考えてみると「後円部」が丸いではないかという発想のもとに、これを何としても卑彌呼の墓ではないかという「使命感」をもって調査が行われた。
畿内で最初に現れる古墳は「纏向石塚古墳」(全長約96メートル)である。その築造は前記したようにケンブリッジ大学の「IntCal20」に照らして「280-310年」であったと見られる。纏向にはこのほか、纏向勝山古墳(115メートル・290-320年)・纏向矢塚古墳(96メートル・290-320年)・箸塚古墳(278メートル・295-315年)などがある。このうち、箸塚古墳が纏向型古墳としての完成形であると見られている。筆者はこの箸塚古墳を崇神天皇の墓ではないかと見ている。「箸塚古墳」(295-315年)は、時代も異なるので、卑彌呼(在位 182すぎ-247)の墓ではない。
『日本書紀』には崇神天皇が葬った倭迹迹日姫命の墓は大市にあると書かれているわけであるが、「大市」とは固有名詞ではない。各地に市場が大いに立っていたが、そのひとつという意味である。それゆえに、「纏向石塚古墳」が大市墓でもあり得るし、纏向勝山古墳が大市墓でもあり得る。 第二章 【22】 中国で歴史上の事実はどのように記録されたか 殷(いん)の宮廷では、一直線上を静かにすり足のように歩いたようである。先ず右足のつま先に左足のかかとをつけた。次に右足をゆっくりと動かして左足のつま先に右足のかかとをつけた。すると、一歩はおよそ 0.25メートルであった。これが殷の時代の「歩」であった。殷ではその三百倍(約 75メートル)を「里」とした。里は、一辺が約 75メートルの「面積」であった。春秋・戦国時代を経て、秦・漢の時代に「歩」は約 1.38メートルとなった。「里」は三百歩で、約 414メートルの「距離」となった。これは「長里」と呼ばれる。それに対して殷の時代の約 75メートルは「短里」と呼ばれる。
漢の時代に、国土(天下)は「方一万里」、すなわち、一辺が約 4,140キロメートルの「正方形」と考えられた(添付図 渡邉義浩 中公新書 2012年より転載)。この「方一万里」は実測値ではなく、「理念」の距離であった。それでも、皇帝によって承認された「正式」な国土の形と大きさであった。また、北方に「一万里」の長城を築くことによって北荻の侵入は防ぐことができると考えられた。
漢の周辺には多くの周辺民族がいた。皇帝の徳は、朝貢する国が遠方の大国であればあるほど高いと考えられた。 春秋時代から行われていた「露布の習わし」によれば、北へ百里行って敵を百人殺した場合に、「北へ千里行って敵を千人殺した」と報告しても、褒められこそすれ咎められることはなかった。 漢の時代でも「方角」は重要であった。特に「南」は重要な方角であった。人に物を教えることを「指南する」と言った。歴代皇帝は「南」を向いて座った。国土の「方一万里」の正方形も、正確に東西南北を向いていた。方角を間違って報告すると、報告者は信を失った。 方角と距離は、高い場所から全体を見渡すための「地図情報」ではなく、陸路や海路を進む者が実際に目的地にたどり着けるようにするための具体的な「行動指示」の内容であった。 距離がいったん報告されると、訂正されることはなかった。その理由は、先の報告を信じた皇帝の体面を汚す必要もなかったからである。 皇帝の指令である「制(せい)」や「詔(しょう)」は、皇帝が代わっても、あるいは、王朝が替わっても、史官がそれに手を加えることはなく、大切に保管された。 過去の報告書などに「注釈」を添えることが行われた。それは、内容を削除することなく、書き添えるだけであったので、改ざんというわけではなかった。「注釈」は歴史家によって読者のために行われたり、将軍によって皇帝に正式に報告するために行われたりした。 【23】 後漢は樂浪郡から末盧國までの距離「一万餘里」をいつ知ったか 西暦 57年に「委奴國王」は、前記したように、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢した。「金印紫綬」(漢委奴國王印)は、その場では拵(こしら)えられない。しばらく経って、後漢使が皇帝の「詔書」と「金印紫綬」を委奴國王に届けに来た。それは特使として属国監察を兼ねていた。この「来た」ことを証明する文献はない。しかし、後漢使は来た。それは後漢が帝国であったからである。
後漢の使者は、樂浪郡(平壌あたり)から狗邪韓國(くやかんこく 釜山あたり)に到るまでの水行距離「七千餘里」、さらに狗邪韓國で物資を補給すると、そこから末盧國に到るまでの「三千餘里」を宮廷に報告したと見られる。樂浪郡から狗邪韓國までの距離は『魏志倭人傳』にも書かれるとおり、朝鮮半島西岸を南下し、次に南岸を東行した「行程距離」である。飛行機のような直線距離ではなかった。
朝鮮半島沿岸の水行距離は「肌感覚の距離」だったと見られる。「肌感覚」とはいっても接岸して宿泊した日数などの「事実」から割り出したものであり、当時としては宮廷に報告して十分に承認してもらえる距離であった。 仮に現代の我われが衛星写真を見て樂浪郡から末盧國に到るまでの航行距離を漢の時代の「長里」(約 414メートル)で測定すると、「一万里」ではなく「三千余里」である。また、殷の時代の「短里」(約 75メートル)では「一万七千余里」である。この「一万里」は長里の距離であろうか? それとも、短里の距離であろうか? 皇帝の徳は、前記したように、朝貢する国が遠方の大国であるほど高いと考えられていた。樂浪郡から末盧國までの距離が、たとえ現代の我われが衛星写真上で実測して「三千余里」しかなくても、当時これを「一万餘里」と報告することは、皇帝への「忠誠心の発露」として道徳的な行為であった。ややもして、「短里」で測定した一万七千余里を「一万餘里」として報告すると、皇帝の徳を蔑(さげす)む行為となってしまう。それゆえに、この一万里は、必然的に後漢の時代の「長里」(約 414メートル)の距離であったことが分かる。中国では、距離がいったん報告されると、訂正されることはなかった。その理由は、前記したように、報告を信じた先の皇帝や先の王朝の体面を汚して喜ばれることはなかったからである。 それから二百年余り後に編纂された魚豢の『魏略』(265年)も 陳壽の『魏志倭人傳』(285年)も、後漢の時代のこの距離を引用し、一貫して漢の時代の「長里」で書かれている。近年これ(七千餘里)を何としても「短里」の「直線距離」であったとして様ざまな努力が払われたが、当時は天文学的に東西の距離を知る術(すべ)がなかったので、「短里」の「直線距離」には科学的な根拠がない。 添付の地図のように、後漢使はこのようになぜ對島國の「北端」に接岸したといえるのであろうか? また、後漢使は對島國の中央部からではなく、なぜ北端から一支國に向けて出航したと言えるのであろうか? なぜ、對島國と一支國の間だけに「南」と記録されているのであろうか? また、狗邪韓國から對島國までの距離、對島國から一支國までの距離、一支國から末盧國までの距離が衛星写真で見ると大きく異なっているのに、なぜいずれも「千餘里」と書かれているのであろうか? 狗耶韓國から對島國の北端は見えていたので、その方角はことさら書かれなかった。対馬島の北端は『日本書紀』で神功皇后軍が新羅に発ったとされる「鰐浦(わにうら)」である。狗耶韓國から鰐浦までの航行は、海流を読み、日を選んで行われた。当時は(現在も)對馬の鰐浦は重要な軍事拠点であった。渡来者の「入境地」とされた。それは、国防上の理由からであったと見られる。伝令の知らせで国王のほうが鰐浦へ水行して挨拶に出向いたと見られる。使節団は再び對島國北端の鰐浦から一支國へ向けて出航した。仮に對馬國の中央部から一支國へ向けて出航させていたら、一支國の方角は「南」ではなく「東南」と書かれていたであろうから。 對馬國から「南」とことさら書かれたのは、その北端から一支國が見えなかったからである。そこで、海上をひたすら「南」へ航行すると、一支國が視界に入って来た。これが、對馬國から一支國までだけは「南」と「行動指示」が行われた理由である。 一支國から末盧國までは方角が記録されていない。これも、一支國から末盧國が見えていたからである。 そのように、当時の方角と距離は、俯瞰的な「地図情報」ではなく、陸路や海路を進む者が実際に目的地にたどり着けるようにするための具体的な「行動指示」の内容であった。 狗邪韓國から對馬國、一支國を経て末盧國に至る渡海の距離も、朝鮮半島沿岸の水行距離「七千餘里」を知った経験と、渡航に費やす半日単位の時間から割り出した「肌感覚の距離」だったと見られる。 距離に「約」という語が使われることはなかった。五百里も千四百里も、すべて「千餘里」とされた。それは、「一里」が単位ではなく、「千里」を単位として書かれたからである。「餘」とはそのような意味であって、必ずしも「余り」という意味ではない。
伊都國は「都市国家」ではなく、広大な「領域国家」であった。「方角」は「行政府」の方角「東」ではなく「入境地点」の方角「東南」が書かれた。それが、実際に目的地にたどり着けるようにするための具体的な「行動指示」であったからである。それゆえに、唐津湾北部に接岸した後漢使は「東南」の方角に歩いた。すると、伊都國の入境地点に着いた。入境地点からは伊都國内であった。後漢使はそこで伊都國の衛兵に迎えられたであろう。現在も唐津市と糸島市は唐津湾にある境界で接している。そこから後漢使や魏使が通った道は飛鳥時代の古道となった。また、秀吉の戦国武将約二十五万人が名護屋城へ向かう道となった。さらに、唐津藩の参勤交代の道となった。末盧國から伊都國までは五百里であった。伊都國が末盧國に上陸させたのは、国防上の理由からであったと見られる。すなわち、伊都國は末盧國を軍事上の緩衝地帯として利用していた。
陸路は「百里」を単位として書かれた。陸路は「宿泊した日数」などから割り出したこれも「肌感覚の距離」だったと見られる。この百里には「餘」の文字がないが、五十里以上百五十里未満であろう。前記した「千餘里」は、それよりもっと「およそ」であったと見られる。 後漢が仮に「委という奴」の国王に金印を授けたのであれば、後漢使の旅は伊都國までであろう。後漢が仮に「奴國」の王に金印を授けたのであれば、後漢使は奴國まで行ったであろう。後漢使は伊都國の政庁から「東南」へ向けて奴國の入境値を目指して歩いた。伊都國から奴國までは百里であった。あるいは、奴國王は伊都國の政庁で後漢使に謁見して対話の中で方角と距離を報告しただけであった可能性もある。後漢使が不彌國まで行ったかどうかは分からない。また、その時点で不彌國があったかどうかも分からない。 以上述べた通り、後漢は、早くも西暦 57年すぎに樂浪郡から末盧國までの距離を「一万餘里」として知った。また、少なくとも末盧國から伊都國までの距離として「五百里」を知った。後漢は、これらを宮廷に記録として残したと見られる。西暦 265年ごろ魚豢(ぎょかん 生没年不詳)はその記録を『魏略』に転載したと見られる。 【24】 卑彌呼・臺與の故郷はどこか 卑彌呼の時代に「倭國」は、王位継承の時は殺し合いが起きたようである。そのような中で、卑彌呼は「なぜ」「どこ」から迎えられたのであろうか?
