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   やまと(山門)が大和王権の故郷だった   


─ 日本古代史の科学的検証 ─





入口紀男

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【趣旨】

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 令和八年一月に筆者は、福岡県みやま市の山奥に「日向神峡谷(ひょううがみきょうこく)」を訪ねた。時どき小雪が舞う寒い日であった。地域の陶芸家の方に案内してもらった。矢部(やべ)川沿いに国道 442号線を行くと、やがてダム湖が見え始める。湖面の標高は、約三百メートルである。左手に大きな銀杏の木が見えてきた。その奥に日向神社(ひゅうがみしゃ)がある。ここは天照大神の生誕の地であるという。
 日向神社は、天照大神から十二代目の月足彦(つきたしのひこ)と月足媛(つきたしのひめ)によって創建されたと伝えられる。石段の傍らには猿の石像が祀ってあった。猿は遠く矢部川河口の黒崎にまで汐を汲みに通ったという。
 広い境内では「ほんげんきょう」(どんど焼き)の準備が行われていた。ひとりの方が陶芸家の方に見覚えがあるといって挨拶に来られた。土地の「月足さん」であった。「湯瀬(ゆのせ)」の場所を、その月足さんに教えてもらった。
 湯瀬は対岸の日向神社から見える低いところにあった。観光化とは無縁のところである。ただ泉水を池にこんこんと流し落としているだけであった。しかし、よく見ると、かすかに湯気が立っている。筆者は、手を浸すと確かに温もりを感じて、ぞわっと鳥肌が立った。
 日向神峡谷にはいつの世にも女神がいて太陽神を祀ったようである。女神は、時に「八女津媛(やめつひめ)」と呼ばれた。初代の女神を天照大神とすると、邪馬臺國(やまとのくに)に女王として迎えられた卑彌呼は第十二代、大和王権に「田油津媛」(たぶらつひめ 狂(たぶ)らかしの女性呪術者)の蔑称で討伐された女神は第十七代である。そのことをここで活字にすることこそ、大和王権のタブー(禁忌)のひとつだったのではあるまいか。
「女王國」について公開された中国最古の文献は陳壽(ちんじゅ)の『魏志倭人傳』(285年)ではない。それは魚豢(ぎょかん)の『魏略』(257年)であった。『魏略』(257年)には、朝鮮半島北部の帶方郡から女王國までは「万二千餘里」、末盧國から「東南五百里」で伊都國に到るなどと書かれている。『魏略』には「水行二十日」「水行十日陸行一月」といった重要な文言が出てこない。
 本書は、前著『邪馬臺國』(自由塾 2022年)を執筆したころまでに知られていなかったことに光をあて、これまでどっさりと積み上げられてきた様ざまな仮説を科学的に検証して事実を明らかにすることを目的としている。
 筆者は、生命体画像工学を専門とする自然科学者である。また、熊本大学大学院において二十年間社会文化科学の教授の任にもあった。数学や物理学などの自然科学の分野では、多くの場合に正解は「ひとつ」である。一方、社会文化科学の分野では正解が「ひとつ」とは限らない。そこに社会文化科学の難しさがある。それでも、社会文化科学は、仮説を立て、検証し、進歩するという科学としての属性をもっている。
 古代の日本に起きた事実は「ひとつ」である。それは、一体どのようなものであったのだろうか? 本書が読者の皆さまの知的好奇心に何か訴えるものがあれば幸いである。しかしながら、本書は筆者が浅学菲才の身でこれを執筆したものである。ご叱正くださればさらに幸いである。






目次

趣旨

第一章 皇祖神(大和王権の祖先)の九州上陸

   【 】 「縄文人」とはどのような人びとであったか
   【 】 「弥生人」とはどのような人びとであったか
   【 】 我われは、弥生人と話すことはできたか
   【 】 稲作はいつどこから伝わったか
   【 】 弥生時代にはどのような墓が造られたか
   【 】 「江南人」とはどのような人びとであったか
   【 】 江南人はどこに上陸したか
   【 】 天照大神は実在したか
   【 】 天照大神は『魏志倭人傳』の卑彌呼と同一人物か
   【 10 】 卑彌呼は天照大神を初代の日の巫女として第何代か
   【 11 】 江南人は九州のどこで繁栄したか
   【 12 】 「いはれびこ」は実在したか
   【 13 】 「伊都國」も江南人の国であったか 

第二章 大和王権の祖先の瀬戸内海方面への流落

   【 14 】 日本列島最初の「連合王国」はどこにあったか
   【 15 】 大和王権の祖先はなぜいつどこから東遷したか
   【 16 】 瀬戸内海、日本海へ流落したやまと民族はどうなったか
   【 17 】 「纏向(まきむく)遺跡」は誰の宮殿の址か
   【 18 】 「邪馬臺國畿内説」とは何であったか
   【 19 】 「箸塚古墳」は誰の墓か
   【 20 】 「大和」はなぜ「やまと」と呼ばれるのか
   【 21 】 神武天皇は紀元前 660年に即位したか
   【 22 】 神武天皇には「闕史八代」の天皇が続くのか
   【 23 】 日本古代史にどのような「作業仮説」が可能か

第三章 邪馬臺國の出現   

   【 24 】 古代中国で歴史はどのように記録されたか
   【 25 】 末盧國までの「萬餘里」はいつ知られたか
   【 26 】 末盧國から伊都國へはなぜ「東南」か
   【 27 】 卑彌呼・臺與の故郷はどこか
   【 28 】 卑彌呼の「倭國」はどのように成立したか
   【 29 】 「邪馬臺國」か「邪馬壹國」か
   【 30 】 邪馬臺國までの萬二千餘里はいつ知られたか
   【 31 】 そのとき卑彌呼は何歳であったか
   【 32 】 「短里」による測定は行われたか
   【 33 】 「會稽東治之東」とはどこか
   【 34 】 「放射説」は採用できないのか
   【 35 】 卑彌呼はどうやって「親魏倭王」となり得たか
   【 36 】 歴史家・魚豢(ぎょかん)は何を採録できたか
   【 37 】 「誰」が倭國を遠方の大国と宣伝したか
   【 38 】 『魏志倭人傳』は幾つの史資料からなるか
   【 39 】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか
   【 40 】 卑彌呼の墓はどこにあるのか
   【 41 】 不彌國から邪馬臺國まで何日かかったか

第四章 卑彌呼・臺輿の時代の天皇は誰か

   【 42 】 卑彌呼の時代に天皇はどこにいたか
   【 43 】 「纏向」の王権はいつどのようにして出現したか
   【 44 】 神道と神社はいつどのようにして出現したか
   【 45 】 鹿島・香取・伊勢の三神宮はなぜ祀られたか
   【 46 】 崇神天皇の時代に女王の倭國は存在したか
   【 47 】 日本列島に漢民族はいつ大量に流入したか
   【 48 】 第十二代景行天皇は実在したか
   【 49 】 神功皇后は実在したか
   【 50 】 第十五代應神天皇は実在したか

第五章 邪馬臺國の衰退と滅亡

   【 51 】 女王の倭國はいつどのように衰退したか
   【 52 】 大和王権は倭國をいつどのように討伐したか
   【 53 】 靈帝の「中平」の鉄刀は誰に下賜されたか
   【 54 】 山門國はその後どうなったか
   【 55 】 「親魏倭王」の金印はどこにあるのか
   【 56 】 最期の女王の墓はどこにあるのか
   【 57 】 東晉以降の王朝は日本をどのように認識したか
   【 58 】 地域の「邪馬臺國自虐史観」とは何か

第六章 『古事記』『日本書紀』は誰が書いたか

   【 59 】 『帝紀』『舊辭』とはどのような史書であったか
   【 60 】 伊弉諾尊・伊弉冉尊はいつから「皇祖神」か
   【 61 】 『古事記』は「誰」によって書かれたか
   【 62 】 『帝紀』『舊辭』を「誰」が隠滅したか
  

関連年表
参照文献









第一章

皇祖神(大和王権の祖先)の九州上陸


【1】 「縄文人」とはどのような人びとであったか

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 我われの身体は多くの「細胞」でできている。その大きさは 30~40ミクロンである。その成分のおよそ 70パーセントは水(H2O)である。薄い膜で包まれた細胞の中は「細胞液」という液体で満たされている。この細胞液に浮遊してひとつの「細胞核」というこれも薄い膜で包まれた微小な、かつ重要な構造体がある。


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    発生中のヒト胚(A. Domingo-Muelas 他, Cell. July 5, 2023)


 写真は、受精後 2時間 7分経ったヒトの実物の「胚(はい)」である。数個の細胞に分裂したところを色素とレーザー顕微鏡を用いて撮像したものである。この撮像は、倫理委員会の慎重な審査を経て行われている。ピンク色に染まって見えているのが個々の細胞である。ひとつの細胞の中にひとつずつ青色に染まって見えているのが細胞核である。細胞分裂はこのまま進み、脳ができ、骨ができる。手足もできる。細胞の数が約三兆個になるとヒトとして出生する。我われには大人でおよそ五十兆~七十兆個の細胞がある。

染色体

   ヒトの細胞核の中の 23対の染色体(Wikipedia)


 すべての細胞の中には、前掲の「発生中のヒト胚」の写真に青く見えるように、それぞれひとつの微小な「細胞核」がある。細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体が浮遊している。染色体は、現在は「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」といっている。
 ヒトの染色体は、全部で「四十六本」ある。その直径は約 0.002ミクロン、長さは合計で約 2メートルである。四十六本のうち二十三本は父親からもらったものである。残りの二十三本は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。この二十三対の染色体には、図のように固有の番号がつけられている。受精によって 四十六本になったものを「ディプロイド」という。そのディプロイドを細胞核の中にもつ細胞が大人でおよそ五十兆~七十兆個あるというわけである。


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    ミトコンドリア(米国立衛生研究所)


 細胞液の中には「ミトコンドリア」という多数の構造体も浮遊している。ミトコンドリアは、ひとつの細胞の中に数百個もあって、ヒトの体重のおよそ 10パーセントがミトコンドリアの重量である。ミトコンドリアは、糖分(グルコース)などから「ATP(アデノシン三リン酸)」という物質を生成する。ATPは、筋肉を収縮させるときなどに大量のエネルギーを生み出す。ミトコンドリアがなければ、人は重い物をもったり速く動いたりすることができない。
 ミトコンドリアにも遺伝子(DNA)がある。それは、母から子へと伝えられる。多くの民族のミトコンドリアの DNAを調べた結果、現生人類(ホモ・サピエンス)は「十六万±四万年」前にアフリカの奥地に暮らしていたひとりの(あるいは、少数の)女性の子孫であることが分かった(1987年の英科学誌『ネイチャー』)。その女性は「ミトコンドリア・イブ」という愛称で呼ばれる。東洋人も、白人も、黒人も、アメリカインディアンも、すべてアフリカにいたその女性(ミトコンドリア・イブ)の子孫である。その子孫は、何万年もの間アフリカの奥地で暮らしていたが、その一部がアフリカの東側の草原を北上して、今から 5.7万~8.7万年前に紅海を渡った。また、4.5万~6.0万年前に他の一部が、シナイ半島を通ってユーラシア大陸へ渡った。これは、現生人類の「出(しゅつ)アフリカ」と呼ばれることがある。彼らは、そこから西のヨーロッパへ、あるいは東のアジアへと移動して行った。そして、その子孫がついに日本にもやって来た。縄文人である。
 男性の細胞核の中の四十六本の染色体には「Y染色体」と呼ばれるものがある。それは前掲の「ヒトの細胞核の中の 23対の染色体」の図の 23番目の右のほうの染色体のことである。それは、男性だけがもっている。このY染色体は、父親から息子へと引き継がれる。男性のハプロイドには「Y染色体の DNAの型」に多様性があって近い集団では似ているが、遠い集団では異なる。これを大きくまとめたものを「Y染色体ハプログループ」という。図は、Y染色体ハプログループの系統樹である。この系統樹も、本当はもっと細かく枝分かれしているのであるが、ごく簡略化して示している。Y染色体ハプログループは、地理的なまとまりを見せるので、民族の移動とその歴史を追跡するのに用いられることが多い。

 

             ヒトのY染色体ハプログループの系統樹

 長くアフリカの奥地で暮らしていたミトコンドリア・イブの子孫は、Y染色体ハプログループが「A系統」であった。今から約 14万年前に、突然変異が起きてハプログループ「B系統」が出現した。彼ら(「A系統」と「B系統」)は、現在もアフリカに住み続けている。しかし、「B系統」の子孫の一部が、アフリカの東側の草原を北上して、ユーラシア大陸へ渡ったわけである。そのころ「B系統」の中から「C系統」や「D系統」が出現した。  


 

          ハプログループ D の分布図
              (Wikipedia)

 縄文人は、日本だけにしかいない、ある意味の「人種」であるが、Y染色体が C系統の「C1a1」または D系統の「D1a2a」という細分化された DNA型をもつ人びとである。そのような人びとが縄文時代から現在まで日本にいるわけである。「ハプログループ Dの分布図」を見ると、Y染色体 DNA型「D1a2a」をもつ縄文人は、人種的にはチベットの人びとに近いといえる。
 縄文人は、四万二千年余り前から日本列島にいた可能性が高い。当時の人骨は出ていないが、旧石器は出ている。そのころ北海道は大陸と地続きであった。津軽海峡は、冬には氷結することがあって歩いて渡ることができた。縄文土器など「縄文文化」の時代は、BC14000年ごろから BC1000年ごろまで一万年以上も続いたことが知られている。


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    縄文晩期の各地方の推定人口(総人口 75,800人)


 縄文時代の中後期には気温が現在よりも約 2 ℃高く、北極の氷は大量に溶けていた。その結果、「縄文海進」といって海面が今より二、三メートル高かった。地域と時代によっては五、六メートル高かった。日本列島は大陸や朝鮮半島から孤立していた。
 縄文晩期の総人口は 75,800人であったと推定されている(国立民博・小山修三教授 1979年)。この推定は、全国プロジェクトとして考古学データを国立民族学博物館が集約したものであった。現在も、これを科学的にくつがえした研究はない。当時(縄文晩期)の東北地方は温暖で食糧も豊かであった。比較的に人口が多く、時おり大陸からもたらされる疫病(肺結核、天然痘など)も少なかった。
 縄文時代の人びとにとって、森羅万象の世界には八百万(やおよろず)の神々が宿っていた。縄文人は腕力が強く、精神性が高く、高い技術力と芸術性をもっていた。また、人びとを互いに対等であると見ていた。その中から「専制君主」を生み出さなかった。縄文時代の人びとは鹿や猪を狩り、魚や貝を獲り、木の実などを採って暮らした。日本列島に共通語はなく、縄文の人びとはその土地の言葉を話して暮らした。
 縄文の人びとは、豊かな暮らしの中で 世界最初に土器を造った。土器は、煮炊きをすることができる。縄文の人びとはそのような土器に驚きの飾りをつけた。糸魚川流域で採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかっている。このことから、縄文人は、日本列島内では、共通語はなくても、生活のために活発に交易をしていたと見られている。
 縄文人のY染色体 DNA型「D1a2a」は、約四万年前に日本列島で生まれたと見られている。それは、日本列島の固有種である。現代の日本人男性の約 35パーセントがこれをもっている(J. Human Genetics, 2006)。縄文人のY染色体 DNA型「C1a1」は、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。それゆえに、現代の日本人の約四割は縄文人であるといえる。「C1a1」は、日本列島固有のものではあるが、しかし「C1a1」の祖先の移動ルートは謎に包まれていて、古代ヨーロッパのクロマニヨン人の遺骨や、まれに現代のヨーロッパ人から見つかる例がある。日本列島が海に囲まれて孤立していたことから、これらのY染色体の DNA型「D1a2a」「C1a1」は変異したり細分化したりすることなく現在までそのまま存在し続けている。このことは驚くべきことである。
「ミトコンドリア」の遺伝子(DNA)は、前記したように母から子へと伝えられる。現代の日本人女性には、縄文人の遺伝子(DNA)をもつ子孫が 10~15パーセント存在する。
 なお、アイヌ人は、縄文人の「D1a2a」をもつ人として 75パーセント、オホーツク北方人の「C2」をもつ人として 25パーセントのいずれかである。また、沖縄県人は、男性の約 56パーセントが縄文人の「D1a2a」をもっている。青森県人は男性の約 39パーセントが「D1a2a」をもっている(J. Human Genetics, 2006)。


【2】 「弥生人」とはどのような人びとであったか

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 縄文時代の終わりに朝鮮半島から「弥生人」が流入した。「弥生人」は朝鮮半島北部から中国北東部の西遼河流域にかけて暮らしていた民族である。それは縄文人から見ると朝鮮族であった。そのY染色体の DNA型は「O1b2」であったようである。彼らは、稲作民族ではなく、もっぱらアワやキビなどの雑穀を栽培して暮らす民族であった。
 縄文時代の日本列島には各地の方言しかなかったが、弥生人は日本列島に共通語として古代朝鮮語をもたらした可能性が高い。すなわち、現代の日本語はアルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、弥生人(朝鮮族)の古代朝鮮語が基盤になっていると見られている。すなわち、現代の我われ日本人は古代朝鮮語を話しているわけである。 


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    現在の「O1b2人」(弥生人)の分布(Wikipedia)



 朝鮮半島南端から対馬へ航行することは容易でなかった。多くの人びとが朝鮮半島南部に取り残されてそこで古代朝鮮語を話したと見られる。朝鮮半島の中でも南端は比較的温暖であった。それらの人びとは、後漢の時代に「倭人」と見なされ、『三國志・魏志韓傳』では「辯韓(べんかん)」とされ、『日本書紀』では「任那(みまな)」とされた。
「辯韓十二國」の中に「辯辰狗邪國」という国があった。これが『魏志倭人傳』(285年)に出てくる「狗邪韓國」である。そこは現在の釜山の金海(きんかい)国際空港付近と考えられている。金海地方は古代からの炭化米や石剣、鉄器などの出土物が豊富である。『魏志倭人傳』では、「狗邪韓國」は倭の北岸と書かれているが、「辯韓」の中の一国である。
 日本では、弥生時代の開始とは、弥生人が流入したときではなく「日本で稲作が最初に始まったとき」と定義されている。北東アジアから弥生人が流入したことによって日本が縄文時代から弥生時代に変わったわけではない。弥生人は日本列島に来ても雑穀を栽培し続ける民族であった。
 弥生人の遺伝子(O1b2)は、現在の中国の華北にも華中・華南にも存在しない(J. Human Genetics, 2006)。この遺伝子「O1b2」は、現代人にも引き継がれていて、日本人男性の約 24パーセントがこの遺伝子をもっている(J. Human Genetics, 2006)。
 弥生時代になると、稲作が行われた。人びとは定住し、食料を計画的に得ることができるようになった。しかし、稲作は、縄文時代のようにどんぐりを拾ってきて余った時間を楽しむのとは違って、重労働である。それゆえに、稲作が伝わっても、縄文の生活から弥生の生活に容易には切り替わらなかった。


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    弥生時代の各地方の推定人口(総人口 594,900人)


 弥生時代の日本列島の総人口は、前記のコンピュータ考古学による推定で 594,900人であった(国立民博・小山修三教授)。
 現代の日本人女性には、弥生人(朝鮮族)の遺伝子(DNA)をもつ子孫が、 10~15パーセント存在する。なお、現代の日本人女性には、漢民族の遺伝子(DNA)をもつ子孫が 70~80パーセント存在するが、これについては後記する。
 日本列島に縄文人と弥生人が住んでいたころ、皇祖神(現皇室の祖先)は、まだ日本列島にはいなかった。皇室の祖先(大和王権の祖先)は、そのころはまだ中国の揚子江流域にいて江南人として暮らしていたと見られる。江南人はY染色体 DNA型「O1b1」をもつ人びとであったと見られる。


【3】 我われは、弥生人と話すことはできたか

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 日本語は、様ざまな言語が交じり合ったものと考えられているが、世界の孤立語である(金田一春彦 1913年-2004年)。日本語は、英語や漢語とは文法的にも異なっている。それでも、現代日本語はアルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、前記したように北東アジアから流入した弥生人「O1b2人」の古代朝鮮語が基盤になっていると見られる。
 仮に我われがタイムスリップして邪馬臺國に行ってみたとする。そして、卑彌呼や高官の難升米(なしめ)らと話してみたとする。そこで聞かされる弥生晩期の言葉は、ひどく古めかしい方言のように感じられるかもしれないが、言葉としては通じたのではあるまいか。「しま 島(斯馬)」「やま 山(邪馬)」などの言葉も同じだったであろう。文字のない時代に、後漢からの使者、あるいは、魏からの使者による当時の音写が、音韻学的に正確であったとは限らない。
 東北地方・北海道地方には、アイヌ語の地名が多く残されている。アイヌ人の中にY染色体 DNAの型「O1b2」をもつ人(弥生人)はいない。アイヌ人は、縄文人(C1a1人または D1a2a人)の言葉を多く伝えている可能性がある。仮に我われがタイムスリップして縄文時代に行ってみても、言葉は容易には通じなかったであろう。


【4】 稲作はいつどこから伝わったか

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 中国の揚子江中下流域のことを「江南地方」という。そこには江南人が住んでいた。江南人は BC12000年ごろから水田耕作によって「熱帯ジャポニカ米」を栽培して暮らしていた。
 一方、山東半島から遼東半島、朝鮮半島北部の地域には BC10500年ごろ「温帯ジャポニカ米」が原生していたようである(宮本一夫他, 九州大学リポジトリ 2019年)。驚くべきことに、この地域は、野生のイネの北限よりもはるか北に位置する。朝鮮半島には、そのように世界最古級のイネはあったが、それでも、もっぱらアワやキビなどの雑穀栽培が行われたようである。そのころ日本では、九州北部でも狩猟採集の生活が行われていた。


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    BC1000年ごろの「稲作」の九州北部への伝播


 朝鮮半島には旧石器時代の遺跡が非常に少ない(日本の百分の一くらいしかない)。朝鮮半島は寒冷で、ほとんど無人の通過地帯であったと見られている。それでも、BC1000年ごろから「無文土器」と磨製石器が出始める。そのころ、朝鮮半島に早くも青銅器が流入したようである。
 平成十五年(2003年)に、考古学的発掘と「炭素14年代測定」という科学的な方法によって、紀元前 1000年ごろ朝鮮半島中南部の河川地域で稲作が行われたことが分かった。このことから、我が国の弥生時代の始まりも紀元前 1000年ごろと見なされるようになった。
 しかし、九州北部で紀元前九世紀ごろ栽培された稲は揚子江流域の江南地方の「熱帯ジャポニカ米」であったと見られている。この熱帯ジャポニカ米は直接九州北部にもち込まれたようである。その後、紀元前五、六世紀ごろに朝鮮半島中南部から「温帯ジャポニカ米」が九州北部にもち込まれた(九州大学リポジトリ, 2019年)。
 稲作はその後何世紀もの間、九州北部にとどまった。その間の紀元前四世紀ごろに日本海航路で青森県弘前市の「砂沢水田遺跡」にまで伝わったものもある。しかし、その東北地方でも、350年ごろまで狩猟採集の生活は変わることなく続いた。
 なお、揚子江流域の江南人のY染色体の型に弥生人の「O1b2」は見つからない(J. Human Genetics, 2006)。江南人は弥生人ではない。


【5】 弥生時代にはどのような墓が造られたか

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    始皇帝陵(西安郊外)
   (中国旅行社) 


 縄文時代は、森羅万象に八百万(やほよろず)の神々が宿る。そのような世界であった。貝殻にも精霊が宿っている。貝殻もゴミではなく神さまであるから生活圏の中に置く。そこに貝塚ができた。死んだ人にも精霊が宿っている。遺体も貝塚に置かれた。貝塚は神聖な場所であった。その後中国の江南地方から「祖霊神信仰」が伝わった。我が国でも墓が造られるようになる。
 我が国の大規模な墳墓には二通りあった。「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と「古墳(こふん)」である。この二つは、築造された時代も、工法も明確に異なる。たとえば、秦の始皇帝陵は「墳丘墓」であって「古墳」ではない。
 墳丘墓は弥生時代に造られた。墳丘墓は形状に統一性がない。規模もあまり大きくはなかった。円形で直径 15メートル程度までである。方形でも一辺 20メートル程度までである。古い順に「堆築(たいちく)」「層築(そうちく)」「版築(はんちく)」という三つの工法があった。「堆築」は、ただ土を積み上げるだけ。「層築」は、異なる土を層状に締め固める。「版築」は、大規模な木枠を組み、土砂を突き固めた。いずれも中国の江南地方や山東半島などから海を経て九州に直接伝わった(日本土木学会 2012年)。

 

    「の巨石墓跡
   (みやま市瀬高町山門 2021年11月撮影) 


 福岡県みやま市瀬高町山門に「堤(つつみ)」という地区がある。この地区は、東西南北に約二百二十メートル四方の広さがある。周辺より全体が二、三メートル高い。この地区には周りを囲んで環濠の跡が認められる。弥生時代、あるいは、それ以前に環濠集落であったと見られる。そこは、数か所以上の民家の軒先や裏庭に、それぞれ三、四トンから数トンはありそうな巨石が地上に幾つか露出している。みやま市ではこれらを「堤古墳群」と命名しているようである。しかし、これらは明らかに「古墳」ではない。「巨石墓」、あるいは、「墳丘墓」の址であろう。
 墓に巨石を用いる風習は唐津平野などにも多く残っているが、中国東北地方に起源があり、それが朝鮮半島を通って九州に伝わったものと見られている。ただ、唐津平野の巨石墓は支石を配置してその上に巨石を載せた「支石墓」である。仮に堤古墳群の墓が「墳丘墓」であったとすれば、堆築によって土が盛られただけであったために、二千年の風雨によって土が洗い流された結果、巨石が露出したと見られる。
 なぜ環濠集落の中に幾つもの墓があるのであろうか? それは、縄文時代からの伝統で、自らの生活圏の中に遺体を葬り、そこに墓を造ったからと見られる。

 

    吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓
   (https://www.google.com/maps/) 


 佐賀県南部の吉野ヶ里遺跡には、環濠集落の中に「北墳丘墓」(西暦150年頃)がある。この北墳丘墓は、主要な生活圏からやや離れて造られている。福岡県みやま市の「堤古墳群」の墳丘墓群よりも新しいと見られる。北墳丘墓は、大部分が「層築」で造られている。南北約 39メートル、東西約 26メートルの長方形に近く、墳丘墓としては国内最大級である。当初は 4.5メートル以上の高さがあったのかもしれないが、二千年の風雨に浸食されて、今は約 2.5メートルしかない。

 

      円墳のモデル


 古墳は、西暦280年ごろから築造された。古墳は、統一的な形をもっている。風雨に耐えて長く保存される。たとえば「円墳」(円形古墳)は、半真球、あるいは、半真球を水平にスライスして二段、あるいは、三段になっているものもある。いずれの段も真球のスライスの一枚としての統一した形をもっている。円墳は弥生時代の円形墳丘墓とは一線を画して形状も築造方法も異なっていた。


