日本窒素肥料株式会社小史   




入口紀男

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はじめに


 日本窒素肥料株式会社(創業 1908年 現チッソ株式会社)は「アセトアルデヒド」の製造廃液を熊本県の水俣湾に流してメチル水銀中毒をひき起こしたとして知られる。
 1956年 水俣湾周辺に原因不明の「奇病患者」が存在することが熊本県水俣保健所によって確認された。
 1961年 新日本窒素水俣工場では社内で奇病の原因物質が「アセトアルデヒド製造廃液」であることをつきとめた。
 では、新日本窒素はなぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったのであろうか?




目次

はじめに

   【】 チッソ発祥の地はどこか(宮城県仙台市青葉区三居澤 1902年)
   【】 なぜ水俣に進出したか(カーバイドの製造・梅戸港からの出荷)
   【】 なぜ「肥料会社」を名乗ったか(1908年日本窒素肥料株式會社創業)
   【】 どのようにしてアジア最大の「総合化学会社」へと変貌したか
   【】 なぜ「アセトアルデヒド」を製造したか
   【】 なぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったか

引用文献






【1】 チッソ発祥の地はどこか(宮城県仙台市青葉区三居澤 1902年)

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 ♪ 広瀬川流れる岸部、想い出は帰らず (さとう宗幸『青葉城恋唄』 1978年)

 広瀬川は、宮城県仙台市内を流れている。広瀬川に沿って市街地から少し離れた青葉区荒巻に「三居沢」(さんきょざわ)がある。そこでは、広瀬川は山間を蛇行している。落差が大きく、谷川のように流れが速い。


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    宮城紡績器械場(宮城郡荒巻村三居沢)1879年創業
      現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所


 明治十二年(1879年) 一關(いちのせき)藩士であった菅克復(かんこくふく 1837-1913)は、この三居沢に紡績工場を創設した。「宮城紡績器械場」といった。紡績は明治日本の重要な産業であった。宮城紡績器械場は動力として四十馬力の水車を使った。
 明治二十一年(1888年) 宮城紡績器械場はその水車に出力五キロワットの直流発電機を接続した。これによってアーク燈が灯されると「きつね火」が出たとして警官が出動する騒ぎとなった。かくして、三居沢は日本の「水力発電発祥の地」となった。
 明治三十二年(1899年) 宮城紡績器械場は「宮城紡績電燈株式會社」と改称した。これが現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所(出力 1,000キロワット)の前身である。


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    野口遵 1873-1944
  日本窒素肥料株式會社を創業


   
 日本窒素肥料株式會社の創業者となる野口遵(のぐちしたごう 1873-1944)は加賀藩士の家に生まれた。1896年に東京帝國大學工學部電氣工學科を卒業すると、ドイツ・シーメンス社の日本支社(東京)に就職した。
 1900年 シーメンス日本支社は、宮城紡績電燈株式會社に出力 300キロワットの交流発電機を納入した。その発電機はシーメンス社とシュッケルト社が共同製作したものであった。そのときシーメンス社から宮城紡績電燈株式會社に納入業者として派遣されたのが野口遵である。


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   アレクサンダー・ワッカー
 Alexander von Wacker 1846-1922
   コンソルティウム社を創業


  
 シーメンス社は、ウェルナー・フォン・ジーメンス( Werner von Siemens 1816-1892)が自励式交流発電機を発明して起業した電機会社である。シュッケルト社は、シグムント・シュッケルト(1846-1895)とアレクサンダー・ワッカー(Alexander Ritter von Wacker)が共同で創業した電機会社であった。
 野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーが独立して、ツァルツァッハ川流域のブルクハウゼンの森に「コンソルティウム社」という化学会社を創業し「カーバイド」を製造する計画であることを知った。「コンソルティウム」とは英語の「コンソーシアム」(企業合同体)のことである。ヨーロッパ各国の化学会社が共同出資する会社であった。
 1902年に野口遵はシーメンス社を辞めると、ワッカーの計画に倣(なら)ってカーバイドの製造を始めた。以後、野口遵にとってドイツのワッカーは常に自らの仕事の鑑(かがみ)となった。