九州北部には對馬國から南端の山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)まで三十余の王国があった。王国とはいっても、環濠集落を中心とした、今でいう市か郡程度の規模の国である。卑彌呼は、王族の子女など「世俗」の子女ではなかったであろう。仮に卑彌呼が世俗の子女であったのなら、親どうしの殺し合いが起きたであろうから。
卑彌呼は、女神(女性のシャーマン)であった。単にそれだけで女王として迎えられたのであろうか? 福岡県みやま市(旧山門國)には、その周辺の祭祀伝承から、卑彌呼は、日向神(ひゅうがみ)峡谷で多世代の「日の巫女」である「八女津媛(やめつひめ)」として育っていたとする仮説がある。これは、福岡縣山門郡瀬高町生まれの元西鉄職員で郷土史家の村山健治(1915-1988)説である。 九州北部の諸王国にとって、仮に山門國が BC 100年すぎに揚子江河口から出航して九州の有明海に漂着して上陸した。そこがすべての始まりの地であった。という民族としての「渡航の記憶」をもっていたのなら、そのころから太陽神を祀ってきた山門國の「日の巫女」が女王に立つという話しを受けいれた可能性はあると見られる。 西暦 247年ごろ卑彌呼が死去したとき、倭國では新しく男王が立ったが、殺し合いが起きた。しかし、248年に十三歳の少女・臺與(とよ)が新しい女王として迎えられた。臺與も、日向神峡谷で「八女津媛」として育っていたと見られる。
第十二代景行天皇の時代になっても八女津媛は女王山にいた。『日本書紀』によれば、その時の八女津媛は、景行天皇が八女縣(福岡県久留米市)の藤山から南を見て「美しい山におられる女神」として討伐しなかった女神である。衛星写真で見ると、藤山から南に見える山は、みやま市瀬高町大草の「女王山」である。
なお、女王山の麓には「権現塚」と呼ばれ、弥生時代の国内最大の墳丘墓と見られる円形周溝墓(未発掘)と、近くに「蜘蛛塚(旧女王塚)」と呼ばれる古墳址がある。いずれも正確に秋分の日と春分の日に女王山から日が昇って見える位置に築造されている。 【25】 「倭國」はどのようにして卑彌呼の三十余国になったか 『後漢書・東夷傳』によれば、前記したように西暦 107年に伊都國の帥升らが「倭國王」として後漢に朝貢した。この「倭國」(伊都國連合)はその後、七、八十年間男子王を立てて暮らした(其國本亦以男子爲王住七八十年 『魏志倭人傳』)。西暦 180年すぎに、伊都國王は支配権を再び近隣へ拡大するために、すぐ南の筑前國南部と筑後地方を併合しようとして、これに侵攻した。そこには二十数か国があったが、これに反発。これを原因として「倭國大亂」が起きた。前記したように、後漢にとって、倭國大亂の「倭國」とは、後漢に朝貢した伊都國のことである。日本列島のことではない。それが「朝貢」のもつ重みである。また、後漢は、この倭國大亂によって交易相手国である伊都國との交易がとだえた。
倭國大亂は、「妻(とぅま)國」(八女縣・福岡県久留米市)や「吉野ヶ里」(当時の国名は不明)その他二十余国が最南端の山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)を盟主として二年以上続いた。妻國は後の「妻縣」である。
妻縣は、その南端の一部が後世に「上妻郡」「下妻郡」となり、その上妻郡・下妻郡が「八女縣」となったわけであるが、八女縣は、もともと久留米市を含む広大な「妻(とぅま)國」に属していた。これが『魏志倭人傳』の「投馬國」である。『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも、久留米市の藤山も妻縣にあったと書かれている。 当時の戦争は、敵が家々を取り囲む。家々が宝物を差し出して降伏する。敵は去っていく。といった戦争であった。それでも鉄鏃を体内にもつ遺体が発掘される。それらは九州北部のみに集中している。紛争は女王・卑彌呼が共立されて収まった。 「倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」(魏志倭人傳) これによって、専制君主制を排除し、互いに寄り添って暮らす縄文時代からの社会の大枠が揺り戻された。 【26】 「邪馬臺國」か「邪馬壹國」か 「卑彌呼」や「邪馬臺國」は漢字で音写された。この「臺」の文字が『魏志倭人傳』の原本でどのような文字が使われていたのかは分からない。現代に伝わる『魏志倭人傳』は、最も古い写本は「紹興(しょうこう)本」といって紹興年間(1131-1162)に刊行された。その紹興本では、邪馬臺國の「臺」は「壹」となっている。最も古い写本とはいっても、陳壽による原著の時から 900年近くも経っている。その間に写本が繰り返された。また、その間に首都も洛陽から南京(東晉の時代)に移り、長安(隋・唐の時代)に移り、開封(かいほう 北宋の時代)に移り、杭州(南宋の時代)に移った。それらの地域では現在でも発音が著しく異なる。『魏志倭人傳』では「渡一海千餘里」や「陸行一月」「一大率」「一女子」など、「一」を使うべきところでは「一」が使われている。「壹」の旁(つくり)である「豆」の音も、「トゥ」である。魏の使者が音写した文字が仮に「壹」であったとしても、音としては「トゥ」であった可能性が高い。古田武彦(1926-2015)は、最も古い写本(紹興本)に「壹」が使われていたという理由で「邪馬壹國はあったが、邪馬臺國はなかった」と述べた。しかし、『後漢書』(440年)は、最も古い写本ではなく、原本、あるいは、紹興本よりも古い写本を見て書かれたと考えられ、「臺」を用いてある。また、卑彌呼の後継者・臺與(とよ 中国名 日本名不詳 235-没年不詳)の文字も、太宰府天満宮の『翰苑』では「臺」を用いてある。 【27】 後漢は樂浪郡から邪馬臺國までの距離「萬二千餘里」をいつ知ったか 後漢の永初元年(西暦 107年)に伊都國王・帥升等は第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した(後漢書)。翌 108年以降、後漢(樂浪郡)から伊都國に属国監察に来るようになった。伊都國には、樂浪郡と往来する後漢使のための「迎賓館」があった。これが後世の『魏志倭人傳』(285年)に見える「郡使往來常所駐」であろう。末盧國の入境地は唐津湾北部にあったと見られる。そこには古代から来航者の検問所があったと伝えられる。東松浦半島北端の呼子(よぶこ)は、一支國からは近いが、接岸地ではなかったであろう。呼子は伊都國から出国審査・入国審査・手荷物検査に出向くには遠すぎたからである。また、呼子は伊都國から見えないので、来航者の常時監視ができなかったからである。 卑彌呼が倭國の女王に即位したのは、前記した通り、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間(178年-184年)であった。このとき倭國は、「倭國大亂」を経て首都国が伊都國から山門國に変わった。卑彌呼は、即位して先ず後漢の樂浪郡に朝貢した。支配権とは倭國を代表して交易する交易権でもあった。卑彌呼は樂浪郡と交易して青銅器・鉄器を入手した。倭國大亂で交易権をめぐって争ったわけであるから、交易をしなければ三十余国は、ばらばらとなってしまうからである。
後漢(樂浪郡)としては、それまで二年以上倭國との交易は途絶えていた。倭國から樂浪郡への朝貢は、樂浪郡から洛陽の朝廷に報告された。後漢にとってそれは慶事であった。この「報告された」という文献はないが、報告された。それは後漢が帝国であったからである。
すると、靈帝から樂浪郡を通して卑彌呼に「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が下賜された。これには金象嵌の銘文で「中平□年五月丙午造作支刀百練清剛上應星宿下避不祥(百練清剛、上は星宿に応じ、下は不祥を避く)」と書かれていた。「中平」は靈帝最後の年号(184年-189年)である。 西暦 184年すぎ、この鉄刀は、樂浪郡から山門國の卑彌呼に届けられた。この「届けに来たこと」を証明する文献はないが、届けられた。それも後漢が帝国であったからである。 そのとき、後漢使は樂浪郡から末盧國までが「一万餘里」として知られていることを踏まえた上で、樂浪郡から邪馬臺國までを「萬二千餘里」と報告した。その「萬二千餘里」も、肌感覚で分かる程度の距離であったと見られる。 後漢は、そのようにして、樂浪郡から邪馬臺國までの距離が「萬二千餘里」であることを『魏志倭人傳』(285年)が書かれるより百年も前(西暦 184年すぎ)から知っていた。それらの記録は『魏略』(265年ごろ)にも『魏志倭人傳』(285年)にもそのまま転載された。 後漢の晩期(第十一代桓帝・第十二代靈帝のころ)に、樂浪郡は、公孫氏(こうそんし)という軍閥(群雄)が支配するようになった。西暦 204年には、公孫康が樂浪郡の南部を「帶方郡(たいほうぐん)」とした。 公孫康は後漢から「左将軍」の官位を授けられた(『三國志』巻八「公孫康」)。帶方郡は公孫氏の支配下にあっても、まだ後漢の郡であった。卑彌呼は公孫氏に朝貢し、帶方郡と交易した(是後倭韓遂屬帶方 『魏志韓傳』285年)。公孫氏は倭國に侵攻するほどの力はなく、卑彌呼にとって与(くみ)しやすい相手であったと見られる。
西暦 220年に後漢が滅亡して魏(220-265)が興る。西暦 229年にインドのクシャーナ朝は「親魏大月氏王」の金印をもらった。クシャーナ朝は「十万戸」「兵力十余万人」の大国であり、魏の都・洛陽から、クシャーナ朝までの距離は「一萬六千三百七十里」として知られていた。
「大月氏首都在藍氏城 西邊與安息國接壤 有四十九日的行程 東邊距離西域長史府 有六千五百三十七里 距離洛陽 有一萬六千三百七十里。有戸口數十萬戸 人口數四十萬 能當兵的有十餘萬人」(『後漢書』西域傳) 一方、洛陽から帶方郡までの距離は「五千里」として知られていた。 「樂浪郡武帝置。洛陽東北五千里。十八城 戸六萬一千四百九十二 口二十五萬七千五十」(『後漢書』郡國誌) これらは漢の時代の長里(約 414メートル)で記録されている。 仮に現代の我われが平壌から福岡県みやま市瀬高町の女王山までの距離を衛星写真を見て漢の時代の長里で測定すると「三千五百余里」しかないが、「萬二千餘里」という距離は、皇帝にも認められた「正式」な距離であった。 魏の宮廷で、洛陽から邪馬臺國までの距離がクシャーナ朝までの距離を凌ぐ「一万七千餘里」であることに特別な関心をもっていたのは将軍・司馬懿(しばい 179-251)であった。 【28】 そのとき卑彌呼は何歳であったか 唐初期の歴史家・姚思廉(ようしれん)の『梁書』(629年)によれば、卑彌呼が「倭國大亂」を経て共立されたのは、第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間「178年-184年」であった。卑彌呼は、即位したとき十三、四歳の少女であったと見られる。年齢的にある程度の分別は必要だったからである。また、七十八歳くらい(西暦 247年)まで長生きすることになるからである。
倭國は「大亂」の結果、伊都國、奴國などを含む三十余国の連合王国となった。卑彌呼は「山門國」を首都国と定めたが、山門國の女王ではなく、その上の連合王国・倭國の女王であった。山門國には国王として伊支馬(いきま)がいた。伊支馬は連合国の地位としては「官」であった。邪馬臺國には次官として彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)もいた。
前記第十二代靈帝のころ、後漢は政情が不安定であった。西暦 184年に「黄巾の乱」が起きた。187年に「張純の乱」が起きた。これらの情報は、直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。卑彌呼には、後漢に直接朝貢できる機会は訪れなかった。
中国国家博物館(北京)に、梁(502-557)の時代に描かれて十一世紀に模写された『職貢圖』(しょっこうず)が所蔵されている。中国の王朝から見て諸夷と呼ばれた周辺諸民族が様ざまな扮装で来朝する様子が描かれている。倭國使について図の説明文は「倭國在帶方東南大海中依山島」から始まっているので、ここに描かれた倭國使は、女王・卑彌呼の特使・難升米(なしめ 生没年不詳)であろう。「北岸は三十餘國を連ねて倭王の所に至る」と書かれている。北岸に連なる三十餘國の最南端に山門國があった。卑彌呼は、山門國の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいたと見られる。
伊都國(福岡県糸島市)の大率(だいそつ、あるいは、一大率)は、牛馬もない時代に、その三十余国を行政監察のために歩いて回った。各国は大率を畏れはばかった(魏志倭人傳)。それが可能であったのは、三十餘國が現在の福岡県かそれよりやや狭い範囲内にあったからである。 この『職貢圖』の原図は、卑彌呼が第十二代靈帝の光和年間に即位したことを伝える『梁書倭國傳』(629年)よりも古い。『日本書紀』を編纂した大和王権も、この『職貢圖』の存在を知らなかった。 飛鳥時代以降に、斯馬(しま)國は志摩郡となり、伊都國は怡土(いと)郡となり、已百支(しをき)國は小城(をき)郡となり、倭國・三十餘國は三十余郡になったと見られる。 日本には太古の時代に馬がいたが絶滅した。日本人は四世紀に朝鮮半島で初めて馬を見た。五世紀に馬は埴輪として登場する。馬は、そのころ朝鮮半島を経てモンゴル馬が輸入される。牛も五世紀になって中国から輸入された。 【29】 「短里」による測定は行われたか 魏の時代に「里」は殷の時代の「短里」(約 75メートル)に戻ったとする仮説がある。その根拠は、『三國志』の「魏書・明帝紀」の「景初元年」の「注」に「今魏用殷禮」と出てくるからである。しかし、『魏志倭人傳』に短里が用いられているとは限らない。前記の狗邪韓國までの「七千餘里」を、日影を用いる「一寸千里法」という方法で測定した「短里」の直線距離であるとする仮説がある。しかし、その「七千餘里」は、西暦 57年すぎの後漢の長里の時代の記録である。現代の我われが衛星写真で実測すると「三千余里」の程度であるが、七千餘里」は皇帝によって承認された「正式」な長里の距離であった。
「一寸千里法」とは、「夏至」の「南中時」に「八尺」の棒を立てると、その陰の長さは「南北」に「千里」(75キロメートル)離れるごとに「一寸」だけ変わる。という測定方法である。10パーセント程度の誤差があった。
平壌と狗邪韓國の南北距離の測定値がたとえば「6,000里」であっても、10パーセントの誤差によって実際は 5,500~6,600里である。また、韓国南部も、夏至の南中時は梅雨の期間中である。晴れる日はほとんどない。測定日をずらすと、さらに補正の誤差が加わり、さらに 10パーセント程度の誤差が加わって実際は 5,000~ 7,300里である。これでは測定に使えない。それだけではない。一寸千里法には「東西方向」の距離を知るすべがなかった。直角三角形も二辺の寸法が分からなければ、斜辺の寸法は分からない。 『魏志倭人傳』に出てくる、帶方郡から狗邪韓國までの距離「七千餘里」も、邪馬臺國までの「萬二千餘里」も、直線距離ではなく、肌感覚の行程距離である。当時の方角と距離は、前記したように、俯瞰的な地図情報ではなく、陸路や海路を進む者が実際に目的地にたどり着けるようにするための具体的な「行動指示」の内容であったからである。 【30】 「會稽東治之東」とはどこか
『魏志倭人傳』の中で、魏使は古代の「夏」王朝の飛び地である「會稽東治」(蘇州市)が南のほうに位置していたという故事に言及する。すなわち、「其道里當在會稽東治之東」として、女王國の地理的位置が敵国・呉のちょうど東にある(それゆえに、魏の友好国として重要である)と述べている。
これは「軍事上のたとえ」として述べているもので、女王國の地理的位置を特定するための記述ではない。無理に特定しようとしても、『魏志倭人傳』は「八方位」を使って書かれているので、図のように「東」とは「東北東」から「東南東」までの範囲の方角を指し、「會稽東治之東」とは少なくとも西日本全体を表す。 【31】 「放射説」は採用できないのか 陳壽の『魏志倭人傳』(285年)に、末盧國から伊都國に行くには「東南陸行五百里到伊都國」、奴國に行くには「東南至奴國百里」、不彌國に行くには「東行至不彌國百里」、投馬國に行くには「南至投馬國水行二十日」、女王の都とする邪馬臺國に行くには「南至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月」と、この順序で書かれている。これを「末盧國」「伊都國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「邪馬臺國」がこの順序で並んでいたと見て「連続説」と呼ぶ。
一方、東洋史学者・榎一雄(1913-1989)は、昭和二十三年(1948年)に「放射説」といって、上記を「伊都國から東南に百里で奴國に至る」「伊都國から東に百里で不彌國に至る」「伊都國から南に水行二十日で投馬國に至る」「伊都國から南に水行十日または陸行一月で邪馬臺國に至る」と読んで見せた。これが「放射説」である。
榎一雄はこの「放射説」について、『魏志倭人傳』に伊都國は「郡使往來常所駐」と書かれており、中国からの使者の迎賓館が置かれているなど、特別な国であったこと、不彌國から邪馬臺國まで水行二十日と水行十日陸行一月もかかり、普通に読めば邪馬臺國が九州よりもはるか南の太平洋上まで行ってしまうことから、何としても邪馬臺國を福岡県の山門國にもって来るために思いついたと見られる。この「放射説」によれば、邪馬臺國は、その経路が水行であれ陸行であれ、伊都國の「南」にあることになる。本当であろうか?