【6】 「江南人」とはどのような人びとであったか

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 中国でも、他の文明(メソポタミア、インダス、エジプト)と同様に、コムギの文明が発達した。それも世界最大の耕地面積と最大の収穫量を誇った。そこは「中原(ちゅうげん)」の地と呼ばれた。BC600年ごろ鉄器が使われるようになると更に収穫量が増えた。すると、多くの農民が春秋の覇者となった。それを統一したのが秦の始皇帝(在位 BC259年-BC210年)であった。中原の地には、その後も前漢・後漢などの大帝国が出現した。
 前漢の武帝(在位 BC141年- BC87年)が中国を統一したころ、揚子江中下流域には、江南人が住んでいた。江南人は、前記したようにY染色体 DNA型「O1b1」をもつ人びとであったと見られる。江南人は稲作を行い、高床式の倉庫にそれを保管し、珍しい銅剣・銅鏡を「二種の神器」として祭祀に用いて暮らしていた。「祖霊神信仰」をもっていた。また「太陽神話(天岩戸神話の原型)」をもっていた。歴史学者の鳥越憲三郎(2004年)によれば、鯨面分身(顔や身体に入れ墨をすること)をしていた。
 世界の各地に日食神話がある。江南人の太陽神話も日本に伝わったと見られる。太陽神が自らの意思で姿を隠して日が暮れてしまった。人びとの対応のしかたでは、もう戻ってこないかもしれない。皆で叫んでみたが太陽は出ない。犬に吠えさせてみたが駄目であった。牛でも駄目。羊でも駄目。しかし、雄鶏に鳴かせてみたら太陽は再び東の山から出てきた。これが江南人の太陽神話である。伊勢神宮では今でも多くのニワトリが飼われている。太陽神に隠れられては困るからである。「鳥名子舞」(となごまい)という舞や、神職の「カケコー・カケコー・カケコー」という「鶏鳴三声(けいめいさんせい)」の神事も行われている。
 揚子江は、たとえば内陸地の武漢でも川幅が 1~3キロメートルある。流れの周囲には広大な湖も無数にある。流域面積は約 180万平方キロメートル(Wikipedia/長江)と、日本の国土の面積(約 38万平方キロメートル)の五倍に近い。古代から江南人は親戚を訪ねるにも舟であった。江南人は航海術に優れ、丸木舟に替わって準構造船(船大工が造るような船)を発達させていた。



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    BC100年ごろの「二種の神器」と「航海技術」の九州への伝播


 紀元前 100年ごろ、武帝の政策によって漢人が江南地方に南下した。江南人はそこを追われた。多くの江南人はラオスやタイ北部の山岳地帯に逃れたようである。鳥越憲三郎はそこ(山岳地帯)へ行ってみたが、人びとは見かけも、古くからの暮らしの様子も日本人と少しも変わらなかったと述べている(2004年)。
 そのとき、一部の江南人は九州へ航行したようである。弥生時代に大陸から熱帯ジャポニカ米や墳丘墓が直接伝わるなど、以前から多くの渡来人が個々に来ていたことは分かっているが、この紀元前 100年ごろの江南人の航行は、一定規模の民族としての渡航であり「Great Crossing (大渡航)」であったと見られる。朝鮮半島には銅剣・銅鏡はあるが、それらを祭祀に用いる風習はないので、江南人は九州に直接渡来したようである。江南人は航海術に優れていたが、揚子江河口から九州へのこの航海は、命懸けの「漂流」に近いものだったであろう。江南人と見られるY染色体の DNA型「O1b1」は、現代の日本人男性の約 1パーセントがもっている。


【7】 江南人はどこに上陸したか

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  江南人の上陸ルートと新羅人の上陸ルート(推定)


 東シナ海は内海のように比較的穏やかな海である。気象庁は、人工衛星や船舶、フロートなどからの情報に基づいて海流や風速などのマップを毎日作成して公表している。季節によっては、揚子江河口から九州へ向かう海流があるが、1ノット(約 0.5メートル/秒)以下である。風力のほうがはるかに強く、風速は 4~10メートル/秒である。仮に 4ノットの帆船を用いてひたすら東へ航行すると、五日で九州に上陸可能である。
 江南人は、どこに上陸したのであろうか? 
 遣唐使の粟田真人(生年不詳-719年)のように北へ流されて五島列島に漂着する例はあったが、対馬海峡から日本海へ流されてしまうと多くはそれっきりである。鑑真(668年-763年)や遣唐使の吉備真備(695年-775年)のように屋久島に漂着した例もあったが、黒潮に巻き込まれて太平洋に流されてしまうと多くはそれっきりである。江南人は、揚子江河口から多くの人数で出港したが、無事に九州に上陸できたのは少人数であったのかもしれない。

 

 みやま市瀬高町の東に位置する女山(ぞやま 旧女王山 標高約 196メートル)

 福岡県みやま市とその周辺の「やまと(山門)」は、平安時代の『和名抄』には「山門郷」と記録されている。それ以前は「山門郡」であった。
 江南人はごく自然に「有明海」に漂着した可能性が高い。そこは福岡県みやま市瀬高町大草の女山(ぞやま 旧女王山・江南人の上陸時の名称は不明)のふもとの「やまと(山門)」であったと見られる。
 江南人は、もちろん、長崎県や熊本県、鹿児島県などに上陸した可能性もあるといえばあるが、江南人の多くがその後九州北岸に定住したことを見ると、有明海に漂着した可能性が高い。
 江南人は、もと揚子江流域の民である。その多くは宝満川、御笠川を通って九州北岸に出た。あるいは、みやま市の北部を流れる矢部(やべ)川を遡(さかのぼ)ったと見られる。


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    九州北部の地形

 ここで九州北部の地形を見てみよう。
 約九万年前に阿蘇カルデラの破局噴火(阿蘇Ⅳ)によって九州の主要部は火砕流に覆われた。火山灰は朝鮮半島にも北海道にも降り積もった。その後、約二万八千年前の姶良(あいら)カルデラの破局噴火で、九州北部も全体が約六十センチメートルの火山灰に覆われた。さらに、約七千三百年前の鬼界カルデラの破局噴火で、九州北部も全体が約二十センチメートルの火山灰に覆われた。火山灰は朝鮮半島にも東北地方にも降り積もった。これらの火山灰は、現在も九州全域を覆い、圧縮されて凝灰岩となったり河川などを通して土砂として流れ出たりしている。
 博多湾から太宰府市付近を通り有明海にいたる低地部(筑紫平野)は、九州北部を東西に分ける「地溝帯」である。この地溝帯も、山間部などから流れ出た土砂の分厚い堆積層に覆われている。その現在の最高地点は太宰府市付近である。その標高は約四十メートルである。そこが地溝帯の水の流れを南北に分ける「分水嶺」(ぶんすいれい)である。

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     現在の御笠川と宝満川、筑後川

 弥生時代には海面も「縄文海進」の影響で高く、宝満川と筑後川の合流点は、当時は海底にあった。すなわち、宝満川と筑後川は、それぞれが有明海に河口をもってそそいでいた。有明海の潮差(干満差)は日本最大の約六メートルである。防波堤がない弥生時代に、標高ゼロの地点は満潮によって一日に二回、深さ約三メートルの海底となった。
 博多湾と有明海は、直接つながっていた形跡はない。現在の博多湾と有明海は海の生物相も異なっている。しかし、太宰府市付近から北の博多湾へ流れる御笠川と、南の有明海へ流れる宝満川は、弥生時代には太宰府市付近の分水嶺も低く、上流を取り合ってつながっていた可能性が高い。小さな川舟は数人で持って運べたであろう。干満の時間を選ぶことによって、船で上流近くまで遡上することもできたであろう。あるいは、川づたいに歩くこともできたであろう。現在もこの二つの川は、上流部は支流でつながっている。
 江南人は、有明海から満ち潮に乗ってこれらの川を遡上(そじょう)し、あるいは、川づたいに歩いて容易に九州北岸に出たであろう。そのとき、江南人は、九州北岸に丸木舟や筏(いかだ)に替わって「準構造船」を伝えたようである。江南地方では「潜水漁法」や「鵜飼」が行われていたが、これらも日本のその後の漁法となった。
 江南人は九州北岸に定住すると、準構造船を用いて後漢の樂浪郡と交易を始めたようである。当時それができたのは江南人だけであった。日本に初めて青銅器と鉄器が同時に入ってきた。それゆえに、日本には青銅器時代がない。後漢の歴史家・班固(はんこ 32年-92年)と妹の歴史家・班昭(はんしょう 45年-117年)は、『漢書』(前漢のことを書いた歴史書)を編纂し「地理志・燕地条」に「樂浪郡の海の中に倭人がいる。百餘国に分かれている。季節の贈り物をもってやって来る」と書いた。「樂浪郡」と書かれているので、それは前漢がその南にあった「眞番郡」を失った紀元前一世紀半ば以降のことであろう。「百餘國」とは百余国のこととは限らない。たとえ三十國でも、百國を「単位」として書くと、「ゼロ國」と「百餘国」の二択しかないからである。
 九州北岸の少数民族・江南人は、大和王権の祖先となった可能性が高い。それは、たとえば、現在の皇室に「二種の神器」や「祖霊神信仰」「太陽神話」などが伝わっているからである。
 一方、新羅人(民族としての新羅人)が九州北岸に渡来して伊都國を建てた可能性がある。それについては後記する。

 

  江南人と隼人の分布


 隼人は、揚子江上流域の北部にいた民族で、西南諸島から九州南部へ渡航してきたようである。隼人のY染色体の型は「O-P201」ではないかと見られているが、よくは分かっていない。『大寶律令』(701年)では隼人のことを「異人」とした。当時は朝廷に通訳がいた。隼人も稲作民族であったが、九州南部で稲作が行われるようになったのは 350年ごろである。九州南部はシラス地帯が多く、稲作に適していなかったからである。隼人は、江南人とは異なり、政権国家を形成することはなかった。
 なお「熊襲(くまそ)」には前後の歴史がなく、諸説はあるものの、民族として実在した痕跡がない。墳墓も発見されていない。熊襲は大和王権から見てこれに恭順しない九州の部族に対する呼称であったと見られる。


【8】 天照大神は実在したか

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 日本人が「天照大神」のことを広く知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)が編纂されてからである。「天照大神」は、それまで皇室の中で、また、豪族の間で共通の遠い「記憶」の中の存在として知られ、信じられていたが、第四十代天武天皇(在位 673年-686年)のとき、勅命の史書である『帝紀』(ていき 『帝皇日繼』 すめらみことのひつぎ)と『舊辭』(くじ 『先代舊辭』 さきのよのふること)(いずれも現存しない)の中で、神話の中の存在として記述されたと見られる。
「天照大神」とは、どのような存在であったのだろうか? また、どこにいたのだろうか?


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     小林永濯(1843年-1890年)
 『天之瓊矛を以て滄海を探るの圖
 (ボストン美術館)


 日本には「高天原」と伝承される地域が幾つかある。福岡県みやま市(Wikipedia/山門郡)、福岡県那珂川市、福岡市東区志賀島、福岡県朝倉市、熊本県阿蘇周辺、宮崎県西諸県郡高原町、宮崎県西臼杵郡高千穂町、岡山県真庭市、滋賀県犬上郡多賀町、奈良県御所市、茨城県鹿嶋市などである。もっとあるのかもしれない。
 では、天照大神の生誕の地はどこなのだろうか?
『古事記』によれば、黄泉國(よみのくに)から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門の阿波岐原(あはきがはら)で、禊(みそぎ)祓(はらゑ)をした。
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也」(古事記)
 そのとき、左目を洗って誕生した神が、天照大御神(あまてらすおほみかみ)である。
「於是洗左御目時所成神名天照大御神」(古事記)
 この「橘の小門の阿波岐原」の比定地も幾つかあるが、通説では宮崎県宮崎市阿波岐原町(江田神社周辺)とされ、また、そこを天照大神誕生の地とみなす伝承が流布している。同じ記述は『日本書紀』にも見られる。
「則往至筑紫日向小戸橘之檍原(あをきがはら)而秡除焉」(日本書紀)
「然後洗左眼因以生神號曰天照大神」(日本書紀)
 天照大神のこの「左目を洗ったときに誕生した」という生誕伝承は、現代の我われも神話の世界の出来事としてこれを尊重しなければならないが、地上の世界では(生物学的にも)あり得ないことである。『日本書紀』には、一方で、伊弉諾尊と伊弉冉尊は、大八洲(おほやしま)を産むと、次に、この国を治めるものとして天照大神を生んだとも書かれている。
 すなわち、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は相談し「我われは大八洲國(おほやしまのくに)や山川草木を生んだ。そろそろ天下を治める者を生まないといけないだろう」そこで一緒に日の神を生み出した。日の神は、「大日孁貴(おおひるめのむち)」という。別の言い伝えでは「天照大神(あまてらすおほみかみ)」という。この御子は、華やかに光り麗しく、国中を照らした。
「伊弉諾尊伊弉冉尊共議曰吾已生大八洲國及山川草木何不生天下之主者歟於是共生日神號大日孁貴一書云天照大神此子光華明彩照徹於六合之内」(日本書紀)
 それゆえに、二柱の神は喜んで言った「我が子たちはたくさんいるが、まだこんなに妖しく不思議な子はいない。長くこの国に留めておくのはよくない。早く天に送り、天上の仕事をしてもらおう」そのころ、天地はあまり離れていなかったので、天御柱(あまのみはしら)をたどって天上に送り上げた。
「故二神喜曰吾息雖多未有若此靈異之兒不宜久留此國自當早送于天而授以天上之事是時天地相去未遠、故以天柱舉於天上也」(日本書紀)
『日本書紀』のこの生誕伝承は、現代の我われにもある程度は理解可能である。すなわち、「天照大神」は江南人の男女が九州に上陸して生まれた実在の娘であったのではあるまいか。そのお姫さまが高天原に移り住んで巫女として「江南神話」の太陽神を祀った。九州に移り住んでも、太陽神に隠れられては困るからである。そのことが民族としての「祭祀」の記憶として残り「天照大神」の神話を生み出したと見られるのである。
 人には必ず親がいる。しかし、『日本書紀』によれば、現皇室の祖先は、必ずしもそうではない。ということになっている。天照大神には両親(伊弉諾尊・伊弉冉尊)はいるが、祖父母はいない。伊弉諾尊・伊弉冉尊を含めてそれ以前は神々の世界である。ということになっている。
 BC100年ごろ揚子江流域から江南人が「二種の神器」や「祖霊神信仰」「太陽神話」などをもって渡来した。前漢から見ると、彼らはエグザイル(exiles 追放された人びと)であった。神々の世界と地上の世界とのこの「Great Discontinuity (大分断)」は、その「民族」としての「流落(るらく 落ち延び)」の記憶であった可能性がある。
『日本書紀』によれば、日本の国土(大八洲 おほやしま)は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、天浮橋(あめのうきはし)に立って産んだことになっている。そもそも、江南人にとって、九州に上陸するまでは日本列島自体が存在しなかった。それがこの「国産み」の神話を生み出した可能性がある。


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     山門國と日向神峡谷


 有明海に近い福岡県みやま市・柳川市・筑後市とその周辺を矢部(やべ)川が流れている。弥生時代に稲作が伝わると、矢部川は山門國の水田を潤した。矢部川の水源は、山門國の女山(ぞやま もと女王山 みやま市瀬高町大草)から正確に東の方角にあって約 25キロメートル離れている。その地域は、福岡県八女市の南端に位置する。そこは、周囲から山水が流れ込む「日向神峡谷(ひゅうがみきょうこく)」である(福岡県八女市黒木町大淵・黒木町北大淵・矢部村矢部・矢部村北矢部)。やまと(山門)に上陸した江南人は、矢部川を通ってこの日向神峡谷にも来たであろう。そこで江南人の男女に娘が生まれた。


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     日向神ダム(https://www.google.com/maps/)


 柳河藩士・戸次親敷(べっきちかのぶ)が著した『南筑明覧(なんちくめいらん)』(1765年)は、地域の様ざまな伝承を書き記したものである。それによると、日向神峡谷の大渕村築足里の日向神大明神は天照皇太宮を祭神する霊祠である。社記によれば、太神宮降誕のこの場所は筑後國上妻郡日向山月足の里である。神社があって日向神大明神と奉り号する。
「大渕村築足里曰向神大明神祭神天照皇太神宮霊祠也社記曰太神宮降誕之本所者筑後國上妻郡日向山月足里也有神社奉号日向神大明神」(藤原照道写本 1843年 同志社大学所蔵)
 また、『南筑明覧』(写本者不詳 1815年 早稲田大学所蔵)には次のようにも書かれている。
「上古大神宮日向神にて御誕生のとき湯瀬(ゆのせ)という所にて産湯(うぶゆ)の時、諸神を賑(にぎは)し玉ふ」


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     湯瀬 (ゆのせ)


 写真は 2026年1月に筆者が撮影した日向神峡谷の「湯瀬」である。湯瀬は、日向神社の対岸(八女市黒木町北大淵)にある。  近くを流れる矢部川は「天(高天原)」である「やまと(山門)」と、ここ日向神峡谷とを日々の「汐汲み」で結ぶ「天御柱(あまのみはしら)」であったのかもしれない。
『日本書紀』によれば、天照大神は皇祖神とされる。日本で最初に稲作をした神であると書かれている。「天狭田(あまのさなだ)長田(ながた)」を御田(みた 神田 しんでん)とした。天照大神は初穂を奉献して現在の天皇が行う「新嘗祭(にいなめさい)」を行った。
 福岡県みやま市瀬高町には縄文海進のときも海に沈まなかった「長田」と呼ばれる稲作地帯がある。そこは、矢部川沿いにあって日向神峡谷とつながっているのであるが、天照大神の「長田」との関連は分からない。
 瓊瓊杵尊も木花開耶姫(このはなのさくやびめ)もこの日向神峡谷の人びとであるとする伝承があって、日向神社は、いつの時代からかは分からないが、天照大神とその二柱の神々を祀る。
『日本書紀』によれば、素戔嗚尊は、天罪(あまつつみ)といって天照大神の御田の畔を壊すなどの狼藉を働いた。太陽がなければすべての生物は死に絶える。「天岩戸の神話」は重い罪を犯したり天皇に逆らったりする者がいると太陽神が隠れるという天皇支配の正当性を教える神話として編纂されたようである。
 しかし、この日向神峡谷では、天照大神は江南地方の「太陽神話」に基づいてただ太陽神が隠れないようにこれを祀っただけではなかろうか。そのことがこの「やまと(筑後山門)」周辺から九州北岸に移り住んでいく江南人の間に長く民族の祭祀の「記憶」として残ったのではなかろうか。
 日向神社からは対岸に「天戸岩」が見える。日向神峡谷では「天岩戸の神話」も天照大神の死のこととして記憶されただけかもしれない。天照大神の後継者として新しい女神が現れたとき、人びとは安堵したのではなかろうか。


【9】 天照大神は『魏志倭人傳』の卑彌呼と同一人物か

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 卑彌呼は女性であったが、天照大神も一般には女性であると考えられている。卑彌呼は倭國の祭祀権をもつ女王であり、天照大神は神道の中心的女神である。天照大神が太陽神であるのに対して、卑彌呼も日の巫女と考えられている。卑彌呼が生涯独身であったのに対して、天照大神にも夫はいないことになっている。卑彌呼には弟がいたが、素戔嗚尊は天照大神の弟であった。卑彌呼が倭國の都と定めた邪馬臺國と大和國とは音が似ている。これらのことから、卑彌呼が天照大神の人間としての姿であり、神格化されて天照大神として祀られたとする仮説(天照大神・卑彌呼同一人物説)が提唱されたことがある。また、その仮説は発展して、西暦247年に卑彌呼が死去したことが天照大神の天の岩屋こもりであり、十三歳の臺輿が即位したことが天照大神の天の岩屋からの再来であるという話まであった。一方で、大和王権は何としても「和」の中から生まれたのだ。卑彌呼の女王國・倭國が何としても「そのまま」大和王権になったのだ。そのような「信仰」ともいえるものが現在も存在している。その信仰が「天照大神・卑彌呼同一人物説」を創り出したようでもある。
 ある人物は別のところで別名を名乗っているが、実はこの二人は同一人物であるといった話しは面白いのでドラマになる。たとえば、我が国にはかつて「義經成吉思汗(よしつねジンギスカン)説」という風説があった。それはいわゆる「判官(ほうがん)びいき」によって、源九郎判官義經(1159年-1189年)が大陸に渡って成吉思汗(チンギス・ハーン 1162年-1227年)になったというものであった。林羅山(1583年-1657年)がその著書『本朝通鑑』の中で、新井白石(1657年-1725年)が『讀史餘論』の中で、德川光圀(1628年-1701年)が『大日本史』の中で、F. シーボルト(1796年-1866年)が『日本』の中でそれぞれ記述した。当時の日本にこれ以上の知識陣はいなかった。しかし、当のモンゴルに「義經渡來傳説」は存在しない。チンギス・ハーンは、当時の日本でいえば鎌倉時代の人物であり、モンゴルの正史の『元史』『元朝祕史』『集史』などに、父親・也速該(イェスゲイ 1133年-1170年)と母親・訶額侖(ホエルン 1142年-1221年)の子・鐵木眞(テムジン)として出生したことが記録されている。民間にも「義經渡來傳説」はなく、伝承の痕跡さえもない。したがって「義經成吉思汗説」は明らかに偽説であって現在は完全に否定されている。
 歴史上のある人物が伝説化して別の名称で呼ばれることはある。ガウタマ・シッダールタは「仏陀」と呼ばれるようになった。ジャンヌ・ダルクは「オルレアンの少女」、バッハは「音楽の父」であった。「神童」といえばモーツァルトか天草四郎。「戦場の天使」といえばナイチンゲールであった。このような同一人物説は、人びとがその人物・業績などに尊敬を込めて呼ぶようになったものであろう。しかし、歴史上の人物と神話上の人物などを安易に結びつけて、それらが同一人物だったとして一番乗りを競うといった話しは面白いが、いただけない。
 天照大神は神々の世界の存在である。天皇家の始祖であり、太陽神を祀った。一方、卑彌呼は『魏志倭人傳』にも記された実在する人物である。この二人は、同一人物ではあり得ない。
 これまで「数理考古学」などと称して、天照大神は卑彌呼と同一人物であるとする大きな仮説が立てられたことがある。
 たとえば、心理学者・歴史学者の安本美典らは、次のように主張した。
「史実として記録がはっきりしている第三十一代用明天皇(在位 585年-587年)から古代最後の第七十四代鳥羽天皇(在位1107年-1123年)までの平均在位年数は「11.8年」である。天照大神が神武天皇の五代前であるとすると、天照大神は西暦183年前後に日本を治めていたことになる。標準偏差(数値の前後のばらつき)を考えると105年から 261年までの間に活動していたことになる。すると、卑彌呼が即位した 182年すぎから死去した 247年までがこれにすっぽり入るので、卑彌呼は天照大神である」
 その話しは、以下のように幾つかの点で間違っている。
  1.  仮に卑彌呼とその「天照大神」が同じ時代に生きていたとしても、卑彌呼もその「天照大神」も、弥生時代の全人口としてコンピュータ考古学では九州 105,100人、中国 58,800人、四国 30,100人、近畿 108,300人、北陸 20,700人、東海 55,300人などと推定される(国立民博・小山修三教授)その中のひとりにすぎない。その二人が同一人物であることを物語るものは何もない。
  2.  理屈として「天照大神は西暦183年前後に日本を治めていた。標準偏差を考えると 105年から 261年までの間に活動していたことになる。すると、卑彌呼が即位した 182年ごろから死去した 247年までがこれにすっぽり入る」という発想は、それまで「11.8年」に依拠してきたことを忘れているようである。安本美典らの理屈で行けば「天照大神」も 105年から 261年までのどこかで「11.8年」の間活動していたことになるだけである。卑彌呼のように 182年すぎから 247年まで在位したことにはならない。
  3.  一方で『記紀』を「神話の世界」であるとして各天皇の在位年数が事実より大きく書かれていると推定しておきながら、他方で『記紀』を「事実の世界」であるとしてそこに書かれる通りに第十代崇神天皇の十四代上が天照大神であると推定している。そこにダブル・スタンダード(二重基準)がある。
  4.  『日本書紀』によれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊は日本の国土(大八洲 おほやしま)を創ると、次にこの国を治めるものとして天照大神を産んだ。仮に天照大神の時代を何としても卑彌呼(在位 182年すぎ-247年)の時代となるように工作してみたところで、九州北岸では、それより二百年以上も前の紀元前一世紀半ばごろから、福岡県古賀市の「馬渡・束ヶ浦遺跡」や、福岡市西区の「吉武高木遺跡」、福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」などに見られる、有力な王国群が勃興していた。『漢書・地理誌』にも「百餘國に分かれている」と書かれた。西暦57年には委奴國王が後漢から「漢委奴國王印」をもらい、西暦107年には倭國王・帥升らが後漢に朝貢した(後漢書)。すなわち、天照大神の天地開闢の時代よりも前に日本の国土は「あった」、人びとも「いた」ことになってしまう。
 以上より、天照大神は卑彌呼と同一人物ではない。


【10】 卑彌呼は天照大神を初代の日の巫女として第何代か

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 福岡県みやま市(旧山門國)には、その地域の伝承から、卑彌呼は、矢部川上流の日向神(ひゅうがみ)峡谷で太陽神を祀る巫女として育っていたが、「倭國大亂」を収束させるために、そこから山門國の女王山に迎えられたという仮説がある。これは、福岡縣山門郡瀬高町生まれの元西鉄職員で郷土史家の村山健治(1915年-1988年)説である。
 西暦 180年ごろ、伊都國王を中心とする筑前の国々と筑後の国々が支配権をめぐって争った(倭國大亂)。ここで「支配権をめぐって」ということになってはいるが、事実は、いずれの国も大国に支配されたり強大な権力者に支配されたりすることを嫌っての争いであった(片岡宏二 2021年)。それゆえに、筑前・筑後の国々が「天地開闢(かいびゃく)」のころから矢部川上流の山奥(日向神峡谷)で太陽神を祀ってきた十三歳の「日の巫女」が女王に立つという話しを受けいれた可能性は高い。それによって倭國大亂は収束した。筑前・筑後の国々に、互いに寄り添って暮らす縄文・弥生時代からの社会の大枠が取り戻されたわけである。
 作業仮設として、BC100年すぎに揚子江流域から江南人が太陽神話をもって渡来し、日向神峡谷で江南人の男女に生まれた娘が太陽神を祀り「天照大神」として人びとの記憶に残ったとするならば、果たして卑彌呼は、その第何代にあたるのであろうか?
 弥生人の女性の寿命は三十五歳くらいだったようである(AIによる)。ただし、卑彌呼(女王としての在位 182年すぎ-247年)は、知られている通り長命であった。仮に他の八女津姫は、どの世代も十歳で太陽神を祀り、平均三十五歳で死去したとするならば、卑彌呼は、天照大神を初代の女神として第十二代であった。臺與は第十三代。景行天皇が藤山から南に見える美しい山(福岡県みやま市瀬高町大草の女王山)の女神として討伐しなかった八女津姫(日本書紀・景行天皇紀)は第十五代。大和王権に「田油津媛」(たぶらつひめ・狂(たぶ)らかしの女性呪術者)の蔑称で誅殺された最後の女神(日本書紀・神功皇后紀)は第十七代であった。


【11】 江南人は九州のどこで繁栄したか

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    板付遺跡(福岡市博多区)
   (https://www.google.com/maps/) 


 唐津湾西岸にある「菜畑(なばたけ)遺跡」(佐賀県唐津市菜畑)は日本最初期の水田址である。また、そこが「末盧國」の中心地であったと見られている。菜畑遺跡から出土した石包丁は、九州北岸の石包丁とは異なっていて、対馬、壱岐の石包丁に近いことが知られている。對島・壱岐・唐津はひとつの文化圏を形成していたようである。唐津平野からは巨石を用いた首長のものと見られる墓が三十基以上発見されている。
 福岡市の福岡空港の南にある「板付(いたづけ)遺跡」は、弥生時代最古の遺跡のひとつである。また、菜畑遺跡に次ぐ、最初期の水稲耕作遺跡である。また、福岡県糟屋郡粕屋町の「江辻遺跡」に次ぐ、日本最初期の環濠集落である。板付遺跡からは、縄文晩期(BC1500年-BC1000年)の土器も多く発掘されている。この板付遺跡は、生活グループの址とは見られるが、王国の址であったことを示唆する痕跡はない。
「菜畑遺跡」も「板付遺跡」も縄文・弥生時代からの遺跡である。江南人の遺跡ではない。
 BC100年すぎに有明海沿岸に上陸した江南人は、九州北岸に定住すると、揚子江流域からもってきた準構造船を用いて前漢(樂浪郡)と交易した。『漢書・地理誌』は、前記したように、そこに住む江南人を「倭人」と呼んだ。それらの人びとは、大和王権の祖先であった可能性が高い。「三種の神器」と「祖霊神信仰」をもっていた。