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   紡電發電所と山三カーバイト製造所 1902年

 カーバイド工場は宮城紡績電燈株式會社の庭先にできた。製造は同社の主任技師の藤山常一と野口遵の二人で行った。商品名は「山三カーバイト」であった。
「山三カーバイト製造所」と同じ建屋の中にそれまでの製綿工場もあった。この「山三カーバイト製造所」が後の日本窒素肥料株式会社の前身である。三居沢は日本の「工業化学発祥の地」ともなった。

 カーバイドの製造は首尾よくできたが、大量に製造するには三居澤の発電量では不足していた。カーバイドは依然として高価な輸入品であった。



【2】 なぜ水俣に進出したか(カーバイドの製造・梅戸港からの出荷)

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      曾木第二發電所遺構(鹿児島県伊佐市 2012年撮影)



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       曾木第二發電所の発電機 4基(1909年竣工)


 1905年に野口遵はベルリンにシーメンス社の重電機部門を訪ねた。その目的は水力発電機を購入することであった。すなわち、鹿兒島縣の川内川(せんだいがわ)で電力を起こし、近くの大口(おおくち)、牛尾、新牛尾の金鉱山に照明用の電力を送ることであった。それまで日本の鉱山では松明(たいまつ)が使われていた。
 日本の西半分は、ドイツ・シーメンス社と米国・ウェスティングハウス社との協定で、米国標準の 60ヘルツの電力が供給されることになっていた。シーメンス社の発電機は、出力周波数がヨーロッパ標準の 50ヘルツである。しかし、野口遵はシーメンス社の 50ヘルツの発電機を購入した。
 1906年10月1日に野口遵は二十萬圓(当時)を投じて川内川上流の「曾木(そぎ)の瀧」の少し下流にシーメンス社の設計になる「曾木第一水力發電所」を完成させた。「曾木第一水力發電所」は発電機を二基もっていたが、一基だけで出力が 800キロワットあり、国内で最大であった。
 大口、牛尾、新牛尾の三鉱山では合計でも 200キロワットの電力しか消費しなかった。近隣地域の電燈としての消費分も合計で 600キロワットに及ばなかった。野口遵は電力を近くの熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)に送り、そこでカーバイドを製造することを計画した。それには原料である大量の石炭と石灰岩を陸揚げし、製品であるカーバイドを出荷するための港が必要であった。水俣村は、誘致のために専用港として梅戸湾を提供した。梅戸湾はリアス式の天然の良港であった。



【3】 なぜ「肥料会社」を名乗ったか(1908年 日本窒素肥料株式會社創業)

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 1908年4月 野口遵は、シーメンス社がカーバイドを原料として化学肥料である「石灰窒素」(CaCN2)を合成することに成功したと聞いてすぐにドイツへ渡航した。アドルフ・フランク(Adolf Frank 1834-1916)とニコデム・カロー(Nikodem Caro 1871-1935)がシーメンス社とドイツ銀行の資金でその技術を開発していた。それは、カーバイドを窒素ガス中に置いて電気炉の中で 1,000℃程度の高温で加熱すると石灰窒素ができるというものであった。石灰窒素はさらに高温の水蒸気と反応させるとアンモニアが発生する。アンモニアはさらに最先端の化学肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の原料となる。野口遵はフランクとカローに四十萬圓を支払って日本での実施権を購入した。
 1908年(明治四十一年)8月20日(木曜)に野口遵は百萬圓を投じて水俣村の古賀川河口に「日本窒素肥料株式會社」を設立した。大量の化学肥料を安価に供給して国家社会に貢献しようとするものであった。



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熊本縣葦北郡水俣村 1911年(明治四十四年 原圖・陸軍省陸地測量部)すでに「日本窒素肥料株式會社」が存在する



   
 1908年8月31日から日本窒素は石灰岩と石炭を原料として電力でこれを加熱し、カーバイドを製造した。従業員約七十名。月産約十五トンであった。原料の石灰石は水俣村周辺の不知火海沿岸で良質のものがとれた。また、石炭は水俣村の対岸の天草で「無煙炭」という良質の瀝青炭(れきせいたん)がとれた。



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        日本窒素肥料株式會社カーバイド工場(1909年)[3]
        熊本縣葦北郡水俣村古賀(手前に流れるのは旧古賀川)