伊都國の「南」にあるのは有明海である。そこに邪馬臺國は存在し得ない。
『魏志倭人傳』には八方位しかなく、「南」や「東南」は区別しているが、十六方位の「南南東」や「南南西」といった細かい表記は出て来ない。それゆえに、「南南東」から「南南西」までの範囲に入っていれば「およそ南」と見なしてよいのではないかという意見もあり得る。しかし、山門國(みやま市・柳川市とその周辺)も「およそ南」(南南東~南南西)の範囲になく、「東南」にある。榎一雄は、中国古典の読み方は上手であったが、正しい地理や方角が頭に入っていなかったようである。 以上述べた通り、「放射説」は誤った読み方である。 【32】 卑彌呼はどのようにして「親魏倭王」の金印紫綬をもらったか
西暦 220年、後漢が滅亡して、中国は魏・呉・蜀の「三すくみ」の状態となった。魏の将軍・司馬懿(しばい 179-251)は、呉に対する国土防衛の任に当たった。また、将軍・曹真(そうしん 生年不詳-231)は、蜀に対する国土防衛の任に当たった。司馬懿と曹真は互いに宮廷クーデターを狙う政敵であった。第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)の時代であった。
蜀には軍師・諸葛孔明(諸葛亮 181-234)がいた。西域の多くの異民族を味方につけていた。魏は蜀からの攻撃に実に手を焼いた。西暦 229年、将軍・曹真は、蜀の西の遠方にある大国・インド・クシャーナ朝(大月氏國)に朝貢させることに成功した。大月氏國王は仏教を奨励したカニシカ王の孫であった。「兵力十餘萬人」の大国であった(後漢誌・西域傳)。クシャーナ朝は「ガンダーラ美術」の中心地として知られる。クシャーナ朝に「親魏大月氏國王」の金印紫綬が授与された。これによって西域の異民族による攻撃は沈静化した。一方、将軍・司馬懿は、曹真のこの功績をどうしても超えることができなかった。
当時、魏の朝鮮半島の帶方郡は、地方軍閥・公孫氏の支配下にあった。 西暦 236年に公孫氏は魏の皇帝・曹叡から朝貢するように求められた。公孫氏は、それに反旗を翻し、自ら燕國(えんこく)王と称した。翌年には年号を「紹漢」と改めた。すると、魏がこの燕國を討伐する動きとなった。魏の将軍は、司馬懿(しば い 179-251)であった。この情報は直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。倭國は、今は魏の敵国となった公孫氏の交易国であった。公孫氏に朝貢していた。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として攻め込まれると、ひとたまりもない。 238年に卑彌呼は直ちに特使・難升米(なしめ)を送った。それは「これまでの公孫氏を裏切って、魏の皇帝に直接朝貢せよ」という、卑彌呼にとって一か八かの「大勝負」であった。この「大勝負」を魏の将軍・司馬懿が知って、高く評価する結果となる。 将軍・司馬懿は、帶方郡を完全に討伐した。官僚と兵をひとり残らず捜索して十五歳以上の男子をすべて惨殺した。「京観(けいかん)」といって広場に首を高く積み上げて記念碑にした。 卑彌呼の特使・難升米は、魏の第二代皇帝・曹叡に朝貢した。皇帝は倭國からの朝貢に喜び、将軍・司馬懿の後押しで卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が贈られることになった。司馬懿は、遠方の大国「倭國」に朝貢させた「てがら」が高く評価されて領土を与えられた(晉書)。 【33】 倭國を遠方の大国と形容する決定的な文言を「誰」が宮廷に残したか 西暦 265年に魏の国の歴史家・魚豢(ぎょかん)によって書かれた『魏略』にも、西暦 285年に西晉の史官・陳壽によって書かれた『魏志倭人傳』にも、帶方郡から邪馬臺國までの距離は「一万二千里」であったと書かれている。しかし、前者(魏略)には、「二万戸」「五万戸」「七万戸」「水行二十日」「水行十日陸行一月」「以婢千人自侍」「殉葬者百餘人」など、倭國を卑彌呼が強大な権力をもつ遠方の大国と形容する決定的な文言が見当たらない。二つの書が編纂される二十年の間に、何が起きていたのであろうか?前記の幾つかの決定的な文言は、現代の我われにあれこれ多くの「妄想」をもたらしただけでなく、以下申し述べるように、魏という古代中国の一国を消し飛ばすくらいの強大な力があった。 倭國の首都国・邪馬臺國も、弥生時代の当時の状況から、環濠集落群のひとつであったと見られる。人口は多くて数百戸かそれくらいだったであろう。卑彌呼の居所には、宮室と、見晴らし台と、城柵が設けられていた(居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 『魏志倭人傳』)。この記述から、卑彌呼の居所は、一般の集落とは隔絶した高い所にあって、いつも衛兵がいるだけの質素な祈祷所であったようである。見晴らし台からは遠く吉野ヶ里(当時の国名は不明)、妻國(とぅま國・福岡県久留米市)などが見渡せた。魏使の報告書の原本は、そのようなごく素朴な内容のものであったと推定される。しかし、魏使は、帶方郡の「塞曹掾史(さいそうえんし)」という身分の武官であった。それは、皇帝に何かを直接報告できる身分ではなかった。 魚豢(ぎょかん)は魏の官僚・歴史家で、中国史上、その『魏略』三十八巻(265年)は、編集方針として、伝聞の書を採用せず、実体験者による直接の証言を採録することに重きを置いた書であると認められている。しかし、『魏略』は散逸してしまい、現代は逸文(他の書籍に引用された文)として全体の 5パーセント程度が残るのみである。それでも、太宰府天満宮の『翰苑(かんえん)』の「倭國の条」に「魏使の報告書・原本」を採録したと見られる『魏略』が転載されており、これを遣唐使がもち帰った(太宰府天満宮所蔵・国宝)。 その『翰苑』にも、陳壽(233-297)の『魏志倭人傳』(285年)にも、末盧國から伊都國までを五百里とした場合に伊都國から邪馬台国までの距離は千五百里(末盧國から邪馬臺國まで二千里)と書かれている。これは最初から「魏使の報告書・原本」にあったと推定される。
西暦 280年すぎに中国の歴史上、皇帝に対して「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」「水行二十日」「水行十日陸行一月」と報告する「動機」と「機会」と「手段」と「権力」をもち、それを行った人物がひとりだけいた。それは、将軍・司馬昭(211-265)である。司馬昭は将軍・司馬懿(179-251)の次男であった。その性格は「野心」「温厚」「策略」「謙虚」であったとして世評(『三国志演義』など)に残る。奸臣(かんしん・主君に対し、内実は悪事をたくらむ、腹黒い家来)であったと見られる。
仮に倭國の「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」は、これらの戸数を合計すると、クシャーナ朝の「有戸口數十萬戸」(後漢書・西域傳)を超える。そのような数字が選ばれて報告されたと推定される。 魚豢(ぎょかん)が前記『魏略』(265年)を書くために集めた史資料の中には、時期的に(265年には『魏略』は完成しているので)、司馬昭のこの『注釈本』はなかった可能性が高い。仮にあっても、編集方針の上で、伝聞の書として採録しなかったであろう。 「距離」については、末盧國から伊都國までを五百里とすると、伊都國から邪馬臺國までは千五百里(末盧國からは二千里)として後漢の時代から正式に知られていた。司馬昭は「距離」を操作せず、「水行二十日」「水行十日陸行一月」として「日数」を操作したようである。 皇帝の徳は、朝貢する国が遠方の大国であればあるほど高いと考えられていた。それゆえに、そのように報告することは、臣下として「忠誠心の発露」であったと言えなくもない。皇帝・曹奐がそれを信じて「正式」な報告書として宮廷に残った。 この司馬昭の「謀略」は成功する。皇帝・曹奐は、帝位を司馬昭の長男の将軍・司馬炎(在位 265-290)に譲る。司馬炎は、国号を「西晉」と改めた。初代皇帝・武帝(在位 265-290)となった。この司馬炎が『三國志』の最終勝者である。 卑彌呼の倭國は、司馬氏一族に政治的に利用されて終わった。 『魏志倭人傳』(285年)を書いた陳壽は、一度も魏の国にいたことがない人であった。魏の敵国・蜀の官僚であった。西晉に史官として採用された。陳壽が集めることができた「原史資料」は西晉の宮廷に残っていた史資料だけであったと推定される。すなわち、奸臣の『注釈本』を「誠実」に引用する「機会」と「能力」が陳壽にあった。
弥生時代に九州地方の人口は約 105,100人であった。近畿地方は約 108,300であった(国立民博・小山修三 1979年)。この小山教授の科学的な人口推定値は、当面くつがえされる見通しもないので、現在も有効である。それゆえに、「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」の大都市などはどこにも存在し得なかった。
日本に殉葬の風習はなかった。九州の王墓からも殉葬者の遺骨は出ていない。中国揚子江流域の江南地方にも殉葬の風習はなかった。『日本書紀』の垂仁天皇紀に殉葬について言及があるが、それは後づけの創作であることが分かっている。日本に殉葬が行われた考古学的な痕跡はない。 【34】 『魏志倭人傳』は幾つの史資料をもとに書かれたか 陳壽(233-297)は一度も魏の国にいたことはない。陳壽は、蜀の官僚であったが、司馬炎の西晉に史官として採用された。宮廷に残っていた下記の文献を参照し、私書として『三國志』を書いた。「卑彌呼」の名前は、『魏志倭人傳』の中に五回出て来る。「邪馬臺國」の国名は、『魏志倭人傳』の中に一回出て来るだけである。
【35】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか 『魏志倭人傳』に、伊都國(糸島市)から奴國(福岡市)までを百里として、奴國の東の百里のところに不彌國があったと書かれている。また、邪馬臺國は「不彌(ふみ)國」の「南」の「投馬(とぅま)國」のさらに「南」にあったと書かれている。 そこで、邪馬臺國が畿内にあったことの裏付けとするために、この南を何としても「東」と読み替える努力が行われてきた。しかし、後漢の使者や魏の武官が、太陽や月、星座を見て、方角を間違えることはない(松本清張)。我われが方角を間違えることもないであろう。
「不彌國」とは、福岡県糟屋郡にあった「うみこく(海國)」と見られる。不彌國には「ひなもり(卑奴母離)」という海防担当官がいた。女王の倭國は、北岸の伊都國に大率を置き、對馬國、一支國、奴國、不彌國などの臨海国に副官としていずれにも「ひなもり(卑奴母離)」という武官を置いていた(魏志倭人傳)。これによって、女王國は、朝鮮半島からの脅威に備えていたと見られる。不彌國はその南端に行政府があったと見られる。現在の福岡県糟屋郡宇美町である可能性が高い。
末盧國から伊都國までの距離を五百里とすると、伊都國から邪馬臺國までの行程距離は千五百里であった(『翰苑』『魏志倭人傳』)。これは福岡県内に収まる距離である。
御笠川と宝満川は、現在は取水などによって水量が大幅に減っているが、近世まで、途中に幾つもの川湊(かわみなと)があって、大きな帆船が物資を運んでいた。それは、筑前の生活と筑後の生活を結ぶ動脈であった。その帆船の絵などが今も近くの民家などに残っている。卑彌呼の時代に、太宰府市付近も土砂の堆積が少なく、御笠川と宝満川は上流を取り合ってつながっていたと見られる。
後漢使あるいは魏使が、川舟で航行したか、それとも、川伝いに歩いたかは分からない。不彌國からその南の投馬國まで数日以下の旅程であったと見られる。「水行二十日」などではなかった。
「投馬(とぅま)國」とは、現在の久留米市を含む広大な「妻(とぅま)國」であったと推定される。古墳時代に「八女縣(やめのあがた)」となる。投馬國が海に面する場所にあったとする異説を見かけるが、それは誤りである。投馬國は内陸国であった。「ひなもり(卑奴母離)」がいないからである(魏志倭人傳)。八女縣は飛鳥時代に南端が上妻郡・下妻郡となる。