 

   古代に糸島半島と壱岐島を結ぶ航路はなかった


 弥生時代に九州北岸と壱岐島を結ぶ航路は「二つ」あった。博多湾と壱岐を結ぶ「那津(なのつ)航路」と、唐津湾と壱岐を結ぶ「唐津(からつ)航路」であった。玄界灘は海流が非常に速く、不規則な流れが発生しやすい。特に糸島半島付近は岩礁が多い。また、壱岐島と糸島半島との間は潮流が速い。渦も発生しやすい。霧も発生しやすい。季節風の影響も受けやすい。そのため、古代の小型船では進路維持や安全な航行が困難であった。糸島半島と壱岐島の間は航路として用いられなかった。
 福岡県古賀市(旧糟屋郡古賀町)の「馬渡(うまわたり)・束ヶ浦(そくがうら)遺跡」からは、王墓と見られる甕棺の中から細型銅剣二本、銅戈(どうか)一本、銅矛二本が出土した。この遺跡は、紀元前一世紀半ばごろのものであると見られている。
 福岡市西区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」からは王墓と見られるものが発掘されている。特に三号木棺墓からは、中国遼寧省の「多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)」一面を含む細形銅剣二本・細形銅矛一本・細形銅戈一本・勾玉一個・管玉九十五個が出土している。多鈕細文鏡は、日本に初めて伝わった銅鏡である。ここからは「銅剣」「銅鏡」「勾玉」の組み合わせが日本で最初に出土した。この吉武高木遺跡は古く紀元前一世紀以前のものである可能性がある。
 福岡県春日市の「須玖岡本(すくおかもと)遺跡」の巨石墓は、紀元前後ごろの奴國の王墓ではないかと見られ、前漢鏡三十二面、銅剣二本、銅矛四本、銅戈一本が出土した。
 前漢鏡は、日本列島ではほとんど九州北岸からしか出土しない。前漢と交易を行ったのは九州北岸の国々だけであった。
 江南人の王国群は九州北岸に移り住んでも、つい昨日のように大航海を経て上陸できた「やまと(山門)」の地を故郷として記憶にもっていたと見られる。そこは女王山(福岡県みやま市瀬高町大草 上陸時の名称は不明)のふもとであった。王国群の人びとは天照大神とその孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祖先にもち、前漢から「倭人」と呼ばれても、「やまと民族」としての共通の自覚をもっていたと見られる。なお、福岡市西区に「上山門(かみやまと)」「下山門(しもやまと)」と呼ばれる地名が残る。吉武高木遺跡に近いが、そこは周囲にこれといった山があるわけではない。


【12】 「いはれびこ」は実在したか

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    弥生の生活(稲作)の東進


 稲作は、九州北岸に伝わっても、数世紀の間、そこにとどまった。縄文人はなお狩猟採集の生活を続けた。弥生人はなお雑穀栽培の生活を続けた。稲作は早々には行われなかった。稲作は重労働であったからである。
 そのような中で、いち早く稲作を行ってみせたのは BC100年ごろ渡来した江南人であったと見られる。それは、江南人がもと稲作民族であったからである。「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」は、最初に「稲作」を行った象徴的な人物として長くに残ったと見られる。瓊瓊杵尊は、神田(しんでん)をもつ天照大神の「孫」であったとして讃えられた。
 稲作は、その後少しずつ西日本に広がった。稲作とは、狩猟採集をして暮らす縄文人の地域に「侵攻」して土地を「収奪」して行う仕事であった。それが稲作であった。それによって、日本列島は、狩猟採集と雑穀栽培を中心とする生活から、稲作を中心とする生活に切り変わっていく。その「稲作」の最前線が近畿地方を通過したのは、九州北岸に王国群が勃興して間もない「紀元前 50年」ごろであった。
 その「紀元前 50年」ごろ瓊瓊杵尊のひ孫にあたるという「いはれびこ」が、崗國(をかのくに 福岡県遠賀郡)を発ち、稲作に適した土地を求めて瀬戸内海沿岸から遠く近畿地方にまで侵攻した可能性がある。それが「紀元前 50年」ごろであった。

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    神武東征の接岸地とされる河内國草香邑


『日本書紀』によれば、「いはれびこ」は、東大阪市を航行して生駒山麓の河内國草香邑(東大阪市日下町)の靑雲の白肩之津に接岸した
 三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河内國草香邑靑雲白肩之津(日本書紀)。
 紀元前 50年ごろは、まだ「縄文海進」によって海面が高く、東大阪市を航行して生駒山麓に接岸できた。そこで稲作をして暮らすには、土地を収奪しなければならなかった。「ながすねひこ」などの抵抗勢力と戦った。「いはれびこ」がその後どうなったかは分からない。畝傍山麓で初代神武天皇として即位したことを示唆する考古学的痕跡はない。しかし、「稲作に適する土地が遠く瀬戸内海のかなたにもある」その情報は、九州北岸の王国群にも伝わったであろう。九州北岸の王国群の間でその「記憶」が、民族としての英雄「いわれびこ」の東征伝説を生み出した可能性がある。
 九州北岸でも、すべての王国群を支配する「すめらみこと」(天皇)はまだ出現しなかった。しかし、世代は交替していった。


【13】 「伊都國」も江南人の国であったか

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 伊都國(福岡県糸島市)も九州北岸の王国群の一つであった。しかし、伊都國は江南人の国ではなかった。伊都國は、遅く西暦50年前後に後進地の糸島平野に渡来して来た新羅人(民族としての新羅人)の国であったと見られる。伊都國の跡からは最も古い発掘物として前漢の後継国「新」(西暦8年-23年)の時代の硬貨が出てくる。伊都國には紀元前の遺跡はない。彼らは、強大な奴國を避けてそこに定住したようである。
 西暦57年に九州北岸の「委奴國」の王は、後漢の初代・光武帝(在位 25年-57年)に朝貢して「漢委奴國王」の金印をもらった。金印が福岡藩の志賀島で発見されたとき、この金印は、最初は何なのか分からなかったが、『後漢書』に「倭奴國」の金印のことが書かれていた。
「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬『後漢書』東夷傳
 このことから「倭人の奴の國」が正しいのだろうと推定することが、この金印の文字を解釈する上で、重要な役割を果たしてきた。金印には「倭奴國」ではなく「委奴國」と刻まれている。南朝宋の時代に、范曄(398年-445年)はその実物(金印)を「見ない」で『後漢書』(440年)を書いた。仮に「委」と名乗る奴(やつ)の国王に金印を授けたのである場合は、それは伊都國王であった可能性がある。しかし、「西暦57年」には奴國が強大であったと見られること、伊都國ができて数年も経っていなかったことから、朝貢はやはり奴國王によって行われた可能性が高い。
 当時の漢の倭人に対する認識は、倭人は、対馬海峡を内海として、朝鮮半島南岸と九州北岸に同じような言葉を話す人びとが住んでいるというものであった。朝鮮半島南岸の人びとは、弥生人が九州に流入したときそこに取り残された人びとであったと見られる。その南端、すなわち、九州北岸が『後漢書』に出て来る「極南界」である。朝貢は、そこからということだったのであろう。
 日本列島では、当時もその後も、誰も漢字が読めなかった。「奴(やつ)の国」と刻まれた金印を授与されても、卑しい「卑彌呼」と記録されても、邪(よこしま)な「邪馬臺國」と記録されても、誰も何も感じなかった。しかし、伊都國王は漢字が読めた。紀元100年ごろ伊都國王は九州北岸の国々を支配下に置くと、西暦107年に後漢に朝貢した。伊都國王は、自らを国王に相応しい漢字で「帥升」と名乗った。
「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見『後漢書』
 伊都國王は、事実であるとすれば西暦366年に山口県下関市の彦島で第十四代仲哀天皇・神功皇后とその水軍に帰順した。仲哀天皇や神功皇后が実在したかどうかは分からないが、『日本書紀』を見て書かれたと思われる『肥前國風土記・逸文』によれば、伊都國王は、自らについて「高麗(こま)の國の意呂山(おろさん 韓国蔚山広域市)に天降りし日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手(いとで)是なり」と名乗った。五十跡手が日桙の子孫であったかどうかは分からないが、伊都國王は、王家が交替しても新羅人であったと見られる。


第二章

大和王権の祖先の瀬戸内海方面への流落


【14】 日本列島最初の「連合王国」はどこにあったか

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 後漢の永初元年(西暦107年)に、前記したように「倭國王・帥升(すいしょう)ら」が第六代皇帝・安帝(在位 106年-125年)に朝貢した。そのとき百六十人もの生口(奴隷)を献上した。縄文・弥生時代を通して日本列島に初めて現れた専制君主であった。この帥升のことは、『後漢書』を引用する太宰府天満宮の『翰苑』写本(国宝)には「倭面上國王」と書かれている。北宋版『通典』には「倭面土國王」と書かれている。その少なくとも一方は誤写であろう。『後漢書』のその後の新しい写本に、その二文字はない。歴史学者・白鳥庫吉(1865年-1942年)は、その失われた二文字を「回土(ゑと)」として伊都國王のことであるとした。筆者は、その二文字を「百土(をと)」として、同じく伊都國王のことであると見ている。
『魏志倭人傳』に倭國は男子の王を立てて七八十年間暮らしたと書かれている。
「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王」(魏志倭人傳)
その七、八十年の起点がこの倭國王・帥升の朝貢である。すなわち、後漢にとって、倭國王とは伊都國王のことであり、倭國とは伊都國を盟主国とする連合国であった。

 

    平原遺跡一号墳丘墓
   (Wikipedia) 


 鉄器の輸入によって兵力をつけた伊都國王は、對馬國・一支國・奴國・不彌國などを支配し、これらの国々に副官として「ひなもり(卑奴母離)」(「さきもり」のようなもの)という武官を派遣したと見られる。これが日本で最初の連合王国「倭國」であろう。伊都國がその盟主国であり、首都国であった。この倭國には末盧國、斯馬國なども属していたであろう。107年の後漢に対する前記の朝貢は、日本列島最初の連合王国を樹立した帥升の「お披露目」であったと見られる。
 福岡県糸島市の「三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡」「平原(ひらばる)遺跡」は、一世紀のものと見られ、伊都國王の墓と見られている。南北約 1,500メートル、東西約 750メートルの規模の遺跡である。1822年に福岡藩の国学者・青柳種信(1766年-1836年)は、三雲遺跡の甕棺墓の内外から前漢鏡三十五面、銅剣一本、銅矛二本、銅戈(どうか)一本、ガラス玉八個、ガラス勾玉三個、ガラス管玉六十点を掘り出した。1974年には並列する甕棺墓から前漢鏡二十二面、翡翠勾玉一個、ガラス勾玉十二個などが出土した。三雲遺跡からは一辺三十メートルの墳丘墓も発見されている。青柳種信は、三雲遺跡の南に隣接する井原遺跡から銅鏡二十二面、巴型(ともえがた)銅器三個などを掘り出している。三雲・井原遺跡の居住域からは鉄製農工具、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃など合計 250点が発掘されている。

 

  (国宝)大型内行花文鏡
  伊都国歴史博物館所蔵
   (西日本新聞 2024年5月4日) 


 平原遺跡には、五つの墳丘墓址がある。一号墓だけは復元されている。十四メートル×十二メートルの方形周溝墓である。それは、副葬品から判断して女性の墓であり、伊都國の女王または巫女(みこ)の墓ではないかと見られている。周溝墓は、大陸や朝鮮半島からは見つかっていない。弥生時代に国内で発展したものと見られる。この一号墓から四十面の銅鏡が出土した。その中には大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう 内行花文八葉鏡)が破損した形で五枚あった。この銅鏡は直径が 46.5センチメートルあって、これは漢の時代の「二尺」である。この直径では周囲が「八咫(やた)」の寸法(親指と中指を拡げた長さの八倍)である。「内行花文八葉鏡」のうち四面は伊都国歴史博物館に、また一面は九州国立博物館に収蔵・展示されている。
 1983年に糸島市前原で高さ 6.6センチメートルの銅鐸が発見された。銅鐸は、一時は近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念が存在したが、1986年に佐賀県南部の吉野ヶ里遺跡が発見され、そこから銅鐸の鋳型が出土したことから、銅鐸は九州北部から近畿に伝わったと見られている。
 二世紀末に伊都國が邪馬臺國の支配下に入ってからは、伊都國では、あまり大きな墓は作られなくなる。これは、交易を独占できなくなって衰退したからではないかと見られる。


【15】 大和王権の祖先はいつどこから東遷したか

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 大和王権の祖先は、前記したように「九州北岸」の江南人であった可能性が高い。九州北岸では、江南地方の「二種の神器」(銅剣・銅鏡)に、縄文時代から流通していた翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)が加わって「三種の神器」となった。また、江南地方の「祖霊神信仰」も行われるようになった。紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけて実戦には使えない「平型銅剣」が出ている。これは、銅剣が早くから祭祀用に用いられていたことを物語る。朝鮮半島では、前記したように銅剣が祭祀の道具として用いられた形跡はない。
 では、大和王権の祖先は、九州北岸の「どこ」にいたのであろうか?
 福岡県古賀市の「馬渡・束ヶ浦遺跡」、福岡市西区の「吉武高木遺跡」、福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」などは日本最初期の王国群であった。福岡市付近から遠賀川の流域の人びとが、大和王権の祖先であった可能性が高い。すなわち、旧早良郡、旧那珂郡、旧糟屋郡、旧鞍手郡、旧遠賀郡、旧田河郡、旧穂波郡など、「筑前國北岸」の人びとである。
 古代神話の中で、海の神の地位は高い。ギリシャ神話の海神・ポセイドンも最高神・ゼウスに次ぐ圧倒的な強さをもっている。神話ではあるが、『日本書紀』に出てくる「海神(わたつみ)」も、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子である。また、これも神話であるが、神武天皇は海神の娘・豐玉媛(とよたまひめ)の孫である。それゆえに、「海神」は皇祖神とされる。この「海神」は、福岡市東区の「志賀海神社」を全国の総本社として祀(まつ)られている。安曇連(あづみのむらじ)が祭祀を務めたようである。
 また、これも神話であるが、住吉(すみのゑ)神も、伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきがはら)で禊(みそぎ)をしたときに生まれたとされる海の神である。『筑前國住吉大明神御縁起』では、福岡市博多区の「住吉神社」が全国のすべての住吉信仰のそもそもの始まりとされている。大阪市の住吉大社(すみのゑのおほやしろ)の『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも、この筑紫大神が住吉信仰の始源であるとされている。
 後記する宗像三女神も、また、海神も住吉神も、いずれも航海神である。それぞれが三柱の神々を擁している。それは航海で目印とされたオリオン座の三つ星を表すという仮説があるが、よくは分かっていない。

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    西暦100年ごろの大和王権・出雲王権の東遷


 九州北岸で日本最初に前漢と交易して繁栄した大和王権の祖先は、なぜ東遷を始めなければならなかったたのであろうか?
 福岡平野のすぐ西の伊都國は「縄文海進」によって海面が高く、糸島平野は海底にあった。隣の斯馬(しま)國は島であった。耕作は、ままならなかった。しかし、伊都國は後漢(樂浪郡)との交易権を実質的に独占するようになったと見られる。鉄製の農具は作物の収穫量を飛躍的に増大させた。鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化した。
 西暦100年ごろ、伊都國が脅威となったことから大和王権の祖先はそこを逃れて瀬戸内海方面へ東遷したと見られる。「やまと民族」の流落(落ち延び)であった。
 福岡市付近から遠賀川の流域の人びと(やまと民族)は、宇佐國を経て瀬戸内海沿岸へ向かった。また、宗像周辺の人びと(やまと民族)は日本海方面へ向かった。一方、對馬國、一支國は、伊都國王に服属した。奴國、不彌國などには、東進に取り残された人びともいて、伊都國王に服属した。
 伊都國王がその後(107年に)後漢に「お披露目」として朝貢したことは前記した通りである。
 宇佐國は、その後大和王権の瀬戸内海交易の拠点となる。宗像國は、その後出雲王國の大陸交易の拠点となる。宗像國は、出雲王國が大和王権に服属した四世紀後半からは、大和王権の大陸との交易拠点となる。
『日本書紀』によれば天照大神と素戔嗚(すさのをの)尊(みこと)の契約で「宗像三女神」が高天原(たかまがはら)から「宇佐嶋」に降臨したとされる。九州北部の東側(筑紫平野よりも東側)は全体が「宇佐嶋」と呼ばれた可能性がある。葦原中國の祖先は天照大神であり、出雲王國の祖先は素戔嗚尊と見られるので、宗像三女神はその両方を結ぶ女神であったといえる。三女神は航海術などあらゆる「道」の最高神とされる。高天原で生まれた三人のお姫さまが宇佐嶋の宗像に移り住んだのかもしれない。大和王権が、宗像から沖ノ島を通って對島を結ぶ「海北中道(うみきたのなかみち)」を通して大陸と交易を行ったのは四世紀後半からである。宗像三女神は、事実としてはそのころ誕生したのかもしれない。宗像は、出雲との結びつきが強い。『古事記』によれば、三女神のひとり・田心媛(たごりひめ)神は大國主命(おほくにぬしのみこと)と結婚した。


【16】 瀬戸内海、日本海へ流落したやまと民族はどうなったか

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 毎年十月(神無月)に全国の八百万(やほよろづ)の神々は、出雲の「神奈備山(かんなびやま)」に集まる。そのように、出雲の力は強大である。島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)の「荒神谷(こうじんだに)遺跡」は、西暦150年ごろに出雲に王国が存在したことを示唆する。荒神谷はその「神奈備山」の麓にある。荒神谷の「358本」の整然と並んだ銅剣は、358人の豪族がいて、そこに何らかの祭祀を行う宗教国家が存在したことを物語る。『延喜式神名帳』は、『延喜式』(927年)の巻九・巻十のことであるが、当時「官社(式内宮)」に指定されていた全国の神社の一覧である。そこに掲載された出雲地方の式内宮は「358社」である。これは偶然の一致かもしれない。
 宗像國を発って日本海方面へ流落したやまと民族は、出雲で繁栄したようである。

 

    西谷二号墳丘墓
   (じゃらんnet) 


 出雲市大津町の「西谷(にしだに)墳丘墓群」は、32基のうち 6基は「四隅突出型墳丘墓」である。「四隅突出型」は出雲特有の形である。西谷二号墳丘墓は、約二十四メートル × 約三十六メートルの方形である。高さは約四メートル。突出部を含めると約五十メートルである。出雲には、安来市に「塩津墳丘墓群」もある。出雲氏の墳丘墓群であろうと見られている。塩津一号墳丘墓は約二十五メートル × 約二十メートルの方形で四隅突出型墳丘墓である。
 一方、瀬戸内海方面では「吉備王國」が繁栄していた。岡山県瀬戸市門田遺跡、岡山市天瀬(あませ)遺跡、岡山県倉敷市上東(じょうとう)遺跡など、大規模な水田跡や鉄器の出土物が多い。九州北岸から流落した大和王権の祖先は、宇佐國、安藝國を経てこの吉備に到ったようである。

 

    楯築墳丘墓址
   (倉敷観光 WEB) 


 西暦200年前後に吉備に後世「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)と呼ばれる大王が出現した可能性がある。大王は、一族が九州北岸にいたころの英雄「いはれびこ」に見立てて讃えられたが、「いはれびこ」ではない。その後、吉備王國に後世「闕史八代」と呼ばれる大王が出現した可能性がある。その「記憶」は、吉備王國から纏向にもちこまれる。この「すめらみこと」という称号は天武天皇(在位 673年-686年)の時代に『帝紀』『舊辭』が編纂されるまでに創作されたようである。
「楯築(たてつき)墳丘墓」(岡山県倉敷市)は、直径約四十メートル、高さ約五メートルの墳丘墓である。墳丘墓としては日本最大級である。前後に、二十メートル余りの突出部がついていて、これは「280年-310年」に纏向で築造される最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」の原型と見られている。埋葬された木棺の底には三十キログラム余りの水銀朱が敷き詰められていた。
 吉備王國にとって唯一の脅威は遠い同族(やまと民族)の出雲王國であった。それが、吉備王國がさらに纏向へ流落する原因であったと見られる。
 西暦280年以前に、奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的痕跡はない。それは、皆無である。
 阿波國・淡路國は、瀬戸内海を隔てて吉備王國と行き来する近い同族(やまと民族)であったようである。弥生時代の多くの墳丘墓が残されている。兵庫県淡路市の伊弉諾神宮は、式内明神大社として伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱を祀る。徳島県美馬市の伊射奈美神社は式内小社であるが、伊弉冉尊を祀る。


【17】 「纏向(まきむく)遺跡」は誰の宮殿の址か

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 奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する「最古」の考古学的な遺跡は「纏向遺跡」である。纒向遺跡は JR桜井線(万葉まほろば線)「巻向駅」を中心に、その規模は東西約 2キロメートル・南北約 1.5キロメートル。その面積は約九十万坪に及ぶ。纏向遺跡はもともと小規模なものと見られていたが、2009年から大規模な建造物址が発掘されるようになった。そこには、柵や砦で囲まれた「宮殿址」らしいものがあることが明らかになっている。
『記紀』には、第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇が纏向にそれぞれ宮殿を造営したと書かれている。
「遷都於磯城(しき)是謂瑞籬宮(みづがきのみや)」(日本書紀・崇神天皇紀)
「坐師木(しき)水垣宮(みづがきのみや)」(古事記・崇神天皇紀)
「更都於纒向是謂珠城宮(たまきのみや)也」(日本書紀・垂仁天皇紀)
「坐師木(しき)玉垣宮(たまきのみや)」(古事記・垂仁天皇紀)
「更都於纒向是謂日代宮(ひしろのみや)」(日本書紀・景行天皇紀)
「坐纒向之日代宮」(古事記・景行天皇紀)
 奈良県桜井市に「磯城瑞籬宮伝承地」は存在するが、『記紀』の記述を比較して見ると崇神天皇の磯城も纏向のことであったようである。
「炭素14年代測定法」は、科学的に正確な年代測定法である。植物は、太陽光線の下で大気中の炭酸ガスを吸って光合成を行っている。動物はその植物を食べて生きている。自然界に存在する炭素「C」は原子番号「6」であり、原子核の中に陽子(ようし) 6個と中性子 6個がある。また、周囲を陽子の数と同じ 6個の電子が回っている。この炭素は、陽子の数と中性子の数を合わせて「C-12」(炭素 12)と呼ばれる。我われの体重の約二割がこの「C-12」である。

intcal

     IntCal20(○印は日本の木材)



 ところが、この炭素「C」の中に 0.00000000012パーセントの割合で「C-14」といって陽子 6個と中性子 8個のものが存在する。これは放射性元素である。人も動植物も、体内の「C-14」から周囲にわずかに放射線を放っている。「C-14」の放射線の半減期は「約 5,370年」である。それゆえに、5,370年前の動植物の炭素「C-14」は、放出される放射線量が半分である。これによって、古代の地層などから発掘された動植物が何千年前の動植物であるかが分かる。これが「炭素14年代測定法」である。1950年を起点として「BP(before present)」で表される。
 炭素14年代測定法は、大気中の放射性元素「C-14」の濃度がいつの時代も一定であるという前提に立っている。しかし、大気中の「C-14」の濃度は時代と共に変動している。そこで、世界中から古代の樹木を集めて、当時の大気中の「C-14」の濃度を推定する作業が進められている。
 2013年にケンブリッジ大学から古代の大気中の「C-14」の濃度を反映した、炭素14年代測定の更正曲線「IntCal13」が発表された。

intcal

     「モモ核 1」のIntcal13 とIntCal20 の比較
  (纏向学研究センター紀要 2022年より作成)



 纏向で十二個のモモの核が見つかっている。2013年の「IntCal13」によれば、その実年代は「135-245年」であった(中村俊夫『纏向学研究』第6号 67-73 2018年)。それは卑彌呼の時代と重なった。そのために、纏向を「卑彌呼の宮殿」としてアドバルーンがあげられ、公的資金(税金)が投入されてNHKも報道した。
 2020年にケンブリッジ大学から新しい更正曲線「IntCal20」が発表された。試料として日本の古代の木材も使用されている。「IntCal20」に照らすと、たとえば纏向の「モモ核 1」の実年代は「220-250年」あるいは「290-330年」である(中村俊夫『纏向学研究』第10号 291-300 2022年 第 8図)。他のモモ核 11個も「モモ核 1」とほとんど同じ結果である。この結果は、2013年の「Intcal13」と比較すると、纏向遺跡の年代が以前考えられていたよりも、およそ 100年近く新しくなったことになる。日本の古代史観は、これによって大きく変わることになった。
 今後さらに精査が進むことによって、纏向遺跡の実年代は「290-340年」となる可能性が高い。その根拠は、纏向で最初に築造されたと見られる日本最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」の築造年が「IntCal20」に照らして「280年-310年」と見られること、「箸塚古墳」もその築造年が「295-315年」と見られることなど、纏向に王権が存在したとすれば、「290年-340年」であったことが強く示唆されるからである。このことは、また、後記する「天皇の皇紀即位年(黒●印)と春秋二倍暦換算即位年(白〇印)、推定実年(青●印)のグラフ」(略して「歴代天皇即位年のグラフ」)から第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の三代の天皇が「290年-340年」の天皇であった可能性が高いことからも示唆される。
 八世紀に書かれた『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)は、二十一世紀になって纏向で大規模な宮殿址が発掘されようとは知らないで書かれているわけであるから、これを常識的に見ると、纏向の宮殿址は、やはり第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の宮殿址であろう。その纏向遺跡が 290年以降のものである可能性が高いことが分かったわけである。
 奈良盆地で最古の遺跡である纏向遺跡は、卑彌呼の在位期間「182年すぎ-247年」より約 100年新しいので、卑彌呼の「邪馬臺國」の遺跡ではない。『記紀』に書かれる通り、第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の宮殿址である。


【18】 「邪馬臺國畿内説」とは何であったか

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 魏の皇帝から「親魏」という破格の高い称号をもらったのは、インドのクシャーナ朝の国王(仏教を奨励したカニシカ王の孫)と卑彌呼の二人だけであった。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に「親魏国である(属国ではない)」と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉であった。大和王権(『日本書紀』編纂の国家プロジェクト)としては、それを何としても許すことができない。
 日本最初の「邪馬臺國畿内説」は奈良時代の『日本書紀』(720年)の中に見られる。それは、神功皇后を卑彌呼と見なして、魏の景初三年(239年)に倭國の女王が魏の明帝に難斗米(なしめ)を朝貢させ、皇帝から印綬を授与されたとするものであった。すると邪馬臺國は神功皇后が都と定める畿内にあったことになる。
「卅九年是年也太歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也。卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」(日本書紀・神功皇后紀)
 また、神功皇后を卑彌呼の後継者・臺與(とよ 235年-没年不詳)と見なして魏の後継国・晉の泰初(泰始の誤り)二年(266年)に武帝に朝貢したとするものであった。
「六十六年是年晉武帝泰初二年晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻」(日本書紀・神功皇后紀)
『日本書紀』編纂の国家プロジェクトは、神功皇后が在位したとする期間を繰り上げることによって卑彌呼(169年頃-247年)と臺輿(235年-没年不詳)の業績を神功皇后のものとして召し上げた。しかし、現皇室に「親魏倭王」の金印紫綬は伝わっていない。この『日本書紀』が日本最初の「邪馬臺國畿内説」である。
 我が国には「皇國史観」という歴史観がある。明治時代から第二次世界大戦に至るまで、日本が大日本帝國であった時代には、皇國史観は政府公認の歴史観・道徳観であった。『日本書紀』に書かれた内容は史実とされた。その中で、國家神道は、近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神を皇室の祖先神とし、これを祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。仮に大和王権が女王國・倭國を討伐して今日に至ったとなると、大和王権の絶対性が失われてしまう。それこそ真の国難と感じる人も少なくない。そこに「邪馬臺國畿内説」の大きな意義があった。