   
 ヨーロッパではドイツのワッカーが コンソルティウム社を設立してカーバイドを製造していたが、日本窒素は、それに五年遅れて日本最大のカーバイド製造会社となった。

「私が(日本最初のカーバイド製造所がある)仙台からこちら(水俣)に来たのが明治四十年(1907年)でした。(カーバイド工場は)まだできていませんでした。(その翌年できたカーバイド工場の)場所は、今の(新日本窒素肥料株式会社)炭素工場です。こちらのカーバイドは立方(たちかた 性能)が悪くてよく売れなかった。(石炭ではなく)木炭でカーバイドを造っていました」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)

 日本窒素は、1908年11月にはフランク・カロー法によって化学肥料である石灰窒素の製造をはじめた。

「(石灰窒素の製造方法は)私もよく知らなかったのですが、社長(野口遵)がれんがを積んでいるので、何をしているのですかと聞いたら、窒素肥料を始める。原料はカーバイドだということでした」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)

「(石灰窒素の製造は)カーバイドを粉砕して、直径三尺くらい、高さ一間くらいの釜の中に入れる。釜の形は茶壷のようでした。二重釜になっていまして、その周りにカーボンを入れて電気を通じる。約 24時間くらいして茶壷を上に引きあげるとできていました」(徳富季彦・元肥料係組長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)

 古賀川河口にできたカーバイド工場は、曾木發電所のようにれんが造りであった。一方、曾木の瀧の近くでは 1909年に第二發電所が竣工し、水俣工場に 6,000キロワットの電力を供給した。曾木發電所は、シーメンス社の交流発電機を用いていたので、その出力周波数は、現在の東日本と同じくヨーロッパ標準の 50ヘルツであった。以後、水俣工場、社宅、水光社(すいこうしゃ 1920年創業の水俣工場従業員の消費組合)、宮崎縣の延岡(のべおか)工場(現在の旭化成株式会社延岡工場)、附属病院(当時)などの施設は、西日本の米国標準 60ヘルツの世界にあって、一部は二十一世紀の現在に至るまで 50ヘルツの孤島をなしている。

 野口遵は 1915年に水俣の広大な塩田跡地に新工場を建設し始めた。新工場は硫安を年間に五万トン製造するものであった。
 1914年に勃発した第一次世界大戦で外国産の化学肥料の輸入が途絶えて硫安の価格は以前の 三倍に急騰した。日本窒素は好況の中で周辺の農漁村から安価な労働力を吸収し、1920年に従業員数は三千名近くとなった。周囲の農村は貧しかった。わずかな農地で細々と暮らしていた。日本窒素に臨時の工員として雇われた者でも「かいしゃ行き」として周囲の住民に羨望の眼で見られた。むらのむすこの採用が決まると家では赤飯を炊いた。