『日本書紀』の「景行天皇紀」で古墳時代の八女縣(久留米市)の藤山から南に見える「八女津媛(やめつひめ)」(いつの世にもおられる多世代の女神)の「美しい山」は、これを衛星写真で見ると山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草)である。この「女王山」に卑彌呼の祈祷所もあった。投馬國からこの女王山は南のほうに見えていたわけであり、そこから数日未満の旅程であった。「水行十日陸行一月」などではなかった。
なお、前記した安本美典らは、邪馬臺國は朝倉にあったとしているようであるが、『魏志倭人傳』は八方位で書かれており、「南」と「東南」を区別している。朝倉は不彌國の「南」ではなく「東南」にあるから邪馬臺國ではない。 『日本書紀』によれば、北岸の伊都國王は、引嶋(下関市彦島)で第十四代仲哀天皇・神功皇后を迎え、自らの三種の神器(八尺瓊・白銅鏡・十握劒)を献上して帰順した。伊都國王とは女王の「大率」にほかならない。このとき大和王権は、女王山で女王が統治する「倭國」の全貌を知ったと見られる。
翌年、八女津媛は大和王権の神功皇后とその水軍によって「土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)」(たぶらかしの女性呪術者)の蔑称で誅殺される。
大和王権としては第十四代・仲哀天皇と神功皇后が畿内を発ち五年の歳月をかけて行った国家としての大事業であったが、『日本書紀』(神功皇后紀)にはそのことが一行で書かれているだけである。 丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛。 『日本書紀』に書かれる通りに神功皇后が実在したのかは分からない。また、仮に実在したとして、八女津媛を討ったのが神功皇后とその水軍であったのかは分からない。しかし、大和王権によって邪馬臺國は滅亡した。地域では、大和王権に遠慮して「女王山」は「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。 邪馬臺國の滅亡から三世紀を経て、西暦 663年に「白村江の戦」で敗れた大和朝廷は、唐・新羅の侵攻を恐れて、この女山に筑後平野・有明海を見晴らす山城を造った。現在、「女山神籠石(ぞやまこうごいし)」として残っている遺構は、その山城の時代の石垣と見られている。 【36】 卑彌呼の墓はどこにあるのか 『魏志倭人傳』によれば、卑彌呼の墓は「さしわたし(径)」が「百餘歩」であった(卑彌呼以死大作冢徑百餘歩)。この「百餘歩」も百歩を「単位」として書かれている可能性が高い。その意味する範囲は広い。たとえば、実測値が仮に三十歩であった場合に、それを表現する数値は「ゼロ歩」か「百歩」の二択しかないからである。果たして、卑彌呼の墓はどこにあるのであろうか?魏使(張政)が「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもって卑彌呼を訪ねたとき(248年)、卑彌呼はすでに死去していた。その「徑百餘歩」の墓はすでにできていた。 福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)に「権現塚(ごんげんづか)」がある(写真)。この権現塚は、元西鉄職員で郷土史家の村山健治(1915-1988)説によれば、卑彌呼の墓である。
「権現塚」は「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにある。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲む。
中国で「里」とは、どの時代においても「三百歩」であった。衛星写真で東松浦半島の唐津市北部から糸島市までの距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径は文字通りの「百余歩」である。 「周溝墓」は、溝から掘り出した土を周溝の内側に盛るだけであるので、通常は高さが低い。大きな周溝墓も比較的に少ない日数で築造される。『魏志倭人傳』を見ると、卑彌呼の墓は短期間でできている(何年もかけていない)。『魏志倭人傳』には卑彌呼の墓の「さしわたし(径)」のことは書かれているが、「高さ」のことが書かれていない。それらのことから、卑彌呼の墓は「周溝墓」であったと見られている。また、棺はあって、石室のような槨(かく)はなかった(魏志倭人傳)。円形周溝墓は「ひとり」を埋葬することが多く、そこに葬られた人は、特別な限られた人であったと見られる。 吉野ヶ里に目を転じると、そこは、女王の倭國に属する国であった。吉野ヶ里に巨大な「北墳丘墓」があることは山門國にも知られていた。女王山の見晴らし台からも見えた。 「権現塚」は、円形周溝墓の上に、吉野ヶ里の墳丘墓を凌ぐ規模の墳丘を乗せた特殊な墳丘墓である可能性が高い。すなわち、「円形周溝墳丘墓」である。弥生時代晩期の「版築」という中国から伝わった工法が用いられていて大規模な木枠で成型して突き固めたと見られる。風雨に強く、表面は洗い流されているが、形状は長く保たれている。「権現塚」は、周囲の溝を含めると、直径は 70メートルに近い。弥生時代のものとすると、国内にこれほど大規模な墳丘墓は他に存在しない。 権現塚は、南に接して、祭儀が行われた広い敷地の址がある。現在は農地となっている。その敷地からは、朱を塗った籩豆(へんとう 高坏)など、祭儀に用いられたと見られる四、五十センチメートルの大型の土器が出土している。このことから、それに相応しい高貴な人物が埋葬されていると見られる。あるいは、それは、卑彌呼が食事に用いていた籩豆(魏志倭人傳)の可能性がある。
権現塚は、太陽神を祀る聖地として伝承される日向神(ひゅうがみ)峡谷と、女王山の「聖域」(祈祷所)と、正確に東西に一直線に並んでいる。したがって、春分の日と秋分の日に、女王山の「聖域」を通って太陽が昇るのが見える地点に築造されている。やはり「太陽神の巫女(みこ)」を祀(まつ)るのにふさわしい(前記村山健治説)。
この権現塚のすぐ北からは、甕棺などが数多く出土しているが、殉葬者の棺ではない。『魏志倭人傳』には「狥葬者奴碑百餘人」と書かれているが、それは司馬氏が皇帝に報告するときに書き入れた「注釈」と見られ、それゆえに「正式」な報告書に書かれていたわけであるが、日本に殉葬の風習はない。 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定した。また、古墳時代中期(五世紀)に築造された「古墳」とした。発掘調査や、炭素 14による年代測定などが行われたわけではない。「古墳時代中期(五世紀)の古墳」とは、国内で古墳が最も多く築造された典型的な古墳のことである。史跡として「指定」するには、ただの小山ではないという「何らか」の理由が必要だったようである。しかし、「史跡」に指定されたおかげで、現在も権現塚は農地などに転用されることなく保存されている。 この権現塚は後世(古墳時代)の「古墳」(円形古墳)とは一見して異なっている。直径が 45メートルもあるのに、高さ 5.7メートルは「円墳」として低すぎである。また、先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」の跡が残っている。やはり「弥生時代晩期」の希少な「円形周溝墓」である。かつ、日本最大の「墳丘墓」である。 これらのことから、この権現塚は『魏志倭人傳』の卑彌呼の墓である可能性が高い。 第三章 【37】 卑彌呼の時代に、天皇はどこにいたか 卑彌呼が在位した「182年すぎ-245年」に大和王権の祖先は、九州北部からの「落人」としてまだ吉備にいた。しかし、吉備は繁栄しており、大王が出現して吉備王國となっていた。大王は「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)と呼ばれた。大王は民族の東征の記憶に残る「いはれびこ」に見立てて讃えられた。その後も、後世に「闕史八代」とされる天皇が次々と出現して人びとの記憶に残ったと見られる西暦 265年に司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)が西晉を建てた(初代皇帝・武帝 在位 265-290)。この情報は女王國・倭國に伝わったと見られる。翌 266年に倭國は西晉に朝貢した。 泰始二年十一月己卯倭人來獻方物 (『晉書』武帝紀) 臺與が生きていれば三十一歳である。朝貢したのは臺與であったと見られる。西晉は、その後も臺與の倭國を優遇したと見られる。 そのころ、吉備では「闕史八代」のひとりとされる第七代・孝靈天皇の治政であった。 【38】 「纏向」の王権はいつどのようにして出現したか 纏向には、280年ごろ吉備王國から人・物・文化・記憶の流入が始まったと見られる。纏向には、それまでは環濠集落などの生活グループがあるだけであった。第十代崇神天皇は、吉備王國(岡山県)から奈良盆地の纏向に一万人程度(遺跡の規模から見て)の人びとを連れて移動し、290年すぎに大王として即位し、三十万坪程度(纏向全体の約三分の一)を開発したと見られる。纏向の宮殿は、それまで何もなかったところに忽然と姿を現したわけである。それは、吉備からの「人」と「物」と「文化」と「記憶」の流入で支えられていた。崇神天皇は改めて「はつくにしらすすめらみこと」とされた。 纏向は、第十一代垂仁天皇の時代には約九十万坪、人口は約三万人程度になったようである。 『古事記』に第十代崇神天皇の崩御は「戊寅(つちのゑとら)」の年であったとして、天皇の崩御年について初めて干支年で書かれている。『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも同じ記載がある。崇神天皇は、大和王権の基礎となる祖霊神信仰を確立し、葦原中國の支配領域を拡大したとされる大王であるから、その崩御年は長く語り継がれたであろう。明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ 1850-1908)は、この崇神崩御の年を「258年」と推定した。しかし、前記「IntCal20」の結果から、崇神天皇の崩御年は「318年」である可能性が高い。
畿内で最初に現れる古墳は「纏向石塚古墳」である。これは、古墳ではなく墳丘墓とも見られているようであるが、日本最初の前方後円墳である。その築造は前記の「IntCal20」によって「280-310年」であったと見られている。全長約 96メートル、周濠幅約 20メートル。纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていた。平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。
纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土する。弧文は吉備王國の祭祀のための固有の模様であったと見られている。初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王國であるかのようであった。
第十代崇神天皇は、纏向を都と定めると、古代からの天照大神だけでなく、地祇である大物主神(おほものぬしのかみ 大三輪之神)や、倭大國魂神(やまとのおほくにたまのみかみ)を深く崇(あが)めたと伝承される。それゆえに、淡海三船(722-785)は、その「漢風諡(し)号」を「崇神天皇」としたようである。大和王権は、このころから、祖霊神信仰を深めていく。
古墳は「祖霊神信仰」によって築造されたと見られる。祖霊神信仰は、地方の豪族の祖霊も神と認めるもので、地方の豪族もこれを受けいれやすく、大和王権よりやや小型の前方後円墳や円墳を築造し始めた。 大型の古墳は、誉田御陵山古墳(應神天皇陵)、大山陵古墳(仁德天皇陵)の時代を過ぎると姿を消していく。七世紀(600年代)の「飛鳥時代」には神社がこれに替わっていった。 【39】 崇神天皇の時代に女王の倭國は存在したか 2020年のケンブリッジ大学の炭素 14年代測定の更正曲線「IntCal20」から、第十代崇神天皇の崩御年は「318年」である可能性が高い。『日本書紀』によれば、崇神天皇の晩年、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と名乗る都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が敦賀(つるが)に上陸した。