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     「邪馬臺國畿内説」


 前記したように、魚豢の『魏略』(257年)と陳壽の『魏志倭人傳』(285年)によれば、樂浪郡または帶方郡から末盧國までは「萬餘里」、邪馬臺國までは「萬二千餘里」、また、末盧國から伊都國までは「五百里」と書かれている。これによって、邪馬臺國はおよそ現在の福岡県内の近さにあったことがはっきりしている。しかし、『魏志倭人傳』には、不彌國から邪馬臺國まで「水行二十日・水行十日陸行一月」などと書かれている。
「南至投馬國水行二十日南至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月」(魏志倭人傳)
 そこでこの「南」を何としても「東」と読み替えることで「邪馬臺國畿内説」は成立し得た。その読み替えるべき根拠として、『魏志倭人傳』に、末盧國から「東南」の方角に伊都國があったと書かれている。
「東南陸行五百里到伊都國」(魏志倭人傳)
 末盧國(唐津湾西岸)から伊都國政庁(平原遺跡などがある)は「東」、あるいは、「東北」の方角にあるにもかかわらず「東南」と書かれているわけであるから、『魏志倭人傳』は「東」を「南」と表記したに相違ないと推定するものであった。しかし、伊都國は広大な領域国家であった。ギリシャのような都市国家ではなかった。後漢使は伊都國の政庁を目指して歩いたのではない。後漢使は「東南」にある伊都國の入境地を目指して歩いたのである。距離は全体が途切れることのないように「五百里」と書かれた。それゆえに、「南」を「東」と読み替えることに依拠する邪馬臺國畿内説も成立し得ない。


【19】 「箸塚古墳」は誰の墓か

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『日本書紀』(720年)に第十代崇神天皇は倭迹迹日媛命(やまとととびひめのみこと)を大市の箸墓に葬ったとある。宮内庁は、これを現在の「箸塚古墳」(大市墓)としている。
 一方、『魏志倭人傳』に卑彌呼の墓は径(さしわたし)百餘歩であったと書かれている。卑彌呼が死去した 247年は、まだ弥生時代であった。当時は「古墳時代」ではなかった。「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)はあったが、「古墳」はなかった。箸墓古墳は「古墳」であり、完成した「前方後円墳」であるから、卑彌呼の時代の墓ではない。それでも「箸墓古墳」は、よくよく考えてみると「後円部」が丸いではないかという発想のもとに、これを何としても卑彌呼の墓ではないかという「使命感」をもって調査が行われた。


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    現在の箸墓古墳(大市墓)(Wikipedia)


 畿内で最初に現れる古墳は「纏向石塚古墳」(全長約96メートル)である。その築造は前記したようにケンブリッジ大学の「IntCal20」に照らして「280年-310年」であったと見られる。纏向にはこのほか、纏向勝山古墳(115メートル・290-320年)・纏向矢塚古墳(96メートル・290-320年)・箸塚古墳(278メートル・295年-315年)などがある。このうち、箸塚古墳が纏向型古墳としての完成形であると見られている「箸塚古墳」(295年-315年)は、時代も異なるので、やはり卑彌呼(在位 182年すぎ-247年)の墓ではない。筆者はこの箸塚古墳を第十代崇神天皇の墓ではないかと見ている。
『日本書紀』には、崇神天皇が葬った倭迹迹日媛命の墓は大市にあると書かれているわけであるが、「大市」とは固有名詞ではない。各地に市場が大いに立っていたが、そのひとつという意味である。それゆえに「纏向石塚古墳」が大市墓でもあり得るし、纏向勝山古墳が大市墓でもあり得る。


【20】 「大和」はなぜ「やまと」と呼ばれるのか

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 福岡県古賀市(旧糟屋郡古賀町)の「馬渡・束ヶ浦遺跡」、福岡市西区の「吉武高木遺跡」、福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」などの王国群は、前記したように九州北岸に移り住んでも、つい昨日のように大航海を経て上陸できた「やまと(山門)」の地を共通の記憶としてもっていたと見られる。
 王国群は宇佐、安藝、吉備を経て纏向に東遷(流落)してそこで繁栄したが、故郷の「やまと」の民族であるという記憶をもち続けたと推定される。
『大寶律令』(701年)で奈良盆地の地名は「大倭(たいわ・だいわ)」とされた。元明天皇(女帝 在位 707年-715年)の勅命で「倭」の文字を嫌って同じ読みの「大和(だいわ)」に変更された。また、「大和」を「やまと」と読むこととされた。
 畿内の「大和(やまと)」の「やま」は、大和王権の遠い過去の記憶をたどれば、福岡県みやま市瀬高町大草の「女山」(ぞやま 旧女王山・江南人としての上陸時の名称は不明)であった可能性が高い。纏向は三輪山のふもとにあるが、三輪山は大和王権に敵対した出雲王権の大物主命(大国主命)のご神体である。三輪山をおろそかにすると天変地異や疫病が起きると恐れられた。
 それらのことから、畿内の「やまと(大和)」の語源は九州筑後の「やまと(山門)」である可能性が高い。
 なお、福岡県みやま市瀬高町大神(おおが・おおみわ)に三重溝で囲まれた神域があったと伝承されるが、それと三輪山との関係は不明である。


【21】 神武天皇は紀元前 660年に即位したか

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『日本書紀』に、初代神武天皇は百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上経ったことになっている。
『魏志倭人傳』(285年)に「魏略に曰く、倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている。
「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」(魏志倭人傳)
 これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372年-451年)が『魏略』を見て、注釈として挿入したと見られている。『日本書紀』の編纂プロジェクトもこの『魏志倭人傳』を読んでいた。仮に、古代に「春秋二倍暦」を用いて、現在の一年を「二年」と数えていたのなら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも不可能ではなかったことになる。『古事記』もこの「春秋二倍暦」を用いて書かれた可能性があり、神武天皇は百三十七歳で崩御したことになっている。それは、西暦681年ごろ天武天皇(在位 673年-686年)が編纂させた『帝紀』『舊辭(くじ)』(現存しない)にそのように書かれていたと見られる。それらは、『古事記』『日本書紀』の共通の底本となったと見られる。
 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は千二百六十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。「紀元前 660年」とは、聖德太子(574年-622年)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位した。ということになった。これは明治時代の歴史学者・那珂通世(1851年-1908年)らの説である。舎人親王以下『日本書紀』の編纂プロジェクトは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の大前提として編纂したのに相違ない。


【22】 神武天皇には「闕史八代」の天皇が続くのか

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『日本書紀』によれば、神功皇后は摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した。本居宣長(1730年-1801年)は、この派遣の年は百濟史との対比から正確に「干支二巡」(120年)繰り上げて書かれており、事実としては「西暦366年」であると推定した。すると、翌摂政四十七年(西暦367年)に百濟から使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅の調(みつき)の使いも一緒に来た。神功皇后と譽田別尊(第十五代應神天皇)は喜んで「先王が所望したまいし國人(くにびと)、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた。
「大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣群臣皆莫不流涕」(日本書紀・神功皇后紀)
 この「西暦367年」が第十四代仲哀天皇崩御の年であると推定される。前年の摂政四十六年(366年)は、仲哀天皇の在位期間中であるから、卓淳國に使者を派遣したのは神功皇后ではなく、在位中の仲哀天皇であったことになる。「先王が所望したまいし」も、そのことと整合するようである。
 そこで、筆者らは、前記の仲哀天皇崩御の年と推定される「367年」を起点として『日本書紀』に記される各天皇の在位期間を二分の一として積み上げ、「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」に変換して初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年を推定した。結果は、神武即位は BC60年となった(入口紀男『邪馬臺國』自由塾 2022年)。
『日本書紀』が「春秋二倍暦」からどの天皇の代で「正歳四節暦」へ移行して編纂されたと見るかによって、あるいは、『古事記』を反映するかどうかによって、結果に数年の誤差が生じる。長浜浩明は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(展転社 2012年)の中で、神武即位を「BC70年」と推定した。また、牧村健志は 『よみがえる神武天皇』(PHP研究所 2016年)の中で、神武即位を「BC37年」と推定した。いずれの推定においても、縄文海進の残存によって、神武天皇が東大阪市を航行することは何とか可能であったことになる。
 しかし、いずれの推定も、『日本書紀』は、古代の天皇については「春秋二倍暦」が用いられていると推定する一方で、「いはれびこ」から第十代崇神天皇までは『日本書紀』に書かれる通りに「闕史八代の天皇のみ」と推定している。その推定に、誤ってダブル・スタンダード(二重基準)があった可能性が高い。
 紀元前100年すぎに日向神峡谷で江南人の男女に生まれて「太陽神」を祀った「天照大神」を仮に初代天皇とし、その孫として九州北岸で「稲作」を行って見せた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」を天照大神の孫とし、瓊瓊杵尊のひ孫を「東征伝説」の英雄「いはれびこ」とすると、次の「歴代天皇即位年のグラフ」で表されるように、「第十代崇神天皇」は、実際は第三十五代となる。


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  天皇の皇紀即位年(黒●印)と春秋二倍暦換算即位年(白〇印)、推定実年(青●印)

歴代天皇即位年のグラフ



 図は、『日本書紀』に依拠して各天皇の即位年を黒丸●印で表したものである。タテ軸は黒字で初代から古代最後の天皇・第七十四代鳥羽天皇まで並んでいる。青字の数字は天照大神を初代とするもので、その鳥羽天皇は第百代というわけである。ヨコ軸は西暦年である。たとえば、『日本書紀』に書かれる初代神武天皇の即位年は BC660年のところに上から最初の黒丸●印で示している。次に第二代綏靖(すいぜい)天皇と続く。初代神武天皇の在位期間から仁德天皇の在位期間まで、わずか十六代で 1,000年以上を経た。そのようなことになっている。
「白印」は、『日本書紀』で初期の天皇が「春秋二倍暦」(春と秋に正月がある暦法)を用いて書かれていると推定して「二分の一」をかけて表したものである。すると、初代天皇の即位が BC60年ごろとなり、それなら「縄文海進」によって生駒山麓に接岸することも可能であったということになる。しかし、図の「白印」の曲線を見ると、なお初期の天皇の在位期間は長く、人間の世界で起きたこととしてはどうも「不自然」ではないかと感じられる。
 第十七代履中天皇から第七十四代鳥羽天皇までの天皇の即位年は、図の一本の青い直線上におよそ乗って(重なって)いる。この青い線は、正確には多項式の曲線で近似すべきものであるが、ここでは、直線で表している。それでも、各天皇の即位年と青い直線との相関は非常に高く(相関係数が「1.00」に非常に近く)、この高い相関が偶然に起きる確率はほとんどゼロである。
青●印」は、初期の天皇の即位年などを、単にその青い直線の上に乗せてみたものである。これが現実に起きたこととして事実に最も近いであろう。
青●印」で見る限り、「はつくにしらすすめらみこと」(初代の大王)は、時期的に見て西暦200年ごろ吉備で即位した可能性がある。九州北岸にいたころからの伝説の英雄「いはれびこ」に「見立て」て讃えられたであろうが、しかし、「いはれびこ」ではない。その後も、吉備王朝に「闕史八代」の大王が出現して人びとの記憶に残った可能性がある。そのように、第十代崇神天皇より前に九代の天皇が存在したことを証明する文献はない。参考にあげるならば、それは『古事記』『日本書紀』であろう。しかし、第十代崇神天皇が大王として忽然と纏向に現れ、纏向を開発するには、それ以前に九代、あるいは、それ以上の大王がいて、崇神天皇は少なくともその第十代であったからこそ、それだけのことができたのだとする仮説は理解しやすい。
 グラフでは、この直線を、BC100年ごろまで延長して描いている。BC100年すぎに即位した初代天皇を日向神峡谷(福岡県八女市黒木町大淵)で太陽神を祀った「天照大神」としている。その孫を九州北岸で最初に稲作をして見せた瓊瓊杵尊としている。さらにそのひ孫を東征伝説の「いはれびこ」としている。
 ここでは既知のデータに基づいて、そのデータの範囲を超えた部分の数値を推測する「外挿(extrapolation)」という作業を行っている。外挿によって「何か」が示唆されても、その「何か」が事実として証明されたことにはならない。しかし、これまで想定し得なかった「何か」が示唆されることがある。外挿を利用するには、それを科学的に様ざまな面から検証することによって、事実に近づけていくという努力が必要となる。


【23】 日本古代史にはどのような「作業仮説」が可能か

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  江南人の遥かな旅 (BC100年頃の大航海から AD290年頃の崇神天皇の出現まで)


 前記の「天皇の皇紀即位年(黒●印)と春秋二倍暦換算即位年(白〇印)、推定実年(青●印)のグラフ」(歴代天皇即位年のグラフ)を参照して、第十代崇神天皇の出現まで次のような「作業仮説」が考えられる。
  1.  BC100年ごろ江南人の一部が九州へ渡航して「やまと(山門)」(福岡県みやま市とその周辺)に上陸した。神々の世界と地上の世界との「Great Discontinuity (大分断)」は、江南人の民族としての「渡航」の記憶であった。「やまと(山門)」がすべての始まりの地「高天原」であった。
  2.  BC100年すぎに山門の山奥の日向神(ひゅうがみ)峡谷(福岡県八女市黒木町大淵)の月足(つきたし)の里に生まれた江南人の娘が太陽神を祀った。それが「天照大神」として江南人の民族としての記憶に残った。
  3.  BC50年ごろ九州北岸に江南人の王国群が勃興し始めた。『漢書・地理誌』は、この江南人を「倭人」と呼んだ。一方、王国群の人びとは、自らを「やまと」の民族であるという共通の自覚をもっていた。
     その中で、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」は九州北岸で最初に稲作伝えた象徴的な人物として長く「記憶」に残った。瓊瓊杵尊は天照大神の「孫」として讃えられた。
  4.  B50年ごろ、瓊瓊杵尊のひ孫であるという「いはれびこ」が九州北岸から遠く近畿地方にまで侵攻した。「いはれびこ」が畝傍山麓で即位したことを示唆する考古学的痕跡はない。しかし、その「戦い」は九州北岸の王国群の間で英雄「いわれびこ」の東征伝説として記憶に残った。
  5.  西暦50年ごろ新羅人(民族としての新羅人)が後進地の伊都國に渡来した。強大な奴國を避けてそこに定住した。伊都國の王は漢字が読めた。
  6.  西暦57年に九州北岸の「委奴國王」が後漢に朝貢して「漢委奴國王印」をもらった(後漢書)。
  7.  西暦100年ごろ、九州北岸の王国群は、伊都國が鉄器で兵力を強化して脅威となったことから、瀬戸内海方面へ流落し(落ち延び)た。宗像の人びとは日本海方面へ流落した。
  8.  西暦107年に伊都國王・帥升は九州北岸に残った国々を従えて「倭國王」として後漢に朝貢した(後漢書)。
  9.  西暦150年ごろ宗像から日本海方面へ流落した人びとは出雲に王國を築いて繁栄した。
  10.  西暦180年ごろ九州北岸から瀬戸内海方面へ流落した人びとは吉備で繁栄した。
  11.  西暦180年すぎに九州北岸の伊都國王が筑後の国々に侵攻した(倭國大亂)。ここで後漢が記録する「倭國」とは、後漢から見た朝貢国・伊都國のことであった。
  12.  大乱は 182年すぎに卑彌呼が女王として日向神峡谷から女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)に迎えられる。伊都國王は大率(だいそつ)として全三十余国の行政監察権をもつ。という条件で収束した。後漢(樂浪郡)が仲介した。
  13.  西暦200年ごろ吉備に大王が出現した。古代の東征伝説の英雄「いはれびこ」に見立てて讃えられた。その後も吉備王朝に後世「闕史八代」とされる大王が出現して人びとの記憶に残った。吉備王國にとって唯一の脅威は、遠い同族(やまと民族)である出雲王國であった。そのため、日本神話の三分の一を「出雲」が占めることになる。
  14.  三世紀後半に吉備王國から「人」「物」「文化」「記憶」が少しずつ纏向に流入し始めた。西暦290年ごろ纏向に後世改めて「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれる「第十代崇神天皇」が出現した。それに伴って吉備王國は消滅した。
     2020年にケンブリッジ大学が公表した炭素14年代測定の較正曲線「IntCal20」に照らして、西暦280年以前の奈良盆地には、環濠集落などの生活グループはあったが、何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的痕跡はなく、それは皆無である。
  15.  纏向の王権にとって、東海地方から関東地方にかけての豪族群は脅威であった。東海地方の経営のために伊勢を皇祖神・天照大神の鎮座の地として採用した。関東地方の経営のために鹿島神宮・香取神宮を勅祭した。
  16.  七世紀(第四十代天武天皇の時代 在位 673年-686年)に、大和王権は、豪族政治に訣別して天皇中心の律令国家となることを目指した。しかし、近い同族(やまと民族)の阿波國・淡路國が新たな脅威となった。また、遠く隼人の日向では、大規模な反乱が繰り返されていてこれも脅威であった。
     史書の編纂は有力な豪族・少数民族を融和する道具でもあった。淡路國の島神(しまがみ)「伊弉諾」を、阿波國の「伊弉冉」とともに、皇祖神(天照大神の両親)として採用した。淡路島を国産みの最初の島として採用した。隼人は『大寶律令』では「異人」とされ、朝廷には通訳がいたが、隼人の日向を「いはれびこ」「瓊瓊杵尊」「木花開耶姫(このはなのさくやびめ)」の故郷として採用した。
 

第三章

邪馬臺國の出現


【24】 古代中国で歴史はどのように記録されたか

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 殷(いん)の宮廷では、一直線上を静かにすり足のように歩いたようである。先ず右足のつま先に左足のかかとをつけた。次に右足をゆっくりと動かして左足のつま先に右足のかかとをつけた。すると、一歩はおよそ 0.25メートルであった。これが殷の時代の「歩」であった。「歩」は左足のかかとに右足のつま先を付けた様子を表す象形文字である。殷ではその三百倍(約 75メートル)を「里」とした。里は、一辺が約 75メートルの「面積」であった。
 春秋・戦国時代を経て、秦・漢の時代に「歩」は約 1.38メートルとなった。「里」は三百歩のままであったが、約 414メートルの「距離」となった。これは「長里」と呼ばれる。それに対して殷の時代の約 75メートルは「短里」と呼ばれる。

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    方一万里の世界観


 漢の時代に、国土(天下)は「方一万里」、すなわち、一辺が約 4,140キロメートルの「正方形」と考えられた(添付図 渡邉義浩 中公新書 2012年より転載)。この「方一万里」は実測値ではなく「理念」の距離であった。それでも、皇帝によって承認された「正式」な国土の形と大きさであった。また、北方に長さ「一万里」の長城を築くことによって北荻の侵入は防ぐことができると考えられた。
 漢の周辺には多くの周辺民族がいた。春秋時代から行われていた「露布の習わし」によれば、北へ百里行って敵を百人殺した場合に「北へ千里行って敵を千人殺した」と報告しても、褒められこそすれ咎められることはなかった。ただし、「方角」を偽ってはならなかった。
 皇帝の徳は、朝貢する国が遠方の大国であればあるほど高いと考えられた。
 古代の中国で方角は重要であった。特に「南」は重要であった。人に何かを教えることを「指南する」と言った。歴代皇帝は「南」を向いて座った。国土の「方一万里」の正方形も、正確に東西南北を向いていた。
 歴代の王朝は(現在も)「方角」に敏感であった。異民族がどの方角に居住するかを正確に把握しようとした。一つの異民族が侵攻を企てているとき、どの属国と結べばよいかをあらかじめ考えておくためであった。それゆえに、方角を間違って報告すると、報告者は信を失った。
『魏志倭人傳』などに書かれる方角と距離は、空飛ぶタカのように高い所から全体を見渡すような「地図情報」ではなかった。(たとえはよくないが)「ゴキブリ」のように陸路や海路を進む者が実際に目的地にたどり着けるようにするための「行動指示」であった(橋本増吉 1880年-1956年)。
 方角と距離がいったん報告されると、それを信じた先代の王朝や皇帝の体面を汚してまで訂正されることはなかった。
 過去の報告書などに「注釈」を添えることが行われた。それは、内容を削除することなく、書き添えるだけであったので、改ざんというわけではなかった。「注釈」は歴史家によって読者のために行われたり、将軍によって皇帝に正式に報告したりするために行われた。


【25】 末盧國までの萬餘里はいつ知られたか

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 西暦57年に「委奴國王」は、前記したように、後漢の初代・光武帝(在位 25年-57年)に朝貢した。「金印紫綬」(漢委奴國王印)は、その場では拵(こしら)えられない。しばらく経って、後漢使が皇帝の「詔書」と「金印紫綬」を委奴國王に届けに来た。それは特使として属国監察を兼ねていた。この「来た」ことを証明する文献はない。しかし、後漢使は来た。それは後漢が帝国であったからである。


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  西暦57年すぎに後漢が知った、狗邪韓國から末盧國までの三千余里


 後漢の使者は、樂浪郡(平壌付近と推定される)から狗邪韓國(くやかんこく 釜山広域市金海国際空港付近)に到るまでの水行距離「七千餘里」、さらにそこから末盧國に到るまでの「三千餘里」を宮廷に報告したと見られる。樂浪郡から狗邪韓國までの距離は『魏志倭人傳』にも書かれるとおり、朝鮮半島西岸を南下し、次に南岸を東行した「行程距離」であった。飛行機で行くような直線距離ではなかった。
 朝鮮半島沿岸の水行距離は「肌感覚の距離」だったと見られる。「肌感覚」とはいっても接岸して宿泊した日数などの「事実」から割り出したものであり、当時としては宮廷に報告して十分に承認してもらえる距離であった。
 仮に現代の我われが衛星写真を見て樂浪郡から末盧國に到るまでの航行距離を漢の時代の「長里」(約 414メートル)で測定すると「一万余里」ではなく「三千余里」である。また、殷の時代の「短里」(約 75メートル)では「一万七千余里」である。この「一万里」は長里の距離であろうか? それとも、短里の距離であろうか?
 皇帝の徳は、前記したように、朝貢する国が遠方の大国であるほど高いと考えられていた。樂浪郡から末盧國までの距離が、たとえ現代の我われが衛星写真上で実測して「三千余里」しかなくても、当時これを「一万余里」と報告することは、皇帝への「忠誠心の発露」として道徳的な行為であったと見られる。ややもして「短里」で測定した一万七千余里を「一万余里」として報告すると、皇帝の徳を蔑(さげす)む行為となってしまう。それゆえに、この「一万余里」は、必然的に後漢の時代の「長里」(約 414メートル)の距離であったことが分かる。
 それから二百年余り後に編纂された魚豢の『魏略』(257年)も、それを引用した陳壽の『魏志倭人傳』(285年)も、後漢の時代のこの距離を引用し、一貫して漢の時代の「長里」で書かれている。
 添付の地図のように、後漢使はこのようになぜ對島國の「北端」に接岸したといえるのであろうか? また、後漢使は對島國の中央部からではなく、なぜ北端から一支國に向けて出航したと言えるのであろうか? なぜ、對島國と一支國の間だけに「南」と記録されているのであろうか? また、狗邪韓國から對島國までの距離、對島國から一支國までの距離、一支國から末盧國までの距離が衛星写真で見るとずいぶん異なっているのに、なぜいずれも「千餘里」と書かれているのであろうか?
 狗耶韓國から對島國の北端は見えていたので、その方角はことさら書かれなかった。対馬島の北端は『日本書紀』で神功皇后軍などが新羅に発ったとされる「鰐浦(わにうら)」である。狗耶韓國から鰐浦までの航行は、海流を読み、日を選んで行われた。当時は、對馬の鰐浦は重要な軍事拠点であった。現在も鰐浦には航空自衛隊の基地がある。当時は渡来者の「入境地」とされた。それは、国防上の理由からであったと見られる。伝令の知らせで国王のほうが鰐浦へ水行して挨拶に出向いたであろう。使節団は再び對島國北端の鰐浦から一支國へ向けて出航した。気象庁が毎日公表する海流図を見ると、対馬の西側は年間を通して対馬海流が直撃するので古代船の航行には向いていなかった。仮に對馬國の中央部から一支國へ向けて出航させていたら、一支國の方角は「南」ではなく「東南」と書かれていたであろう。
 對馬國から「南」とことさら書かれたのは、その北端から一支國が見えなかったからである。そこで、海上をひたすら「南」へ航行すると、やがて一支國が視界に入って来た。これが、對馬國から一支國までだけは「南」と「行動指示」が行われた理由である(前記の「ゴキブリ」のたとえを思い起こしていただきたい)。
 一支國から末盧國までは方角が記録されていない。これも、一支國から末盧國が見えていたからである。
 そのように、当時の方角と距離は、俯瞰的な「地図情報」ではなく、陸路や海路を進む「ゴキブリ」が実際に目的地にたどり着けるようにするための「行動指示」であった。
 狗邪韓國から對馬國、一支國を経て末盧國に至る渡海の距離も、朝鮮半島沿岸の水行距離「七千餘里」を知った経験と、渡航に費やす半日単位の時間から割り出した「肌感覚の距離」だったと見られる。
 距離に「約」という語が使われることはなかった。五百里も千四百里も、すべて「千餘里」とされた。それは「一里」が単位ではなく千里を「単位」として書かれたからである。「餘」とは必ずしも「余り」という意味ではない。


【26】 末盧國から伊都國へはなぜ「東南」か

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 唐津湾西岸の菜畑遺跡は、前記したように末盧國の中心地であったと考えられている。そのやや北に古代から入港者の検問所があったと伝えられている。そこが入港地点とされた理由は、入港する船を伊都國から監視できたからと見られる。また、前記したように糸島半島は周囲に岩礁が多く、季節風の影響を受けやすいなど、古代船の航行に適していなかったからと見られる。
 末盧國が王国であったかどうかは分からない。生活グループだけが散在する後進地域であった可能性がある。『魏志倭人傳』に出て来る他の国名も、すべてが王国であったかどうかは分からない。


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  西暦58年ごろ後漢が知った、末盧國から伊都國までの五百里など


 伊都國は「都市国家」ではなく、広大な「領域国家」であった。唐津湾北部から伊都國の政庁は山陰に隠れて見えない。「方角」は「行政府」の方角の「東」、あるいは、「北東」ではなく、「入境地」の方角「東南」が書かれた。それが、(前記のたとえでは)「ゴキブリ」が実際に目的地にたどり着けるようにするための「行動指示」であったからである。それゆえに、唐津湾北部に接岸した後漢使はひたすら「東南」の方角に歩いた。すると、伊都國の入境地に着いた。仮に唐津湾北部から「東」や「北東」に歩くにも、そこには唐津湾の海しかないので、それは不可能である。入境地からは伊都國内であった。後漢使はそこで伊都國の衛兵に迎えられたであろう。もっとも、伝令の知らせで衛兵は唐津港北部まで出迎えていたではあろうが。
 現在も唐津市と糸島市は唐津湾にある境界で接している。そこから後漢使や魏使が通った道は飛鳥時代の古道となった。また、秀吉の戦国武将約二十五万人が名護屋城へ向かう道となった。さらに、唐津藩の参勤交代の道となった。
 距離は全体として途切れがないように全行程が書かれたので、入境地から伊都國政庁までの距離を含めて「五百里」と書かれた。この五百里は、伊都國から奴國までの百里と奴國から不彌國までの百里に比較するとやや長く感じられるが、それは「草木茂盛行不見前人}と書かれるように(魏志倭人傳)、実際に移動するのに日数を要したからであると見られる。
 伊都國が広大な領域国家であることを無視して、伊都國を都市国家と見なし、「東」あるいは「東北」にある伊都國政庁に行くのに、「東南」と書かれていることから、「南」を「東」と読み替えることが「邪馬臺國畿内説」の根拠とされたことがあるが、それは誤りであった。
 伊都國が末盧國に上陸させたのは、前記したように、伊都國から監視できたからである。また、糸島半島周辺は古代の船が航行するには適していなかったからである。伊都國は末盧國を軍事上の緩衝地帯として利用していたと見られる。また、仮に奴國の港を用いると、奴國が再び強大な国となる恐れがあった。
 伊都國から奴國へ向かうにも真東には日向(ひなた)山があるから「東南」に向かって移動した。そこに広大な領域国家・奴國の入境地があった。ここでも距離は全体として途切れがないように全行程が書かれたので、入境地から奴國政庁までの距離を含めて「百里」と書かれた。
 奴國王は伊都國の政庁で後漢使に謁見して対話の中で方角と距離を報告しただけであった可能性もある。後漢使が不彌國まで行ったかどうかは分からない。また、その時点で不彌國があったかどうかも分からない。
 以上述べた通り、後漢は、早くも西暦57年すぎに樂浪郡から末盧國までの距離を「萬餘里」として知った。また、少なくとも末盧國から伊都國までの距離として「五百里」を知った。後漢は、これらを樂浪郡と洛陽に記録として残したと見られる。


【27】 卑彌呼・臺與の故郷はどこか

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 卑彌呼の時代に「倭國」は、王位継承の時は殺し合いが起きたようである。そのような中で、卑彌呼は「なぜ」「どこ」から迎えられたのであろうか?
 女王國・倭國には三十余の国々があった(魏志倭人傳)。国とはいっても、環濠集落を中心とした、今でいう市か郡程度の広さの国であったようである。弥生時代の九州の全人口は、前記したように、コンピュータ考古学による推定で 105,100人であった(国立民博・小山修三教授)。その中のたとえば伊都國が飛鳥時代に怡土郡となり、隣の斯馬(しま)國が志摩郡となったように、飛鳥時代には三十余国がそのまま三十余郡になったと見られる。すると、女王國・倭國は福岡県かそれよりやや狭い範囲にあった。その全人口は高々 30,000人であった。すると、一か国の平均人口は「約 1,000人」であった。竪穴式住居は、多くは大家族の 5~10人であったので、女王國・倭國三十余国の総戸数は「約 4,000戸」であった。一か国平均で「約 150戸」。これが現実であった。
 女王國・倭國の国々は大国に支配されることを嫌った。山門國が筑後の南端にあり、かつ大国でなかったことが、かえって首都国としての条件であったと見られる。また、女王國・倭國の国々は強大な権力者に支配されることを嫌った。卑彌呼が十三、四歳の少女であることが、かえって女王としての条件であった。それが互いに寄り添って暮らす縄文人・弥生人の感性であったようである。
 卑彌呼は、王族の子女など「世俗」の出身ではなかったであろう。仮に卑彌呼が世俗の子女であったのなら、親どうしの殺し合いが起きたであろうから。卑彌呼は、女神(女性のシャーマン)であった。では、卑彌呼は単に女性のシャーマンというだけで女王として迎えられたのであろうか?