【4】 どのようにしてアジア最大の「総合化学会社」へと変貌したか

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 第一次世界大戦終結から間もない 1920年1月、野口遵はドイツへ渡航した。アドルフ・フランクを訪ねた。その目的はフランク・カローの石灰窒素製法の実施権の期限を延長するためであったが、真の目的はヨーロッパで新しい技術を物色することであった。野口遵はフランクからイタリアのルイギ・カザレー(Luigi Casale 1882-1927)が「アンモニア(NH3)の直接合成」に成功したと聞き及ぶ。「やはり戦争は技術を進歩させる」これが野口遵の感性であった。
 カザレーによる「アンモニア直接合成」とは、文字どおり水素(H2)と窒素(N2)に高い圧力を加えてアンモニア(NH3)に変えてしまうという画期的な技術であった。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)の原料である。それまで水俣工場では、アンモニアを製造するのに、まず石灰岩と石炭を電気炉で約 2,000℃で焼いてカーバイドを製造し、つぎにカーバイドを窒素中で約 1,000℃で焼いて石灰窒素を製造し、さらに石灰窒素を高温の水蒸気と反応させて製造していた。その全過程をすべて飛ばして水素(H2)と窒素(N2)を直接反応させてアンモニアを製造するのが「カザレー法」である。水素(H2)も窒素(N2)も日本にある。
 野口遵はローマの約百キロメートル北のテルニー郡ネラ・モントロの町にカザレーを訪ねた。カザレーは野口遵を実験室に案内し、アンモニアの直接合成をやって見せた。巨大な圧縮機が回転した。当時の配管は貧弱であった。数百気圧の圧力がかかる。配管は何回か破裂した。しかし、カザレーは野口遵に少量のアンモニアを製造して見せた。「これはひょっとするとものになる」(野口遵)。野口遵はカザレーから技術を購入するためその場で十萬圓(当時)を支払い、後日九十萬圓を支払って「カザレーのアンモニア直接合成法」の実施権を購入した。
 1923年9月 野口遵は宮崎縣の延岡町(当時)に日本窒素肥料株式會社延岡工場を建設し、カザレー法によるアンモニアの直接合成の実験を始めた。それが現在の旭化成株式会社の前身である。
 1926年12月25日 野口遵は水俣工場でカザレー法による本格的なアンモニアの直接製造装置を完成させた。アンモニアの収量は日産二十トンであった。装置は東京高等工業學校(現在の東京工業大学)を卒業したばかりの橋本彦七が設計した。それは、いきなり製造装置をつくって本番稼働させるもので、「日窒方式」(にっちつほうしき)と呼ばれた。圧縮機が回転すると 800気圧もの高圧が加わる。当時の日本にそれだけの高圧に耐える配管などは存在しなかった。イタリアからカザレーが水俣に技術指導に来たが、カザレーもイタリアの研究室での経験しかなかった。水俣工場では頻繁に爆発事故が起きた。一瞬にして工場の屋根ガラスを吹き飛ばすこともあった。周囲の人びとは果たして町が吹き飛ぶのではないかと恐れた。
 日本窒素は、これによって多種類の製品を出荷するようになった。アンモニアは硫安の原料になった。硝酸、ニトログリセリン、レーヨンの原料にもなった。日本窒素は五ヶ瀬川、阿蘇白川などにも発電所を建設し、1928年に総発電量は五十万キロワットとなっていた [4]。



【5】 なぜ「アセトアルデヒド」を製造したか

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 1914年 ドイツのワッカーはカーバイドを製造していたコンソルティウム社をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。1916年にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの製造を始めた。

 1926年 野口遵は朝鮮半島に「朝鮮水力電氣株式會社」を設立した。翌 1927年に「朝鮮窒素肥料株式會社」を設立した。野口遵は、大日本帝國朝鮮總督府の庇護のもとで、鴨綠江水系に赴戰江發電所など大規模な発電所をいくつも建設する。赴戰江の水を落差 1キロメートルで日本海側へ落とした。そのようにして二十万キロワットの電力を起こした。また、世界一を誇るソ連のドニエプル発電所を凌駕して出力三十二万キロワットの長津江發電所を完成した。また、咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成した。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われた。敷地の広さは約五百万坪、従業員数は約 4万5千名であった。興南工場では硫安などの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造された。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設された。興南には人口 18万人のアジア最大の化学工業都市が出現した [4, 6]。
   



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          朝鮮窒素肥料株式會社興南工場(1940年) 


 
 アセトアルデヒドの製造実験は、宮崎縣の日本窒素延岡工場(現在の旭化成延岡工場)で行われた。延岡工場では実験室で日産 20~30グラムのアセトアルデヒドを製造した。一方、水俣工場では、カザレー式のアンモニアの直接合成が成功し、アンモニアの原料としてのカーバイドが大量に余っていた。

 そのころの日本は「國家総動員體制」を強化して、ひたすら戦争に向けて突き進んでいた。その背景には、第一次世界大戦の戦訓から、戦争における勝利は、国家が総力戦の体制をとることが必須であるという認識が深まりつつあった。1918年に「軍需工業動員法」が制定された。それによって戦時下における軍需工場の管理、収用と労働者の徴用、平時の工場調査と軍需工業の保護育成が規定された。その統轄のために内閣総理大臣のもとに「軍需局」がおかれた。アセトアルデヒドは重要な軍需物資であった。