第十一代垂仁天皇は、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと・敦賀(つるが)の語源)の話しから、そのころ倭國の伊都國王が穴門國(山口県)を支配していることを知った。第十代崇神天皇崩御の年のようであり、卑彌呼・臺輿の時代も過ぎていた。
朝鮮半島を発った都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、初め穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物に出会った。この伊都都比古は伊都國王と見られる。都怒我阿羅斯等は伊都都比古に「この国の王だ」と言われた。不審に思い、そこを離れて日本海の敦賀に到ったという。
伊都國王・大率は、朝鮮半島からの脅威に備えていたわけであるから、朝鮮半島からの渡来者・都怒我阿羅斯等を検問したと見られる。 この記述は、大和王権が勃興期(第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇の時代)に九州北部から山口県下関市にかけてなお倭國が何らかの形で存在していたことを物語る。また、そのことを、八世紀に『日本書紀』(720年)の編纂プロジェクトが認めた記述として重要である。 都怒我阿羅斯等は「額に角のある人」と書かれているが、当時珍しい「立物(たてもの)」のある兜(かぶと)を被っていたようである。日本では、平安時代以降に仏具の製造技術によって甲冑が製造されるようになった。兜(かぶと)には額に大きな立物がつくようになった。 【40】 第十二代景行天皇は実在したか 大和王権による「第一次九州親征」は、第十代崇神天皇の時代に行われたが、土蜘蛛(つちぐも 地方の豪族)に阻(はば)まれて果たせなかった。『肥前國風土記』によれば、崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に降伏しなかった(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十餘人拒捍皇命不肯降服)。大和王権による「倭國」に対する討伐は、『日本書紀』によれば、その後二回行われた。第十二代景行天皇による大和王権の「第二次九州親征」と、第十四代仲哀天皇・神功皇后による「第三次九州親征」であった。 景行天皇による討伐は、『日本書紀』によれば、景行天皇十二年から景行天皇十九年まで、西暦では四年にかけて行われた。 『日本書紀』によれば、景行天皇は関門海峡を通らないで九州東岸に上陸した。穴門國(山口県下関市)は伊都國王・大率(だいそつ)が支配していたので(日本書紀・垂仁天皇紀)、そこを避けたと見られる。景行天皇に最初に帰順したのは九州東北岸の首長・神夏磯媛(かんなつそひめ)であった。自らの「三種の神器」を献上した。それは、「八握剣(やつかのつるぎ)」「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊(やさかに 玉)」であった。
景行天皇は、『日本書紀』によれば、九州で各地に行宮(あんぐう)を建てて住んだ。日向國で御刀媛(みはかしひめ)を后(きさき)とした。戦闘を展開して豐(大分県)・日向(宮崎県)・肥(熊本県)など各地の土蜘蛛を討伐した。
『日本書紀』によれば、第十二代景行天皇が倭國(筑前・筑後の三十餘国連合)の八女縣(福岡県久留米市)に着き、藤山を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、「猨大海(さるのおほみ)」(後の水沼縣主)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えた(丁酉到八女縣則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中 『日本書紀』景行天皇紀)。
景行天皇が南に見た「美しい山」は、衛星写真で見ると、山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草 標高 196メートル)である。猨大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、緊迫した状況の中で、連合国・倭國の「女王」がいるとは答えないで、「女神」がいると答えた。この八女津媛が敵国「倭國」の女王であった。 倭國では、景行天皇の時代になっても、「八女津媛」が、日向神峡谷から山門國・女王山に迎えられていたと見られる。女王はすでに神格化されていて人前に姿を現すことはなかったようである。 天皇は北上して佐賀県の神埼郡と三根郡に到る(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里(当時の国名は不明)があった。神埼郡の宮処郷(みやこのさと)に仮宮を設営した(肥前國風土記)。養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。また、御井郡の高羅(かうら)を行宮とした(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 福岡県うきは市)から菟狭(宇佐)を通って纏向に帰還した。 『肥前國風土記』には景行天皇の九州親征の事績や地名が各地に残されている。熊本県に「山鹿灯篭」などの伝承も残っている。風土記の編者は『日本書紀』を見て書いているわけではあるが、纏向遺跡が存在することに照らして、景行天皇は実在したと見られる。 西暦 247年の卑彌呼の死から一世紀近く経って後継者・臺與の時代も過ぎていた。『日本書紀』には、景行天皇が女王の倭國(筑前・筑後)に入ってから戦闘を行ったとする記述がない。景行天皇の倭國討伐の目的と、それまでの戦闘の経緯を見ると、倭國に入ってからも戦闘は行われたと想像される。景行天皇は女王國が国家として存続していると判断して纏向に帰還したと見られる。すなわち、倭國に対する大和王権の「第二次九州親征」は不成功に終った。それが『古事記』には景行天皇の倭國討伐のことが一切書かれていない理由と見られる。ただ、『古事記』にも景行天皇が日向の美波迦斯毘賣(みはかしびめ)を妃としたとは書かれている。倭國は崩壊しつつあった。それでも、女王(女神)・八女津媛はそのまま残った。伊都國王(大率)なども残った。 【41】 神功皇后は実在したか 聖德太子(593-622)の時代に『上宮記(かみつみやのふみ)』という歴史書があった。これは『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)より百年ほど古いが、現存しない。鎌倉時代の卜部兼方(うらべのかねかた 生没年不詳)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』などに逸文(引用文)として残る。『上宮記』には景行天皇と應神天皇は出てくるが、第十三代成務天皇と日本武尊、第十四代仲哀天皇、神功皇后の名前は出てこない。日本武尊の物語も、神功皇后の物語も、当時の各地に残る多くの伝承、古跡などを根拠にした「都市伝説」(本当にあったとして語られる実際にはなかった話し)かもしれない。成務天皇から神功皇后までは実在しなかった可能性がある。第四十代天武天皇(在位 673-686)の時代の『帝紀』と『舊辭』の中に現在の都道府県につながる郡県制を敷いたという「第十三代成務天皇」が初めて天皇として立てられた可能性がある。また、古代最大のヒーロー・日本武尊を父にもち、古代最大のヒロイン・神功皇后を妻にもつ「第十四代仲哀天皇」が初めて天皇として立てられた可能性がある。『帝紀』も『舊辭』も現存しないが、その逸文(引用文)が『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)となる。 百濟には「百濟三書」として『百濟記』『百濟新撰』『百濟本記』があったが、現存しない。『百濟記』は、白村江の戦い(663年)に敗れたとき百濟の宮廷から日本の朝廷にもち込まれたと見られる。 『日本書紀』の「神功皇后紀」は、『魏志倭人傳』『百濟記』『晉起居注』と対比させて慎重に「物語り作り」が進められたと見られる。 「神功皇后紀」では、摂政四十年が西暦 240年(魏の明帝景初三年)と書かれ、摂政六十六年が西暦 266年(西晉の武帝泰初二年)と書かれている。正歳四節暦(西暦)である。『百濟記』との対比では正確に干支二巡(120年)繰り上げて書かれている。したがって、本居宣長(1730-1801)は、仮に神功皇后が実在し、また、摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國に使者・斯麻宿彌を派遣したことが事実であったとすれば、それは「西暦 366年」であったと指摘できたわけであろう。 【42】 第十五代應神天皇は実在したか 第十五代應神天皇は、現在の日本人にとって重要な天皇のひとりである。應神天皇は、第十六代仁德天皇から男系が途絶えた第二十五代武烈天皇までと、第二十六代継体天皇から現在の今上陛下まで続く共通の男系祖先である。そのために應神天皇は「皇祖神」として奉られることになった。仏教が伝来すると「八幡大菩薩」と称えられた。そのために應神天皇を初代天皇とする根強い仮説もある。
西暦 265年に魏の司馬炎(236-290)が「晉(西晉)」を建国した。朝鮮半島の樂浪郡・帶方郡も晉の支配下に入った。しかし、313年に樂浪郡・帶方郡は高句麗の支配下に入る。晉が弱体化したからである。中国による樂浪郡・帶方郡の支配はこのとき終わった。316年に晉は、北方民族の侵攻によって滅亡する。
朝鮮半島西南部は「馬韓(ばかん)」として五十余りの小国に分かれていたが、その中の「伯濟(はくさい)國」の「近肖古王」(在位 346-375)が、馬韓を「百濟國」として統一した。『日本書紀』(720年)によれば、近肖古王は日本と国交を開始した。『資治通鑑』(1084年)によれば、372年に近肖古王は、初めて東晉に朝貢した。 『日本書紀』の「應神天皇紀」も、『百濟記』と対比させて慎重に「物語作り」が進められているようである。應神天皇即位の年は、『百濟記』との対比から 390年であったとされている。『日本書紀』によれば、應神天皇三年に百濟の阿花王(あかおう 在位 392-405)が即位した。百濟で阿花王は西暦 392年に即位している。しかし、逆に『百濟記』に應神天皇が西暦 390年に即位したと書かれていたわけではない。 『日本書紀』としては、神功皇后が摂政六十六年に倭國の女王・臺輿として晉の武帝に朝貢するなどの創作を挿入する必要があった。その結果應神天皇の即位の年が繰り下げて書かれた可能性がある。「神功皇后紀」によれば、摂政五十二年(372年)に(百濟の近肖古王から)「七支刀」が献上されたが、たとえば、これはその年(372年)の應神天皇(五歳)の「即位」に対する祝意だった可能性がある。神功皇后には、應神天皇の「保護者」としての期間はあったであろう。しかし、「摂政」として君臨する期間があったかどうかは分からない。『古事記』には、神功皇后が「摂政」であったとは書かれていない。
「広開土王碑」(414年)は、高句麗の第十九代好太王(広開土王 374-412)の功績を記録したものである。この碑に、391年に倭國が侵攻してきて「百濟□□□羅」(百濟・加耶・新羅)を従えたと書かれている。事実とすれば、應神天皇の時代であった可能性が高い。同碑によれば、広開土王の在位期間に倭國がしばしば侵攻し、広開土王はこれを撃退した。396年に広開土王は百濟を平定した。399年に倭國と百濟が新羅を攻撃した。400年に広開土王は新羅から倭國軍を追放した。404年に広開土王は帶方郡に侵攻する倭國軍を討った。407年に広開土王は百濟軍を討った。『日本書紀』はこの広開土王碑を見ないで書かれた。