 

藤山の南の女王山とその東の日向神(ひゅうがみ)峡谷


 前記したように、福岡県みやま市(旧山門國)には、その地域の祭祀伝承から、卑彌呼は、日向神峡谷で女神として育っていた。そこから山門國の女王山に迎えられたとする仮説がある。これは、前記したように村山健治説である。
 筑前(九州北岸)の諸王国にとって、仮に山門國が BC100年すぎに揚子江河口を発ち、九州の有明海に漂着して上陸した。そこがすべての始まりの地であった。という民族としての「渡航の記憶」をもっていたのなら、そのころから矢部川上流の山奥で太陽神を祀ってきた山門國の「日の巫女」が女王に立つという話しを受けいれた可能性は高い。卑彌呼は、前記したように、天照大神から数えて第十二代の女神であったようである。
 邪馬臺國(やまとのくに 福岡県みやま市とその周辺)も、弥生時代の当時の状況から、環濠集落群のひとつであったと見られる。戸数は、前記したように、多くて百五十戸(人口 1,000人)かそれより少なかったであろう。みやま市瀬高町の「長田」は矢部川沿いにある。標高が約九メートルあって、縄文海進の時代にも海に沈まなかった。一反(三百坪)の水田があれば一石のコメがとれて人がひとり一年間食べて生きられる。「長田」だけで水田にして二千反の広さがあった。
以上をまとめると、卑彌呼が女王として受けいれられ、邪馬臺國が首都国として受けいれられた条件は次のようなものであったと見られる。
  1. 中央の大国ではないこと
  2. 普通の規模の人口をもつこと
  3. 強大な権力者がいないこと
  4. 北岸の伊都國に対して南端にあること
  5. 女神がいること
  6. 女神は十三、四歳の少女であること
  7. 女神は世俗の有力者の子女ではないこと
  8. 女神は天地開闢の頃から太陽神を祀って来たこと
 女王山(みやま市瀬高町大草)の卑彌呼の居所には、宮室と、見晴らし台があった。城柵が設けられていて衛兵がいるだけであった。
「居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」(魏志倭人傳)
 見晴らし台からは遠く吉野ヶ里(当時の国名は不明)、妻國(とぅま國・福岡県久留米市から八女市に及ぶ)などが見渡せたであろう。魏使の報告書も、原本はそのようなごく素朴な内容のものであったと推定される。しかし、魏使は、帶方郡の「塞曹掾史(さいそうえんし)」という身分の武官であった。それは、皇帝に何かを直接報告できる身分ではなかった。
 西暦247年に卑彌呼が死去した。倭國では新しく男王が立ったが、殺し合いが起きた。しかし、248年に十三歳の少女・臺與(とよ)が新しい女王として迎えられた。臺與も日向神峡谷で女神として育っていたと見られる。第十三代の女神である。
 第十二代景行天皇の時代になっても八女津媛は女王山にいた。「八」とは「多い」という意味である。多くの女神がいたわけではなく、いつの世もおられる「多世代」の女神であったようである。『日本書紀』によれば、その時の八女津媛は、景行天皇が八女縣(福岡県久留米市)の藤山から南を見て「美しい山におられる女神」として討伐しなかった女神である。天照大神から数えて第十五代の女神である。衛星写真で見ると、藤山から南に見える山は、みやま市瀬高町大草の「女王山」である。その時の八女津媛は現在日向神峡谷の「八女津媛神社」に祀られている。


【28】 卑彌呼の「倭國」はどのように成立したか

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『後漢書・東夷傳』によれば、前記したように西暦107年に伊都國の帥升らが「倭國王」として後漢に朝貢した。この「倭國」(伊都國連合)はその後、七、八十年間男子王を立てて暮らした。
「其國本亦以男子爲王住七八十年」(魏志倭人傳)。
 西暦180年すぎに、伊都國王は筑後地方を併合しようとしてこれに侵攻した。そこには二十数か国があったが、これに反発。これを原因として「倭國大亂」が起きた。前記したように、後漢にとって、倭國大亂の「倭國」とは、後漢に朝貢した伊都國のことである。日本列島のことではなかった。すなわち、「倭國大亂」とは「伊都國大亂」のことであったといえる。それが「朝貢」のもつ重みである。後漢は、この倭國大亂によって交易相手国である伊都國との交易が途絶えた。

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    西暦180年ごろ倭國王は、筑前國南部・筑後地方に侵攻した(倭國大亂)


 倭國大亂は北岸の国々と、これに対して妻(とぅま)國や吉野ヶ里(当時の国名は不明)、山門國(福岡県みやま市とその周辺)などの国々との間で二年以上続いた。
 妻國は福岡県久留米市から八女市に及ぶ広大な領域国家であった。後に「八女縣」となり、その南端の一部が後世に「上妻郡」「下妻郡」となる。『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも、久留米市の藤山は八女縣にあったと書かれている。「妻(とぅま)國」が『魏志倭人傳』に見える「投馬國」である。
 当時の戦争は、敵が家々を取り囲む。家々が宝物を差し出して降伏する。敵は去っていく。といった戦争であった。それでも鉄鏃を体内にもつ遺体が発掘される。それらは九州北部のみに集中している。紛争は女王・卑彌呼が共立されて収まった。
「倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」(魏志倭人傳)
 これによって、専制君主制を排除し、互いに寄り添って暮らす縄文時代からの社会の大枠が取り戻された。
 邪馬臺國は、大都市ではなかった。他の国々と同様に「150戸」がそれ以下だったであろう。それがかえって首都国として求められる条件であったからである。女王山からは銅矛二本、勾玉などが出土しているが、さして遺物が出土するとは限らない。


【29】 「邪馬臺國」か「邪馬壹國」か

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「卑彌呼」や「邪馬臺國」は漢字で音写されたわけであるが、この「臺」の文字を後漢使はどのように記録したのであろうか?
『魏志倭人傳』は、最も古い写本は「紹興(しょうこう)本」といって紹興年間(1131年-1162年)に刊行された。その紹興本では、邪馬臺國の「臺」は「壹(い・いち)」となっている。最も古い写本とはいっても、陳壽による原著の時から 900年近くを経ている。その間に竹簡、木簡、絹布などを用いて写本が繰り返された。また、その間に首都も洛陽から南京(東晉の時代)に移り、長安(隋・唐の時代)に移り、開封(かいほう 北宋の時代)に移り、杭州(南宋の時代)に移った。それらの地域では現在でも発音が著しく異なる。
『後漢書』(440年)は、最も古い写本ではなく、紹興本よりも古い写本を見て書かれたと考えられ、「臺」を用いてある。
 古田武彦(1926年-2015年)は、最も古い写本(紹興本)に「壹」が使われていたという理由で「邪馬壹國はあったが、邪馬臺國はなかった」と述べた。
 事実としては、何が起きたのであろうか?
 後漢使は「やまと」を「邪馬臺」と音写したと見られる。その理由は、「渡一海」や「一支國」「一女子」など「一」を使うべきところでは「一」が使われているからである。「邪馬壹」と音写する理由はなかったので、「壹」は「臺」の後世の誤写であろう。 「臺」は当時の倭國内の発音としては「tə」であり、「ə」は「あいまい母音」であるが(J. R. Bentley, 2008年)、山門は「やまと」であったので、邪馬臺國は「やまとのくに」と読まれる。


【30】 邪馬臺國までの萬二千餘里はいつ知られたか

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 後漢の永初元年(西暦107年)に伊都國王・帥升等は、前記したように、第六代皇帝・安帝(在位 106年-125年)に朝貢した(後漢書)。その後、後漢(樂浪郡)から伊都國に属国監察に来るようになった。伊都國には、樂浪郡と往来する後漢使のための「迎賓館」があった。これが後世の『魏志倭人傳』(285年)に見える「郡使往來常所駐」であろう。
 末盧國の入境地は唐津湾北部にあったと見られる。そこには古代から来航者の検問所があったと伝えられる。東松浦半島北端の呼子(よぶこ)は、一支國からは近いが、接岸地ではなかったであろう。呼子は伊都國から出国審査・入国審査・手荷物検査に出向くには遠すぎたからである。また、呼子は伊都國から見えないので、来航者の常時監視ができなかったからである。
 卑彌呼が倭國の女王に即位したのは、後漢の第十二代靈帝(在位 168年-189年)の光和年間(178年-184年)であったと見られる。このとき倭國は「倭國大亂」を経て首都国が伊都國から山門國に変わった。卑彌呼は、即位して先ず後漢の樂浪郡に朝貢した。「支配権」とは倭國を代表して交易する「交易権」でもあった。倭國大亂で支配権(交易権)をめぐって争った。交易をしなければ三十余国は、ばらばらとなってしまうからである。
 後漢(樂浪郡)としては、それまで二年以上倭國との交易は途絶えていた。倭國から樂浪郡への朝貢は、樂浪郡から洛陽の朝廷に報告された。後漢にとってそれは慶事であった。この「報告された」という文献はないが、報告された。それは後漢が帝国であったからである。
   すると、靈帝から樂浪郡を通して卑彌呼に「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が下賜された。これには金象嵌の銘文で「中平□年五月丙午造作支刀百練清剛上應星宿下避不祥(百練清剛、上は星宿に応じ、下は不祥を避く)」と書かれていた。「中平」は靈帝最後の年号(184年-189年)である。
 西暦184年すぎ、この鉄刀は、樂浪郡から山門國の卑彌呼に届けられた。この「届けに来たこと」を証明する文献はないが、届けられた。これも後漢が帝国であったからである。
 そのとき、後漢使は樂浪郡から末盧國までが「萬餘里」として知られていることを踏まえた上で、樂浪郡から邪馬臺國までを「萬二千餘里」と報告した。その「萬二千餘里」も、宿泊日数などの肌感覚の距離であったと見られる。


萬二千餘里

      西暦184年すぎに後漢は樂浪郡から山門國・女王山までの距離を知った。


 後漢は、そのようにして、樂浪郡から邪馬臺國までの距離が「萬二千餘里」であることを『魏志倭人傳』(285年)が書かれるより百年も前(西暦184年すぎ)から知っていた。それらの記録は『魏略』(257年)にも『魏志倭人傳』(285年)にもそのまま転載された。
 後漢の晩期(第十一代桓帝・第十二代靈帝のころ)に、樂浪郡は、公孫氏(こうそんし)という軍閥(群雄)が支配するようになった。西暦204年には、公孫康が樂浪郡の南部を「帶方郡(たいほうぐん)」とした。
 公孫康は後漢から「左将軍」の官位を授けられた(『三國志』巻八「公孫康」)。帶方郡は公孫氏の支配下にあっても、まだ後漢の郡であった。卑彌呼は公孫氏に朝貢し、帶方郡と交易した。
「是後倭韓遂屬帶方」 (三國志・魏志韓傳)
 公孫氏は倭國に侵攻するほどの力はなく、卑彌呼にとって与(くみ)しやすい相手であったと見られる。


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    洛陽から大月氏國までの距離と山門國・女王山までの距離


 西暦220年に後漢が滅亡して魏(220年-265年)が興る。西暦229年にインドのクシャーナ朝は「親魏大月氏王」の金印をもらった。クシャーナ朝は「十萬戸」の大国であり、魏の都・洛陽から、クシャーナ朝までの距離は「一萬六千三百七十里」として知られていた。
「大月氏首都在藍氏城 西邊與安息國接壤 有四十九日的行程 東邊距離西域長史府 有六千五百三十七里 距離洛陽 有一萬六千三百七十里。有戸口數十萬戸 人口數四十萬 能當兵的有十餘萬人」(後漢書・西域傳)
 一方、洛陽から帶方郡までの距離は「五千里」として知られていた。
「樂浪郡武帝置。洛陽東北五千里。十八城 戸六萬一千四百九十二 口二十五萬七千五十」(後漢書・郡國誌)
 これらは漢の時代の長里(約 414メートル)で記録されている。
 仮に現代の我われが平壌から福岡県みやま市瀬高町の女王山までの距離を衛星写真を見て漢の時代の長里で測定すると「三千五百余里」しかないが、「萬二千餘里」という距離は、皇帝にも認められた「正式」な距離であった。
 洛陽から邪馬臺國までの距離がクシャーナ朝までの距離を凌ぐ「17,000余里」であるとする後漢の時代の史資料は魏の宮廷にも残った。その距離(17,000余里)に特別な関心をもっていたのは将軍・司馬懿(しばい 179年-251年)であった。


【31】 そのとき卑彌呼は何歳であったか

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 唐初期の歴史家・姚思廉(ようしれん)の『梁書』(629年)によれば、卑彌呼が「倭國大亂」を経て共立されたのは、第十二代靈帝(在位 168年-189年)の光和年間「178年-184年」であった。卑彌呼は、即位したとき十三、四歳の少女であったと見られる。年齢的にある程度の分別は必要だったからである。また、七十七、八歳くらい(西暦247年)まで長生きすることになるからである。

  卑彌呼(169年頃-247年)
  前著『邪馬臺國』(自由塾 2022年)より


 倭國は「大亂」の結果、伊都國、奴國などを含む三十余国の連合王国となった。卑彌呼は「邪馬臺國」を首都国と定めたが、邪馬臺國の女王ではなく、その上の連合王国・倭國の女王であった。邪馬臺國には国王として伊支馬(いきま)がいた。伊支馬は連合国の地位としては「官」であった。邪馬臺國には次官として彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)もいた。
 前記第十二代靈帝のころ、後漢は政情が不安定であった。西暦184年に「黄巾の乱」が起きた。187年に「張純の乱」が起きた。これらの情報は、直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。卑彌呼には、後漢に朝貢できる機会は訪れなかった。


特使

倭國使」(職貢圖(部分)中国国家博物館)

 中国国家博物館(北京)に、梁(502年-557年)の時代に描かれて十一世紀に模写された『職貢圖』(しょっこうず)が所蔵されている。中国の王朝から見て諸夷と呼ばれた周辺諸民族が様ざまな扮装で来朝する様子が描かれている。倭國使について図の説明文は「倭國在帶方東南大海中依山島」から始まっているので、ここに描かれた倭國使は、女王・卑彌呼の特使・難升米(なしめ 生没年不詳)であろう。「北岸は三十餘國を連ねる」と書かれている。その最南端に山門國があった。卑彌呼は、山門國の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいた。


 

    飛鳥時代以降の三十余郡


 伊都國(福岡県糸島市)の大率(だいそつ、あるいは、一大率)は、牛馬もいない時代に、その三十余国を行政監察のために歩いて回った。各国は大率を畏れはばかった(魏志倭人傳)。それが可能であったのは、三十餘國が現在の福岡県かそれよりやや狭い範囲内にあったからである。『職貢圖』には「連なる」と書かれているので、「飛び地」もなかったであろう。
 この『職貢圖』の原図は、卑彌呼が第十二代靈帝の光和年間に即位したことを伝える『梁書倭國傳』(629年)よりも古い。
 飛鳥時代以降に、斯馬(しま)國は志摩郡となり、伊都國は怡土(いと)郡となり、倭國・三十餘國はそのまま三十余郡になったと見られる。
 日本には太古の時代に馬がいたが絶滅した。日本人は四世紀に朝鮮半島で初めて馬を見た。五世紀に馬は埴輪として登場する。馬は、五世紀に朝鮮半島を経てモンゴル馬が輸入される。牛も五世紀になって中国から輸入された。


【32】 「短里」による測定は行われたか

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 魏の時代に「里」は殷の時代の「短里」(約 75メートル)に戻ったとする仮説がある。その根拠は、『三國志』の「魏書・明帝紀」の「景初元年」の「注」に「今魏用殷禮」と出てくるからである。殷の時代の里は短里であるが、これは、本来は面積である。『魏志倭人傳』に短里が用いられている箇所はない。
 樂浪郡または帶方郡から狗邪韓國までの「七千餘里」を、日影を用いる「一寸千里法」という方法で測定した「短里」の直線距離であるとする仮説がある。しかし、その「七千餘里」は、『魏志倭人傳』にも書かれる通り、朝鮮半島の西岸を南下し、南岸を東行して狗邪韓國に至った「行程距離」である。現代の我われが衛星写真で実測すると「三千余里」の程度であるが、「七千餘里」は後漢の皇帝によって承認された「正式」な距離であった。


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    「一寸千里法」では地上の南北の距離だけが分かる


「一寸千里法」とは「夏至」の「南中時」に「八尺」の棒を立てると、その陰の長さは「南北」に「千里」(75キロメートル)離れるごとに「一寸」だけ変わる。という測定方法である。洛陽付近の緯度で測定しても、10パーセント程度の誤差があった。
 平壌と狗邪韓國の南北距離の測定値がたとえば「6,000里」であっても、10パーセントの誤差によって実際は 5,400~6,600里である。また、韓国南部も夏至の南中時は梅雨の期間中である。晴れる日はほとんどない。測定日をずらすと、さらに 10パーセント程度の補正の誤差が加わって実際は 4,900~ 7,300里である。これでは測定に使えない。それだけではない。一寸千里法には「東西方向」の距離を知るすべがなかった。直角三角形も二辺の寸法が分からなければ、斜辺の寸法は分からない。
『魏志倭人傳』に出てくる、帶方郡から狗邪韓國までの距離「七千餘里」も、邪馬臺國までの「萬二千餘里」も、飛行機で行く「直線距離」ではなく、後漢使が記録した「長里」の時代の「行程距離」である。


【33】 「會稽東治之東」とはどこか

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 「會稽東治之東」が表す範囲

『魏志倭人傳』の中で、魏使は古代の「夏」王朝の飛び地である「會稽東治」(蘇州市)が南のほうに位置していたという故事に言及する。
「其道里當在會稽東治之東」(魏志倭人傳)
 これは、女王國の地理的位置が敵国・呉のちょうど東にある(それゆえに、魏の友好国として重要である)と述べているわけである。
 これは「軍事上のたとえ」として述べているもので、女王國の地理的位置を特定するための記述ではない。無理に特定しようとしても、『魏志倭人傳』は「八方位」を用いて書かれているので、図のように「東」とは「東北東」から「東南東」までの範囲の方角を指し、「會稽東治之東」とは少なくとも西日本全体を表す。


【34】 「放射説」は採用できないのか

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 陳壽の『魏志倭人傳』(285年)に、末盧國から伊都國に行くには「東南陸行五百里到伊都國」と書かれている。さらに、奴國に行くには「東南至奴國百里」、不彌國に行くには「東行至不彌國百里」、投馬國に行くには「南至投馬國水行二十日」、女王の都とする邪馬臺國に行くには「南至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月」と、この順序で書かれている。これを「末盧國」「伊都國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「邪馬臺國」がこの順序で並んでいたと見て「連続説」と呼ぶ。

 

 榎一雄の放射説

 それに対して、東洋史学者・榎一雄(1913年-1989年)は、昭和二十三年(1948年)に「放射説」といって、上記を「伊都國から東南に百里で奴國に至る」「伊都國から東に百里で不彌國に至る」「伊都國から南に水行二十日で投馬國に至る」「伊都國から南に水行十日または陸行一月で邪馬臺國に至る」と読んで見せた。これが「放射説」である。
 榎一雄はこの「放射説」について、何とか九州説を支持しようとして、『魏志倭人傳』に伊都國は「郡使往來常所駐」と書かれており、中国からの使者の迎賓館が置かれているなど、特別な国であったこと、不彌國から邪馬臺國まで水行二十日と水行十日陸行一月もかかることから思いついたと見られる。この「放射説」によれば、邪馬臺國は、その経路が水行であれ陸行であれ、伊都國の「南」にあることになる。事実であろうか?

 

 伊都國の南は有明海である

 伊都國の「南」にあるのは有明海である。そこに邪馬臺國は存在し得ない。
『魏志倭人傳』には八方位しかなく「南」や「東南」は区別しているが、十六方位の「南南東」や「南南西」といった細かい表記は出て来ない。それゆえに「南南東」から「南南西」までの範囲に入っていれば「およそ南」と見なしてよいのではないかという意見もあり得る。しかし、山門國(福岡県みやま市とその周辺)も「およそ南」(南南東~南南西)の範囲になく「東南」にある。榎一雄は、中国古典の読み方は上手であったが、正しい地理や方角が頭に入っていなかったようである。
 以上述べた通り「放射説」は誤った読み方であるから、採用できない。


【35】 卑彌呼はどうやって「親魏倭王」となり得たか

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    魏呉蜀の三國と卑彌呼の親魏倭國


 西暦220年、後漢が滅亡して、中国は魏・呉・蜀の「三すくみ」の状態となった。魏の将軍・司馬懿(しばい 179年-251年)は、呉に対する国土防衛の任に当たった。また、将軍・曹真(そうしん 生年不詳-231年)は、蜀に対する国土防衛の任に当たった。司馬懿と曹真は互いに宮廷クーデターを狙う政敵であった。第二代皇帝・曹叡(そうえい 明帝 在位 226年-239年)の時代であった。


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    大月氏國(Kushan Empire) Wikipedia


 蜀には軍師・諸葛孔明(諸葛亮 181年-234年)がいた。西域の多くの異民族を味方につけていた。魏は蜀からの攻撃に実に手を焼いた。西暦229年、将軍・曹真は、蜀の西の遠方にある大国・インド・クシャーナ朝(大月氏國)に朝貢させることに成功した。大月氏国は「十萬戸」の大国であった(後漢誌・西域傳)。大月氏國王は、仏教を奨励したカニシカ王の孫であった。クシャーナ朝は「ガンダーラ美術」の中心地として知られる。クシャーナ朝に「親魏大月氏國王」の金印紫綬が授与された。これによって西域の異民族による攻撃は沈静化した。一方、将軍・司馬懿は、曹真のこの功績をどうしても超えることができなかった。
 当時、魏の朝鮮半島の帶方郡は、地方軍閥・公孫氏の支配下にあった。
 西暦236年に公孫氏は魏の皇帝・曹叡から朝貢するように求められた。公孫氏は、それに反旗を翻し、自ら燕國(えんこく)王と称した。翌年には年号を「紹漢」と改めた。すると、魏がこの燕國を討伐する動きとなった。魏の将軍は、司馬懿であった。この情報は帶方郡の商人などから直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。倭國は、今は魏の敵国となった公孫氏の交易国であった。公孫氏に朝貢していた。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として攻め込まれると、ひとたまりもない。
 238年に卑彌呼は直ちに特使・難升米(なしめ)を送った。それは「これまでの公孫氏を裏切って、魏の皇帝に直接朝貢せよ」という、卑彌呼にとって一か八かの生涯の「大勝負」であった。それを魏の将軍・司馬懿が知って、高く評価する結果となる。
 将軍・司馬懿は、帶方郡を完全に討伐した。官僚と兵をひとり残らず捜索して十五歳以上の男子をすべて惨殺した。「京観(けいかん)」といって広場に首を高く積み上げて記念碑にした。
 卑彌呼の特使・難升米は、魏の第二代皇帝・曹叡に朝貢した。皇帝は倭國からの朝貢に喜び、将軍・司馬懿の後押しで卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が贈られることになった。司馬懿は、遠方の大国「倭國」を皇帝に朝貢させた「てがら」が高く評価されて領土を与えられた(晉書)。


【36】 歴史家・魚豢(ぎょかん)は何を採録できたか

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『魏志倭人傳』(285年)の最初のほうは魚豢(ぎょかん)の『魏略』(257年)をほぼそのまま転載したと見られる。そこには後漢の時代の樂浪郡から邪馬臺國までの距離や、女王國・倭國の風俗などが書かれている。
 魚豢は魏の歴史家で、「郎中」という政権中枢からはほど遠い下級官吏であった。魚豢は宮廷の史資料を入手することはできなかったが、大富豪であり、異民族の暮らしや動静についての情報は、次つぎと書き写されて魚豢のもとに届けられた。『魏略』三十八巻(257年)は、魏王朝の歴史を編年体で書いたところもあるが、その内容は、政治史の流れとは無関係の、実体験者による直接の証言を採録したエピソード集である。『魏略』はほとんど散逸してしまったが、わずかに(全体の 5パーセント程度)が逸文(引用された文)として他の書籍に残る。太宰府天満宮の『翰苑』第三十巻写本(倭國)もその一つである。
 魚豢が『魏略』を書いた時代に、倭國について「水行二十日」「水行十日陸行一月」「二萬餘戸」「五萬餘戸」「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」といった、卑彌呼が強大な権力をもつ遠方の大国と形容する決定的な文言は知られていなかった。『魏略』の記述は、第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226年-239年)の時代までがほとんどで、『三國志』に引用された甘露二年(257年)の記事が最後である。そのころに書が完成したか、あるいは、制作が中断したようである。