 1928年日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒドの試験工場(パイロットプラント)をつくった。工場はくり返し爆発し、何年も稼働するに至らなかった。そのような工場にも一銭五厘の葉書一枚で地域から多くの工員が集まった。地域には他に目ぼしい産業はなく、何十倍もの就職志願者が応募した。工員は採用面接のとき製造課長の橋本彦七から「爆発してよいか、死んでもよいか」と聞かれて「死を覚悟している」と答えた志願者が採用された。日本人の命の値段は安かった。お國のためならただ同然であった。
 1932年5月7日(土)に日本窒素はアセトアルデヒドの製造を始めた。メチル水銀廃液は水俣灣へ直接流れた。
 アセトアルデヒドの第一期の製造設備は日産 5トン、第二期の製造設備(1933年4月稼働)も日産 5トン、第三期の製造設備(1934年10月稼働)も日産 5トン、第四期の製造設備(1935年9月稼働)も日産 5トン、第五期の製造設備(1937年4月稼働開始)は日産 10トンであった。
 製造設備は、これもいきなり本番稼働のもので、労働災害は頻発した。従業員はいつも爆弾の上に乗っていると感じていた。
 日本窒素はこのアセトアルデヒド事業を足がかりに、第二次世界大戦前に総資産で現在の評価額約 50兆円の大会社として発展していく。北朝鮮の興南工場でもアセトアルデヒドが製造された。

「日本窒素の如き大工場設備は、如何に政府の力をもってしても、戰爭が始まったからといって一朝一夕につくることはできない。假に建物や機械ができたとしても、これに生命を與ふべき技術經験等の人的資源はこれを如何ともすることができない。聖戰下における日本窒素はいまや一營利會社としてこれを見るべきでなく、一大總合國策會社といふべきであらう」(『日本窒素肥料株式會社事業槪要』1940年 [5])

 日本窒素はその間に、宮崎縣の延岡工場(現在の旭化成延岡工場)、朝鮮の鴨綠江河畔の朝鮮窒素肥料株式會社などを含めると、従業員の数は 8万人に達し、化学会社の規模としてアジア最大の地位を築く。
 1941年に水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールの製造をはじめた。塩化ビニールの可塑剤の原料として大量のアセトアルデヒドが必要になった。その製造の過程でさらに大量のメチル水銀が水俣灣に流れ込んで行った。


【6】 なぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったか

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 戦後の 1950年1月31日に日本窒素は財閥解体によって資本金四億円の新日本窒素肥料株式会社として再発足することになった。そのとき海外や延岡工場(現在の旭化成延岡工場)を含めた総資産の八割を失った。しかし、同年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となって復興が進んだ。
 1952年に生産を開始したオクタノールは需給がひっ迫した。以後、新日本窒素は十年間にわたって国内のオクタノール市場をほぼ完全に独占した。仮に新日本窒素によるオクタノールの供給が停止するとわが国の繊維産業などは立ちゆかない。戦後の荒廃からようやく立ち直って少しずつ成長をはじめた日本の産業にとってそれは大きな打撃となる。深刻な経済恐慌さえも起こりかねない。当時日本の経済はひ弱であった。オクタノールを製造するにはその原料であるアセトアルデヒドが必要であった。アセトアルデヒドの製造は、新日本窒素にとって、また、日本国政府にとって、なくてはならない事業であった。
 日本国政府は、その一方で、1955年から化学工業の分野で「石油化学工業第一期計画」を立てて具体化をはかっていた。アセトアルデヒドは、石油化学工業の一環としてエチレンを酸化して製造できる。日本の化学産業を石油化学化しなければ、将来日本経済が発展することはない。

 1956年5月1日 水俣湾周辺に原因不明の「奇病患者」が存在することが熊本県水俣保健所によって確認された。

 1957年5月に水俣工場内にも「社内研究班」が設置された。研究組織は次のように分担された [7]。
  1. 魚介類、工場排水、その他物質による動物実験は附属病院が担当し、その責任と実験結果の判定は、細川一院長とする。
  2. 排水・魚介類などの採取、試料の調整、処理、分析などは、技術部が担当し、責任者は技術部長とする。
  3. 対外発表は、技術部、病院の実験データを、工場長(西田栄一)、技術部長、病院長で検討し、統一見解として行う。
 この「社内研究班」は細川一の原因物質解明の動きを封じ込めるための秘密組織であった。