『日本書紀』の「應神天皇紀」によれば、應神天皇十六年に百濟の阿花王が薨じた。百濟で阿花王は西暦 405年に薨じている。應神天皇二十五年に百濟の直支王(ときおう 在位 405-414)が薨じた。この百暦と対比する部分は「正歳四節暦(西暦)」で書かれている。應神天皇二十六年から應神天皇四十一年までは「春秋二倍暦」で書かれているようである。應神天皇は「西暦 421年」に五十五歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御したことにされている。 倭國が朝鮮半島に進出していたのは鉄を入手するためであったと見られる。
『日本書紀』によれば、應神天皇十四年に朝鮮半島にいた弓月王が、百二十県の人びとを引き連れ帰化して秦氏になった。また、應神天皇二十年に阿知使主(あちのおみ)とその子・都加使主(つかのおみ)が十七県の人びとを引き連れ帰化して東漢氏(やまとのあやうじ)になった。
一方、高句麗では第十九代広開土王(好太王 374-412)が死去すると、第二十代長壽王が即位した(在位 413-491)。475年に長壽王は、百濟に侵攻して首都・漢城(ソウル特別市)を陥落させた。百濟は熊津(ゆうしん 忠清南道公州市)に南遷した。高句麗は、このとき最大版図となり、百濟は領土の北半分を失った。 漢氏も秦氏も伽耶にいたが、本当は、この激動の中で、日本に移住したと見られる。それは、第十五代應神天皇の時代ではなく、第二十一代雄略天皇の時代であった可能性が高い。『日本書紀』では、秦氏と漢氏が日本で成功して有力な氏族になった「業績(結果)」を可能な限り尊重して、なるべく古く應神天皇の時代に渡来したことにしたと見られる。 第四章 【43】 女王の倭國はいつどのように衰退したか 西暦 266年に女王・臺輿(三十一歳)は、魏の後継國・西晉(初代皇帝・武帝)に朝貢したが、280年ごろから武帝は朝政を顧みなくなった。臺與が生きていれば四十五歳のころである。そのころから倭國も衰退し始める。臺與の死後も、日向神(ひゅうがみ)峡谷から巫女・八女津媛(多世代の女神)が迎えられて、これを継承したと見られる。しかし、『日本書紀』「景行天皇紀」に記されるように、女王ではなく「女神」として神格化され、山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)の女王山にいて、人前にあまり姿を見せなくなった。それでも、倭國は存在し、女神・八女津媛も伊都國王・大率も存在し続けた。
西暦 317年に西晉は北方民族の侵攻で滅亡する。北方民族は「前趙(ぜんちょう」を建国した。318年に司馬氏の一族が江南に逃れて「東晉」を建国する(初代・元帝)。
山門國の南の狗奴國(くなこく)は、熊本県の菊池川流域と白川・緑川流域の民族であったと見られる。『魏志倭人傳』に、狗奴國には「其の官」がいると述べられているので、かつて女王國に属していた可能性がある。女王國は鉄器を交易によって手に入れたが、狗奴國は製鉄ができる先進国として台頭していた。女王國はそのことを脅威に感じていたのに相違ない。しかし、時代が動いて女王の倭國を討伐するのは、狗奴國ではなく、大和王権であった。 大和王権は、そのころから吉備、宇佐、宗像を通して大陸との交易権を確立する。宗像の沖ノ島で祭祀が行われるようになった。伊都國王・大率にも、もうそれに干渉する力はなかった。 【44】 大和王権は倭國をいつどのように討伐したか 古代最大のヒーロー・日本武尊を父にもち、古代最大のヒロインでシングル・マザーとなる神功皇后を妻にもつという、そのような第十四代仲哀天皇が果たして実在したかどうかは分からない。神功皇后が実在したかどうかも分からない。『古事記』『日本書紀』より百年ほど古い歴史書『上宮記(かみつみやのふみ)』の逸文(引用文)には、前記したように、仲哀天皇・神功皇后の名前はない。しかし、大和王権の「誰か」によって「倭國討伐」は行われた。それがどのように行われたのか、以下「シナリオ」(作業仮説)として『日本書紀』に依拠して西暦 363年から 367年までの討伐の模様を復元してみる。
西暦 363年に仲哀天皇は德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいた。そのとき、「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいた。知らせを聞くと陸路南下し、水軍を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に到った。
仲哀天皇と神功皇后は、いずれも二十二歳であった。穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮神社 いみのみや)で三年間、情報を収集しながら治世をした(古事記)。周防の沙麼(さば)を水軍基地とした。 女王の倭國は、魏の「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもっている。また、女王・臺與(とよ)が魏の継承国・西晉に朝貢している。すると、西晉の継承国・東晉によって軍事上の安全を保障されているかもしれなかった。
西暦 366年(仲哀崩御を 367年としたときの前年)に崗國(をかのくに 飛鳥時代の遠賀郡)を支配していた国王・熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。熊鰐は後に大和王権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる。
また、伊都國(福岡県糸島市)の國王・五十跡手(いとで)が仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した(日本書紀)。 伊都國王はそのとき新羅王子・日桙(あめのひぼこ)の子孫と名乗ったが、日桙は第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は、その子孫である(古事記)。葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(日本書紀)。神功皇后はその母の遠く古い故郷である朝鮮半島に強い憧憬をもっていた。神功皇后は、新羅國には眩(まばゆ)い金、銀、彩色などが沢山あると考えていた(眼炎之金銀彩色『日本書紀』)。 伊都國はこのとき大和王権に併合された。五十跡手は大和王権下で伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。そもそも、伊都國王とは女王國の「大率」にほかならない。このとき、大和王権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と加盟三十餘国について全貌を知った。また、女王が山門國の女王山にいる女神・八女津媛であること。呪術者であることなどを知った。 『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の崗湊(をかのみなと)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神・大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和王権の倭國への侵攻を拒んだ。仲哀天皇が熊鰐に勧められて崗湊の二神に祝(はふり 神官)を立てて祈ったところ船が進んだ。前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座していた。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。 神功皇后は、危険を分散するために、別の軍船で洞海湾から崗湊に向かった。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見ようとした。その後、満潮を待って崗湊に着いた。 仲哀天皇は玄界灘を通って奴國に向かった。神功皇后はいったん遠賀湾を軍船で南下し、陸路奴國に向かった。神功皇后は、真紅の絹の上衣、紫色の裳を着ており、縞織物の帯に鹿の角の腰飾りを差し、皮の靴を履いていたと伝えられる。青いガラスの管玉と瑪瑙(めのう)のネックレス、緑色の翡翠(ひすい)の指輪と貝殻のブレスレットをつけていた。また、宝石のイヤリングをつけ、竹編みの笠を深くかぶって傲然としていた。当時はまだ貫頭衣を着て暮らしていた庶民は、遠くからその姿を見て驚いたであろう(河村哲夫 2001年)。 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)を行宮とした。
西暦 367年が明けると、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。
神功皇后は軍勢を率いて橿日宮を出発し、御笠川を南下した。そこから陸路で松峽宮(まつをのみや)に到り、そこを行宮とした(福岡県朝倉郡筑前町)。この神功皇后の時代になっても、日本列島に牛馬はいなかった。 神功皇后軍は、先ず層増岐野(そそぎの)において土蜘蛛・羽白熊鷲(はじろくまわし)と交戦して圧倒的な兵力でこれを討伐した。皇后はこのとき髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。 当時、御笠川と宝満川は上流を取り合ってつながっていた。皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門國である。最後の女王・八女津媛(神格化した多世代の女王)はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいる。 神功皇后とその水軍は、これを大和言葉で「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)」(たぶらかしの女性呪術者)という蔑称で呼んで誅殺した。八女津媛が殺されたので、その兄・夏羽の軍は四散した。これが山門國の滅亡であった。 大和王権としては五年をかける国家としての大事業であった。神功皇后も二十六歳になっていた。しかし、『日本書紀』には「轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」と書かれているだけである。 倭國の滅亡が上記の通りであったとは限らない。『古事記』には、このような神功皇后による「倭國討伐」の話しは出て来ない。『古事記』には、伊都國王・五十跡手の帰順の話しなども出て来ない。 【45】 第十二代靈帝の「中平」の鉄刀は武振熊に下賜されたか 西暦 184年すぎに、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が卑彌呼に下賜された。西暦 184年すぎの日本列島で、後漢の樂浪郡に朝貢する機会と理由があったのは、山門國の女王山にいた女王・卑彌呼だけであった。西暦 280年以前に、奈良盆地に葦原中國など何らかの王国が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はなく、それは皆無である。 この太刀は、卑彌呼からその後継者・臺輿(235-没年不詳)へ相続されたであろう。また、臺與からその後継者・八女津媛(多世代の女王)に代々相続されたであろう。それゆえに、この太刀が奈良盆地から出土する理由はない。 昭和三十六年(1961年)に、この太刀は、四世紀後半の「東大寺山古墳」(奈良県天理市)から他の副葬品に混じって発掘された。武振熊(たけふるくま)とその一族を埋葬した古墳である。刀身は錆(さ)びてぼろぼろであるが、真正の後漢製であることが分かっている。
この太刀は、山門國の女王山にあったが、水軍の将軍・武振熊によって戦利品(盗品)として奪われた可能性が高い。それが、この鉄刀が後漢の第十二代皇帝・靈帝から贈られたものであるのも関わらず、現皇室に伝わっていない理由であろう。それとも、この鉄刀は、出土地が「東大寺山古墳」であったことから判断して、「誰か」が「何か」の理由で武振熊に下賜したものであろうか?