【37】 「誰」が倭國を遠方の大国と宣伝したか

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 魏(220年-265年)の魚豢(ぎょかん)の『魏略』(257年)と西晉(265年-316年)の陳壽の『魏志倭人傳』(285年)を見ると、樂浪郡または帶方郡から末盧國までは「萬餘里」、邪馬臺國までは「萬二千餘里」、また、末盧國から伊都國までは「五百里」であった。すると、伊都國から邪馬臺國までは「千五百餘里」である。これによって、邪馬臺國は福岡県内の近さにあったことがはっきりしている。
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    司馬懿(179年-251年)

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    司馬昭(211年-265年)

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    司馬炎(236年-290年)

 しかし、後者(魏志倭人傳 285年)には前者(魏略 257年)とは異なり、「水行二十日」「水行十日陸行一月」や、「二萬餘戸」「五萬餘戸」「七萬餘戸」「以婢千人自侍」「殉葬者百餘人」など、卑彌呼が強大な権力をもつ遠方の大国と形容する決定的な文言が挿入されている。二つの書が編纂される二十八年の間に、魏の国で何が起きていたのであろうか?
 将軍・司馬懿(179年-251年)の次男の将軍・司馬昭(211年-265年)は、西暦263年に蜀(221年-263年)を滅ぼした。西暦260年すぎに第五代皇帝・曹奐(そうかん 在位 260年-265年)に対して、邪馬臺國について、古代中国で大河を通って大きな都に近づくイメージの「水行二十日、水行十日陸行一月」と報告し、また、「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」として報告したと見られる。
 呉の東に存在する友好国・「倭國」は極めて重要であった。仮に倭國の「二萬餘戸(奴國)」「五萬餘戸(投馬國)」「七萬餘戸(邪馬臺國)」は、これらの戸数を合計すると、親魏大月氏國(インド・クシャーナ朝)の「有戸口數十萬戸」(後漢書・西域傳)を超える。また、奴國の「二萬餘戸」も、對島國の「千餘戸」から不彌國の「千餘家」までを合計すると「三萬餘戸」であり、「陰陽五行」の思想に照らして奇数の「三」「五」「七」となる(白鳥庫吉・松本清張)。仮に奇数でも「一」「三」「五」では、クシャーナ朝に及ばない。それゆえに、そのような数字が選ばれたと推定される。
 小舟で御笠川・宝満川に沿って南へ行ったらすぐ邪馬臺國があったというのでは「話し」にならなかったのではないか。前記したように、「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」の大都市などは当時の日本にはどこにも存在し得なかったのである。
 日本に殉葬が行われた考古学的な痕跡はない。日本は、一貫して、先進国の「殉葬」や「宦官(かんがん)」などを入れなかった。『日本書紀』(720年)の「垂仁天皇紀」に殉葬について言及があるが、それも後づけの創作であることが分かっている。殉葬者がひとりもいなかったというのでは、これも「話し」にならなかったであろう。皇帝の徳は、朝貢する国が遠方の大国であればあるほど高いと考えられていた。それゆえに、司馬昭がそのように報告することも、臣下としての「忠誠心の発露」であったと言えば言えなくもない。皇帝・曹奐がそれらを信じて「正式」な報告書として宮廷に残った。かくして、大国「倭國」が将軍・司馬昭の背後に臨在した。一方、皇帝・曹奐の背後には臨在しない。皇帝は孤独であったと見られる。
 この司馬昭の「宮廷クーデター」は成功する。皇帝・曹奐は帝位を司馬昭の長男の将軍・司馬炎(在位 265年-290年)に譲る。司馬炎は、皇帝・武帝(在位 265年-290年)となり、国号を「西晉」と改める。この司馬炎が『三國志』の最終勝者であった。


【38】 『魏志倭人傳』は幾つの史資料からなるか

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 陳壽(233年-297年)は、前記したように蜀の官僚であったが、263年に蜀が魏に併合されると洛陽に移り住んだ。泰始四年(268年)に西晉に史官として採用された。司空(しくう 皇帝の相談役)・張華(ちょうか)が陳壽に『三國志』の編纂を命じた。陳壽は宮廷に残る史資料のほか、魚豢(ぎょかん)の『魏略』、王沈(おうちん)の『魏書』、韋昭(いしょう)の『呉書』など、下記の文献を参照したと見られる。
  1.  前漢・後漢から魏、西晉にかけて宮廷に残された歴代皇帝の『制(せい)』『詔(しょう)』
  2.  西暦57年すぎに「漢委奴國王印」を委奴國王に届けた後漢使の報告書。倭人の住む島々の「周旋可五千餘里」。樂浪郡から狗邪韓國までの「七千餘里」、そこから末盧國までの渡海の「三千餘里」など、後漢の長里の時代の行程距離。末盧國から伊都國までの「東南」の陸行「五百里」など、後漢の長里の時代の行程距離
  3.  西暦107年すぎに「倭國王」として朝貢した帥升等の倭國(伊都國連合)を属國監察に来た後漢使の報告書
  4.  西暦184年すぎに後漢の第十二代靈帝(在位 168年-189年)の「中平」の年号(184年-189年)をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」(東京国立博物館所蔵・国宝)を女王・卑彌呼に届けた後漢使の報告書。樂浪郡から邪馬臺國までの「萬二千餘里」
  5.  西暦240年ごろ「金印紫綬」を卑彌呼に届けた魏使・梯儁(ていしゅん)の報告書。西暦248年ごろ「黄幢」を臺輿に届けた魏使・張政の報告書。狗奴國に関する記録。卑彌呼の死去と臺與の継承、および、臺與の朝貢などに関する記録
  6.  魚豢の『魏略』(257年)。上記 1~5を引用したと見られる。ほとんど現存しない。その内容の一部は『翰苑』倭國の条(太宰府天満宮所蔵・国宝)に転載された。
  7.  王沈(おうしん 生年不詳-266年)の『魏書』四十四巻(256年ごろ) 現存しない
  8.  韋昭(いしょう 生没年不詳)の『呉書』
  9.  西暦263年すぎに将軍・司馬昭(211年-265年)が第五代皇帝・曹奐(在位 260年-265年)に対して、自らの背後に臨在する倭國について「水行二十日」「水行十日陸行一月」「二萬餘戸」「五萬餘戸」「可七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」などと注釈を加えて奏上し、皇帝が承認した正式な「報告書」
       

【39】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか

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 大宰府天満宮の『翰苑』の冒頭に次のように書かれている。
「憑山負海鎮馬臺以建都」(『翰苑』第三十巻写本 倭國)
 これは「山を背にして海に面し(邪)馬臺を鎮めて(鎮守して)もって都を建つ」と読む(AI翻訳)。これは、背後に女王山があり、有明海に面する「筑後山門國」を形容するものと見られる。

  松本清張(1909年-1992年)
 松本清張記念館(北九州市)公式ページ


『魏志倭人傳』に、伊都國(糸島市)から奴國(福岡市)までを百里として、奴國の東の百里のところに不彌(ふみ)國があったと書かれている。また、邪馬臺國は不彌國の「南」の「投馬(とぅま)國」のさらに「南」にあったと書かれている。これらは、『魏略』に記載されていた後漢の時代の記録である。そこで、邪馬臺國が畿内にあったことの裏付けとするために、この南を何としても「東」と読み替える努力が行われてきた。しかし、後漢の使者が、太陽や月、北極星、オリオン座等を見て、方角を間違えることはない(松本清張)。我われが間違えることもないであろう。

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    筑後平野を流れる宝満川(https://www.google.com/maps/)


 女王の倭國は、北岸の伊都國に大率を置き、對馬國、一支國、奴國、不彌國などの臨海国に副官としていずれにも「ひなもり(卑奴母離)」という海防担当武官を置いていた(魏志倭人傳)。これによって、女王國は、朝鮮半島からの脅威に備えていたと見られる。「不彌國」とは「うみこく(海国)」であり、福岡県糟屋郡であったと見られる。不彌國にも「ひなもり」がいた(魏志倭人傳)。不彌國の行政府はその南端に近い糟屋郡宇美町であったと見られる(村山健治説)。その理由は、奴國の東に位置するからである。伊都國から奴國までを百里とした場合に、奴國から百里にある不彌國政庁が宇美町にあったと見られる。
 御笠川と宝満川は、現在は取水などによって水量が大幅に減っているが、近世まで、途中に幾つもの川湊(かわみなと)があって、大きな帆船が物資を運んでいた。それらは、筑前の生活と筑後の生活を結ぶ動脈であった。その帆船の絵などが今も近くの民家などに残っている。太宰府市付近も土砂の堆積が少なく(標高が低く)、御笠川と宝満川は上流を取り合ってつながっていたと見られる。


 

  西暦184年すぎの後漢使の移動行程   


 後漢使あるいは魏使が、数人で持って運べる川舟で航行したか、それとも、川伝いに歩いたかは分からない。「水行二十日」という文言には、古代中国で大河を通って都へ近づくというイメージがあるが、しかし、不彌國からその南の投馬國まで数日かそれ以下の旅程であったであろう。ただし、有明海は干満差が約 6メートルと日本最大である。弥生時代には、特に宝満川は干満の動きに乗らなければ移動できなかった。移動できたのは昼間の二時間であったので、不彌國から投馬國まで二十日かかった可能性もある(村山健治説)。
「投馬(とぅま)國」とは、現在の久留米市を含む広大な「妻(とぅま)國」であったと推定される。妻國は、古墳時代に久留米市の一部を含めて「八女縣(やめのあがた)」となる。投馬國は、内陸国であった。「ひなもり(卑奴母離)」がいないからである(魏志倭人傳)。八女縣は飛鳥時代に南端が上妻郡・下妻郡となる。

 

  女山(ぞやま)から西に筑後平野・有明海を見晴らす
  (Wikipedia)   

『日本書紀』の「景行天皇紀」で古墳時代の八女縣(久留米市)の藤山から南に見える「八女津媛(やめつひめ)」(いつの世にもおられる多世代の女神)の「美しい山」は、これを衛星写真で見ると山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草)である。この「女王山」に卑彌呼の祈祷所があった。投馬國(福岡県久留米市)から女王山は南のほうに見えていたわけである。
 なお、前記した安本美典らは、邪馬臺國は朝倉市にあったとしているようであるが、しかし、『魏志倭人傳』は八方位で書かれていて「南」と「東南」を区別している。朝倉市は不彌國の「南」ではなく「東南」にあるから邪馬臺國ではない。また、朝倉市は海に面していないから邪馬臺國ではない。安本美典らは朝倉市に卑彌呼がいて天照大神と同一人物であったなどと述べているが、それが誤りであることは前記した通りである。
 大分周辺も不彌國から見て南ではなく東にあるので邪馬臺國ではなかった。そもそも、不彌國から海路であれ「東」へ行くことが『魏志倭人傳』の方角の記述に反する。
 宮崎周辺も南ではなく東南であり、不彌國から「東」へ行くうえ、遠すぎた。た。伊都國の大率は牛馬もいない時代に女王國より北の全三十余国を行政監察に歩いて回ったのであり(魏志倭人傳)、女王國・倭國が福岡県かそれよりやや狭い範囲でなければ、それは不可能であった。宮崎周辺も邪馬臺國ではなかった。

 

 女山神籠石 福岡県みやま市瀬高町大草(国指定史跡)
    (Wikipedia)   

 西暦367年、『日本書紀』によれば、八女津媛は神功皇后によって「土蜘蛛・田油津媛」の蔑称で誅殺される。神功皇后が実在したかどうかは分からない。また、仮に実在したとしても、八女津媛を討ったのが神功皇后であったのかどうかは分からない。しかし、大和王権によって邪馬臺國は滅亡した。地域では、大和王権に遠慮して「女王山」は「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。
 邪馬臺國の滅亡から三世紀を経て、西暦663年に「白村江の戦」で敗れた大和朝廷は、唐・新羅の侵攻を恐れて、この女山にも筑後平野・有明海を見晴らす山城を造ったと見られている。現在「女山神籠石(ぞやまこうごいし)」として残っている石垣が、一般にはその山城の時代の遺構と見られている。ただし、石垣は、その時代より古い時代の遺構の可能性もある。


【40】 卑彌呼の墓はどこにあるのか

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『魏志倭人傳』によれば、卑彌呼の墓は「さしわたし(径)」が「百餘歩」であった。
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」(魏志倭人傳)
 この「百餘歩」も、百歩を「単位」として書かれている可能性が高い。その意味する範囲は広い。たとえば、実測値が仮に三十歩であった場合に、百歩を「単位」として表現する数値は「ゼロ餘歩」か「百餘歩」の二択しかないからである。
 魏使(張政)が「黄幢」(こうどう 魏の「錦の御旗」)をもって卑彌呼を訪ねたとき(247年)、卑彌呼はすでに死去していた。その「徑百餘歩」の墓はすでにできていた。
 福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)に「権現塚(ごんげんづか)」がある(写真)。この権現塚は、前記の村山健治(1915年-1988年)説によれば、卑彌呼の墓である。この権現塚のある坂田も縄文海進の時代に海に沈まなかった地域である。


権現塚

     権現塚 福岡県みやま市瀬高町坂田(2021年11月 撮影)


「権現塚」は「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにある。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲む。
 中国で「里」とは、どの時代においても「三百歩」であった。衛星写真で東松浦半島の唐津市北部から糸島市までの距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径は文字通りの「百餘歩」である。
『魏志倭人傳』には卑彌呼の墓の「さしわたし(径)」のことは書かれているが、「高さ」のことが書かれていない。「周溝墓」は、溝から掘り出した土を周溝の内側に盛るだけであったので、通常は高さが低い。大きな周溝墓も比較的に少ない日数で築造された。『魏志倭人傳』を見ると、卑彌呼の墓は短期間でできている(何年もかけていない)。それらのことから、卑彌呼の墓は「周溝墓」であった可能性が高い。また、棺はあって、石室のような槨(かく)はなかった(魏志倭人傳)。円形周溝墓は「ひとり」を埋葬することが多く、そこに葬られた人は、特別な限られた人であったと見られる。
 吉野ヶ里に目を転じると、そこは、女王の倭國に属する国であった。吉野ヶ里に巨大な「北墳丘墓」があることは山門國にも知られていた。女王山の見晴らし台からも見えた。
「権現塚」は、円形周溝墓の上に、吉野ヶ里の墳丘墓を凌ぐ規模の墳丘を乗せた墳丘墓である可能性が高い。すなわち「円形周溝墳丘墓」である。弥生時代晩期の「版築」という中国から伝わった工法が用いられていて大規模な木枠で成型して突き固めたと見られる。風雨に強く、表面は洗い流されているが、形状は長く保たれている。「権現塚」は、周囲の溝を含めると、直径は 70メートルに近い。墳丘墓であるとすると、これだけの大規模なものは日本には他に存在しない。
 権現塚は、南に接して、祭儀が行われた広い敷地の址がある。現在は農地となっている。その敷地から、朱を塗った籩豆(へんとう 高坏)など、祭儀に用いられたと見られる約四十センチメートルの大型の土器が出土している。このことから、それに相応しい高貴な人物が埋葬されていると見られる。


権現塚

     権現塚測量図 (福岡県みやま市)


 権現塚は、太陽神を祀る聖地として伝承される日向神(ひゅうがみ)峡谷と、女王山の「聖域」(祈祷所)と、正確に東西に一直線に並んでいる。したがって、春分の日と秋分の日に、女王山の「聖域」を通って太陽が昇るのが見える。そのような地点に築造されている。やはり「太陽神の巫女(みこ)」を祀(まつ)るのにふさわしい(前記村山健治説)。
 この権現塚のすぐ北からは、甕棺などが数多く出土しているが、殉葬者の棺ではない。『魏志倭人傳』には「狥葬者奴碑百餘人」と書かれているが、前記したように、日本に殉葬の風習はない。
 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定した。また、古墳時代中期(五世紀)に築造された「古墳」とした。発掘調査や、炭素14による年代測定などが行われたわけではない。「古墳時代中期(五世紀)の古墳」とは、国内で古墳が最も多く築造された典型的な古墳のことである。史跡として「指定」するには、ただの小山ではないという「何ら」かの理由が必要だったようである。しかし「史跡」に指定されたおかげで、現在も権現塚は農地などに転用されることなく保存されている。
 この権現塚は、形状が後世(古墳時代)の「古墳」(円形古墳)とは一見して異なっている。権現塚は、鍔(つば)のある浅い帽子のような形状である。直径が 45メートルもあるのに、高さ 5.7メートルは「円墳」として低すぎである。権現塚は、先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」の跡が残っている。測量図に濃い緑色で表した底部が円形周溝墓の址と見られる。魏使の張政が見たのは、この円形周溝墓であった可能性がある。その後、臺與の時代以降に墳丘が「乗せられた」可能性がある。乗せられた部分が臺與の墓とは限らない。この権現塚は、「弥生時代」の希少な「円形周溝墓」である。かつ、日本最大の「墳丘墓」である。



【41】 不彌國から邪馬臺國まで何日かかったか

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『魏略』『魏志倭人傳』によると、帯方郡から末盧國までの行程距離は「萬餘里」であった。末盧國から邪馬臺國までの距離は「二千餘里」であった。そのうち末盧國から伊都國までは「五百里」、伊都國から不彌國までは「二百里」であった。すると不彌國から邪馬臺國までは「千三百餘里」ということになる。このことは白鳥庫吉らによって指摘された。
 平壌から糸島市までの行程距離は、衛星写真で見ると漢の時代の「長里」で「約三千六百里」(約 1,500キロメートル)である。
 この「約 1,500キロメートル」を殷の時代の短里(約 75メートル)で表すと「約二万里」である。当時の慣習から、皇帝に対して、短里で「約二万里」の距離を「萬五百餘里」として報告できないことは前記した通りである。それゆえに、漢の時代の「長里」の「約三千六百里」が前記の「露布の習わし」によって「萬五百餘里」として報告されていたと見られる。『魏略』でも『魏志倭人傳』でも、後漢の時代の記録であるから「長里」が用いられている。ただし、方角はいつの時代も正確に報告された。
 さて、福岡県糟屋郡宇美町宇美八幡宮から福岡県みやま市瀬高町大草の女王山までの距離は、衛星写真で見ると「約 54キロメートル」である。これは漢の時代の「長里」では「約百三十里」である。この距離は、通常ならば、一日に「五十里」として「二泊三日」で行ける距離であった。それが後漢使によって「約千三百里」として報告されていた。さらに将軍・司馬昭から皇帝・曹奐に対して「水行二十日・水行十日陸行一月」として注釈され、奏上されていたようである。
 近年の説に「水行十日程」が水行十日で行ける距離を表すのに対して、「水行十日」とは実際に移動するのにかかった日数であるとする説がある(中国古典学者・謝銘仁教授)。すると、距離は、潮の干満によって移動が制限されたり、雨の季節に何日も逗留するなど、その時その場の事情で変わることになる。


第四章

卑彌呼・臺輿の時代の天皇は誰か


【42】 卑彌呼の時代に天皇はどこにいたか

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 卑彌呼が在位した「182年すぎ-247年」に大和王権の祖先は、九州北岸からの「落人」としてまだ吉備にいた。しかし、吉備は繁栄しており、大王が出現して吉備王國となっていた。大王は後世「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)と呼ばれる。大王は民族の東征伝説に残る英雄「いはれびこ」に見立てて讃えられたようであるが、「いはれびこ」ではない。その後も、後世に「闕史八代」とされる大王が出現して人びとの記憶に残った可能性がある。
 西暦265年に司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)が西晉を建てた(初代皇帝・武帝 在位 265年-290年)。この情報は女王國・倭國に伝わったと見られる。翌 266年に倭國は西晉に朝貢した。
「泰始二年十一月己卯倭人來獻方物」 (晉書・武帝紀)
 臺與が生きていれば三十一歳である。朝貢したのは臺與であったと見られる。
 そのころ(266年ごろ)、吉備では、実在したとすれば第七代孝靈天皇と呼ばれることになる大王の治政であった。奈良盆地にはまだ何らの王権も存在していなかった。


 

【43】 「纏向」の王権はいつどのようにして出現したか

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 纏向には、三世紀後半に吉備王國から人びとの流入が始まったと見られる。奈良盆地には、それまでは環濠集落などの生活グループがあるだけであった。
 第十代崇神天皇は、吉備王國(岡山県)から奈良盆地の纏向に移動し、290年ごろ大王として即位し、三十万坪程度(纏向全体の約三分の一)を開発したと見られる。纏向の宮殿は、それまで何もなかったところに忽然と姿を現したわけである。それは、吉備からの「人」「物」「文化」「記憶」の流入に支えられていた。人びとは「やまと民族」として遠い記憶をもっていたであろう。崇神天皇は改めて後世に「はつくにしらすすめらみこと」と讃えられる。
 纏向は、第十一代垂仁天皇の時代には約九十万坪程度になったようである。
『古事記』に第十代崇神天皇の崩御は「戊寅(つちのゑとら)」の年であったとして、天皇の崩御年について初めて干支年で書かれている。『住吉大社神代記』(731年 重要文化財)にも同じ記載がある。崇神天皇は、大和王権の基礎となる祖霊神信仰を確立し、葦原中國の支配領域を拡大したとされる大王であるから、その崩御年は長く語り継がれたであろう。前記「IntCal20」に照らして崇神天皇の崩御年は「318年」である可能性が高い。また前記のグラフ「天皇の皇紀即位年(黒●印)と春秋二倍暦換算即位年(白〇印)、推定実年(青●印)」(歴代天皇即位年のグラフ)に照らしても、崇神天皇の崩御年は「318年」である可能性が高い。

 

    纏向石塚古墳(桜井市教育委員会)


 畿内で最初に現れる古墳は「纏向石塚古墳」である。これは、古墳ではなく墳丘墓とも見られているようであるが、日本最初の前方後円墳である。その築造は前記の「IntCal20」によって「280-310年」であったと見られている。全長約 96メートル、周濠幅約 20メートル。纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていた。平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。 

 

    弧文木板(纏向石塚古墳の周溝から出土)
   (橿原考古学研究所) 


 纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土する。弧文は吉備王國の祭祀のための固有の模様であった。初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王國であるかのようであった。

 

    三輪山
   (大神 おほみわ 神社 ホームページ) 


 第十代崇神天皇は、纏向を都と定めると、古代からの天照大神だけでなく、疫病を鎮めるために出雲の地祇・大国主命である三輪山の大物主神(おほものぬしのかみ 大三輪之神)や、倭大國魂神(やまとのおほくにたまのみかみ)を深く崇(あが)めたと伝承される。それゆえに、淡海三船(722年-785年)は、その「漢風諡(し)号」を「崇神天皇」としたようである。大和王権は、このころから、「祖霊神信仰」を深めていく。
 古墳は祖霊神信仰によって築造されたと見られる。祖霊神信仰は、地方の豪族の祖霊も神と認めるもので、地方の豪族もこれを受けいれやすく、大和王権よりやや小型の前方後円墳を築造し始めた。



【44】 神道と神社はいつどのようにして出現したか

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 日本では、森羅万象に神々が宿る。万物は神々である。『古事記』によれば、天地開闢のとき、高天原に「造化(ぞうけ)三神」が成ったという。「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ 造化の最高神)」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ 天の生成神」「神産巣日神(かみむすひのかみ 地の生成神)」の三神である。日本は、多神教とはいっても、「天之御中主神」を造化の最高神とする。
 日本の神道は「きよきあかきこころ(清明心)」を深く尊ぶ。それは、宗教として何か伝道活動をするわけではない。それは文化、慣習、祭りなどの伝統を通して育まれ、伝えられていく。この「清き明き心」は、世界中のいたるところにあるというわけではない。
「きよきあかきこころ」は、現代においても日本人の精神構造の深い基盤をなしている。東日本大震災(2011年)が起きても、日本ではコンビニが略奪されるようなことはなかった。これは先進国から日本に伝わったものではない。
 大型の古墳は、誉田御陵山(こんだごびょうやま)古墳(應神天皇陵)、大山陵(だいせんりょう)古墳(仁德天皇陵)の時代を過ぎると姿を消していく。七世紀(600年代)の「飛鳥時代」には神社がこれに替わっていった。


【45】 鹿島・香取・伊勢の三神宮はなぜ祀られたか

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 江戸時代まで、皇室と関係する(皇室が毎年勅使を送る)神社は、茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮、三重県の伊勢神宮の三社だけであった。
 縄文時代は、前記したように、東北地方は温暖で食料も豊かであった。日本の人口の半数以上が東北地方で暮らした。縄文時代から弥生時代にかけて、寒冷化に伴い、食料が豊かな地域は東北地方から少しずつ南下した。日本で前方後円墳の数が最も多いのは千葉県の 733基である。群馬県は 455基。茨城県は 391基。奈良県は 312基である。古墳時代に関東地方は豊かであり、多くの豪族がいた。大和王権から見ると彼らは脅威であった。
 鹿島神宮も香取神宮も、出雲を平定するのに功績のあった神々である。大和王権がこれらの神々をことさら関東地方に勅祭した理由は、関東地方の豪族が脅威であったからと見られる。また、大和王権が伊勢の地に天照大神を勅祭した理由も、東海地方の豪族が脅威であったからと見られる。
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    鹿島神宮・香取神宮・伊勢神宮の勅祭


 鹿島神宮と香取神宮は、利根川を挟んで相対する位置にある。鹿島神宮の神は、海から東一之鳥居のある所に上がって来たという。鹿島神宮と、東一之鳥居、香取神宮は、陸上に一直線に並んでいて、東一之鳥居が「日向(ひむか)の鳥居」となっている。いずれも初代神武天皇の時代の創建とされているが、神社建築は飛鳥時代に出現したので、社殿の設営は比較的新しいものと思われる。ただ、自然石などの依代(よりしろ 神が降臨するところ)はあったのかもしれない。


【46】 崇神天皇の時代に女王の倭國は存在したか

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 2020年のケンブリッジ大学の炭素14年代測定の更正曲線「IntCal20」から、前記したように、第十代崇神天皇の崩御年は「318年」である可能性が高い。『日本書紀』によれば、崇神天皇の最晩年、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と名乗る都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと・敦賀(つるが)の語源)が敦賀(つるが)に上陸した(垂仁天皇紀)。
 第十一代垂仁天皇は、都怒我阿羅斯等の話しから、そのころ倭國の伊都國王が穴門國(山口県)を支配していることを知った。第十代崇神天皇崩御の年のようであり、卑彌呼・臺輿の時代も過ぎていた。しかし、倭國は存在していたのである。第十二代景行天皇の時代に筑後山門國の女王山には「八女津媛」はいたので(日本書紀)、第十代崇神天皇の時代にも「八女津媛」はいたであろう。
 朝鮮半島を発った都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、初め穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物に出会った。この伊都都比古は伊都國王と見られる。都怒我阿羅斯等は伊都都比古に「この国の王だ」と言われた。不審に思い、そこを離れて日本海の敦賀に到ったという。
 伊都國王・大率は、朝鮮半島からの脅威に備えていたわけであるから、朝鮮半島からの渡来者・都怒我阿羅斯等を検問したと見られる。
 この記述は、大和王権が勃興期(第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇の時代)に九州北部から山口県下関市にかけてなお倭國が何らかの形で存在していたことを物語る。また、そのことを、八世紀に『日本書紀』(720年)の編纂プロジェクトが認めた記述として重要である。
 都怒我阿羅斯等は「額に角のある人」と書かれているが、当時珍しい「立物(たてもの)」のある兜(かぶと)を被っていたようである。日本では、平安時代以降に仏具の製造技術によって甲冑が製造されるようになった。兜(かぶと)には額に大きな立物がつくようになった。


【47】 日本列島に漢民族はいつ大量に流入したか

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         ハプログループ O の分布図
              (Wikipedia)