 1958年 入江寛二水俣工場肥料部長は西田栄一工場長に対して「今の工場の姿勢は適当ではない。大学等研究機関と積極的に手を組んで原因究明に立ち向かうべきではないか」と尋ねた。西田栄一は「工場に原因があるなどという立証は誰にも出来ない、裁判になっても、七年も八年もかかって結局決着はつかないのが落ちである」と答えた [8]。
 当時通商産業省から経済企画庁水質保全課に出向していた汲田卓蔵は通産省官房に対して「とめたほうがよいのではないですか」と尋ねた。通産省官房は「何言ってるんだ。今とめてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら、日本の高度成長はあり得ない。ストップなんてことにならんようにせい」と答えた [8]。

 1959年 新居浜、岩国、四日市、川崎に日本国政府主導の四つのナフサセンターが稼働した。日本国政府主導のこの石油化学事業は、将来は水銀とアセチレンを用いた新日本窒素の旧式な化学工業よりも圧倒的に有利となることが分かっていた。

 1959年10月6日に細川一は水俣工場のアセトアルデヒド蒸留塔の廃液をエサに混ぜて「ネコ400号」に投与して発症させた。しかし、細川一が独断で行った実験であったので、「社内研究班」にも上がらなかった。工場内で細川一以外に「ネコ400号実験」のことを知ったのは技術部次長の市川正だけであった [8]。
 1961年10月20日から水俣工場内で「社内研究班」による極秘実験として「ネコ400号実験」の再実験が行われた。アセトアルデヒド蒸留塔の廃液をネコに投与した。ネコは確かに発症した [7]。1962年に細川一は附属病院を辞めて帰郷(愛媛県)した。当時の「実験台帳」は細川一がこの時にもち出して現存する。

 果たして、当時原因物質を解明する「手立て」は眼の前にいる「ネコ」だけだったのであろうか?
 当時日本の誰かが、「メチル水銀中毒」が 1865年にロンドンで発見されていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか?
 当時日本の誰かが、アセトアルデヒドの製造工程で「有機水銀」が副生することが 1921に米国のノートルダム大学で発見されていてそれが日本でも(ネコの実験をしなくても)国内の雑誌などで周知となっていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか? 



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      水俣湾 遠方に見えるのは天草諸島(2006年)



   
 1965年 新日本窒素肥料株式会社は「チッソ株式会社」に社名を変更した。

 日本国政府は、石油化学工業が本格的に稼働する 1968年までの間にわが国の経済成長を維持するため、チッソ水俣工場に、たとえ周辺地域にメチル水銀中毒患者が多発することが分かっていても、水銀とアセチレンを用いた旧式の方法によってアセトアルデヒドを継続して製造させた。
 日本国政府にとってチッソ水俣工場のアセトアルデヒドは「もう用なし」となったのが 1968年である。
 メチル水銀は 1968年5月18日まで水俣湾に流された。


(以下関連ページ)
『メチル水銀中毒の発見(ロンドン 1865年)』 https://www.asoshiranui.net/london/
『有機水銀副生の発見(米・ノートルダム大学 1921年)』 https://www.asoshiranui.net/notredame/
『映画 MINAMATA』 https://www.asoshiranui.net/film/



引用文献

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  1. 入口紀男 『メチル水銀を水俣湾に流す』 (日本評論社 2008年)
  2. 入口紀男『聖バーソロミュー病院 1865年の症候群』(自由塾 2016年)
  3. 水俣市教育委員会『郷土みなまた』(1957年)
  4. 日本窒素肥料株式會社・朝鮮窒素肥料株式會社『事業概要』(1930年)
  5. 日本窒素肥料株式會社・朝鮮窒素肥料株式會社『事業概要』(1940年)
  6. 鎌田正二『北鮮の日本人苦難記-日窒興南工場の最後-』(時事通信社 1970年)
  7. 有馬澄雄・内田信『<水俣病>事件の発生・拡大は防止できた』(弦書房 2022年)
  8. 『戦後五〇年その時日本は 第三巻 チッソ・水俣』(日本放送出版協会 1975年)