【46】 山門國はその後どうなったか 前方後円墳は初めは纏向とその周辺で大和王権の祖霊神を祀るために築造されていた。日本最初の前方後円墳は「纏向石塚古墳」である。纏向石塚古墳は「220年」ごろ築造されたと考えられていた。表の「那珂八幡古墳」も三世紀中葉の築造と考えられていた(Wikipedia)。2020年にケンブリッジ大学が公表した炭素 14年代測定更正曲線「IntCal20」によって「纏向石塚古墳」は「280-310年」の築造であることが分かった。 女王の倭國内の初期の前方後円墳
福岡県みやま市とその周辺も「山門國」から「山門縣(やまとのあがた)」となった。山門縣でも、前方後円墳が築造された。「車塚古墳」(みやま市瀬高町山門)は、古墳時代中期の「前方後円墳」と見られる。周囲に幅 3.6メートルの環濠があったようである。江戸時代に、一部に金を施された銅鏡三面が出土している(現存しない)。
【47】 最期の女王の墓はどこにあるのか
女王山(ぞやま 福岡県みやま市瀬高町大草)の麓に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる墓がある。この墓は江戸時代まで「女王塚」と呼ばれていた。最後の女王・「田油津媛」の墓と伝えられる。この「蜘蛛塚」からも、正確に春分の日と秋分の日に女王山の「聖域」から日が昇るのが見える。
仮に「田油津媛」の墓とすれば、殺されたのが西暦 367年(『日本書紀』に依拠する推定)であるので、当時はもう「墳丘墓」の時代ではなく「古墳」の時代である。
地域にとって八女津媛の誅殺はとてつもない重い事件として語り継がれた。地震や恐慌その他ちょっとした天変地異が起きても「祟(たた)り」と恐れて造営されたのではないかと見られる。女王塚は、雨が降ると血が流れると言われたようなので、埋葬に水銀朱が用いられたようである。
明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。明治政府に対して地域では、この古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、現在に至る(みやま市指定文化財)。 【48】 中国はその後の大和王権をどのように認識したか
西暦 265年に司馬氏は帝位に就いて国号を「晉(西晉)」と改めた。北方民族の侵攻でその西晉が滅亡すると、318年に司馬氏は華南に逃れて「東晉」を建国した。
西暦 413年に「倭國王」が東晉の第十代皇帝・安帝(在位 396-419)に朝貢した(義熙九年是歳高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 『晉書』安帝紀)。しかし、東晉はもう倭國王を特別扱いしなかった。 この「倭國王」は第十五代應神天皇(推定在位 390-421)であった可能性が高い。その後の宋(420-479)も、倭國を周辺小国としか見なかった。このことは、東晉も宋も「倭の五王」の大和王権を卑彌呼の「倭國」の後継国とは見なかったことを物語る。
『隋書』は西暦 636年に唐の時代になって魏徴(ぎちょう 580-643)が編纂した史書である。その卷八十一列傳第四十六東夷に「俀國(たいこく)」の条がある。これを通称『隋書倭國傳』という。そこに西暦 600年以来の 4回の遣隋使のことや推古天皇の治世の様子を記している。
隋では『魏志倭人傳』を通して古くから倭國の首都国・邪馬臺國のことや卑彌呼のことが知られていた。ところが、そこへ倭國からの遣隋使が首都国・大和(やまと)國から来ましたと名乗った。それゆえに、『隋書倭國傳』には、倭國は邪靡堆(やまと)を都とする。すなわち、『魏志倭人傳』の言うところの邪馬臺(やまたい)である。と書かれた(都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)。これは、魏徴が『隋書』を書く上で魏の時代の女王の邪馬臺國と隋の時代の大和政権の邪靡堆國とを混同したものと見られている。
西暦 701年に日本では文武天皇の時代に『大寳律令』が完成した。これによって、日本も唐に学んで律令国家となった。西暦 702年に大和朝廷は第八次遣唐使に『大寳律令』をもたせた。このとき遣唐使は初めて倭國からではなく、「日本國」からの朝貢であると名乗った。正使は『大寳律令』の編纂に加わった粟田眞人(あわたのまひと 640頃-719)であった。真人は東夷人でありながら容姿端麗であり、中国のエリート官僚(科挙の上位合格者)のように『四書五経』を読み、自ら文章を書くとして唐で絶讃されている。
眞人が訪れた当時の唐は、中国史上唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう 武則天 624-705)の政権下で、国号は武后が改めた「周」(690-705)であった。「武周王朝」と呼ばれる。武后は高宗(628-683)の皇后で、高宗の死後に中宗(656-710)が即位したが、二か月で政権を掌握。その後の中宗の弟・睿宗(662-716)が即位するも傀儡(かいらい)であった。武后の死の直前の705年に中宗は復位し、国号も唐に復している。
『舊唐書』(くたうじょ 945年)は後晉(936-946)の時代に書かれた史書である。唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれている。その第百九十九巻「日本國」の条に粟田眞人の証言に基づいて次の意味のことが書かれている。すなわち、日本國はもと小国であったが、倭國の地を併合した(日本舊小國併倭國之地)。
西暦 704年に粟田眞人は帰国の途についた。白村江の戦い(663年)で捕虜になっていた者を連れて帰朝した。 図は明の時代の 1532年に描かれた『四海華夷總圖』である。「日本國」と「大琉球」との間に「倭」が描かれている。中国では、魏に朝貢した「倭國」は日本國に併合されて後も九州に存在するとして長く信じられていたことが分かる。 第五章 【49】 古代の政権の中枢にユダヤ人はいなかったか 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。古くは開封のほかにも幾つかの都市にコミュニティがあったようである。ユダヤ人は神に撰ばれた民であるという「撰民思想」をもつ。そのため、一定数のコミュニティを形成できなければ、その血統(種)は自然に消滅しやすい。開封のユダヤ人は時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。古代イスラエルには、多くの「祭司 (コーエン Cohen)」がいた。「祭司」は世襲であった。「コーエン家」は現在まで続く。ウィリアム・コーエン(William Cohen) は、アメリカの国防長官であった(在任 1997-2001)。また、エリ・コーエン(Eli Cohen)は、エルサレムのユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、空手五段であったが、駐日イスラエル大使を務めた(在任 2004-2007)。現在のすべての「コーエン」は、モーゼの兄・アロンの子孫であると信じられている。モーゼやアロンが実在したかどうかは分からないが、Y染色体 DNA型の追跡から、すべての「コーエン」は、共通のひとりの男性祖先にさかのぼる可能性が高い。その染色体は「アロンY染色体(Y-chromosomal Aaron)」と呼ばれる。 魏は、西晉(265-316)によって後継されたが、その西晉は、北方異民族の侵攻によって滅亡する(316年)。長安も陥落した。古い都の洛陽も陥落した。男は殺され、女は連れ去られた。中国大陸は、北方異民族が支配する「五胡十六國」の時代となる。その動乱の中で、漢族など大量の難民(ボート・ピープル)が日本に流入したと見られる。日本は古墳時代であった(Science Advances 2021)。それに混じって、相当数のユダヤ人が日本に流入した可能性が高い。その中に「アロンY染色体」をもつ世襲の「コーエン」がいた可能性がある。 現代の日本人の間にユダヤ人の DNAはない。秦氏もユダヤ人ではない。日本に流入したユダヤ人は、日本にユダヤの文化や風習を伝え、日本で尊敬され、そして、自然に消滅した。コミュニティを形成することができなかったからであると見られる。 しかし、「コーエン」は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和王権の中枢で祭祀を司る「中臣(なかとみ)氏」として頭角を現した可能性がある。また、読み書きできる人が少ない時代、第四十代天武天皇の時代の『帝紀』『舊辭』の編纂に「史」(ふひと・読み書きを担当する役人)として加わった可能性がある。また、『日本書紀』の編纂にも「史」として加わった可能性がある。 第十代崇神天皇は、『日本書紀』に書かれる事績が詳細にわたることから、実在したと判断されることが多い。では、崇神天皇は仮に実在したとして、その功績は事実だったのであろうか? 『旧約聖書』によれば、カナン(葦原)の地のユダヤ人十二支族は、ダビデ王(BC1040-BC961)のときに「イスラエル王国」として統一された。一方、『日本書紀』によれば、崇神天皇は、四道将軍として大彦命(おほひこのみこと)を北陸道に、武淳川別(たけぬなかはわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西道に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)丹波にそれぞれ派遣してそれらの地方を支配下に収めた。『日本書紀』は、崇神天皇が、あたかもダビデ王と互角であると述べているかのようである。もっとある。『旧約聖書』の「サムエル記下巻 24:15」によれば、ダビデ王の時代に三年間の飢饉と疫病によって七万人の民が死んだ。一方、『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に疫病が三年間流行り、民の大半が死んだ(國内多疾疫民有死亡者且大半矣)。ダビデ王は天なる神に祈った。崇神天皇は天神地祇に祈った。「サムエル記下巻 8:14」によれば、ダビデ王は「エドムの地」で戦った(He put garrisons throughout Edom)。『日本書紀』によれば、崇神天皇は「挑(いどみ)の河」で戦った(各相挑焉故時人改號其河曰挑河)。「サムエル紀下巻 24:2」によれば、ダビデ王は初めて人口を調査した。『日本書紀』によれば、崇神天皇は初めて人口を調査した(秋九月甲辰朔己丑始校人民)。ダビデ王の子・ソロモン王は天なる神を祀(まつ)るために「イスラエル神殿」を創建した(現在はヘロデ王の時代の「嘆きの壁」が残る)。一方、崇神天皇の子・第十一代垂仁天皇は、天照大神を祀るために「伊勢神宮」を創建した。 崇神天皇の事績は『旧約聖書』を鑑(かがみ)にして創作された物語かもしれない。 『日本書紀』によれば、崇神天皇は、晩年に吉備津彦と武淳河別を出雲に遣わして、出雲振根(いづものふるね)を誅殺させた。これによって山陰道は葦原中國の支配下に入る。しかし、『古事記』によれば、山陰道を平定したのは、第十二代景行天皇の子・日本武尊であった。東海道を平定したのも日本武尊であった。 以上のことから、崇神天皇の功績が『日本書紀』で伝えられる通りであったかどうかは分からない。 【50】 神武天皇はなぜ「東征」したことにされたか 『旧約聖書』によれば、アブラハムは「ダガーマ地方のハラン(Harran)」にいたが、孫のヤコブはイスラエルの地でユダヤ人の始祖となる。一方、『記紀』によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原(たかまがはら)にいたが、高千穂に降臨して大和民族の始祖となる。ヤコブは、ラケルと結婚し、その父からラケルの姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。一方、瓊瓊杵尊は薩摩半島の吾田國(あたのくに 薩摩國閼駝郡)の笠沙(かささ)の國神(くにつかみ)の娘・木花開耶媛(このはなのさくやびめ)と結婚し、その父から木花開耶媛の姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。ヤコブはラケルとの間にヨセフを産むが、ヨセフは兄にいじめられてエジプトに行く。ヨセフはエジプトの祭司の娘と結婚してエフライムを産む。エフライムの四番目の息子べリアの子孫・ヨシュアがイスラエルの地を征服する。一方、瓊瓊杵尊は木花開耶媛との間に山幸彦(彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと)」を産むが、山幸彦は兄(海幸彦)にいじめられて海神(わたつみ)の國に行く。山幸彦は海神の娘・豐玉媛(とよたまひめ)と結婚して鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産む。鸕鶿草葺不合尊の四番目の息子・神武天皇が葦原中國(あしはらのなかつくに)を征服する。『旧約聖書』は「天地創造」から始まり、ヘブライ人に撰民思想(神に撰ばれた民という思想)を保障している。『日本書紀』も「天地創造」から始まり、日本人に神国思想を保障している。『記紀』は、あたかも日本という国が少なくとも古代イスラエルと互角であると述べているかのようである。『記紀』は、紀元前十三世紀ごろモーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、瑞穂(みづほ)の國(「ミヅラホ」はヘブライ語で「日出ずるところ」の意)に東征して「カナン(ヘブライ語で「葦原」の意)」の地に至ったことを「知って」いて編纂されたのではないかと見られる。すなわち、初代神武天皇が、モーゼと互角の建国者であるためには、神武天皇に何としても「東征」してもらう必要があったようである。 『日本書紀』によれば、第十二代景行天皇は大和王権による九州親征のとき、高屋宮(たかやのみや 西都市または宮崎市)を行宮とした。景行天皇は日向國の美波迦斯毘賣(みはかしびめ 御刀媛)を后(きさき)とした。日向隼人は、その後も第十五代應神天皇と第十六代仁德天皇にそれぞれ日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)と髪長媛(かみながひめ)を妃として嫁がせた。これらは畿内の皇室としては極めて異例なことであった。仁德天皇と髪長媛との間に生まれた幡梭(はたび)皇女は第二十一代雄略天皇の后になった。 『大寳律令』(701年)が完成した。 隼人は筑紫の女王國のような政権国家ではなかった。このとき九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となり、日向は律令国家と隼人民族の事実上二国が併存した。隼人は何としても政権に服さないので、702年に日向國が分割され、薩摩國府が現在の薩摩川内市に置かれて国守が配属された。それでも隼人はたびたび反乱を起こした。和銅六年(713年)には日向國が再分割され、大隅國府が現在の霧島市に置かれて国守が配属された。これで九州は九か国となった。それでも薩摩隼人と大隅隼人は、独立意識をもっていた。西暦 720年に隼人の大規模な反乱が起きた。大隅國守・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害された。 『記紀』では、神武天皇の故郷を隼人の国としているが、そのような状況の中で編纂されたものであり、隼人族に対する融和策であった可能性がある。大和王権の祖先は、前記したように、九州北部に「二種の神器」などをもって渡来した江南人であった。そのために、『記紀』では崗國(をかのくに 福岡県遠賀郡)が神武東征の出発点とされたと見られる。 【51】 『帝紀』『舊辭』とは、どのような史書であったか 「壬申(じんしん)の亂」(672年)は、古代史上最大の戦乱であった。天智天皇の子・大友皇子に対して天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して第四十代天武天皇(在位 673-686)となった。天武天皇は、681年に川島皇子(かはしまのみこ 657-691)、忍壁皇子(をさかべのみこ 生年不詳-705)等に命じて、『帝紀』と『舊辭』を編纂させた。