 黄河中・下流域の中原(ちゅうげん)の地では、豊かな中華文明が築かれた。そこにいた人びとは「漢人(Han)」と呼ばれた。それは、劉邦(BC247年- BC195年)が漢を建国(BC206年)したことによって、そのように呼ばれるようになった。漢人は、Y染色体 DNA型が「O-M134」ではないかと見られている。漢人は、四方の東夷・南蛮・西戎・北狄にその高い文明を憧憬されながら少しずつ生活圏を拡大して行った。周囲との混血を繰り返しながら、「漢人」が社会的概念として構成されたと見られている。漢人は、現在の中国政府の民族識別工作では「漢族」とされている。漢族は、中華人民共和国の少数民族を含めた総人口の 94パーセント以上を占める。揚子江流域の湖南省出身の毛沢東(1893年-1976年)も漢族とされている。我われ日本人が常識的に「漢民族」というときは、この漢族のことを指している。
 日本列島には、縄文時代から弥生時代の初めにかけては、縄文人(D1a2a人とC1a1人)と弥生人(O1b2人)しかいなかったわけであるが、弥生時代の中頃に少数の江南人(O1b1人)と隼人(O-P201人)が渡来したと見られる。その後、大和王権の「古墳時代」になって、漢民族が大量に流入したと見られている。これらの民族は、いずれも「O系統」である。O系統は今から約 4万年前に出現した。
 朝鮮族(弥生人 O1b2人)や、大量の漢民族がいつ日本に流入したかについては、学者の間でも見解が分かれている。
 ひとつは「大陸から一回流入説」(東大 2024年)である。弥生時代の BC383(±22)年に朝鮮半島から人びとが流入した。その人骨の全 DNAを調べた結果、朝鮮族と漢民族の DNAをもっていて、すでに縄文人と交雑していた。現代の日本人はその子孫である。という説である。
 もうひとつは「大陸から二回流入説」(金沢大学 2021年)である。母系で伝わるミトコンドリア DNAを調べた結果、縄文時代の BC1498(±825)年に朝鮮族が「弥生人」として大量に流入してそのときの全女性の 40パーセント近くを占めた。さらに、古墳時代の西暦205(±175)年に漢民族が大量に流入してそのときの全女性の 65パーセント近くを占めた。現代日本人はその子孫である。という説である。


【48】 第十二代景行天皇は実在したか

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 大和王権による「第一次九州討伐」は、第十代崇神天皇の時代に行われたが、土蜘蛛(つちぐも 地方の豪族)に阻(はば)まれて果たせなかった。『肥前國風土記』によれば、崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に降伏しなかった(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十餘人拒捍皇命不肯降服)。
 大和王権による「倭國」に対する討伐は、『日本書紀』によれば、その後二回行われた。第十二代景行天皇による大和王権の「第一次九州親征」と、第十四代仲哀天皇・神功皇后による「第二次次九州親征」であった。
 景行天皇による討伐は、『日本書紀』によれば、景行天皇十二年から景行天皇十九年まで行われた。
『日本書紀』によれば、景行天皇は関門海峡を通らないで九州東岸に上陸した。穴門國(山口県下関市)は伊都國王・大率(だいそつ)が支配していたので(日本書紀・垂仁天皇紀)、そこを避けたと見られる。景行天皇に最初に帰順したのは九州東北岸の首長・神夏磯媛(かんなつそひめ)であった。自らの「三種の神器」を献上した。それは「八握剣(やつかのつるぎ)」「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊(やさかに 玉)」であった。

316

  西暦330年の日本列島

 景行天皇は、『日本書紀』によれば、九州で各地に行宮(あんぐう)を建てて住んだ。日向國で御刀媛(みはかしひめ)を后(きさき)とした。戦闘を展開して豐(大分県)・日向(宮崎県)・肥(熊本県)など各地の土蜘蛛を討伐した。しかし、景行天皇の親征の目的は、筑前・筑後の連合王国「倭國」を討伐することにあったのに相違ない。  

 

  大和王権の第一次次九州親征
  

『日本書紀』によれば、景行天皇が筑前・筑後の連合王国「倭國」の八女縣(福岡県久留米市)に着き、藤山を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと「猨大海(さるのおほみ)」(後の水沼縣主)が「八女津媛という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えた。 「丁酉到八女縣則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中」 (日本書紀・景行天皇紀)。
 景行天皇が南に見た「美しい山」は、前記したように、山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草 標高 196メートル)である。猨大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、緊迫した状況の中で、連合王国「倭國」の「女王」がいるとは答えないで「女神」がいると答えた。景行天皇にとって、この八女津媛が敵国「倭國」の女王であった。
 倭國では、景行天皇の時代になっても「八女津媛」が日向神峡谷から山門國・女王山に迎えられていたと見られる。女王はすでに神格化されていて人前に姿を現すことはなかったようである。
 景行天皇は北上して佐賀県の神埼郡と三根郡に到る(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里(当時の国名は不明)があった。神埼郡の宮処郷(みやこのさと)に仮宮を設営した(肥前國風土記)。養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。また、御井郡の高羅(かうら)を行宮とした(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 福岡県うきは市)から菟狭(宇佐)を通って纏向に帰還した。
『肥前國風土記』には景行天皇の九州親征の事績や地名が各地に残されている。熊本県に「山鹿灯篭」などの行事も残っている。風土記の編者は『日本書紀』を見て書いているわけではあるが、纏向遺跡が存在することに照らして、景行天皇は実在したと見られる。また、その九州親政は地域に残る多くの事績から事実であったと見られる。
 西暦247年の卑彌呼の死から一世紀近く経って後継者・臺與の時代も過ぎていた。『日本書紀』には、景行天皇が女王の倭國(筑前・筑後)に入ってから戦闘を行ったとする記述がない。巡幸の旅であった。しかし、景行天皇の本来の「倭國」討伐の目的と、それまでの戦闘の経緯を見ると、「倭國」に入ってからも戦闘は行われたと想像される。景行天皇は女王國が国家として存続していると判断して纏向に帰還したと見られる。すなわち、倭國に対する大和王権の「第一次九州親征」は不成功に終った。それが『古事記』には景行天皇の倭國討伐のことが一切書かれていない理由と見られる。ただし、『古事記』にも景行天皇が日向の美波迦斯毘賣(みはかしびめ)を妃としたとは書かれている。倭國は崩壊しつつあった。それでも、女王(女神)・八女津媛はそのまま残った。伊都國王(大率)なども残った。
 日向隼人は、その後も第十五代應神天皇と第十六代仁德天皇にそれぞれ日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)と髪長媛(かみながひめ)を妃として嫁がせた。これらは畿内の皇室としては極めて異例なことであった。仁德天皇と髪長媛との間に生まれた幡梭(はたび)皇女は第二十一代雄略天皇の后になった。


【49】 神功皇后は実在したか

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 聖德太子(593年-622年)の時代に『上宮記(かみつみやのふみ)』という歴史書があった。これは『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)より百年ほど古いが、現存しない。鎌倉時代の卜部兼方(うらべのかねかた 生没年不詳)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』などに逸文(引用文)として残る。『上宮記』には景行天皇と應神天皇は出てくるが、第十三代成務天皇と日本武尊、第十四代仲哀天皇、神功皇后の名前は出てこない。日本武尊の物語も、神功皇后の物語も、当時の各地に残る多くの伝承、古跡などを根拠にした創作かもしれない。成務天皇から神功皇后までは実在しなかった可能性がある。
 第四十代天武天皇(在位 673年-686年)の時代の『帝紀』と『舊辭』の中に現在の都道府県につながる郡県制を敷いたという大王が初めて「第十三代成務天皇」として立てられた可能性がある。また、古代最大のヒーロー・日本武尊を父にもち、古代最大のヒロイン・神功皇后を妻にもつ「第十四代仲哀天皇」が初めて天皇として立てられた可能性がある。『帝紀』も『舊辭』も現存しないが、その逸文(引用文)が『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)である。
 百濟には「百濟三書」として『百濟記』『百濟新撰』『百濟本記』があったが、現存しない。『百濟記』は、白村江の戦い(663年)に敗れたとき百済人によって日本の朝廷にもち込まれたと見られるが、これも現存しない。『日本書紀』の「神功皇后紀」は、『魏志倭人傳』『百濟記』『晉起居注』と対比させて慎重に「物語り作り」が進められたと見られる。
「神功皇后紀」では、摂政四十年が西暦240年(魏の明帝景初三年)と書かれ、摂政六十六年が西暦266年(西晉の武帝泰初二年)と書かれている(泰始の誤り)。正歳四節暦(西暦)である。『百濟記』との対比では正確に干支二巡(120年)繰り上げて書かれている。したがって、本居宣長(1730年-1801年)は、仮に神功皇后が実在し、また、摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國に使者・斯麻宿彌を派遣したことが事実であったとすれば、それは「西暦366年」であったと指摘できたわけであろう。


【50】 第十五代應神天皇は実在したか

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 第十五代應神天皇は、現在の日本人にとって最も重要な天皇のひとりである。應神天皇は、第十六代仁德天皇から男系が途絶えた第二十五代武烈天皇までと、第二十六代継体天皇から現在の今上陛下まで続く共通の男系祖先である。そのために應神天皇は「皇祖神」として奉られることになった。仏教が伝来すると「八幡大菩薩」と称えられた。そのために應神天皇を初代天皇とする根強い仮説もある。


 

     375年の朝鮮半島 (Wikipedia English)       

 西暦265年に魏の司馬炎(236年-290年)が「晉(西晉)」を建国した。朝鮮半島の樂浪郡・帶方郡も晉の支配下に入った。しかし、313年に樂浪郡・帶方郡は高句麗の支配下に入る。晉が弱体化したからである。中国による樂浪郡・帶方郡の支配はこのとき終わった。316年に晉は、北方民族の侵攻によって滅亡する。
 朝鮮半島西南部は「馬韓(ばかん)」として五十余りの小国に分かれていたが、その中の「伯濟(はくさい)國」の近肖古王(在位 346年-375年)が、馬韓を「百濟國」として統一した。『日本書紀』(720年)によれば、近肖古王は日本と国交を開始した。『資治通鑑』(1084年)によれば、372年に近肖古王は、初めて東晉に朝貢した。
『日本書紀』の「應神天皇紀」も、『百濟記』と対比させて慎重に「物語作り」が進められているようである。應神天皇即位の年は、『百濟記』との対比から 390年であったとされている。『日本書紀』によれば、應神天皇三年に百濟の阿花王(あかおう 在位 392年-405年)が即位した。百濟で阿花王は西暦392年に即位している。しかし、逆に『百濟記』に應神天皇が西暦390年に即位したと書かれていたわけではない。
『日本書紀』としては、神功皇后が摂政六十六年に倭國の女王・臺輿として晉の武帝に朝貢するなどの創作を挿入する必要があった。その結果應神天皇の即位の年が繰り下げて書かれた可能性がある。「神功皇后紀」によれば、摂政五十二年(372年)に(百濟の近肖古王から)「七支刀」が献上されたが、たとえば、これはその年(372年)の應神天皇(五歳)の「即位」に対する祝意だった可能性がある。神功皇后には、應神天皇の「保護者」としての期間はあったであろう。しかし「摂政」として君臨する期間があったかどうかは分からない。『古事記』には、神功皇后が「摂政」であったと記述する箇所はない。


 

    広開土王碑(414年)中国吉林省
       


「広開土王碑」(414年)は、高句麗の第十九代好太王(広開土王 374年-412年)の功績を記録したものである。この碑に、391年に倭國が侵攻してきて「百濟□□□羅」(百濟・加耶・新羅)を従えたと書かれている。事実とすれば、應神天皇の時代であった可能性が高い。同碑によれば、広開土王の在位期間に倭國がしばしば侵攻し、広開土王はこれを撃退した。396年に広開土王は百濟を平定した。399年に倭國と百濟が新羅を攻撃した。400年に広開土王は新羅から倭國軍を追放した。404年に広開土王は帶方郡に侵攻する倭國軍を討った。407年に広開土王は百濟軍を討った。『日本書紀』はこの広開土王碑を見ないで書かれた。
『日本書紀』の「應神天皇紀」によれば、應神天皇十六年に百濟の阿花王が薨じた。百濟で阿花王は西暦405年に薨じている。應神天皇二十五年に百濟の直支王(ときおう 在位 405年-414年)が薨じた。この百暦と対比する部分は「正歳四節暦(西暦)」で書かれている。應神天皇二十六年から應神天皇四十一年までは「春秋二倍暦」で書かれているようである。應神天皇は「西暦421年」に五十五歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御したことにされている。
 倭國が朝鮮半島に進出していたのは鉄を入手するためであったと見られる。


 

       476年の朝鮮半島 (Wikipedia)       

『日本書紀』によれば、應神天皇十四年に朝鮮半島にいた弓月王が、百二十県の人びとを引き連れ帰化して秦氏になった。また、應神天皇二十年に阿知使主(あちのおみ)とその子・都加使主(つかのおみ)が十七県の人びとを引き連れ帰化して東漢氏(やまとのあやうじ)になった。
 一方、高句麗では第十九代広開土王(好太王 374年-412年)が死去すると、第二十代長壽王が即位した(在位 413年-491年)。475年に長壽王は、百濟に侵攻して首都・漢城(ソウル特別市)を陥落させた。百濟は熊津(ゆうしん 忠清南道公州市)に南遷した。高句麗は、このとき最大版図となり、百濟は領土の北半分を失った。
 漢氏も秦氏も伽耶にいたが、事実としては、この激動の中で、日本に移住したと見られる。それは、第十五代應神天皇の時代ではなく、第二十一代雄略天皇の時代であった可能性が高い。『日本書紀』では、秦氏と漢氏が日本で成功して有力な氏族になった「結果(業績)」を可能な限り尊重して、なるべく古く應神天皇の時代に渡来したことにしたと見られる。


第五章

邪馬臺國の衰退と滅亡


【51】 女王の倭國はいつどのように衰退したか

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 西暦266年に女王・臺輿(三十一歳)は、魏の後継國・西晉(初代皇帝・武帝)に朝貢したが、280年ごろから武帝は朝政を顧みなくなった。臺與が生きていれば四十五歳のころである。そのころから倭國も衰退し始める。
 臺與の死後も、日向神(ひゅうがみ)峡谷から巫女・八女津媛(多世代の女神)が迎えられて、これを継承したと見られる。しかし、『日本書紀』「景行天皇紀」に記されるように、女王ではなく「女神」として神格化され、山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)の女王山にいて、人前にあまり姿を見せなくなった。それでも、倭國は存在し、女神・八女津媛も伊都國王・大率も存在し続けた。

316

  西暦340年の極東アジア

 西暦316年に西晉は北方民族の侵攻で滅亡する。北方民族は「前趙(ぜんちょう」を建国した。318年に司馬氏の一族が江南に逃れて「東晉」を建国する(初代・元帝)。
 山門國の南の狗奴國(くなこく)は、熊本県の菊池川流域と白川・緑川流域の民族であったと見られる。『魏志倭人傳』に、狗奴國には「其の官」がいると述べられているので、かつて女王國に属していた可能性がある。女王國は鉄器を交易によって手に入れたが、狗奴國は製鉄ができる先進国として台頭していた。女王國はそのことを脅威に感じていたのに相違ない。しかし、時代が動いて女王の倭國を討伐するのは、狗奴國ではなく、大和王権であった。
 大和王権は、そのころから吉備、宇佐、宗像を通して大陸との交易権を確立する。宗像の沖ノ島で祭祀が行われるようになった。伊都國王・大率にも、もうそれに干渉する力はなかった。


【52】 大和王権は倭國をいつどのように討伐したか

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 古代最大のヒーロー・日本武尊を父にもち、古代最大のヒロインでシングル・マザーとなる神功皇后を妻にもつという、そのような第十四代仲哀天皇が果たして実在したかどうかは分からない。神功皇后が実在したかどうかも分からない。『古事記』『日本書紀』より百年ほど古い歴史書『上宮記(かみつみやのふみ)』の逸文(引用文)には、前記したように、仲哀天皇・神功皇后の名前はない。しかし、大和王権の「誰か」によって「倭國討伐」は行われた。それは、天武天皇(在位 673年-686年)の時代の『帝紀』と『舊辭』の中に書かれていた可能性がある。 それがどのように行われたのか、以下「シナリオ」(作業仮説)として前著『邪馬臺國』(自由塾 2022年)を引用して西暦363年から 367年までの討伐の模様を復元してみる。

363

  西暦363年

 西暦363年に仲哀天皇は德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいた。そのとき「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいた。知らせを聞くと陸路南下し、水軍を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に到った。神功皇后の航路は日本海周りであったとする説もある。
 仲哀天皇と神功皇后は、いずれも二十二歳であった。穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮 いみのみや)神社で三年間、情報を収集しながら治世をした(古事記)。周防の沙麼(さば)を水軍基地とした。
 女王の倭國は、魏の「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもっている。また、女王・臺與(とよ)が魏の継承国・西晉に朝貢している。すると、西晉の継承国・東晉によって軍事上の安全を保障されているかもしれなかった。

366

  西暦366年

 西暦366年(仲哀崩御を 367年としたときの前年)に崗國(をかのくに 飛鳥時代の遠賀郡)を支配していた国王・熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。熊鰐は後に大和王権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる。
 また、伊都國(福岡県糸島市)の國王・五十跡手(いとで)が仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した(日本書紀)。
 伊都國王はそのとき新羅王子・日桙(あめのひぼこ)の子孫と名乗った。日桙は、第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は、その子孫である(古事記)。葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(日本書紀)。
 伊都國はこのとき大和王権に併合された。五十跡手は大和王権下で伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。そもそも、伊都國王とは女王國の「大率」にほかならない。このとき、大和王権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と加盟三十餘国について全貌を知った。また、女王が山門國の女王山にいる女神・八女津媛であることと、呪術者であることなどを知った。
『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の崗浦水門(をかのうらのみなと)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神・大倉主命(おほくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和王権の倭國への侵攻を拒んだ。仲哀天皇が熊鰐に勧められて崗湊の二神に祝(はふり 神官)を立てて祈ったところ船が進んだ。前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座していた。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。
 神功皇后は、危険を分散するために、別の軍船で洞海湾から崗湊に向かった。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見ようとした。その後、満潮を待って崗湊に着いた。
 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)を行宮とした。

367

  西暦367年


 西暦367年が明けると、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。
 神功皇后は軍勢を率いて橿日宮を出発し、御笠川を南下した。そこから陸路で松峽宮(まつをのみや)に到り、そこを行宮とした(福岡県朝倉郡筑前町)。
 神功皇后軍は、先ず層増岐野(そそぎの)において土蜘蛛・羽白熊鷲(はじろくまわし)と交戦して圧倒的な兵力でこれを討伐した。
 当時、御笠川と宝満川は上流を取り合ってつながっていたと見られる。皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門國である。最後の女王・八女津媛(神格化した多世代の女王)はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいる。
 神功皇后とその水軍は、これを大和言葉で「土蜘蛛・田油津媛」という蔑称で呼んで誅殺した。八女津媛が殺されたので、その兄・夏羽の軍は四散した。これが邪馬臺國の滅亡であった(武光誠 1988年・若井敏明 2010年)。
 大和王権としては五年をかける国家としての大事業であった。神功皇后も二十六歳になっていた。しかし、『日本書紀』には
「轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」
と書かれているだけである。
 倭國の滅亡が上記の通りであったとは限らない。前記したように神功皇后が実在したかどうかも分からない。『古事記』には、このような神功皇后による「倭國討伐」の話しは出て来ない。『古事記』には、伊都國王・五十跡手の帰順の話しなども出て来ない。『日本書紀』(720年)が編纂されるとき、大和王権が女王國・倭國を滅ぼしたときのかすかな記憶を頼りに神功皇后と田油津媛の物語が創作された可能性が高い。女王國・倭國はもともと魏・西晉などの先進国に朝貢して高い文化と交易品を手に入れるために形成された共同体でしかなかった。軍事力をもつ専制君主国家ではなかった。大和王権の将軍たちは、すでに支配地域となった宇佐、宗像の水軍と合流して女王國・倭國に入ると、女王とわずかな衛兵を容易に殺害したであろう。


【53】 靈帝の「中平」の鉄刀は誰に下賜されたか

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 西暦184年すぎに、後漢の第十二代靈帝(在位 168年-189年)から「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が卑彌呼に下賜された。
 西暦184年すぎの日本列島で、後漢の樂浪郡に朝貢する機会と理由があったのは、山門國の女王・卑彌呼だけであった。一方、西暦280年以前の奈良盆地に葦原中國など何らかの王国が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はなく、それは皆無である。


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    金錯銘花形飾環頭大刀(東京国立博物館所蔵・国宝)



 この大刀は、卑彌呼からその後継者・臺輿(235年-没年不詳)へ相続されたであろう。また、臺與からその後継者・八女津媛(多世代の女神)に代々相続されたであろう。そして最後の女神・田油津媛に相続されたであろう。それゆえに、この大刀が奈良盆地から出土する理由はない。
 しかし、昭和三十六年(1961年)に、この大刀は、四世紀後半の「東大寺山古墳」(奈良県天理市)から他の副葬品と共に発掘された。武振熊(たけのふるくま)とその一族を埋葬した古墳である。刀身は錆(さ)びてぼろぼろであるが、真正の後漢製であることが分かっている。
 この鉄刀は、第十二代靈帝からの贈り物であるにもかかわらず現皇室に伝わっていない。正倉院にも残されていない。このことも「邪馬臺國畿内説」が成立する可能性が極めて低いことを示唆している。
 この大刀は、山門國の女王山にあって田油津媛がもっていたが、水軍の将軍・武振熊によって「戦利品」(盗品)として奪われたと見られる。また、この鉄刀について武振熊が神功皇后に報告していない可能性が高く、このことは神功皇后が実在しなかったか、あるいは、実在しても九州親政に来なかった可能性を示唆する。


【54】 山門國はその後どうなったか

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 前方後円墳は初めは纏向とその周辺で大和王権の祖霊神を祀るために築造されていた。日本最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」は「220年」ごろ築造されたと考えられていた。表の「那珂八幡古墳」も三世紀中葉の築造と考えられていた(Wikipedia)。2020年にケンブリッジ大学が公表した炭素14年代測定更正曲線「IntCal20」によって「纏向石塚古墳」は「280-310年」の築造であることが分かった。



   女王の倭國内の初期の前方後円墳


古墳名所在地全長(約メートル)推定築造年
  那珂八幡古墳 福岡県福岡市     75  330-400
  原口古墳 福岡県筑紫野市     80  360-430
  一貴山銚子塚古墳 福岡県糸島市     103  360-430
  津古生掛古墳 福岡県小郡市     33  370-440
  久里双水古墳 佐賀県唐津市     109  370-440





 

  車塚古墳 (前方後円墳 全長約 55メートル)みやま市瀬高町山門


 福岡県みやま市とその周辺も「山門國」から「山門縣(やまとのあがた)」となった。山門縣でも、前方後円墳が築造された。「車塚古墳」(みやま市瀬高町山門)は、古墳時代中期の「前方後円墳」と見られる。周囲に幅 3.6メートルの環濠があったようである。江戸時代に銅鏡三面が出土している。祟(たた)り恐れて埋め戻された記録があるが、盗掘されていて現存しない。


【55】 「親魏倭王」の金印はどこにあるのか

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 卑彌呼がもらった「親魏倭王」の金印の行方が分からない。
 金印は現皇室に伝わっていない。正倉院にも残されていない。このことも「邪馬臺國畿内説」が成立する可能性が極めて低いことを示唆している。
 金印は、邪馬臺國を討伐した大和王権の将軍たちによって奪われ、鋳つぶされた可能性ならあるのかもしれない。しかし、「親魏倭王」の金印は、倭國の女王がもって初めて価値があるもので、仮に将軍たちに奪われたとしたら、将軍たちにとっては小さな金の塊でしかなかったであろう。


【56】 最期の女王の墓はどこにあるのか

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蜘蛛塚

    蜘蛛塚女王塚) 福岡県みやま市瀬高町大草
  (2021年11月 撮影)

 女王山(ぞやま 福岡県みやま市瀬高町大草)の麓に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる墓がある。この墓は江戸時代まで「女王塚」と呼ばれていた。最後の女神・「田油津媛」の墓と伝えられる。この「蜘蛛塚」からも、正確に春分の日と秋分の日に女王山の「聖域」から日が昇るのが見える。
 仮に「田油津媛」の墓とすれば、殺されたのが西暦367年(『日本書紀』に依拠する推定)であるので、当時はすでに「墳丘墓」の時代ではなく「古墳」の時代であるから、この墓が古墳であることは理解できる。
神功

  日本最初の肖像画紙幣神功皇后)(1881年)

 地域の人びとにとって八女津媛の誅殺は重い事件として語り継がれたであろう。地震や凶作その他ちょっとした天変地異が起きても「祟(たた)り」と恐れて築造されたのではないかと見られる。女王塚は、雨が降ると血が流れると言われたようなので、埋葬に水銀朱が用いられたのかもしれない。
 明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。明治政府に対して地域では、この古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、現在に至る(みやま市指定文化財)。


【57】 東晉以降の王朝は日本をどのように認識したか

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 古代から中国は日本に対して無関心である。日清戦争(1894年-1895年)以前の中国政府の日本に関する史資料のうちで最も詳しいものは『魏志倭人傳』(約二千文字)である。

316

  西暦390年の極東アジア

 西暦265年に司馬氏は帝位に就いて国号を「晉(西晉)」と改めたが、北方民族の侵攻でその西晉が滅亡すると、318年に司馬氏は華南に逃れて「東晉」を建国した。
 西暦413年に「倭國王」が東晉の第十代皇帝・安帝(在位 396年-419年)に朝貢した。
「義熙九年是歳高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」(晉書・安帝紀)。
しかし、東晉はもう倭國王を特別扱いしなかった。
 この「倭國王」は第十五代應神天皇(推定在位 390年-421年)であった可能性が高い。その後の『宋書・倭國傳』(488年)も六百字たらずで、日本に対してほとんど無関心であり、『魏志倭人傳』を見て書いてある。
『隋書』は、西暦636年に唐の時代になって魏徴(ぎちょう 580年-643年)が編纂した史書である。その卷八十一列傳第四十六東夷に「俀國(たいこく)」の条がある。これを通称『隋書倭國傳』という。そこに西暦600年以来の 4回の遣隋使のことを記している。聖徳太子(574年-622年)の時代に隋の使者・裴世清(はいせいせい)が来朝したが、『隋書倭國傳』も記述内容が極めて簡単である。そこには、倭國は邪靡堆(やまと)を都とする。すなわち、『魏志倭人傳』の言うところの邪馬臺(やまと)である。と書かれた。
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」(隋書倭國傳)
これは、魏徴が魏の時代の卑彌呼の邪馬臺國と混同したものと見られている。

316

  西暦700年の極東アジア

 西暦701年に日本では『大寳律令』が完成した。これによって、日本も唐に学んで律令国家となった。西暦702年に大和朝廷は第八次遣唐使に『大寳律令』をもたせた。このとき遣唐使は初めて「日本國」からの朝貢であると名乗った。正使は『大寳律令』の編纂に加わった粟田眞人(あわたのまひと 640年-719年)であった。真人は東夷人でありながら容姿端麗であり、中国のエリート官僚(科挙の上位合格者)のように『四書五経』を読み、自ら文章を書くとして唐で絶讃されている。眞人が訪れた当時の唐は、中国史上唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう 武則天 624年-705年)の政権下であった。国号は「周」(690年-705年)であった。「武周王朝」と呼ばれる。武后は高宗(628年-683年)の皇后で、高宗の死後に中宗(656年-710年)が即位したが、二か月で政権を掌握。その後の中宗の弟・睿宗(662年-716年)が即位するも傀儡(かいらい)であった。武后の死の直前の705年に中宗は復位し、国号も唐に復している。
『舊唐書』(くたうじょ 945年)は後晉(936年-946年)の時代に書かれた史書である。唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれている。その第百九十九巻「日本國」の条に粟田眞人の証言に基づいて次の意味のことが書かれている。すなわち、日本國はもと小国であったが、倭國の地を併合した。
「日本舊小國併倭國之地」(舊唐書)
 西暦704年に粟田眞人は帰国の途についた。白村江の戦い(663年)で捕虜になっていた者を連れて帰朝した。
 遣唐使が廃止されると、中国にとって日本はいよいよ縁遠い国になって行った。
 元は、「弘安の役」では江南軍を十万人も差し向けたが、日本の首都を太宰府であると見ていた可能性がある。元は、九州北岸にしか侵攻しなかった。