それらは、皇室の系譜と物事を記したものであったと見られる。現存しない。天武天皇がそれらの史書を必要としたのは、壬申の亂を経て皇位に就いたわけであるから、自らの皇位の正当性を主張するためであったと見られる。『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)よりも古い歴史書であった。 ユダヤ人が、『帝紀』『舊辭』の編纂に「史」(ふひと)として加わった可能性がある。それは、『記紀』の神話の中に『旧約聖書』の内容を反映すると見られる箇所が共通して多く散見されるからである。 【52】 『古事記』は「誰」によって書かれたか 壬申の亂で大友皇子のほうについた中臣一族は、これですべてを失った。その中で、藤原不比等(ふひと 659-720)は、抜きん出て聡明な人であった。法律学と文筆に優れていた。それも稀代の才能をもっていた。不比等は、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることがない。そのような人であったようである。モーツアルト(1756-1791)は三十分くらい音楽を聴くと、聴き終わってそれを最初から最後までさらさらと楽譜に書けたという。不比等もその水準の天才だったのではないかと見られる。本来ならば、藤原不比等は、大化の改新の最大の功労者である中臣鎌足(614-669)の子として、高い地位が保証されていてもよかったが、一官人として出仕するほかはなかった。その「不遇」が、古代史上、不比等に稀代の才能に加えて権謀術数(けんぼうじゅっすう)の比類ない知恵をもたらしたようである。「天岩戸の神話」は、日本神話の中でも最も重要な地位を占めている。太陽がなければすべての生命は死に絶える。天皇は天照大神の子孫であるから、この神話は、天皇に逆らったり、重大な罪を犯す者がいると、天皇の祖先である天照大神が怒ってこの世を闇にしてしまうかもしれないという天皇支配の正当性を教える神話である。その神話の中では、天照大神を天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した。中臣氏は、天児屋命を始祖として、朝廷の祭祀を司る氏族であった。藤原不比等はその直系の第二十四代児屋(こやね)であった。とされる。この神話は、天皇支配の正当性を伝えると同時に、中臣氏である藤原不比等の立場を反映して、その始祖の「コーエン(あめのこやねのみこと)」の功績を称える成功神話のようである。
『帝紀』『舊辭』ができたとき、不比等は(数え)二十三歳であった。不比等が、それらを読んでみると、その内容は、壬申の亂で大友皇子のほうについた敵方の中臣一族のことは書かれていなかったと見られる。端的には、「天児屋命」のことも書かれていなかったと推定される。不比等にとっては、存在してはならない書であったのに相違ない。
元明天皇(女帝 在位 707-715)は、二十六歳の時に藤原不比等・二十八歳と出逢った。不比等は聡明な人の誉れ高く、この「二十八歳」は、その後、元明天皇と藤原不比等の「暗号」になったという(梅原猛『神々の流竄(るざん)』1985年)。 『古事記』の序文によれば、第四十代天武天皇(在位 673-686)は、生前、稗田阿禮(ひえだのあれ)に『帝紀』と『舊辭』を誦習せよと命じていた(時有舎人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心即勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭)。和銅四年(711年)九月十八日に、第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715)が、太安万侶(おほのやすまろ 生年不詳-723)に命じて、阿禮が記憶する内容を筆録させた。それは、和銅五年(712年)一月二十八日に完成して元明天皇に献上された。そのようなことになっている。 すなわち、『古事記』の序文によれば、ひとりの舎人がいた。姓は稗田、名は阿禮。年は二十八。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。この稗田阿禮は、生没年不詳、出自不詳で、前後の歴史がなく、歴史上ここに出て来るだけである。天武天皇の生前、『帝紀』と『舊辭』は存在していた。それらの編纂者・川島皇子も忍壁皇子も存命であった。それゆえに、天武天皇が、第三者である誰かにそれらを誦習するように命じる必然性はなかった。天武天皇が命じたとされるその時点とは、藤原不比等が二十八歳のときであった。元明天皇が藤原不比等と出逢った年である。 大寳元年(701年)に『大寳律令』が完成した。これは、第四十一代持統天皇(在位 690-697 以後上皇)と第四十二代文武天皇(在位 697-707)の勅命によって編纂された。 「八月三日 三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)・伊餘部連(いよべのむらじ)馬養(うまかい)らに命じて、大寶律令を選定させていたが、ここに初めて完成した」 (續日本紀) 『大寶律令』の実質的な編者は、藤原不比等・三十三歳であった。『大寶律令』によって日本も律令国家となり、天皇を中心として「神祇官」と「太政官」の二官が置かれた。「太政官」の下に「中務省」「式部省」「治部省」「民部省」「大蔵省」「刑部省」「宮内省」「兵部省」の八省が置かれた。これによって、過去の豪族政治に訣別し、天皇を中心とする中央集権体制が確立した。
『續日本紀』には、『日本書紀』(720年)については、それが完成したことが書かれているが、『古事記』(712年)が完成したことは書かれていない。また、太安万侶は『古事記』が完成したことによって昇進していない。元明天皇の勅命とは、藤原不比等に対する暗諾の勅命であった可能性がある。また、献上も、元明天皇に最も近い藤原不比等によって行われたと見られる。『古事記』は公開されなかった。元明天皇のための私的な史書であった。
元明天皇は『古事記』を手にしたとき、稗田阿禮二十八歳が本当は藤原不比等本人であることを、即座に察知したという(梅原猛 1985年)。
藤原不比等は、一官人として出仕する中で、第四十一代持統天皇(女帝 在位 690-697)に見い出され、第四十二代文武天皇(在位 697-707)・第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715)・第四十四代元正天皇(女帝 在位 715-724)の四代の天皇に仕えた。また、文武天皇から元正天皇に至る、三代の天皇の擁立に貢献した。藤原不比等は、法による支配を確立し、中央と地方のすべての豪族に対して、天皇を戴かせた。天皇は、和同開珎(わどうかいほう わどうかいちん)を鋳造し(708年)、平城京に遷都し(710年)、史書『古事記』をもつことができた(712年)。そのような藤原不比等に、元明天皇も元正天皇も自らの立場を強く守られていると感じていたと見られる。
【53】 『帝紀』『舊辭』は「誰」によって隠滅されたか 『續日本紀』には、『日本書紀』の完成について、極めて簡略に記載される。「養老四年五月二十一日これより先に第一親王である舎人親王は、勅命をうけて日本紀の編纂に従っていたが、このたびそれが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上した」 国家としての一大事業であったにもかかわらず、藤原不比等は、編纂プロジェクトがどのような陣容で成り立っていたかを『續日本紀』に書かせなかったと見られる。最高権力者である己が検閲者であったというのでは歴史書にならなかったからであろう。 しかし、それから、二か月余り後のことであった。 「養老四年八月一日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が病気になった」(續日本紀) この日、第四十四代元正天皇(女帝 在位 715-724)は次のように詔した。 「右大臣・正二位の藤原朝臣は、病にかかって寝食もままならない。朕はその疲労のさまを見て、心中あわれみいたんでいる。その平復を願っているが、なす術(すべ)がない」(續日本紀) 不比等は 712年に『古事記』を元明天皇に献上したときからこのときまでに、『帝紀』と『舊辭』を隠滅していた(焼き捨てていた)のではないかと筆者は推定している(梅原猛も、どこかに書いているかもしれない)。『帝紀』と『舊辭』が存在しないことが、『古事記』の存在理由であったからである。 「養老四年八月三日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が薨(こう)じた」(續日本紀) 不比等は、『日本書紀』が完成したことを見届けると、拒食・拒眠によって自死したようである。それは、「大化の改新」の中臣鎌足(614-669)の子として高い地位が約束されていたにもかかわらず、「壬申の亂」で敗れて(敵方の大友皇子について)すべてを失い、一官人として出仕するほかなかった、藤原不比等の生涯の「戦争」であった。それを勝ち抜いて、ここに「中臣神道」が完成したからではないかと推定される。 『古事記』は、不比等の死去の翌「721年」に元明天皇の崩御に伴い、その遺品として元正天皇によって公開されたようである。これが、『日本書紀』(720年)に『古事記』(712年)が引用されていない理由と見られる。公開されたとき、稗田阿禮(生没年不詳・出自不詳)が本当は藤原不比等であったこと(梅原猛)に思いを致す人はもういなかった。 【54】 地域の「邪馬臺國自虐史観」とは何か 日本には「皇國史観」という歴史観がある。これは、我が国の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする。倫理的には、それによって天皇に忠義を尽くすことが美徳であるとされる。明治時代から第二次世界大戦に至るまで、日本が大日本帝國であった時代には、皇國史観は政府公認の歴史観・道徳観であった。その中で、國家神道は、近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神を皇室の祖先神とし、これを祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。しかし、昭和二十年(1945年)に第二次世界大戦で日本が敗戦したとき、これを「終戦」と呼ぶ蟠(わだかま)りの中で、一部の人びとは「自虐史観」という歴史観をもつに至った。これは、皇國史観を徹底的に否定する。そのために、さしあたり『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の内容を否定する。あるいは、古代の天皇の存在を否定する。というものであった。
この第二次世界大戦における敗戦の時と同じことが、山門國の滅亡のとき(推定 367年)に福岡県みやま市・柳川市とその周辺で起きた。一部の人びとは、強い「邪馬臺國自虐史観」をもつに至った。
この地域は、前記したように、江南人の上陸の地であった可能性がある。ここが高天原であったとする伝承がある(Wikipedia/山門郡)。現在でも、日向神(ひゅうがみ)峡谷は天照大神の生誕地として信じられている。地域では、王位継承の殺し合いも、太陽神を祀(まつ)る日向神(ひゅうがみ)峡谷から多世代の女神である卑彌呼、臺與、その後の歴代の巫女・八女津媛を女王山に迎えることによって乗り切った。
八女津媛は、倭國が衰退して行く中で神格化されて女王山にいた(日本書紀・景行天皇紀)。最後の八女津媛が、神功皇后とその水軍によって「土蜘蛛・田油津(たぶらつ)媛」(たぶらかしの女性呪術者)の蔑称で誅殺されると(日本書紀・神功皇后紀)、地域では女王山を女山(ぞやま)と呼ぶようになった。田油津媛の墓(みやま市瀬高町大草)は江戸時代まで女王塚と呼ばれていたが、明治十四年に神功皇后の肖像画入りの最初の紙幣が発行されると、地域の教育委員会は明治政府に遠慮してこれを「蜘蛛塚」に改称した。
この「山門國自虐史観」は、その身にならなければ、我われ第三者が本当に理解することは困難である。それは、幾重にも深い。 現在全国には「邪馬台国」を自称する地域がおびただしい数にのぼる。地域の町おこしや村おこしのためのようである。この地域(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)でも、それらの地域と同じように「卑弥呼の里」などと称して表面的なレベルで楽しい行事などを開催するのはよい。しかし、根源的なレベルで「山門國自虐史観」の強い空気に逆らうことはできない。たとえば、「権現塚」について「春分の日と秋分の日に正確に女王山の「聖域」から日が昇るのが見える地点に築かれている」と紹介するにも「地元の一郷土史家・村山健治説としては」という枕詞(まくらことば)をつけて地域を守る。 地域のこの「邪馬臺國自虐史観」は、第三者である我われは、これを尊重しなければならない。しかし、この山門國が邪馬臺國であった可能性が高いことは、地域として尊敬されるのに値する。 【55】 我われ日本人は漢族の子孫か 黄河中・下流域の中原(ちゅうげん)の地では、豊かな中華文明が築かれた。そこにいた人びとは「漢人(Han)」と呼ばれた。それは、劉邦(BC 247- BC 195)が漢を建国(BC 206年)したことによって、そのように呼ばれるようになった。漢人は、四方の東夷・南蛮・西戎・北狄にその高い文明を憧憬されながら少しずつ生活圏を拡大して行った。周囲との混血を繰り返しながら、現在の「漢人」が社会的概念として構成されたと見られている。漢人は、現在の中国の民族識別工作では「漢族」とされている。漢族は、中華人民共和国の少数民族を含めた総人口の 94パーセント以上を占める。江南人である湖南省出身の毛沢東(1893-1976)も漢族とされている。我われ日本人が常識的に「漢民族」というときは、この「漢族」のことを指している。 この漢族が、古代に「東アジア人」として日本列島に流入し、現代の日本人の遺伝子の 70~80パーセントを占めることが分かっている。
一方、朝鮮半島北部から西遼河流域にかけて朝鮮族が住んでいた。この朝鮮族が、古代に「東北アジア人」として日本列島に流入し、現代の日本人の 10~15パーセントを占めることが分かっている。
現在の日本人は、その内訳は漢民族が 70~80パーセントであり、朝鮮族と縄文人がそれぞれ 10~15パーセントずつといえる。 現代の日本語はアルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、北東アジアから流入した朝鮮族の古代朝鮮語が基盤になっていると見られている。すなわち、我われ現代の日本人は古代朝鮮語を話しているわけである。 東アジア人(漢民族)や東北アジア人(朝鮮族)がいつ日本に流入したかについては、学者の間でも見解が分かれている。
ひとつは「大陸から一回流入説」(東大 2024年)である。
弥生時代の BC 383(±22)年に朝鮮半島から人びとが流入し「土井ヶ浜弥生人」(山口県下関市)として人骨を残した。その人骨の細胞核の DNAを調べた結果、すでに東アジア人(漢民族)の遺伝子と朝鮮族の遺伝子をもっていて縄文人と交雑していた。現代日本人はその子孫である。という説である。 すると、土井ヶ浜弥生人は古代朝鮮語(現代日本語の原型)を話したと見られることになる。 もうひとつは「大陸から二回流入説」(金沢大学 2021年)である。 縄文時代の BC 1498(±825)年に北東アジア人(朝鮮族)が流入して全人口の 40パーセント近くを占めた。古墳時代の西暦 205(±175)年に東アジア人(漢民族)が流入して全人口の 65パーセント近くを占めた。現代日本人はその子孫である。という説である。すると、日本人は、北東アジア人(朝鮮族)が流入した BC 1498(±825)年ごろから古代朝鮮語(現代日本語の原型)を話したが、古墳時代の西暦 205(±175)年に東アジア人(漢民族)が流入するも、さみだれ式の流入であったので、日本語は漢語にはならなかった。と見られることになる。 関連年表
参照文献
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