【58】 地域の「邪馬臺國自虐史観」とは何か

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 昭和二十年(1945年)に第二次世界大戦で日本が敗戦したとき、これを「終戦」と呼ぶ蟠(わだかま)りの中で、一部の人びとは「自虐史観」という歴史観をもつに至った。これは、皇國史観を徹底的に否定する。そのために、さしあたり『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の内容を否定する。あるいは、古代の天皇の存在を頭から否定する。というものであった。
 この第二次世界大戦の敗戦時と同じことが、邪馬臺國の滅亡のとき(推定 367年)に福岡県みやま市とその周辺で起きた。
 この地域は、前記したように、江南人の上陸の地であった可能性が高い。前記したように、ここが高天原であったとする伝承がある(Wikipedia/山門郡)。現在でも地域では、日向神(ひゅうがみ)峡谷は天照大神の生誕の地として信じられている。ここでは、王位継承の殺し合いも、古代から太陽神を祀(まつ)る日向神(ひゅうがみ)峡谷から卑彌呼、その後継者臺與、その後の歴代の女神を女王山に迎えることによって乗り切った。

 

   女山出土の瑪瑙(めのう)の勾玉
  梅野家歴史資料館(みやま市瀬高町大草)

 八女津媛は、倭國が衰退して行く中で女王山にいた(日本書紀・景行天皇紀)。最後の女神が、神功皇后とその水軍によって「土蜘蛛・田油津媛」の蔑称で誅殺された(日本書紀・神功皇后紀)。田油津媛は、皇祖神である天照大神を初代の女神として、第十七代の女神である。
 山門國(福岡県みやま市とその周辺)は「山門縣(やまとのあがた)」となった。中央(大和王権)から「縣主(あがたぬし)」が配属されて来た。縣主は、相当な人格者であったのに相違ない。そのとき、地域の一部の人びとは、強い「邪馬臺國自虐史観」をもつに至った。
 地域では女王山を「女山(ぞやま)」と呼ぶことにした。日本最大の円形墳丘墓である「権現塚」には、神功皇后の兵士が埋葬されていることにした。田油津媛の墓(みやま市瀬高町大草)は江戸時代まで「女王塚」と呼ばれていたが、明治十四年に神功皇后の肖像画入りの最初の紙幣が発行されると、地域の教育委員会は明治政府に遠慮してこれを「蜘蛛塚」に改称した。
 この「邪馬臺國自虐史観」は、その身にならなければ、我われ第三者が理解することは困難である。それは、非常に深く、かつ、重層化して行ったと見られる。
 全国には「地域おこし」のために「邪馬台国」を自称する地域は他に幾らでもある。それらの地域と同じように「卑弥呼の里」などとして表面的なレベルで楽しい行事などを開催するのはよい。しかし、根源的なレベルで「邪馬臺國自虐史観」の強い空気に逆らうと「抗空気罪」で社会的に抹殺されかねなかった。
 地域のこの「邪馬臺國自虐史観」は、第三者である我われは、これを尊重しなければならない。しかし、事実は、この地は江南人上陸の地である。ここから、大和王権のすべてが始まった。やまと(山門)が大和王権の故郷である。
 女山はそのむかし「女王山」と呼ばれた。そこには卑彌呼、その後継者・臺與、それに続いていつの世も女神がいた。
 この地が紀元前 100年ごろ江南人が上陸した大和王権の故郷であることは尊敬されるのに値する。また、女王國「倭國」の首都国・「邪馬臺國」として女王山に卑彌呼がいたことも、その後継者・臺與がいたことも、その後 367年まで歴代の女神がいたことも尊敬されるのに値する。


第六章

『古事記』『日本書紀』は誰が書いたか


【59】 『帝紀』『舊辭』とはどのような史書であったか

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「壬申の亂」(672年)は、古代史上最大の戦乱であった。天智天皇(在位 668年-672年)の子・大友皇子に対して天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大友皇子の首がもたらされ、大海人皇子が勝利して第四十代天武天皇(在位 673年-686年)となった。
 天武天皇は、681年に川島皇子(かはしまのみこ 657年-691年)、忍壁皇子(をさかべのみこ 生年不詳-705年)等に命じて、『帝紀』と『舊辭』を編纂させた。それらは、皇室の系譜と物事を記したものであったと見られる。現存しない。天武天皇がそれらの史書を必要としたのは、壬申の亂で大友王子を殺して皇位に就いたわけであるから、自らの皇位の正当性を主張するためであったと見られる。『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)よりも古い歴史書であった。
 その後、『大寳律令』(701年)が完成した。そのとき九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となった。日向は律令国家と隼人民族の事実上二国が併存した。隼人はなかなか政権に服さないので、702年に日向國が分割され、薩摩國府が現在の薩摩川内市に置かれた。それでも隼人はたびたび反乱を起こした。和銅六年(713年)には日向國が再分割され、大隅國府が現在の霧島市に置かれた。これで九州は九か国となった。それでも薩摩隼人と大隅隼人は、独立意識をもっていた。西暦720年に隼人の大規模な反乱が起きた。大隅國守・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害された。 『記紀』では、神武天皇の故郷を隼人の国としているが、その底本になったと見られる天武天皇の時代の『帝紀』『舊辭』も、そのような状況の中で編纂されたものであり、隼人族に対する融和策であった可能性が高い。大和王権の祖先は、前記したように、九州北岸に「二種の神器」などをもって渡来した江南人であった。そのために、『記紀』では崗國(をかのくに 福岡県遠賀郡)が神武東征のあえて出発点とされたと見られる。  


【60】 伊弉諾尊・伊弉冉尊はいつから「皇祖神」か

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『日本書紀』に、第十七代履中天皇が淡路島で狩りをしたとき、島の伊弉諾(いざなぎ)が祝(ほふり 神官)に神託(神がかり)して飼部(うまかいべ)の入れ墨の血の臭いが堪えられないと言ったとある。西暦400年前後であろう。
「秋九月乙酉朔壬寅天皇狩干淡路嶋是日河内飼部等從駕執轡先是飼部之黥皆未差時居嶋伊奘諾神託祝曰不堪血臭矣」(日本書紀・履中天皇紀)
 その時代に、伊弉諾は、淡路島の地方豪族が祀る「島神(しまがみ)」ではあったが、まだ「皇祖神」としての扱いを受けていなかったようである。近くの阿波には、徳島県美馬市に、式内小社ではあるが伊射奈美神社がある。
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、『帝紀』と『舊辭』を編纂させた天武天皇(在位 673年-686年)の時代に、初めて「皇祖神」として採用された可能性が高い(若井敏明 2021年)。
 まさか、そのようなことが常識的にあり得るのであろうか? 淡路國・阿波國の一帯は、日本人にとってどのような意味をもつ国々だったのだろうか?
 大和王権の祖先が吉備王國で繁栄していたころ、淡路國・阿波國では、同族(やまと民族)の有力な豪族がそれぞれの地で繁栄していた。しかし、吉備王國にとって脅威は、日ごろ行き来する近い同族の淡路國・阿波國ではなく、遠い同族の出雲王國であった。そのために日本神話の三分の一を出雲が占めることになる。
 三世紀後半に吉備王國から「人」「物」「文化」「記憶」が少しずつ纏向に流入した。280年すぎに流入は本格化し、290年ごろ纏向で第十代崇神天皇が即位した。これに伴い、吉備王國は消滅した。そのころから、大和王権にとって、淡路國・阿波國が新たな脅威となった。
 西暦600年代の後半から日本は先進国・唐に学んで律令国家となることを目指していた。何としても過去の豪族政治に訣別し、天皇を中心とする中央集権体制を確立したい。しかし、大和王権は、列島内の最大勢力とはいえ「一豪族」であった。
 前記天武天皇は天智天皇の弟であったが、天智天皇の子・大友皇子に対して「壬申(じんしん)の亂」(672年)を起こし、大友皇子を殺して帝位に就いた。淡路國・阿波國の有力な豪族に、同様にして反乱を起こされてはならない。西暦701年に『大寶律令』が完成する。当時の大和王権の史書の編纂とは、地方の豪族の反乱を抑え込むための道具でもあったと見られる。大和王権は、淡路國・阿波國の豪族に対する融和策として、伊弉諾尊・伊弉冉尊を「皇祖神」とし、また、淡路島を国産みの「最初の島」として採用した可能性が高い。
 では、伊弉諾尊・伊弉冉尊は、淡路國・阿波國の神々であったにせよ、いつごろから存在するのであろうか?
「伊弉諾尊」も「伊弉冉尊」も「古墳時代」(四~六世紀)になって初めて出現した神々と見られる。それまで淡路島の島神などとしての原始的な「依代(よりしろ)」はあったのかもしれないが、そのような名前が付けられたのは古墳時代である。


【61】 『古事記』は「誰」によって書かれたか

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 壬申の亂で大友皇子のほうについた中臣一族は、これですべてを失った。その中で、藤原不比等(ふひと 659年-720年)は、抜きん出て聡明な人であった。法律学と文筆に優れていた。それも稀代の才能をもっていた。不比等は、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることがない。そのような人であったようである。モーツアルト(1756年-1791年)は三十分くらい音楽を聴くと、聴き終わってそれを最初から最後までさらさらと楽譜に書けたという。不比等もその水準の天才だったのではないかと見られる。本来ならば、藤原不比等は、大化の改新の最大の功労者である中臣鎌足(614年-669年)の子として、高い地位が保証されていてもよかったが、一官人として出仕するほかはなかった。その「不遇」が、古代史上、不比等に稀代の才能に加えて権謀術数(けんぼうじゅっすう)の比類ない知恵をもたらしたようである。
「天岩戸の神話」は、日本神話の中でも最も重要な地位を占めている。太陽がなければすべての生命は死に絶える。天皇は天照大神の子孫であるから、この神話は、天皇に逆らったり、重大な罪を犯す者がいると、天皇の祖先である天照大神が怒ってこの世を闇にしてしまうかもしれないという天皇支配の正当性を教える神話である。その神話の中では、天照大神を天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した。中臣氏は、天児屋命を始祖として、朝廷の祭祀を司る氏族であった。藤原不比等はその直系の第二十四代児屋(こやね)であった。とされる。この神話は、天皇支配の正当性を伝えると同時に、中臣氏である藤原不比等の立場を反映して、その始祖の「あめのこやねのみこと」の功績を称える成功神話のようである。


 

  藤原不比等659年-720年
 (菊池容斎『前賢故実』 1868年)


『帝紀』『舊辭』ができたとき、不比等は(数え)二十三歳であった。不比等が、それらを読んでみると、その内容は、壬申の亂で大友皇子のほうについた敵方の中臣一族のことは書かれていなかったと見られる。端的には「天児屋命」のことも書かれていなかったと推定される。『帝紀』『舊辭』は、不比等にとっては、存在してはならない書であったのに相違ない。
 元明天皇(女帝 在位 707年-715年)は、二十六歳の時に藤原不比等・二十八歳と出逢った。不比等は聡明な人の誉れ高く、この「二十八歳」は、その後、元明天皇と藤原不比等の「暗号」になったという(梅原猛『神々の流竄(るざん)』1985年)。梅原猛が四十五歳のころ、筆者は、小倉駅の近くのお寺でその講演を聴いたことがある。梅原猛が学園紛争で立命館大学教授を辞職したころであった。
『古事記』の序文によれば、第四十代天武天皇(在位 673年-686年)は、生前、稗田阿禮(ひえだのあれ)に『帝紀』と『舊辭』を誦習せよと命じていた。
「時有舎人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心即勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭」(古事記)
 和銅四年(711年)九月十八日に、第四十三代元明天皇(女帝 在位 707年-715年)が、太安万侶(おほのやすまろ 生年不詳-723年)に命じて、阿禮が記憶する内容を筆録させた。それは、和銅五年(712年)一月二十八日に完成して元明天皇に献上された。そのようなことになっている。
 すなわち、『古事記』の序文によれば、ひとりの舎人がいた。姓は稗田、名は阿禮。年は二十八。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。
 この稗田阿禮は、生没年不詳、出自不詳で、前後の歴史がなく、歴史上ここに出て来るだけである。天武天皇の生前、『帝紀』と『舊辭』は存在していた。それらの編纂者・川島皇子も忍壁皇子も存命であった。それゆえに、天武天皇が、第三者である誰かにそれらを誦習するように命じる必然性はなかった。天武天皇が命じたとされるその時点とは、藤原不比等が二十八歳のときであった。元明天皇が藤原不比等と出逢った年である。
 大寳元年(701年)に『大寳律令』が完成した。これは、第四十一代持統天皇(在位 690年-697年 以後上皇)と第四十二代文武天皇(在位 697年-707年)の勅命によって編纂された。
「八月三日 三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連(いきのむらじ)・博徳(はかとこ)・伊餘部連(いよべのむらじ)・馬養(うまかい)らに命じて、大寶律令を選定させていたが、ここに初めて完成した」 (續日本紀)
『大寶律令』の実質的な編者は、藤原不比等・三十三歳であった。『大寶律令』によって日本も律令国家となり、天皇を中心として「神祇官」と「太政官」の二官が置かれた。「太政官」の下に「中務省」「式部省」「治部省」「民部省」「大蔵省」「刑部省」「宮内省」「兵部省」の八省が置かれた。これによって、過去の豪族政治に訣別し、天皇を中心とする中央集権体制が確立した。


 

和同開珎  
(奈良文化財研究所蔵)  


『續日本紀』には、『日本書紀』(720年)については、それが完成したことが書かれているが、『古事記』(712年)が完成したことは書かれていない。また、太安万侶は『古事記』が完成したことによって昇進していない。元明天皇の勅命とは、藤原不比等に対する暗諾の勅命であった可能性が高い。また、献上も、元明天皇に最も近い藤原不比等によって行われたと見られる。『古事記』は公開されなかった。元明天皇のための私的な史書であった。
 元明天皇は『古事記』を手にしたとき、稗田阿禮二十八歳が藤原不比等本人であることを、即座に察知したという(梅原猛 1985年)。
 藤原不比等は、一官人として出仕する中で、第四十一代持統天皇(女帝 在位 690年-697年)に見い出され、第四十二代文武天皇(在位 697年-707年)・第四十三代元明天皇(女帝 在位 707年-715年)・第四十四代元正天皇(女帝 在位 715年-724年)の四代の天皇に仕えた。また、文武天皇から元正天皇に至る、三代の天皇の擁立に貢献した。藤原不比等は、法による支配を確立し、中央と地方のすべての豪族に対して、天皇を戴かせた。天皇は、和同開珎(わどうかいほう わどうかいちん)を鋳造し(708年)、平城京に遷都し(710年)、史書『古事記』をもつことができた(712年)。そのような藤原不比等に、元明天皇も元正天皇も自らの立場を強く守られていると感じていたと見られる。 


【62】 『帝紀』『舊辭』を「誰」が隠滅したか

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『續日本紀』には、『日本書紀』の完成について極めて簡略に記載される。
「養老四年五月二十一日これより先に第一親王である舎人親王は、勅命をうけて日本紀の編纂に従っていたが、このたびそれが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上した」
 国家としての一大事業であったにもかかわらず、藤原不比等は、編纂プロジェクトがどのような陣容で成り立っていたかを『續日本紀』に書かせなかったと見られる。最高権力者である己が検閲者であったというのでは歴史書にならなかったからであろう。
 しかし、それから、二か月余り後のことであった。
「養老四年八月一日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が病気になった」(續日本紀)
 この日、第四十四代元正天皇(女帝 在位 715年-724年)は次のように詔した。
「右大臣・正二位の藤原朝臣は、病にかかって寝食もままならない。朕はその疲労のさまを見て、心中あわれみいたんでいる。その平復を願っているが、なす術(すべ)がない」(續日本紀)
 不比等は 712年に『古事記』を元明天皇に献上したときからこのときまでに、『帝紀』と『舊辭』を隠滅していた(焼き捨てていた)のではないかと筆者は推定している(梅原猛も、どこかで述べているかもしれない)。『帝紀』と『舊辭』が存在しないことが、自らが書いた『古事記』の存在理由であったからである。
「養老四年八月三日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が薨(こう)じた」(續日本紀)
 不比等は、『日本書紀』が完成したことを見届けると、拒食・拒眠によって自死したようである。それは「大化の改新」の中臣鎌足(614年-669年)の子として高い地位が約束されていたにもかかわらず、「壬申の亂」で敗れて(敵方の大友皇子について)すべてを失い、一官人として出仕するほかなかった、藤原不比等の生涯の「戦争」であった。それを勝ち抜いて、ここに「中臣神道」が完成したからではないかと推定される。
『古事記』は、不比等の死去の翌「721年」に元明天皇の崩御に伴い、その遺品として元正天皇によって公開されたようである。これが、『日本書紀』(720年)に『古事記』(712年)が引用されていない理由と見られる。
『古事記』は、『萬葉集』が編纂された初期のころ(720年代)には知識人の間に公開されていたと見られる。『萬葉集』の「第二巻」の「歌番号第九十」は、磐姫(いわのひめ)皇后の仁徳天皇を思慕する歌である。その「題詞」に「古事記に曰く」と書かれている。「左注」に「日本紀に曰く」も出てくる。太安万侶は実在したが、『古事記』は、太安万侶の子孫が書いたものではない。
『古事記』が公開されたとき、稗田阿禮(生没年不詳・出自不詳)が藤原不比等であったこと(梅原猛)に思いを致す人はもういなかった。



関連年表

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西暦年出来事
  BC100このころ揚子江流域から江南人が九州へ渡航する

このころ日向神峡谷(ひゅうがみきょうこく 福岡県八女市)に江南人の娘が生まれて太陽神を祀り、江南人の間に「天照大神」として記憶に残る
   BC50このころ九州北岸に江南人の王国群が勃興し、後漢(樂浪郡)と交易する

前漢、九州北岸の江南人を「倭人」と呼び、「百餘國に分かれている」と認識

「いはれびこ」が崗水門(をかのみなと)から近畿地方にまで侵攻して「東征伝説」となる
   AD57後漢の初代・光武帝が委奴國王に金印(漢委奴國王印)を授与 

このころ後漢の樂浪郡使(属國監察使)が水行「七千餘里」渡海「三千餘里」陸行「五百里」を後漢(洛陽)に報告
    100このころ伊都國の脅威から逃れて奴國、不彌國などが瀬戸内海方面へ、また、宗像國が日本海方面へ流落
    107伊都國王・帥升が九州北岸に残った諸国王を引き連れて「倭國王」として後漢に朝貢

このころから後漢の樂浪郡使が属国監察のために首都国・伊都國の迎賓館(『魏志倭人傳』の「郡使往來常所駐」)に訪れる
    150このころ宗像國から日本海方面へ流落した一族が出雲で繁栄
    169このころ卑彌呼が誕生 
    180このころ「倭國王」の伊都國王が支配権を拡大するため筑後の環濠集落群に侵攻(倭國大亂)

このころ九州北岸から瀬戸内海方面へ流落した一族が吉備で繁栄し、大王は「いはれびこ」に見立てて讃えられる
    182このころ卑彌呼が山門國の女王山に女王として迎えられて祭祀権をもつ。伊都國王は大率として行政監察権をもつという条件で倭國大亂収束
    184このころ卑彌呼が後漢の樂浪郡に朝貢
    185このころ第十二代靈帝が樂浪郡を通して「中平」の年号入り鉄刀を卑彌呼に下賜。後漢使(樂浪郡使)が邪馬臺國までの距離「万二千餘里」を後漢(洛陽)に報告
    204公孫氏が樂浪郡南部の帶方郡を分離・支配
    220後漢が滅亡して魏が興る
    229魏の皇帝がインドのクシャーナ朝に「親魏大月氏王」の詔書と金印を授与
    235臺與が誕生
    237魏の将軍・司馬懿が帶方郡の公孫氏を滅ぼす
    238卑彌呼が難升米らを魏の皇帝に朝貢さす。魏の皇帝が卑彌呼に「親魏倭王」の詔書と金印を授与
    239魏の皇帝・曹叡が崩御
    240魏(帶方郡)の武官・梯儁(ていしゅん)が邪馬臺國に卑彌呼を訪ねて詔書・金印等を渡す
    247卑彌呼死去。魏(帶方郡)の武官・張政、邪馬臺國に卑彌呼を訪ねて詔書・黄幢を難升米に渡す
    248臺與が倭國の女王を後継
    257魚豢が『魏略』を完成する。または中断する
    263魏が蜀を滅ぼす。
    264このころ将軍・司馬昭が魏使の報告書に「水行二十日」「水行十日陸行一月」「二萬餘戸」「五萬餘戸」「七萬餘戸」「婢千人」「狥葬者奴碑百餘人」の注釈を加えて皇帝に報告
    265 司馬昭の長男・司馬炎が帝位に就いて国号を西晋と改める
    266臺與が西晋に朝貢
    280西晋が呉を滅ぼして中国を再統一
    285陳壽、『魏志倭人傳』を著す
    290このころ纏向で崇神天皇が大王に即位し、宮殿・瑞籬宮を造営
    316西晋、匈奴の侵攻で滅ぶ
    318崇神天皇崩御
    330このころ景行天皇が女王山の女神・八女津媛(やめつひめ)を討たず纏向へ帰還
    366女王國の大率・伊都國王・五十跡手が大和王権に帰順
    367大和王権が天照大神から数えて第十七代の女神・八女津媛を「田油津媛(たぶらつひめ)」の蔑称で討ち、邪馬臺國が滅亡する。田油津媛は、第十二代靈帝の「中平」の年号入り鉄刀を大和王権の武振熊に戦利品として奪われる







参照文献

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  1. 『古事記』 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. 『日本書紀』 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. 『肥前國風土記』 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 『豊後國風土記』 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. 『播磨國風土記』 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 『常陸國風土記』国文学研究資料館データベース
  7. 『風土記逸文』 国立国会図書館デジタルコレクション
  8. 『住吉神社神代記』 国文学研究資料館データベース
  9. 卜部兼方『釈日本紀』国書データベース - 国文学研究資料館
  10. 万多親王『新撰姓氏録』国立公文書館デジタルアーカイブ
  11. 源順 『倭名類聚鈔』(二十巻本) 国立国会図書館デジタルコレクション
  12. 戸次親敷『南筑明覧』(1765年)
  13. 石原道博 編訳 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭國伝・隋書倭國伝』 岩波文庫 1951年(新訂 1985年)
  14. 石原道博 編訳 『新訂 旧唐書倭國日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 岩波文庫 1956年(新訂 1986年)
  15. 松本清張 『古代史疑』 中央公論社 1968年 (中公文庫 2017年)
  16. 黛弘道「継体天皇の系譜について」学習院史学 第 5号 1-14, 1968
  17. 鳥越憲三郎 『古事記は偽書か』 朝日新聞社 1971年
  18. 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社 1971年(角川文庫 1977年)
  19. 村山健治 『誰にも書けなかった邪馬台国』 佼成出版社 1978年
  20. Shuzo Koyama, "Jomon Subsistence and Population." Senri Ethnological Studies 2: 1-65, 1979
  21. 小山修三 『縄文時代(コンピュータ考古学による復元)』 中公新書 1984年
  22. 梅原猛 『神々の流竄』 集英社文庫 1985年
  23. 松本清張 『邪馬台国 清張通史(1)』 講談社文庫 1986年
  24. Rebecca L. Cann, Mark Stoneking & Allan C. Wilson, "Mitochondrial DNA and human evolution." Nature 325: 31-36, 1987
  25. 武光誠『邪馬台国 100話』立風書房 1988年
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  27. 小山修三 『美と楽の縄文人』扶桑社 1999年
  28. 武光誠『邪馬台国がみえてきた』ちくま新書 2000年
  29. 河村哲夫 『西日本古代紀行 神功皇后風土記』 西日本新聞社 2001年
  30. 鳥越憲三郎 『中国正史 倭人・倭国伝全訳』 中央公論新社 2004年
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  33. 若井敏明 『邪馬台国の滅亡』 吉川弘文館 2010年
  34. 春成秀爾, 小林謙一, 坂本稔, 今村峯雄, 尾嵜大真, 藤尾慎一郎, 西本豊弘 「古墳出現期の炭素14年代測定」 『国立歴史民俗博物館研究報告』 第163集 2011年
  35. 鬼塚克忠, 原裕 ”吉野ヶ里墳丘墓の構築技術のルーツと伝播”土木学会論文誌C 68(4): 621-632, 2012
  36. 長浜浩明 『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 展転社 2012年
  37. 中田力 『日本古代史を科学する』PHP新書 2012年
  38. 渡邉義浩 『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書 2012年
  39. Y. Sato, T. Shinka, A. Ewis1, A. Yamauchi, T. Iwamoto, Y. Nakahori, "Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males." Anthropological Science 122(3): 131-136, 2014
  40. 正木裕「短里の成立と漢字の起源」古田史学会報 2015年
  41. 牧村健志 『よみがえる神武天皇』 PHP研究所 2016年
  42. 中村俊夫「纒向遺跡出土のモモの核の AMS C-14年代測定」『纏向学研究センター研究紀要』第6号 67-73 2018年
  43. 中村明蔵 『隼人の古代史』 吉川弘文館 2019年
  44. 宮本一夫(編)『東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室 2019年
  45. 片岡宏二『邪馬台国論争の新視点(増補版)』雄山閣 2019年
  46. The IntCal20 Northern Hemisphere Radiocarbon Age Calibration Curve (0–55 cal kBP)Cambridge University Press On Line 12 August 2020
  47. 武光誠 『ヤマト政権と朝鮮半島 謎の古代外交史』河出書房新社 2021年
  48. 若井敏明 『謎の九州王権』 祥伝社新書 2021年
  49. N. P. Cooke, V. Mattiangeli, L. M. Cassidy, K.Okazaki, C. A. Stokes, S. Onbe, S. Hatakeyama, K. Machida, K. Kasai, N. Tomioka, A. Matsumoto, M. Ito, Y. Kojima, D. G. Bradley, T. Gakuhari and S. Nakagome, "Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations." Science Advances 7(38): 1-15, 2021
  50. 入口紀男『邪馬臺國』自由塾 2022年
  51. 近藤玲「纏向遺跡出土の桃核ほかと土器付着炭化物の炭素14年代測定法による年代測定について 2 -IntCal20による暦年較正結果について-」纏向学研究センター研究紀要『纏向学研究』第10号 283-290, 2022年
  52. 中村俊夫「纏向遺跡出土モモ核の AMS C-14 年代の最新版較正データ IntCal20による暦年較正」纏向学研究センター研究紀要『纏向学研究』第10号 291-300, 2022年
  53. 坂本稔「較正曲線 IntCal20と日本産樹木年齢」纏向学研究センター研究紀要『纏向学研究』第10号 301-308, 2022年
  54. A. Domingo-Muelas, R. M. Skory, A. A. Moverley, G. Ardestani, O. Pomp, C. Rubio, P. Tetlak1, B. Hernandez, E. A. Rhon-Calderon, L. Navarro-Sánchez, C. M. García-Pascual, S. Bissiere1, M. S. Bartolomei, D. Sakkas, C. Simón, N. Plachta,"Human embryo live imaging reveals nuclear DNA shedding during blastocyst expansion and biopsy." Cell July 5, 2023(Open Access)
  55. J. Kim, F. Mizuno, T. Matsushita, M. Matsushita, S. Aoto, K. Ishiya, M. Kamio, I. Naka, M. Hayashi, K. Kurosaki, S. Ueda and J. Ohashi, "Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago." J. of Human Genetics 15 Oct. 2024(Open Access)








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